08/05/03 11:19:38 O
私は、このアルバムに込められた、上記のような、心境や動機を読んで、変わらないんだなあ、人間は、と思いました。一昔前の学生運動(今もやってる人はやってるけど)に参加した人間の、心境吐露に同一の、<跳躍>が述べられている。
なぜいつも、<参加>は<跳躍>であり、<向こう側>への<跳躍>になるのか、てところに、桜井が無理強いにこの時やろうとしたことの質が漏れ出ている、と私は考えます。
少なくとも、歌を作り、歌う、て次元とは別の領域に行くんだ、という感覚があったことを表す。
この時、Mr.Childrenは、或いは桜井は、共同性、てことをどう自らの精神に取り入れるのか、という難題と取り組んだのだと思います。そこに、日常と地続きでない<跳躍>があることを桜井は直感し、作風もそれに見合ったものになった。
問題は、この時桜井が<跳躍>した場所が、真に現在を象徴する、<跳ぶ>か否かが決定的な分岐点を意味するものであったのか、というところに、ある。
私は、桜井たちが設定した分岐点とは、<世界はまだ変えられる>という信仰の場所だと思う。
桜井がなぜ、作品で、<跳躍>を暗示しなきゃならなかったのかに、その意味は表れている、とみる。
<世界>を<信じる>か<信じない>か、という二者択一を彼は自分に課したのだ、と思う。いわば、対象的、外在的な信仰である。だから<跳躍>になった。
この場所が、決定的な分岐点であるか、否かというのがこのアルバムが暗喩する問いかけとしてあると思います。私は、その二者択一の観念自体に、脆さを痛感しないでいられない。脆弱なわけ、その観念自体がね。だから、<跳躍>になる。
その<跳躍>には、普遍的な意味はない。桜井がどう納得してみせても、そうだと思います。それより、あれらの作品に、そこに至る心境を映し出してみせた、その力量の方に私は感心します。やってることより作品の方が素晴らしい。皮肉な結論だけどね。
で、さてこの件に関してMr.Childrenは偉大であるのか否か?やってることは昔からいろんな人がやってることと変わらないので、偉大ではない。むしろ当たり前な青年であることを、立証した。と言える。