08/05/19 23:24:41 O
今日、宮台の対談集を読んでいたら、以下のような発言があった。
《(オウムの)村井も多くの信者も、「人生は、生きるに値するから生きるのだ」「社会を、生きるに値するから生きるのだ」というドグマにかられています。しかも、この種のドグマは、いじめ自殺の多発に際して、「生きていればいいことがあります」
「生きているだけで尊いことなのです」「だから死なないでください」といった、マスコミから日教組教研集会にいたるまで覆い尽くしているメッセージの背後にもあります。当たり前のことですけど、自殺したり、「こちら側」を捨てる人間たちにとっては、
「生きていてもいいことがない」ことこそ自明なんです。むしろ、「生きているだけで尊い」などというメッセージが交わされること自体が、この社会の欺瞞性を象徴するものとして受け取られていて、だからますます「生きていてもいいことはない」と
思わざるをえないわけです。》
これは私などの感覚ときわめて近く、私もまた、自分が生きるに値しないのではないか、という疑問を抱きながら、ただズルズルと生きてきた。そこで、宮台はまたこうも言っている。
《ところが、面白いことに、「意味があるから生きろ」というのが生徒にとってウソ・メッセージであるのと同じように、教員にとっても「教員をやることに意味があるから、教員をやれ」というのも、ウソ・メッセージですよね。》
《教員をやることに意味があるというよりも、ときおり訪れる喜びが糧になって教員を続けてしまう。意味があるから生きるのでも、意味があるから教員をやるのでもない。せいぜい、一定の条件下では大いなる確率で「生き続けてしまう」
「教員を続けてしまう」にすぎないわけです。》
このような立場に全面的に加担しているわけではないけども、意図せざるして宮台が言ったような形で自分が「生き続けてきた」ということは幸か不幸か言えそうだ。
そこでMr.Childrenの近年の楽曲を考えると、彼らの近年の曲は、「生きるこは素晴らしい」「この世界は生きるに値する」という「励まし」「意味付け」が曲に何かと盛り込まれ、そこが何となく胡散臭げに聞こえる。
実際の彼らは、桜井はともかく、他のメンバーはまったりと生きるタイプ、まさに宮台が分析した精神様式の担い手であると思える。