08/05/11 22:03:38 O
「Sign」というのは名曲だと思う。この曲は、曲の中のサビで歌われている次のようなフレーズが鍵だと思う。
君が見せる仕草、僕に向けられてるサイン、もう何一つ見逃さない。そんなことを考えている。
めぐり逢った全てのものから送られるサイン、もう何一つ見逃さない。そうやって暮らしてゆこう。
あらゆるものから送られてくるサイン、という言葉を、そのままに受け取ることを拒ませるものがある。何故なら、あらゆるものから送られてくるサイン、という概念には、送られてくるサインを受け取る者の解釈、という位相が初めから包含されなければならない
はずだからだ。それがなければ、送られてくるサイン、は成立しない。
この曲が主題歌となったドラマ『オレンジ・デイズ』は聴力を失った女性と男子大学生の恋愛を描いたドラマだった。聴力を失った人間は、喋ることも困難だから、手話で会話する。ドラマの中でも、手話による会話で恋愛は進行した。
聴力がある人間同士でも、勘違いや誤解は起こり得る。しかも、送られてくるサインを解釈し損なって起こる誤解もある。或いは、こうも言えるだろう。送られてくるサインは、受け取る者の中では、半ば解釈し終えられている場合もある。
その相手が自分自身にとってどういう存在かによって、解釈は拘束される。また、その者にとって、世界はどのように意味付けされていきつつあるか、によっても拘束され、また、有るものの意味はそのような世界性によって引き摺られる運命にある。
世界は慈しみによって埋められているか、憎しみによって埋められているか、それを決定するのは半ば、送られてくるサインの受け取り手によるのだろう。最近、流行りの殺傷事件によれば、殺傷事件犯は、空や街角から、「殺せ」というサインを受け取ることによって
殺傷に及ぶ、というケースもあるようだ。これまた、送られてくるサイン、の一つの在り方に違いない。
その文脈で言うならば、Mr.Childrenにとって、社会や世の中は、慈しみや思いやりや夢が欠如し、それを求めている、君を愛してる、という一言を求めている、そのような事になろう。しかし、私にはそれは、そのような解釈を施す主体の執着や気掛かりや、
内部の渇望をむしろ表すものである。必ずしも、世の中がそのような渇望をしている、という保証はない。