【情況へ】試行の行方【吉本隆明】at PHILO
【情況へ】試行の行方【吉本隆明】 - 暇つぶし2ch967:考える名無しさん
08/12/04 23:00:13 0
  ↑
意味が分かりにくいのですが、もって回った言い方でなく、もう少し具体的に書いてください。
んで、どういうふうに誰の責任のもとで決済するのかもわかりません。
それって、実現の可能性は何パーセントくらいあるのでしょうか?

968:考える名無しさん
08/12/04 23:33:42 0
さて
スレ主にあらせられましては、そろそろ次スレを立てていただきたい
この分だと今週末には1000行きそうな気がする

>>1の文面はこのスレと大体同じでいいと思う
以下テキトーに拾ってみた最近の吉本の著作名リスト(単著のみ。新装刊・文庫化等は含めず)。
ご参考まで。
『芸術言語論への覚書』
『心的現象論 本論』
『「情況への発言」全集成』(全3巻)
『日本語のゆくえ』
『よせやい。』
『吉本隆明 自著を語る』
『真贋』
『生涯現役』
『思想とはなにか』
『老いの超え方』
『詩とはなにか』
『家族のゆくえ』

969:考える名無しさん
08/12/05 00:59:33 0
吉本さんの思想的展望はことごとく外れた。マルクスの情況論がことごとく外れたように。
吉本さんの情況論も真に受けてはいけません。

970:考える名無しさん
08/12/05 01:26:56 0
よ~く読むと「ハイ・イメージ論」て、
うんげームズカシイわ。まいった。
はじめてこの人にビビった。長生きしてくれえ~

971:考える名無しさん
08/12/05 01:49:46 0
>>952
そういう話をするなら、こういう「引用」をやろうぜ。

  …ひとは、たれでもフォイエルバッハのこの洞察が、
  ほとんどマルクスと紙一重であることをしることができるはずだ。
  そういった意味では、この紙一重を超えることが思想家の生命であり、
  もともとひょうたんから駒がでるような独創性などは、この世にはありえないのである。
  (中略)
  わたしのかんがえでは、フォイエルバッハが、あたかも光を波動とかんがえたとすれば、
  マルクスはそれを粒子という側面でかんがえてみたのである。
  それは、マルクスがギリシア〈自然〉哲学の原子説を生かしきったことを意味している。
  フォイエルバッハの〈共通の基底〉を、〈疎外〉にまで展開させたおおきな力は、
  この紙一重の契機であった。…(マルクス紀行)

吉本は「自分の死は自分では判らない」という方だし、「人生訓」はおろか、
そもそも「(棺を覆って定まるという意味での)人生」という考えがあんまりないような気がする

972:考える名無しさん
08/12/05 07:17:26 O
>971 いい引用したのに。青春出版社で出してるものは人生訓だよ。結婚相手はかならず出会うものです、なんて人生訓だろ。なんであえて「言ってない」というのか。

973:考える名無しさん
08/12/05 08:30:13 0
>>972
あえても何も「言ってない」とは書いてないが?
…まあそう読めなくもないか。少し詳しく書き直してみる

生涯の岐路をどう考えるべきか、という意味での人生訓めいた文句なら吉本は確かに口にする
特に青春出版社の本だと、そういう編集の意向なのか、
見出しの字句を拾うといわゆる「人生訓」の本みたいに読めてしまうところがあるのは確かだな

でもその場合の「人生」に、「棺を覆って定まる」という含みはあまりない
そういう含みがあると倫理的なお説教になりかねないわけだが、
そういうことは実はまったく言われていない。俺はそれを指摘したいわけだ。

例に挙げてる「結婚相手はかならず出会うものです」というのだって
あれは「だからガンバレ」なんて言ってるわけじゃないぜ。仮に字句はそう書いてあったとしてもだ。
「俺に結婚相手なんかいるわけがない」と思い込んで、ある意味安心していそうなワカモノに
「それは考え方として間違っている」と言ってるわけなんだ。

実際、吉本は、町沢静夫との対談その他では
「人生先々までわかりきっている」なんていうのは大間違いだ、というように言っている。
また、古いところでは「情況」でタレント本のいくつかを取り上げ、
そうした本にはたいてい書かれている(著者たるテレビ・タレントの)「人生訓」が
ことごとく「人生の決め打ち」から出てくるものだということを指摘して批判していたと思う。

974:考える名無しさん
08/12/05 09:07:00 0
>>973をさらに補足
うーむ。「棺を覆って定まる」なんて利いた風な文句を使ったのは我ながらマズかったな

外から見てある人物の「生まれてから死ぬまで」で区切られた時間を価値づけたりするのは
他人が勝手にすることで、生きてる人間にとって重要なのはそんなことではない
と吉本は言う方なのさ

「自分の死は自分では判らない」ということを吉本が強調するのもそういうことだ
自分の死が自分で判らないんだったら、生涯に総決算も何もないことになる(事実ないんだが)し
死から逆算して自分の行為を値踏みするような考え方にも意味はない、
そういう考え方をすれば(その人物は)必ずそこから間違うはずだ、と言っていることになるんだ

975:考える名無しさん
08/12/05 11:41:26 O
ほーう。なかなかおもしろい。もう少しいろいろ言ってみてもいいよ。例えば、「そこから間違う」の意味とか。

976:考える名無しさん
08/12/05 11:47:45 O
生きてる人間にとって重要なのはなんだと吉本は言ってるの? オレは「死は当人には無い」というのはエピクロス的に当たり前としか思ってなかったので。聞いてみたいな。

977:考える名無しさん
08/12/05 12:31:38 0
共同幻想はドイツイデオロギーからきているんだよ

978:考える名無しさん
08/12/05 13:00:15 O
>974 他人が勝手にというのは違うでしょう。自己評価も意味ないというんでしょ?じゃあ重要なのはなんだ?そもそも重要なものなんてない、といいたいのか?

979:スレ主
08/12/05 18:16:53 O
 このスレッドも終わり間近になりました。次スレッドも一応立てておきましたので宜しく!

 ところで、先日書店に行ったら、スガ秀実の書いた吉本隆明論が山積みになっていました。またあれをネタに書き込みする人が出てくるのだろうな、とも思いますが、さてさてどうなることやら。因みに俺はまだ読んでいません。

980:考える名無しさん
08/12/05 19:14:19 O
スレ主さんと吉本オタさんは同じ人ですか?ちょっと伺いたいんですが、吉本隆明論のなかで、誰か「知の還相」「非知」をどういう意味合いで浄土真宗から援用しているか、かみくだいて書いている論は存在しますか?あったら参考までに教示していただけませんか。

981:考える名無しさん
08/12/05 21:27:49 O
 親鸞の思想と<知の還相><非知>の関わりについてでしたら、あの『最後の親鸞』のなかの論文「最後の親鸞」冒頭に吉本本人によって詳しく書かれていると思いますよ。例えば

《どんな自力の計らいをもすてよ、<知>よりも<愚>の方が、<善>よりも<悪>の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく<愚>に近づくことは願いであった。

愚者にとって<愚>はそれ自体であるが、知者にとって<愚>は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。『末燈鈔』は、親鸞の言葉をこう伝えている。》

《頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。

この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に<非知>に向かって還流するよりほか仕方ない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。》

(両方ともに「最後の親鸞」より)

 また、吉本も援用している親鸞の書簡集『末燈鈔』に、以下のような文面もあります。

《さて他力は如来のお誓いですから、他力においては、義の捨てられていることが義であると、法然聖人は仰せになったことであります。義というのははからうという意味をあらわす言葉です。人の賢(さか)しらなはからいは自力ですから、義というのです。

本願を信じてのうえは、必ず浄土に生まれるのですから、他力においてはさらにその上にはからいを加える必要はない、というのです。》

《阿弥陀仏というのは自然(じねん)ということを知らせようとする手立てであります。この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかく言う必要はありません。

いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。》

 ここで親鸞は、書面のなかでしきりと《自然(じねん)》《義の捨てられていることが義》と諭すわけですが、この理路自体、逆説的な知であるわけで、

してみると、<知‐非知>の弁証、<知と非知との還流>というものは、親鸞思想の中核にいつもあったのではないか、と僕には思えます。

982:考える名無しさん
08/12/05 22:49:17 O
ご親切に要請に応じていただき手間をかけて適切な引用をしていただきました。ところが私もまた糸井氏以上に馬鹿の子らしく、現代文学においてこれがどう活かされる思想なのか、腑に落ちないのです。否定以前に。

983:考える名無しさん
08/12/05 23:12:01 O
例えば柄谷と埴谷はどちらも往相しか知らないと、埴谷論争あたりに言ってますよね。では還相の文学は理念にとどまらずこれだよと示し得るのか今のところ理念なのか、そこがわからん。

984:考える名無しさん
08/12/05 23:28:06 0
>>976>>978
「生きてる人間にとって何が重要か」そんなこと吉本が(俺もだが)具体的に言うわけないだろ。
そんなの明示したとたん「倫理的なお説教」の「人生訓」にしかならなくなるのは明らかじゃないか。

>>979
乙。次スレでもよろしく

>>980
スレ主と俺(974他)は、もちろんぜんぜんちがう人です。
「非知」その他については>>981に同意

985:考える名無しさん
08/12/06 00:15:51 0
>>983
還相の文学という言い方は、吉本はしてないと思う
ただ、昔「70年代の光と影」と題された講演で「反物語」ということを非常に強調していたことがあった

1970年代を通過する間に、いわゆる「物語」というのは成り立たなくなってしまって、今の課題は
本当は「反物語」というところにあるはずなんだが、出てくるのは「ゆるい物語」ばっかりじゃないか、と
なんかそういうことを語っていた

「物語」というのを「社会理念」とかの語に置き換えて聞いていると、その限りでは納得できた
(ちょうどバブル経済真っ盛り、というよりソ連や東欧の社会主義圏が崩壊しつつあるさ中の頃だ)が
本当は物語というくらいだから文学についての話でもあったはずだと思う
しかしどうも、俺は吉本オタのくせにいかんせん文学オンチなんで、
そっちに関して何を言いたかったのかはよくわからなかった

さて
せっかくスレ主が立ててくれた次スレが落ちないうちに、このスレ埋めないか

986:考える名無しさん
08/12/06 00:22:47 O
≧982:ところが私もまた糸井氏以上に馬鹿の子らしく、現代文学においてこれがどう活かされる思想なのか、腑に落ちないのです。否定以前に。

 あー、まあ、僕の場合ですけど、吉本による親鸞思想を辿って面白いな、と思うのはどんなとこかというと、やはり逆説だと思います。つまり、親鸞というのは絶対他力なわけじゃないですか。

そうすると、<信>に一番近いのは、吉本も言うところの<愚者>ないし<悪人>と言っていい。

阿弥陀信仰にしたところで、信仰心というのは向こう側からやってくるものだから、そうすると、いってみればこちら側からはからうことはなくなってしまうわけで。

はからいがなくなることは全く悪いことではなく、むしろ良いことだ、となる。そうすると、いったい<不信>と<信>の区別って何なんだ、てとこまで行ってしまわざるをえない。区別はないのじゃないか、となっちゃうと思うわけです。

親鸞思想においては、<不信>よりか、また<悪>よりか、<はからい>ということの方が、阿弥陀信仰からみた否定の対象とされていると思える。

それは<善なるはからい>にしても<悪なるはからい>にしても、<はからい>ということで等しく否定の対象だと思う。

<はからい>というのはその場合、<意識的>ということの別名だと思うのですが、そこでの否定の仕方がすごく面白いな、と。

で、「未来の親鸞」という講演で、吉本はこの論理が現代にどう生きるのか、という点を挙げており、それは例えば慈善だとか、社会的な規模で<善>が押し寄せてきたときに、どう考えれば良いか、その手掛かりになる、と言っている。

本当にそう思うならやればいい、そうでなければやらなければいい、そんな風に考えればいい、と。それはすごく良い考え方だと思えた、というのがあります。

 で、問われている、《現代文学においてどう生かされる》ということになると、僕にもよく分からないんですが(笑)

987:考える名無しさん
08/12/06 02:39:16 0
スレリンク(philo板)


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