08/05/13 09:57:03 0
B:120が言うには、“社会の本質は昔から変わっていない”“ただし、狂って
る人はいつの時代にもいる”“そいつらが狂気を満たすためにやった行動の
動機に終末論を後付しただけかも”ということだ。これだと人間の社会って一
切何にも変わってないかのようだ。また、歴史的な分析など無意味であるかの
ようだ。そんな話、聴いたことないね。“そもそも時代や社会情勢の影響のな
い犯罪なんてあるのか?”だからその“時代や社会情勢の影響”て何なんだ、
てところを提示してくれって言いたいわけだ。MEDIAの作る幻想、とかで済む
ならそにこしたことなどない。楽天的だねえ。途方もなく。
A:ところで宮台真司のやっているBLOGがあり、そこでも「タガタメ」について
取り上げられている。宮台は「タガタメ」についてこう書いている。
《ありきたりの日常を誰もが同じように生きる。かと思えば子供が殺傷される
悲惨さ。でも公園に行けば別の世界が回る。悲惨な事件と公園と日常。まるで
別世界のようだが全ては連鎖している。日常にコミットするしかない。》
宮台はよくこの曲を捉えているよ。無理やりな拡張も控えて、素直に受け取っ
ている。あと、宮台は桜井の表現についても多言を費やしている。
《桜井のditatchment (社会への没入からの距離化」)な歌詞世界は、(1)
陰と陽、光と影、夢と現実、」虚と実、本当の自分とウソの自分、…といった
ダイコトミー(二項対立)を示しつつ、(2)どちらかを一方的に肯定するより
もむしろ1/f 的に揺らぐ、といった説話論的構造を持つ点に特徴がある。
その上で、(3)そうした揺らぎは多くの場合「即自(感じる自分)」と「対自
(考える自分)」との間の振幅として描かれていて、かつ、(4)そうした揺ら
ぎを謂わば「人間の摂理」として肯定することでditatchmentな感覚を醸し出
す、といった構成になっている。》
そうして、『シフクノオト』における表現についてこう述べる。
《今回はいったんditatchした後、「あえて」感じる自分へと戻り、コミット
しようとする。大きな翻身である。その結果、ナルシスチックな自己撞着を
大きくブレイクスルーした。》