08/06/09 19:44:18 0
>>607
時代劇なんかで悪逆非道のかぎりを尽くした悪代官が最後に正義の味方に切り捨てられるのを見ると
みんな気分がスッとするだろう。
「こんな奴は殺されて当然の悪人だ」と思う。
「いくらなんでも殺すのはやり過ぎではないか?」とは思わない。
「殺すことが正義だ」と簡単に思ってしまうような魔を、誰でも持っている。
だから殺人が起きる。
自分の価値観が絶対に正しいと思いこみ、その価値観に照らして悪い奴は罰しなければならないと思う。
それは価値観が主観的・相対的なものだということを分かっていないからだ。
他人を罰したいと思う気持ちは自分の価値観への危険な過信であり驕りだ。
例えばナイフを持った男が乱入して自分の子供を殺そうとしたとする。
この時どういうことを思うべきか。
「これは前世で自分の子供が悪いことをした報いだから子供が殺されるのを黙って見守るしかない」
などと思うカルマ論者もいるかもしれないが、そんなバカなことはもちろん考えてはいけない。
全力で子供を守ろうとしなければならないし、場合によっては相手を殺してでも守らなくてはいけない。
これは人間として最低限必要な健全な感情だ。
しかし悲運にも子供が殺されてしまった時はどう考えるべきか。
復讐したいとか、復讐することが子供への供養になるとか考えるべきではない。
復讐心を静めて、ただ殺人犯を許すしかない。
しかし相手を許すために、安易な理屈を作り出してはいけない。
「これは子供のカルマだから子供が死ぬのは運命だったんだ」などとは考えてはいけない。
真実を知りもしないのに自分を納得させて楽になるためだけに勝手な理屈をでっちあげるのは死者への冒涜だ。
だから納得できないまま、「ただ許す」ということができなければいけない。
そうしなければカルマの連鎖は終わらない。