弁証法は哲学者のオナホールat PHILO
弁証法は哲学者のオナホール - 暇つぶし2ch99:考える名無しさん
07/11/23 06:48:14 0
123 名前: OFW 投稿日: 2001/03/17(土) 10:22
>>121(・e・さん)(つづき)
「通常分割可能と考えられる量も、それ自体を直観すれば、唯一かつ不可分な存在であることが分かる」(スピノザ)と
言われるように、質的な多様の底には存在の一様性がある。それが純量であり、絶対的な連続性としての自然の在り
方です。

同時に、質の否定性としての他在は限界として立てられた訳ですが、量においては単位という区別に止揚されている。
単位とは区別の無差別性であり、多様な存在を連続化(一様化)させる根拠であると同時にそれを区別化(集合化)
させる根拠でもあるでしょう。
それらを完全な形で展開したものが、数(単位と集合数の統一)です。エレメントとしての“1”において、両者は直接的に
統一されている。数学は数を作ること(数えること)から始まるが、何を単位にするか、が重要な点です。
そして算術は単位と集合数の関係の展開であり、和とは数を規定すること(数の限定)、積とは集合数を単位に変換す
ること、冪は単位と集合数の相等性を立てること、等々と言われます。

また、ヘーゲルは微分にも言及しており、微分量を「消滅しつつある量」と呼んでいます。それに呼応した言明として
エンゲルスの「微分積分の登場によって、科学は運動を取り扱えるようになった」というのがあります。
数学的思考は事柄の内面に踏み込まない外面的な思考であり、外面的(相互外在的)対象には妥当するが、
それも一定の<限度>内でのみということを忘れると、現代の形式論理や経済学の無思想になるのはホントですね。

近代は商業と数学によって切り開かれてきた。それはデカルトの「幾何学の精神」の源泉でもあり、さまざまな国を冒険
したガリバーが到達した結論「人間精神の違いは体の大小に過ぎない」にも示されている(花田清輝『転形期の精神』
のバラフレーズ)。

しかし、深遠なものは広大なものでもあるから、内包は外延に比例するのです。外面的な大きさはむしろ卑小な内面を覆い
隠す「見せかけ」だということは、「外見がすべてだ」という現代にこそ相応しい警句でしょう。


100:考える名無しさん
07/11/23 06:50:44 0
127 名前: OFW 投稿日: 2001/03/18(日) 12:09
>>124
>「深遠なものは広大なものでもあるから」を削除して、内包は外延に反比例する、とすべきだろう。
添削ありがとうございます。
ただ、内包量(示強性の量)vs外延量(示量性の量)は、即自的(観念的)vs向他的(実在的)な関係にあり、
現存しない量vs現存する量の関係として、比例が正しいと思います。
現存する量の間の関係(関係が実在的になっている)ならば、“総量(質量、限度)は一定”であり、その限度内において、
両者は反比例すると言えますが。

>そもそも内包・外延を内面・外面と読みかえるのが強引なのだが。
ヘーゲル論理学では、同等のカテゴリーが3度登場する、と言えます。(余り良い言い方ではないが)
最初は実在の領域(直接性)、
2度目は本質の領域(媒介性・相関性)、
3度目は概念の領域(媒介された直接性)
です。

<内包・外延>は量としての実在領域におけるカテゴリーですが、その本質領域での対応(対照)物は<内容と形式>
の相関、あるいは<内的なものと外的なもの>の相関と考えられます。
外面的な大きさは、内面的な大きさ(度量の広さ、教養の広さ等)とは異なり、事物の外面性における単に外的な
(非本質的・偶然的な)ものであり、それは仮象として外面性における単に内的なもの(可能的なもの)です。
真の内面性は自己を現実化する力として、向自的な精神性でしょう。
「人間、40歳にもなれば、自分の顔に責任がある」(リンカーン)だそうです。


101:考える名無しさん
07/11/23 06:53:27 0
128 名前: OFW 投稿日: 2001/03/18(日) 12:10
>>126(・e・さん)
>いかにもヘーゲルって感じの力技ですね(笑)。
ども。『ヘーゲルは美味しい』(西研)のは、時にバカバカしく思える程の概念力(大雑把さ)のためでして…。

>現在の数学はヘーゲルの所産だけを見て、そこに至るまでの弁証法的な思考の運動を省みていない、という意味なの
でしょうか?
デカルトの「幾何学の精神」から、悟性的(明晰・判明)な知性が発達し、特に数学は強力な分析ツールとなりましたが、
量および数には思想が含まれているのだ、という事は数学者自身も反省すべきでしょう。
たとえば、かのラッセル(大のヘーゲル嫌い)は『数学原理』なる論理学書をもって数学の基礎を打ち立てた、と言われるが、
実際にはむしろ逆に、論理(思考のオルガノン)を数学(集合論)に還元してしまったと言えます。
以前、論理学スレで、形式主義論理学論者と議論して明らかになったことは、「真理の計算」を論理的思考と呼ぶことは、
非合理的な結果(例:爬虫類である人間)を容認して省みない悪しき形式主義に陥る、ということでした。
世界を計算し、経済を計算し、歴史を計算できれば、人間は要らず、カネ勘定だけに没頭する厨房が増えるのも無理は
ないというもの。実際、分数計算も満足にできない小学生が増えている現在、学校教育で早くから弁証法的思考を習
得させ、「分数とは何か」という量の概念から理解させることは、知性改善にとって有益かつ急務の課題でしょう。
しかし、株価は暴落(限度を失い)、数理経済学の均衡理論は均衡を失い、経済は政治化(非合理的に人間化)され、
いやはや哲学なき時代は…。


102:考える名無しさん
07/11/23 06:56:32 0
130 名前: OFW 投稿日: 2001/04/14(土) 23:20
おや、一ヶ月ぶりに上がっている。
>>129
1まず、「形式」(Form)という概念について
古代ギリシャ哲学以来、形式(形相)は質料(Material)との対立として議論されてきたカテゴリーであり、
存在論-認識論において重要なものです。
用語からだけでも、両者は観念論(Idealism、形相主義)と唯物論(Materialism、質料主義)との対立にも関係
しています。
形は静止、完成として重んじられるが、質料は運動、未完成として、とかく敬遠されがちです。ニーチェもギリシャ精神に、
「アポロ的(彫塑的)vsディオニソス的(劇的、音楽的)」という対比を見ている。
形式-質料は相互に反照する本質規定であり、発展すると、形式-内容の対立に移行します。つまり、形式は質料の
他者、他者としての質料であり、個別的な存在(実在するもの)から、その普遍的な面を抽象したものが形式であり、
アスペクト(局面、観点、相面)自体と言えます。
形無き質料は形をもつことにより、それとして規定され得る。質料は個別的な運動の原理であるのに対して、形は普遍的
な静止の原理です。

2形式論理学と弁証法
近代は量の時代、形式化の時代です(量の本質が形式ですから)。
デカルトの「幾何学の精神」以来、数学は世界を計算可能にした。
それは、世界の中の多様な事物を一様な面に射影することにより、すべての対象は形式的に分類・整理され、
原理的に未知なものが無くなった。論理学も伝統的に形式論理であり、「それは白か、白でないかである」などと
言われたが、数学化によりその形式性はより純粋になった。しかし、それは<事柄の内面>に入り込まない、
表面的なものでしかない。それは世界の生成、運動、歴史を無視して、規則(形式、秩序)が永遠だと強弁する。
弁証法はそこを突く。それは徹頭徹尾、批判的、唯物論的、実践的であり、形式の<妥当性>を超えて、
<対象の真>(生成発展する事柄の概念)を目指す内容的、実質的な思考です。


103:考える名無しさん
07/11/23 06:59:39 0
132 名前: OFW 投稿日: 2001/04/16(月) 21:58
>>131(129さん)
>判断は判断される対象の性質を記述しているとされます。
形式論理では判断の対象を「事態」と呼び、それは<論理的な世界>における無時間的な存在だと言う。
それはむしろ対象の表象に過ぎない。

>記述されるべき対象である世界の諸存在者は常に変化の相におかれている
実在する<この世界>において、そうですね。

>言語は存在者の変化に対して常に「遅延」していると言えます。
記述は常に遅延ですね。(かのデリダは「差延」と言ったが。)ただし、それは実在的な遅延というより、
「否定」という観念化です。ヘーゲル『精神現象学』の言うように、在るとは在ったこと。
言語的記述は、在る-もはや無い-在った、という運動であり、記憶に基づく表象作用として、
実在的時間の止揚(観念化)と言えます。

>いったん子供とみなされた対象は永久に子供でなければならない
これが存在から存在の<意味>への転換、言語主義という観念論です。

>形式論理が想定していると思われる「世界と言語の恒常的対応性」は厳密には成立していません。
そこで「可能的意味の世界」などというものが登場してくる。

>対象世界は常に変化の相にあり、マテリアルな対象世界が世界を形式化しカテゴライズせんともくろむ言語
行為に対してプライオリテートを有している(質料の優先性=マテリアリズム・唯物論)という認識にたっている

形式(形相)化は認識の進展にとって重要な一歩です。常住定まらぬ世界において常住的なものを見ることは
知性の業であり、個別的な実在からその真理としての本質的な存在への飛躍です。
しかし観念論はそれ以上に進まず、そのために形而上学となる。有機的自然において、対象自身(有機体)が
形態化により自己の内容を現わす<働くもの>となっている。それを前にして、観念論は無力です。



104:考える名無しさん
07/11/23 09:57:59 0
おい、OFWって何よ?
なんかすごいオサ~ンだよな。
ありゃ、もしかしてオバハン?

105:考える名無しさん
07/11/23 18:09:52 0
137 名前: OFW 投稿日: 2001/04/24(火) 21:35
>>134(RAGE AGAINST THE PHILOSOPHY君)
くだらない煽りにも、何かしら意味があるのだろう…

>弁証法じゃなけりゃ解決できない問題なんてあるわけ?
たとえば、かのマルクスが『資本論』を書くに当たり、ヘーゲルの論理学を読み直して、
「非常に役に立った。お望みなら、自分はヘーゲルの弟子だとおべんちゃら言っても良い」(正確な引用ではない)
と言っている。
つまり、資本主義の本質を解明するには弁証法が必要だと言うこと。商品、貨幣、資本とはそれだけやっかいな
存在なのだ。

>>136(フィロゾファッカーさん)
>お久しぶりです。
お久しぶりです。最近は固定HNが少なくなり、張り合いが無かったです。

>結局、私にとってヘーゲルは難しすぎたようです。
ヘーゲルは確かに難解で、私も「虚仮の一念」で食い付いたのです。
しかし、神秘主義的思弁が混じっているため錯綜しているが、本当はごく分かりやすいものなのです。
(私の説明はマズイですが)
私は、何よりも弁証法を、固定したドグマを批判し、事柄の真実を探求するめの方法、として理解しています。
世の中の矛盾した姿を見て、「これは一体、どういうことなのか?」 と疑問を持ったとしても、
「この世に矛盾など存在せず、正しいものは正しい」 と言う形式論理では、その答は得られない。
たとえば、<合法的な不正>が行われている現状を訴えても、「法は法であり、そのようなものは存在しない。
異議を却下する。」 との裁定が下るのみでしょう。
それは現実の現実性を見ない形式主義です。その形式主義はすべての学問にも浸透していると言えます。
弁証法は、常に実践的・具体的・現実的に事柄に向かう知性の動力であり、働く者に対して、生き生きとした
思想の力を与えるもの、と言えます。
転変極まりない変化の中に静止を見ること、逆に固定した存在の中に運動を見ることは、世界を現実に変革
する者の自己認識でもあるわけです。


106:考える名無しさん
07/11/23 18:14:16 0
48 名前: OFW 投稿日: 2001/04/26(木) 22:26
>>144
>カントの場合、アンチノミーは あくまで仮象(見かけの矛盾)ヘーゲルの弁証法は実際の矛盾を止揚
するということですか
カントはアンチノミー(二律背反、矛盾)について、カテゴリーを経験的対象を超えて物自体に適用したた
めに起きる 「仮象の論理」 であるとして、弁証論を否定的に捉えたのですが、ヘーゲルは矛盾は客観的
なものと見る。

「アンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んで
おり、したがって、或る対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立し
た規定の具体的統一として意識することを意味する、ということにある。」(『小論理学』48節補遺)。
弁証法の要点ですね。

>>145
私もOFWです。宜しく。

>>146 (RIVIERAさん)
>量子力学はほんとに弁証法的思考の産物ですか
必ずしも意識的に弁証法を“適用”したわけではない。
あくまで古典物理学では説明できない物理現象を科学的に説明するために生まれてきた<科学的>
理論です。(アインシュタインはその確率論的な解釈を嫌ったが。)
湯川博士は晩年「自然現象は唯物論的で弁証法的だ」と語ったそうですが、具体的に何を指していたのか、
知りません。
弁証法は、エンゲルスや三浦つとむ氏の考えるような、通常の意味での科学理論あるいは科学方法論ではなく、
むしろその批判(限界設定)として実践的な認識活動そのものです。


107:考える名無しさん
07/11/23 18:28:23 0
83 名前: OFW 投稿日: 2001/07/27(金) 00:58
ども、お久しぶり。少々夏ばて気味。
>>165
>単に説明不足なだけです。
確かにその面が大きい。と言うより、説明者自身の無理解があるような。前にも書いたが、「正・反・合」とはフィヒテの「外的弁証法」、
つまり自我ー他我ー大いなる自我という関係を一般化した外面的なものでしょう。

>ちなみに正・反が、そもそもどうして正・反なのかも、わかりません。
通常、正をテーゼ(定立)、反をアンチ・テーゼ(反定立)、合をジン・テーゼ(総合)などと言うようですが、世の説明は誤解の元ですね。

1.定立とは何か。
ある事態をそれとして対象化することです。
たとえば、 「今の経済状態は何なのだ?」 「これは<デフレスパイラル>だ」 という具合に、
ある全体的な対象デフレスパイラルが直接に立てられる。
それは、ある直接的な事柄を媒介されたものとして根拠付けることであるにも拘らず、媒介無しに
断言(断定)として言われるから、一つの矛盾(形式と内容の矛盾)を形成する。
まさに「正・反・合は正しい」などは根拠の無い独断的主張に過ぎない。  
2.反定立とは何か。
そこで、その根拠に関して反対の主張が同等の権利をもって主張され得る。
何故なら<根拠>とは定立と反定立双方の根拠であり、両者の本質的な同一性(矛盾)として
単に可能なものですから。上記の例で言えば、 「いや、今は可能的にのみ<デフレスパイラル>
であり、現実は違う。」 という具合に。
(実際にも「景気は全体として好調であるが、その回復のテンポはより緩やかになりつつある」という
矛盾した言説が続いた。) 
3.総合とは何か
結局、根拠(理由)が直接的に立てられることは根拠の本性にあっていないのであり、全体的な事柄
を媒介する真の根拠とは<事柄の本質>であるということです。
上記例で言えば、資本主義の本質認識から始まって、初めて<恐慌(デフレスパイラルの極限)の
必然性>が導ける。


108:考える名無しさん
07/11/23 18:32:02 0
184 名前: OFW 投稿日: 2001/07/27(金) 00:59
>>167(165さん)
>やるなカント。
カントの優れた点も限界もそこに現れていることを見て欲しいな。(詳細は省略)

>>173(hhさん)
>猫は死ぬ  だから私の猫も死ぬ
私の猫は他のすべての猫とは違い、特殊な猫(招き猫)かも知れない? 「招き猫は本来の猫ではない」
ということから <猫の本性> が遡及される。

>>174(屁下るさん)
<根拠>(対象が何であるか)を示さない事は、独断的主張と呼ばれる。

>>177
>ようするにアルゴリズムみたいなものですか
数学的な論理操作ではなく、対象と対象認識の相互媒介です。

>>178(変人さん)
>最後の勝者も、負かされる運命にある
<最後>とは何でしょう?続けることを続けないこと(自己否定)ですね。それは運動を停止させること、
未来(未定)の運命を自ら決定すること。

>>179
>集合論
集合を作るためには、実在対象を数的な存在(要素)に変えなくてはならず、それは実在の質的差異を捨象する。
無内容な形式は思想形式のないもの。

>>180(ffさん)
>空は青い だからイタリアの空も青い・・・・・弁証法
単なる古典論理における誤謬。すべての空とは実在のイタリアの空ではなく空そのもの(空の本質)である、
が弁証法。


109:考える名無しさん
07/11/23 18:50:04 0
おい、コピペ厨。

あのな、掲示板の面白さはリアルタイムの当意即妙にあるんだ。
シケたことやってんじゃねーよボケ!


110:考える名無しさん
07/11/23 22:13:39 0
どう楽しむかは十人十色でいいんじゃない。
そんな基本が理解できないんなら他の板にでも逝ったら。


111:考える名無しさん
07/11/24 07:44:10 0
>>110
まぁ、そう気色張らんと。
ネガティブでも関心を貰ったんやさかい感謝せにゃ罰あたりますがな。
片隅でも借りて、ぼちぼち貼らして貰いますさかい。


112:考える名無しさん
07/11/24 18:14:18 0
189 名前: OFW 投稿日: 2001/07/28(土) 20:10
>>185
>概説書
前にも書いたが、日本には、どうも弁証法に関するまともな概説書はなさそう。
ヘーゲル『小論理学』(岩波文庫)
レーニン『哲学ノート』(同上)
などの古典を丹念に読むしかないでしょう。


113:考える名無しさん
07/11/24 18:23:59 0
193 名前: OFW 投稿日: 2001/07/29(日) 17:55
>>192(165さん)

>なぜ断言する必要があるのでしょうか?

「なぜ?」 とは根拠(理由)の定立に向かう認識の運動(理性欲求?)です。
それは、断言しないことも可能であるのに、目の前には断言が現存在していることから出てくる問い
(媒介の要求)ですね。
人が 「○○は××である」 と断言したり、しなかったりするのは、断言(判断)とはそれだけで正しいと主張された
<関連性の定立>であるという(矛盾した)定義の中に含まれている。
つまり、上記の問いは 「なぜ物事の関連性を立てる必要があるのでしょうか?」 と言うことを含んでおり、
そうなると、事物間の関連性を立てることは客観的認識の最初の行為だ、という答えが出てきます。

>断定しないで、 「その段階では判定不可能である、もっと根拠を探す、考察を重ねるなどしなくてはいけない」
と言えばいいだけなのではないか

<段階>とは<発展>という高度に弁証法的なプロセスに関わる概念です。
発展は飛躍という前段階の否定を含み、単なる量的な(実在的な)拡大重畳ではないのです。
認識の発展は、
主観的には知覚(直観)→判断→推理、
対象的には実在論→本質論→概念論
という段階を踏むと言えます。(実在は推移し、本質は反照し、事柄は発展する。)
また<判定>とは言明を何らかの基準と比較してその正否、妥当性を立てる判断ですが、その場合、
基準はそれ自体で真とされており、無根拠です。
基準の基準(最終的判定)はどこにあるのかが問われるべきであり、それに対しては概念と実在の一致
としての真理であるというのが、差し当たりの答えです。それは正当性(妥当性)ではなく、真理性に関わります。


114:考える名無しさん
07/11/24 18:29:44 0
194 名前: OFW 投稿日: 2001/07/29(日) 17:58
>>192(165さん)(つづき)
>生じる矛盾?の領域が、必ずしも断言した(定立した)領域の広さと等価であると評価できるとは、
かぎらないため、一般論として成立しない

<領域>(対象領域)の定立とはまさに実在のカテゴリー化による再構成であり、定立されたものと
その否定(無限定)の両者を含む本質論的世界を対象化することです。
それは実在の一定の運動様式を抽象したものと言えます。
また、生じた矛盾(本質的対立)は常に限定的な矛盾であり、一般論ではなく具体論、です。
たとえば<明暗>(明と暗の矛盾)とは<光>(明暗の本質)の領域を立てるのであり、音の領域とは矛盾しない。
つまり、矛盾は常に自己の世界の中でのみ生じるものであり、かぎられたものです。

>根拠の本性

ある存在者の本性(本質)とは、それがそれである所以のもの、ですね。
それは現存在の根拠として、その様々な現れの底にある自己同一性です。
それは、その存在者が他のものでない所以のもの、と同じものであり、現存在の総体性を指しています。
「○○は××である」 という断定(判断)は根拠を示さないと、そうとも言えるしそうでないとも言えるという
単なる可能性に過ぎないが、それはとは実在世界の中で様々な側面をもつ具体的な対象であるため、
「ある」という実在的な関係性では○○の全体を捉え切れないからです。
そこから「○○は□□であるが故に××である」と根拠付け(推論)が出てくるが、しかし形式的な同一性が内容の
区別に対して外的に立てられた場合、根拠がそれ自体根拠付けを必要とするという無限後退に陥り、
「根拠の形式主義」(これは形式論理の数学的推論でもある)が生じる。それが根拠の本性です。
それは総体性としての根拠(関係性)が個別的に立てられるためであり、現存在する根拠つまり<物自体>
(無関係性)によって止揚される。
たとえば貨幣とはモノとして現存在する(経済的)価値(一般的等価物)であり、すべての個別的評価(価格)
を超越して、市場世界自体を定立するそれ自体無価値な価値根拠です。
そこでは「持つ」という関係性が支配する。


115:考える名無しさん
07/11/24 19:10:18 0
197 名前: OFW 投稿日: 2001/08/01(水) 21:40
>>195
>デフレによる物の価値の下落
詳しい話は経済板の方が良いでしょうが・・・。
マルクス(主義)経済学派の経済学者でも労働価値説をまともに論じている人が見当たらないのは、
(経済的)価値の概念を正しく捉えていないためと言えます。
商品経済社会においては、「物の価値」は

 1.使用価値(効用性そして稀少性)
 2.交換価値(非所有者にとっての効用性)
 3.価値本体(価値実体)

の3重性において現れ、それらは互いに弁証法的な関係にあります。
一方、(近代)経済学(そこでは価格の理論はあるが価値の理論はない)おいて、「物の価値」とは
常にその貨幣表現としての価格を言い、

 1.個別商品種の価格(単価)
 2.いわゆる物価、すなわち標準的生活財あるいは生産財の平均単価合計

のどちらかを指している。
1については古来「需要供給の均衡法則」として現象論的に説明?されているが、
2に関する満足な説明はない。
それは価値根拠として貨幣を公理的前提(説明原理)としているために、貨幣価値自体の変動を
説明できないのです。(物差しの長さが変るとは不可解!)

物価の一般的騰貴あるいは下落(景気循環)とは資本主義固有の現象であり、資本による過剰生産
(それは労働力の過剰消費でもある)に直接の原因があるわけです。


116:考える名無しさん
07/11/24 19:13:27 0
198 名前: OFW 投稿日: 2001/08/01(水) 21:45
>>196
>弁証法と脱構築
ここ20年以上の知性の停滞の一因にもなっているポストモダニズムと呼ばれる思潮については、
それを中産階級に属する知識人達の<不在証明>(アリバイ)作りと評価できるでしょう。
実在的な対象ではなくその無を唱える観念論共通の特徴は、その解釈学的な記号主義においても
貫かれている。
「反ロゴス中心主義」 とは反理性主義でもあり、差延(引き延ばし)という客観的理性からの逃避は
思想上の相対主義を招き入れる。

それに対して、弁証法は労働者階級の<思想的武器>と言えます。それは、働きとしての自然の
論理であり、また対象的活動としての人間が世界を我がものにするための客観的かつ実践的な
論理です。
それはすべての物化した諸関係を内部から打ち破り、生成の運動の中に投げ入れる溶鉱炉、かな。


117:考える名無しさん
07/11/25 21:36:23 0
202 名前: OFW 投稿日: 2001/08/02(木) 21:49
>>199
>反基礎付け主義なのは確かだから、観念論とは言えんのではないか?
「基礎付け主義」とは余り明確な概念ではないので、その反対の立場についても何とも言いようがないが、
少なくとも世界観上の対立として、客観的実在を認めない立場は観念論と呼べるでしょう。
人間は勝手なことを言う事ができる存在ですが、自然は厳然としてそこにあり、現実(働くもの)は主観
のおしゃべりなどに頓着しない。
労働者はそのことを生産実践の中で直接的に理解しており、自然に対して謙虚な態度を保持している。
それが唯物論の立場です。


118:考える名無しさん
07/11/25 21:37:23 0
207 名前: OFW 投稿日: 2001/08/13(月) 00:55
>>204
>対象世界が主観から独立してそれ自体勝手に動く様相は疎外の一形態
「勝手に動く」とは面白い表現。
アリストテレス『自然学』で、椅子が逆さまに立つ場合の 「ひとりでに立つ」 と 「偶々(偶然に)立つ」
という言明を比較して、<自然性>(自発性)と<本来性>(非本来性)の関連・区別が論じられていたが、
自然性とは<自ずから在る>ということであり、<自然に逆らって>勝手に動くという様相とは、
無機的自然に対して 「勝手な=自発的な動き」 をする自然の一部(生物)として活動的(生きた)自然を
指すでしょう。主観から独立に客観が動くのではなく、客観に従わずに主観が「勝手に考える」のが自己性
(向自性)ではないかな?
人間における疎外とは対象的活動としての自己対象化(自己実現)が非対象化として結果するという、
社会関係性の疎外を言います。それはまずもって<疎外された労働>から始まるのです。

>>206
>唯物論者は心や精神を物質とは独自の原理をもった実体であることを認めない。
心は物質とは「独自の原理」を持つ活動だが、物質から「独立自存の実体」であることを認めない、
ということです。

>心の実在を疑ったりするだろうか?
心は実在しませんから、それを疑いもできないでしょう。

>労働者はデカルト的二元論を受け入れることにそれほど抵抗はないだろう。
デカルトの 「我思う。故に我在り」 とは高度に考え抜かれた思索の結果であり、日常的な意識とは
真っ向から対立する。たとえば日本語でも 「私はここにいる」 とは言うが 「私はここに在る」 とは言わない。
主体は客体(物体)ではなく 「在る」 のは身体だからです。つまり、デカルトは 「自我意識は物質とは独立
のもう一方の物的実在である」 と言った訳ですが、(賃)労働者は、物のように扱われていようとも、
「私は物ではない」 と言うでしょう。

>唯物論者といえども哲学者の一員
素朴実在論は未だ反省的哲学ではなく、唯物論は既に哲学ではない、かな。


119:考える名無しさん
07/11/26 16:42:38 0
読んでる人いないようですが?

120:考える名無しさん
07/11/26 17:24:39 0
>>119
オレは読んでる、つか、一応全部目は通してるけど、
オレには難解でよく理解できない。
それにコピペだから質問しても返答は期待できないしね。
まぁ、部分的だけど「ああ、そうなんだ」ってな箇所が見つかるんで
そいつが楽しみかな。

121:考える名無しさん
07/11/27 10:54:19 0
   /  ̄`Y  ̄ ヽ
   /  /       ヽ
  ,i / // / i   i l ヽ
  |  // / l | | | | ト、 |        千夏ちゃん最近元気ないお(´;ω;`) 
  | || i/  ノ ヽ、 | |
  (S|| |  (●) (●) |
  | || |     .ノ  )|
  | || |ヽ、_ ~'_/| |


    /  ̄`Y  ̄ ヽ
   /  /       ヽ
  ,i / // / i   i l ヽ
  |  // / l | | | | ト、 |
  | || i/  ノ ヽ、 | |
  (S|| |  o゚⌒  ⌒゚o |       やっぱり引退かお、ギザカナシスだお(´;ω;`)
  | || |     .ノ  )|
  | || |ヽ、_ ~'_/| |


   / ̄`Y  ̄ヽ、
   / / / / l | | lヽヽ
  / / // ⌒  ⌒ヽ
  | | |/  (●) (●)
 (S|| |   ⌒ ・ィ  ヽ
  | || |   ト-=-ァ ノ       あとは翔子におまかせだお(`ω′)
  | || |   |-r 、/ /|
  | || | \_`ニ'_/ |


122:http://eatcosmo.exblog.jp/ ◆fSCjliEebk
07/11/27 11:21:39 0
URLリンク(eatcosmo.exblog.jp)

123:考える名無しさん
07/11/27 15:28:04 0
           .n:n     nn
          nf|||    | | |^!n
          f|.| | ∩  ∩|..| |.|
          |: ::  ! }  {! ::: :|
          ヽ  ,イ__ヽ  :イ
           ,r'     `ヽ、
          ,i"        ゙;
          !.(-=・=-)(-=・=-)
         ∧ ヽ.   ヽニニソ  /  プキ?ル・サンチマンとは知的ルサンチマンのことである。ピキプキ?ヒャー?
       /∵\ヽ        / 
     _,./‐'  、_ ヽ、_     '   ヽ、
   ,r'´       `''‐ ニ=  '´,..-‐' ``ー、
  /              ',      ', ヽ
 l                l        l ',
 |      、           l       l l
./        ヽ、        人       ノ  l
i       | `ー ---‐''''´l  `ー─‐i'   l
',        l         !     /   l

124:考える名無しさん
07/11/27 19:14:46 0
経済が苦板にも書いたが、
OFWコピペ担当者君、続きは如何?
軽罪が苦板と鉄板とではコピペ君は別人?


125:考える名無しさん
07/11/27 23:24:32 0
>>124
経済学板ではJimmyというコテハンはコピペ担当だって説が書かれた。
オレはいまいち信用できないがな。
とに角、弁証法関連コピペ継続、待ってるぜ。



126:考える名無しさん
07/11/28 17:13:34 0
コピペいらね。つかこのスレいらね。
誰も読んでねーよ。

127:考える名無しさん
07/11/28 17:38:20 0
109 名前:考える名無しさん :2007/11/28(水) 09:19:09 0
最近、うんことまんこの違いがわかりません。
ちなみに童貞です。

128:考える名無しさん
07/11/28 18:20:53 0
コピペいらね、って連中はこのスレに来なきゃいいだけの話じゃん。
おえ、早くコピペ継続しろっての。

129:考える名無しさん
07/11/28 23:19:20 0
>>94
より

>対象Xがコーラであって牛乳ではないのは、それがまさにコーラだからでしょう。それは、概念としての質を表現し、
>単なる名辞ではない。

こんな馬鹿げたセリフを有難がってどうするんだ?


130:考える名無しさん
07/11/29 08:32:50 0
>>128
自分で自分に命令してどうする。

131:考える名無しさん
07/11/29 08:45:31 0
コピペされた文章の責任だれが負うんだろね。
貼ってるやつに聞きたい。

132:考える名無しさん
07/11/29 15:53:22 0
>>131
そのいい加減さが2chじゃんかよ。
そんな前提も見えないオメーはマジ阿呆だぜ。

ヴォケどもは無視して早くコピペを始めろや。

133:考える名無しさん
07/12/01 08:54:34 0
217 名前: OFW 投稿日: 01/10/19 22:08
どもです、召喚に応じて。これまた超亀レスですが・・・
>>208(206)
多少ふざけが入ったために誤解されたようですが、趣旨は「心は実在する」とは「幽霊は実在する」と同等の
存在論的言明であり、心霊現象を信じる労働者は少ないだろう、ということです。

>>210-212
趣意が分かりにくいが、弁証法を
>思考内容を分類整理する方法
と狭く解釈すると、形式論理になってしまうでしょうね。

>分類の重複を無くす為の調整
はアリストテレス論理学の矛盾律、排中律に基づくでしょう。(アリストテレスは自然学者でもあり、分類は得意だった。)

>対象全体を区別し受け入れるための規格を作り、
区別(正確には区分)の根拠については、「言語の恣意性」とか称して、それを単に主観的なものと考える論者が
(この哲学板にも)多い。しかし、かのゲーテも言うように世界の分節、区分は客観的なものです。
<対象全体>は実在せず、それは否定的な本質存在であると言う点が分類(類の分割)の原理を成すのです。

>ネガティブフィードバックによりそのズレを修正すること
サイバネティックス(情報理論)では、フィードバックは1次の学習であり、システムパラメータの対象化が2次の学習
とされています。
(G.ベイトソン『精神の生態学』『コミュニケーション』参照。<否定>を理解したイルカの話が出ている。)

>>215
>暴力団(彼ら自身なのだが)の脅しから守ってやろうと持ちかける
殆ど最近の事件を思わせる、反弁証法ですね。
「我々は正義であり、テロリストは撲滅されなくてはならない。」
<テロ>(テロの概念と本質)とは<正義自体>(「正義」の真相)です。
確かに世界中のほとんどすべての人が騙されている・・・。


134:考える名無しさん
07/12/01 08:59:12 0
224 名前: OFW 投稿日: 01/10/20 21:55
>>218(火さん)
>ドスの白痴にそんなのなかった?
昔の記憶が・・・。最近はドストエフスキーはどの程度読まれているのでしょう?
また、革命前ロシアのテロについては、サヴィンコフ(ロープシン)がいますね。エスエル左派の戦闘団首領として、
最後はボルシェビキに対する反革命側に回ったが、帝政ロシア政府に対する絶望的な自爆テロを敢行する
青年達の姿(『テロリスト群像』)は今回の事件とも共通する、かな。

>>219
>マルクス・レーニン主義をどうみてるの?
共産主義のことなら、今一番必要な思想であると。

>NAMとかの評価は?
以前経済板等でも同じ質問を受けた。下記スレ(レス13,31)を参照下さい。
「岩井克人の『貨幣論』は正しいのか 」 URLリンク(kaba.2ch.net)

>>220
>今回のテロが出現したことをどうお考えですか?
20世紀以降の帝国主義時代を一人勝ちしたアメリカ資本は、内部矛盾(階級対立→経済の行き詰り)
のはけ口を求めて、世界制覇に突き進むしかない。
「世界資本主義の完成期」ということは、名実共に晩期資本主義を迎えたということであり、矛盾の完成
(没落の始まり)です。
反グローバリズムの動きは(小)市民主義的NGO、民族主義、宗教的原理主義等として現象していますが、
労働者階級に依拠した、唯物論的な土台(生産関係)の変革を視野に入れない運動は主観的なものでし
かない。
確かに、資本主義は世界化(普遍化)し、世界的資本-賃労働の単純な階級対立に解消されて行くという
<資本の文明化作用>(マルクス)をもじれば、(資本主義的)文明vs(反資本主義的)野蛮の対立は
社会主義的にのみ止揚され得ると言えます。


135:考える名無しさん
07/12/01 12:55:19 0
>>134
一寸訊くけど、投稿番号は134なのに、文中に、>>219などがあり、それをクリックすると、この元の位置に飛ぶ。どういうことなのか説明して欲しい。宜しく、宜しくお願い致します。

136:考える名無しさん
07/12/01 13:08:06 0
130 :名無しさん@恐縮です:2007/12/01(土) 10:26:57 ID:6fQfrfRs0
横綱の品格てのは、横綱になれた人間にしかわからないこと。
朝青龍は、圧倒的な才能と努力で横綱になれた人間。
横綱に必要なのは圧倒的な強さ。

だいたいなんだよ横珍ってw
あいつら相撲やったことねーんだろ?
語る資格ゼロ。

とにかく朝青龍は、巡業で対戦する力士全員病院送りにして、
初場所の開催が困難になるくらいまで暴れて欲しい。

「巡業は元々ヤオなので今まで本気出してやってませんでした。
 いいんですかボクが巡業に参加しちゃって?
 本場所に出れる人いなくなりますよ?」

とか言って欲しい。

出場可能な力士がいなくなれば、横珍の連中を土俵に上げて、
全員殺してしまえばいい。

強い者、努力した者、才能のある者、勝ち組は全て正しい
ということを、朝青龍は是非証明して欲しい。



137:考える名無しさん
07/12/01 13:36:06 0
次は俺がやるからな。232からな。

232 名前: OFW 投稿日: 01/10/21 22:38
偽物が絶えないなぁ。敢えてトリップは付けないが、討議の倫理(ハーバーマス)の第1は誠実性の原則
だということを想起せよ。

>>226(219さん)
>計画経済における評価
詳しく追跡したわけではないので、概括的な話になりますが・・・。
共産主義とは貨幣、商品、国家の廃絶を目指す運動であり、少なくとも国家が安定的に存在し、
専従的官僚が指導する社会は階級社会であると言えます。
つまり旧ソ連等の「社会主義」国家とは政治経済的にはノメンクラツーラが支配した国家資本主義体制
であったと言うべきでしょう。そのため経済は統制経済となり、直接の生産主体であるプロレタリアートは
実際には経済活動の客体でしかなかった。
また、かって旧ソ連において、いわゆる「経済計算論争」として、社会主義経済における計画と市場の問題が
議論され、戦後の東欧でのいくつかの実験が行われましたが、結果として失敗に終ったと言えるでしょう。
そこには社会的需要の測定と社会の有機的な再生産の大衆的な運営という、未だ殆ど議論されていない
課題があります。それは社会主義経済における最も重要な理論的・実践的テーマだと思いますが、本気で
取り組もうとする経済学者が左翼陣営でも見当たらないのは不思議であり、社会主義退潮(展望のなさ)
の一因でもあるので残念。

>>227
かなり悪質な騙りだが、主張内容に一貫性がないのがすぐ分かる。
>>231
まだ良質な騙りだが、議論を混乱させる荒らしには変りない。


138:考える名無しさん
07/12/01 13:37:31 0
237 名前: OFW 投稿日: 01/10/22 01:18
>>233(rageさん)
>歴史や理論の概括的な話しかしない
概括的とは概念的把握をしているということです。 概念的把握は弁証法の精髄であり、それなくして
具体的普遍はないのです。

>実践論の話
実践とは理論の検証のことだから、理論なくして実践はありません。だから、私の理論偏重に不当なところは
ないのです。そして実践の過程とはおおむね漸進的なので、すぐに衆人の納得のいく結果はでないものです。


139:考える名無しさん
07/12/01 13:40:40 0
242 名前: OFW 投稿日: 01/10/27 22:38
>>233(rageさん)
>革命論
労働者階級が主体として自己を形成しない限り、何事も成就しない。そのためには労働者に対する
徹底した啓蒙が欠かせないでしょう。

>>236(226さん)
>生産手段の共有性から来る同胞的意識
国有と共有を混同することは大きな誤まりです。それとも即自的(潜在的)な共有”性”を指しているのかな?

>労働者を消費者として考慮できない点
「自由主義的」資本主義企業においても、経営者が生産計画を立てる際に労働者自身は単なる労働力
としてのみ考慮され、消費者としては別人化されている。
商品とは<他者の欲望の対象>であり、たとえばフォードの労働者はフォード車を手に入れたいという欲望を、
貨幣という物象化された他者の欲望として疎外させなくてはならなかった。
一方、旧ソ連等の国家資本主義経済においては、国家全体の経済計画は党官僚が作成し、「国益」に基づく
ノルマ型生産目標をもって社会的需要に代えた。
つまり、(私企業主であれ国家官僚であれ)生産手段を所有し生産計画を立てる者が労働者自身の社会的
欲求を無視しているという点では同じでしょう。

>消費者としての物質的要求の意識性が、労働者の労働意欲に反映する
直接的な物質的要求と人間的・社会的要求は区別すべき。
たとえば、旧東欧諸国の労働者参加型経営における「資本関心」の希薄さ、つまり直接的な欲求を超えて
「利潤」を指向することがなかったという指摘については如何?

>本来的な社会主義的発展の諸条件を満たしていなかった
生産力の話かな?確かに社会主義が発展するためには一定の生産力水準が必要でしょうが、むしろ国家官僚
が労働者を主体として認めず、生産の社会化を阻害した点の方が本質的でしょう。

>>237
繰り返すが、騙りは議論を混乱させるだけ。


140:考える名無しさん
07/12/02 07:40:11 0
5 名前: OFW 投稿日: 2001/03/23(金) 21:23
労働(Work)はまず、人間の必然(必要)として存在する。
それは個体の物質的な生存を維持するために、生活手段を生産しなければならないという点において、
人間に課せられた単純な自然的条件である。
そして古来より、人間は協働という形態で生産を営んできたが、それは圧倒的な自然力の前では、
明らかに個体の生産能力のみで個体を維持することは不十分であることから来ている。

自然との交渉、それとの物質代謝過程において、個体は他の個体との関係に入る。共同体とは、
まずもって生産共同体として歴史に登場したのである。
そして、共同体の掟とは、互いに協力関係を結ばなければ、成員の生存が維持できないという、
自然的な厳然性として共同体の必然であったろう。

「自由な個人」などという虚構は、歴史のずっと後において誕生するのであり、産業革命と交易によって、
社会的な生産力が飛躍的に増大した近代以降のものである。
それは、むしろ圧倒的な迄に緊密化した社会的分業の存在を前提しており、商品と貨幣(一般的等価物)
によって覆い隠された人間社会の共同性を、否定的(他者化された)形態で主張する。
実際、その内実は所有としての所有(私有)によって保証された、排他的自己を称揚する利己主義に過ぎず、
アダム・スミスが説いた「自愛心」も、階級対立の中では、他者の労働を私有化する(労働力商品の購買と使用)
という、搾取関係の正当化でしかない。
労働とは、それにより人間が類として自由になるための媒介であり、個人が他者との協働の中で、
具体的・現実的に自己になり、その成果のうちに具体的普遍としての自己を対象化させる行為である。

市場における商品の売買によって利益を得ること、それは実際には他者の労働の成果を我が物にする
ということであり、その根拠である類的・共同的労働の蔑視であり、畢竟、労働者階級への敵対行為である。

現代の疎外された社会における勤労道徳の主張は、まずもって「働かざる資本家は食うべからず」という点から始め、
賃労働(労働力商品)の廃止へと進むべきであろう。


141:考える名無しさん
07/12/02 07:41:06 0
13 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>7
>もう少し詳しく、商品としての労働/労働力と言う事ですか?
賃労働は通常、労働力市場における使用者と労働者との間での自由な雇用契約による等価交換と
されていますが、何と何を交換するのかを考えて見れば、それは“裸の労働力”の一定量を貨幣と交換
するという点にあることが分かるでしょう。賃労働者は“自由な”商品です。

>有産階級/無産階級、不変資本/可変資本、外在化・物象化・疎外
まず、階級とは“生産手段の所有/非所有に基づく社会成員の区分”です。
資本主義社会では、資本家階級と労働者階級が基底的・本質的な階級であり、両者は弁証法的な
対立関係に置かれています。
そして、その他の階級、自営農民、自営業者、自由業等は中産階級と呼ばれ、不安定な動揺のうち
にあるメンバーでしょう。財産の有無は結果であり、原因ではない。

次に、「外在化」「物象化」「疎外」は相互に関連する概念ですが、
外在化(外化)とは、可能的・潜在的な存在が現実的・顕在的になること。

物象化とは、人と人との関係が物と物との関係として現象するという、近代特有の疎外の一種であり、
資本主義社会の全体に及んでいる(例:貨幣物神、俗物性(スノッブ)、官僚主義、システム主義、
業績主義)です。

疎外とは、自己の本質の外化がその喪失として現象する、ということです。畢竟、それは労働(対象的
な生産活動)の疎外に根拠を持っている。

>>8
>労働は自由への道と言うわけですか?
そうですね。国会図書館のカウンターの上には、「真理は我らを自由にする」という標語が掲げられていますが、
精神論としては正しい言葉も唯物論としては、「労働は我らを自由にする」が正しい。
もっとも、これはヒットラー・ナチが強制収容所の門の上に掲げたものと同じですが…。


142:考える名無しさん
07/12/02 07:44:02 0
14 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 10:54
>>9
>共産党の方ですか?
じぇんじぇん違います。日本共産党は共産主義政党ではありません(これホント)。
精々社会民主主義の党でしょう。

>>10
>共産党の人々って労働者なのかのう…?
一般党員はそうでしょうが、指導部は「職業政治家」でしょう。

>マルクス=大英博物館の紙魚=働かないオタク
最近の風潮の受け売りではなく、自分で調べ、考えましょう。
あなたが労働者(サラリーマン)あるいは将来の労働者である学生さんなら、自分がなにものであるかを正しく
理解することは、実践的な課題です。

>>12
>もっと建設的な話をしようよ。
そうですね。近代的な労働倫理については、何と言っても、西欧の国民精神の基調ともなっている、
フランクリン、ジョン・ロック、アダム・スミス等のものが代表でしょう。
フランクリンの13徳は、節制・勤勉・質素を精神的支柱とした、近代的市民(ブルジョア)の普遍的倫理であり、
また国王や教会という不労所得者ではなく、労働と私有に基づく理性的で勤勉な市民が社会の主人公だと説く
ロックの哲学は、まさに近代精神そのものです。そこでは、私有の権限(根拠)が排他的な労働に置かれているが、
おもしろいのは、交換(譲渡と取得)による富の蓄積を「黙契」(暗黙の契約)として正当化している点。
それは資本主義的「私的所有」が決して正当な等価交換に基づくものではなく、暗黙で間接的な強奪あるいは
奴隷売買によるものだということを、恥ずかしながら、認めたわけ。
言語一元主義ならば「私的言語の不可能性」と呼ぶ同じ事柄が、非言語的な労働における「所有の私秘性、
交換の不可能性」であることが、ロックにおいて読み取れます。哲学者と違い、労働者はおしゃべりをせず、
黙々と働く。
それは殆ど語られることがないが、社会の唯物論的な基礎として、働くもの(現実的なもの)です。


143:考える名無しさん
07/12/02 07:45:45 0
26 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 20:58
>>16
>風俗嬢は人間のクズ。
それは言い過ぎだ!
確かに、カネでは売買できないもの、してはならないものがある、とは倫理的な言明ですが、
貨幣、資本という物象的な力の前では、すべての人間はモノでしかない。
「資本家とは資本の人格化に過ぎない」(マルクス)
サラリーマンと風俗嬢の違いは、見かけ程大きくはないでしょう。

>>20(7)
いわゆるマルクス経済学的な議論については、下記サイト(石塚良次氏)を参照下さい。
とても良くまとまった講義要綱です。
URLリンク(www.senshu-u.ac.jp)
但し、労働の“哲学的な”意義といった点に関しては、労働者自身が自らの存在の根拠を反省し、
自分達こそが歴史と世界の主人であることの自覚が重要でしょうね。
「哲学は労働者階級を止揚せずには自己を止揚できない」(マルクス)。


144:北条弟王 ◆wt5ENfoWGI
07/12/02 08:09:51 0
「世界ごとにおのおのの自然さというものがあって、私は私がつくった世界をもっとも好んでいます。」
「たしかにこの世界の実姉も私がつくった世界の実姉に似ており、大変よろしいものですが、それでも一歩及ばないようです。」
「それでも私がつくった世界の自然さをこの世界、言い換えれば現実世界で味わうことはできないでしょう。」
「この世界で実現する自然さはこの世界の自然さ以外にはあり得ないからにほかなりません。」
URLリンク(imperialism.xxxxxxxx.jp)

145:考える名無しさん
07/12/02 12:02:31 0
34 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24
>人間は必ずしも共同体を必要とするのでしょうか?
必要でしょうね。個体としての人間とは類としての人間の現存在であり、それは、人類全体の内容・成果が
個人において“実現” しているということです。

>個人が必要とする諸条件と共同体が営まれる諸条件は必ずしも一致しません。
それはその通りであり、永遠に“一致”はしないでしょう。しかし、諸個人は共同体において生まれ、
主体として共同体を発展させ、そして次代にそれを伝える。個人と共に共同体も発展するのです。
具体的普遍とはそのことを言い、諸個人間のコミュニケーションが弁証法的な統一の条件です。

>共同体がシステムとして機能しなければならないのは個人が必要とするからで、それ以上でもそれ以下でも無い
それは個人と共同体との関係を外的なものとみる、近代特有の考え方です。
近代的個人が自由な主体として振舞えるのも、実際には生きるために必要な商品が市場に存在
するからであり、一般的等価物としての貨幣を所有しているおかげ。
そのため、個人は社会から自立して生きているという錯覚が生じ、社会は単なる必要物を提供する
便宜的なもの、と表象される。
それは“give and take”という利己主義的な社会観です。その結果、逆に社会の方はシステムという
全体的・物象的な存在として、個人に対して超越的なものとして迫り、全体主義的な非合理主義
となって復讐を遂げた。
また人間社会の機能主義は、いわゆる社会システム論といった物象的・官僚主義的な発想を生み、
個人をますますアトム化した手段にしてしまう。


146:考える名無しさん
07/12/02 12:06:09 0
35 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:10
>>24(つづき)
>労働者の共同体とはどの様なものですか?
「個人の解放は社会の解放なしにあり得ない」という言葉があります。
現在でも労働者は(分業という形態での)共同体を形成している。ただしそれは、市場という転倒した
現実により隠され、無秩序な自然状態に置かれているわけですが。それを自覚的なものにすることは、
社会のすべての物質的・精神的な豊かさを、諸個人の協働的・創造的な働きの成果として享受する
ことになるでしょう。
そのためには、労働者間の連帯が不可欠であり、そこから「我々は一つである」との類的な自覚が生
まれるでしょう。
たとえば、国家主義者はそれを言うが、国家とは幻想的実体として種的な存在でしかない。
「全体は存在しない」のです。

>個体が生存する為に共同体があるのか、共同体が運命付けられた (必然の)ものとして個体があるのか?
「必然とは盲目である。それは自己を知らず、外的な運命として個人を突然襲う」(ヘーゲル)。
必然性と言っても、外的な必然性と内的な必然性があります。
内的な必然とは、類的な本質を自己のものとして生きる個人の魂、とでも言えるが、それは別名「客観的精神」
と呼ばれます。(近代人の偶然的自由にはこの手の“大いなる精神”は理解不可能?)

>緩やかな個人主義は氏の結論からブルジョワの 欺瞞であるとされてしまうのでしょうか?
山崎正和流ですか?「緩やかな」という感性的な表現には、「現実的な」との表現を対置すべきかな。
繰り返しますが、全体主義は共産主義とは無縁の観念論ですが、近代的な個人主義も抽象的な
観念論です。

>科学技術が可能とする高度情報化社会でも同様 の理論展開が可能でしょうか?
たとえば、“嫌な”労働はすべてロボットがこなし、人間は個人として自由(暇時間)を満喫できる理想社会が
到来したとして、人間は何をするのでしょう?
労働の必要とは、労働以外の余暇に向かうのではなく、労働(仕事)を内的な生命欲求の自由な発現
にすることでしょう。


147:考える名無しさん
07/12/02 12:42:21 0
36 名前: OFW 投稿日: 2001/03/24(土) 23:23
>>33(20)
>商品論によって発見された価値の源泉としての時間やこれを梃子に展開されるマルクスの弁証法
労働価値説ですか。哲学板で何回かカキコしたが、あっと言う間に沈んでしまいました。
さしあたり、経済板での議論を参照下さい。
 URLリンク(piza.2ch.net)
質問は改めてお願いします。ちょと、疲れた…。


148:考える名無しさん
07/12/02 12:44:25 0
42 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 09:48
>>37
>社畜になったら、いつ歯医者に行けばいいのだろうか。
場所にもよりますが、会社の近くの歯医者の予約をとって、30分~1時間位、勤務時間中に抜け出す
ことは、大体皆やっている。(勤務時間中の私用外出扱い、あるいは会社も大目に見る)
>社畜になったら、いつ寝るんでしょうか。
以前よりも平均労働時間は減少しているが、中小企業の状況は相変わらずヒドイもの。
月間残業時間が50時間を超えると、帰宅時間は9時以降になる。通勤時間はむしろ伸びている。
>社畜になったら、いつ飯を食うんだろうか
朝飯を抜く人は多い。社員食堂がない場合は、昼は弁当(自前、仕出し、コンビニ)か街の飲食店を
使うがやたら集中して混む。飲み屋で晩飯を済ます御仁も少なくない。
カップヌードルやパンは残業時には必需品かな…。
>社畜になったら、いつ音楽を聴くのだろう。
ウォークマンの登場以来、深夜残業中のリスニングも技術的には可能です。
>社畜になったら、いつ本を読むのだろう
サラリーマンは余り本を読まない。スポーツ紙、経済新聞、「これからのビジネスは○○しかない」といった
時流もの、あとは通俗小説位、かな。
>社畜になったら、いつ絵を描くのだろう
何の絵?大企業には絵画クラブなど各種同好会はあります。
>社畜になったら、いつ笑うのだろう
営業上はいつも大声で笑っている。
>社畜になったら、いつ泣くのだろう
“女の子”も最近は泣かないなぁ。無表情人間が増えた。
>社畜になったら、いつ2ちゃんできるのだろう
勤務時間中に私的にインターネットを使うことは、禁止です。
(余り守られていないようで、会社も監視を強化している)
>社畜になったら、もう人間には戻れないのだろうか
“会社人間”が定年を迎えた場合、何が残っているかな?


149:考える名無しさん
07/12/02 16:53:36 0
48 名前: OFW 投稿日: 2001/03/25(日) 21:56
>>45
(横レス失礼)
>社蓄ってさ、仕事以外に興味のあることがほとんど無い人なんだよ。
と言うより、会社と自分を一体化させて、会社の仕事以外に興味を持たない会社従業員のことでしょうね。
仕事一般について言えば、四六時中、音楽のことしか考えない作曲家もいるから。
ただし、すべてのサラリーマンは「賃金奴隷」だと言う事を忘れずに。

>社蓄から仕事をとったら何にも残らないし、誰にも相手にされない。
日本は会社社会ですから、自営業や自由業(芸能人、プロスポーツ選手、著述家等)を除けば、
個人には全く社会的な信用がない。
サラリーマンは名刺の肩書きがすべてであり、まさに、裸の労働力しかもたない境遇にある。
某革新政党が「市民と労働者の連帯を!」と言うように、サラリーマン(賃労働者)は、実質的には
市民(ブルジョア)ではないのです。


150:考える名無しさん
07/12/02 16:56:13 0
56 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 00:18
>>50
>「生涯学習」か「自己投資」かなんか知らんが
「労働力の質」を常に高めることは、技術革新や産業構造の変化に対応して自己の商品価値を維持するために、
ますます必要となるでしょう。倫理学風に言えば、勤勉=勤労と勉強がより普遍的に重要になる、かな。
日本での問題は、実業界からのニーズに対して、大学などが受け皿になれるだけのレベルがないこと、
企業側の雇用慣習が追いついていないこと。
USAでも、上昇型キャリア・コースに乗れるのは圧倒的に少数であり、巨大な貧富の格差の存在は、
出発点での多数の諦めを生んでいるのでは?

>オレはヤだなぁ、激しく
まぁ、昨今のフリータばやりも、企業側のアウトソーシングや臨時雇用化の流れに応じた受動的なものですから、
決して安定してはいないでしょう。
バブル期以降、日本人は遊ぶことを覚えてしまったので、かっての勤勉・質素という精神的な富を食いつぶして
しまった様ですね。

>>51(45)
>ブルジョアになりたい。
名言ですが、ジャパニーズ・ドリームの可能性は、ジャンボ宝くじの確率位かな。
ITバブルもあっという間にはじけたのは、雇用拡大に結びつかなかった(情報産業の“付加価値”はもともと
少ないから、する筈もない)からで、期待は幻想でしかなかった。
…あと、「個がない」のはその通りですが、現在の風潮は「自己中」が増えたことで、それは「非社会化」と
呼ばれ、個人の社会的な自立とは異なるでしょう。


151:考える名無しさん
07/12/02 16:59:18 0
66 名前: OFW 投稿日: 2001/03/26(月) 22:58
>>58
>バブルももちろんですが困窮の記憶が完全に薄れたいまとなっては〝使用期限切れ〟になるのは
理の当然のような気がします
確かにそれは正しい。倫理はいつも時代に適応した人間関係の有り様を表現するから、
使い捨て時代に「モノを大切にする心」をいくら説いても、それだけでは無理でしょう。
そこで「モノと心の関係は如何なるものか?」という根拠への問いが必要になる。
根拠とは心とモノの同一性のことです。
その方法は弁証法的唯物論と呼ばれ、モノが溢れる中でそれが決して与えられた豊かさ
ではなく、生み出された豊かさであることを教えてくれる。
心ある人間がモノを求め、労働によってそれを生み出したのだ、という認識が、大事なのは
労働であり、労働なしには豊かにはならないことを教える。
ところで、これだけモノが豊かな世界の中で、労働は決して豊かではない、という事に気が付く。
それは「疎外された労働」と呼ばれる賃労働の姿です。

>>59
>労働は社会への言い訳。
珍しい意見ですね。もう少し内容を教えて欲しいな。

>>64
>OFWさんはNAMについてはどのような見解をおもちですか。
経済板でも聞かれたのですが、はっきり言って、関心ありません。大体、何で不買運動なの?

>私にはあれは唯物論から逃げようとする運動にみえ、それは無理なことだと思うのですが。
そうですね。マルクスに好意的な知識人でも唯物論者は稀です。その証拠は、労働および労働者
に無関心なこと。

>>65
>社畜になったら、思索するゆとりをもてるんだろうか???
全活動力が売上・利益に向かって動員されるから、余暇時間にはそこからの逃避として、精神を
無思考状態に置かざるを得ないでしょう。


152:考える名無しさん
07/12/02 17:01:57 0
80 名前: OFW 投稿日: 2001/03/27(火) 21:56
>>76
>働かなくても飯が食える奴を働かす謂れはないだろ。
何故「働かなくても飯が食える」のか考えて見よう。
1.他人に養って貰っている。
2.お金をたくさん持っている。
3.手を伸ばせば何でも採れる楽園に住んでいる。
の3通りが考えられる。
3番目は夢みたいな話だから、除外するとして、
1の場合、他人としては、親、配偶者、パトロン、子供(老親の場合)、社会(生活扶助)等が考えられるが、
それらの人達自身も働いていない場合としては、上記の2の場合しかない。
結局、お金を持っていることが、働かないでも生活できるためのポイントだと分かる。(これ、分かりきったこと)
しかし、お金自体は食えないから、それで買うべき商品こそが重要。そして、それは他人が働いて生産したもの、
でしょう。

>ただ、働かないのはいいとして端に迷惑をかけるのは良くないんだろうな。
どんな人も他人の働きに依存している。それが社会というものです。
働かないでも生活できるのは、他人の働きによってその人の生活物資を“無償で”賄っている、ということ。
これが答でしょう。これには謂れ(=正当な根拠)があるのかな?


153:考える名無しさん
07/12/02 17:04:54 0
85 名前: OFW 投稿日: 2001/03/28(水) 23:25
>>82
>予め能力のない人間はどうなるのでしょう?
「予め能力がない」とは先天的な障害あるいは幼児等の場合でしょうか?
その場合は当然、障害に応じて持てる力を発揮すれば良い、あるいは保護されるべき状態でしょう。
能力=可能性ですから、誰もが自らの可能性を追求し、その追求には限りがなく、予め決まってはいないでしょう。

>「能力に応じて働き、必要に応じて取得」といった言説が暴力的響きを持って迫ってくるように思えるのですが....
とても驚きのご意見です。むしろ、能力がない人はその人なりに働き、かと言って、生活や欲求の必要に応じて
十分に享受することができる、というのは実質的な平等(社会が相互扶助的になっている)の主張であり、
形式的には不平等(能力の差が取得の差とは無関係である)であることを主張する言葉です。(どこが暴力的なのだろう?)
身体的・精神的に働くことができないなら、働かなくても良いのは当然でしょう。
しかし、働くことは本来、個人の一つの社会的な欲求であるはず。
現在の疎外された社会では、事情はまったく逆であり、働くことは苦役であり、強制労働でしかないでしょうが。


154:考える名無しさん
07/12/02 17:08:23 0
89 名前: OFW 投稿日: 2001/03/30(金) 03:56
>>83
>生産する行為が労働なのか 金銭を稼ぐ行為なのか

「労働の哲学者」である内山節氏が「働く」と「稼ぐ」の違いについて述べています。(『自然と労働』他)。
彼は非マルクス的な立場ですが。
また、エンゲルスも「労働」という言葉の二義性(WorkとLabor)について言及している。

>趣味的な活動で生産されるものもあるだろうし

無論、そうですね。労働一般と資本主義下での労働(賃労働)との区別が重要でしょう。
>> 86(82)
>労働の分業化→労働者の単能化→工業化・大規模化によって 労働日における必要労働時間が限りなく平準化され

“固定した”分業や、資本間の競争および労働運動がもたらす労働時間の平準化は、必ずしも

>その結果として労働者の平等と団結が生まれる

とは限らないでしょう。むしろ、労働格差(労働貴族と単純労働者の分化)が進行しているのが、現状と言える。

>逆に言えば“労働”といった 運動(=闘争)過程において前述の社会的マイノリティーが疎外される(運動から)のかも

いわゆる先進国では、労働運動は労働組合運動でしかなく、賃労働の廃棄にまで踏み込んでいない。
それは“疎外された”労働を前提している。
社会的マイノリティとは疎外された社会が作り出した結果であり、その解放のためには、社会自体(生産関係)
の止揚が必要です。たとえば、「障害者の社会的参加」とは正しいが、それはブルジョア社会の枠内では
制限された範囲(人権、形式的平等等のブルジョア的権利)でしか達成できないでしょう。
何より資本主義的「経済の論理」はすべてに優先してしまう。


155:考える名無しさん
07/12/02 17:12:59 0
91 名前: OFW 投稿日: 2001/03/31(土) 04:50
>>90(82)
>どちらかと言えば社会民主主義即ち修正資本主義の問題でしょう。
>労働運動が国家の枠組みの中に封じ込められた結果でしょう。
資本主義が政治経済的に修正資本主義に変容したことと、労働運動が「体制の補完機能」を果たす
ようになったこととは、同じ事柄でしょう。
一方において社会主義の要素を取り込み「福祉厚生」を考慮することが、他方でそれに呼応した
「労働者の体制内化および階層化」を促進する。
またフォーディズム(「労働者を消費者として囲い込め」)の成功もある。

>ただ、そんなに肯定できるのでしょうか?
社会民主主義をですか?それは余り肯定できないでしょう。
また、労働者に依拠することの肯定如何ということなら、それはむしろ、労働者自身の否定の否定(現状の
自己を否定すること)の問題でしょう。

>ドイツの安楽死や 北欧福祉国家の“間引き”の事実
安楽死の是非とか、不労高齢者の処遇に関して言えば、それは結局社会の在り方に繋がる。
安楽死は、個人の尊厳の問題と言われるように、個人が社会的・精神的主体として如何に尊重されるか
という点で、個人の社会的内実と深く結びつく。つまり、生物学的生存が必ずしも人間的生存ではなく、
同時に個人の生存が必ずしも当該個人の孤立した生存ではない、という点です。
その矛盾は社会の解放(個人の社会化)と共に、たとえば宗教の止揚といった点と共に、止揚されていくと
思います。
また、高齢者が「労働能力のない個人」という理由で社会から疎外されるのは、極めて資本主義的な
経済原則に基づくものであり、生きている人はそれ自体で働く者(主体)であることは、経済を超えた内実
を持ちます。

>ダーウイニズム的決定論や国家社会主義、これらに対する懸念です。
いわゆる社会有機体論や国家社会主義(形容矛盾!)は共産主義とは無縁。
社会を、個人を超えた“超越的な実体”(社会システム論も同様)とみなすことは幻想であり、諸個人の
関係性の中にしか社会は存在しない。
かってのナチズムやスターリン主義(国家資本主義)的全体主義とは正反対の個人の社会化こそが必要です。


156:考える名無しさん
07/12/02 19:46:24 0
96 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:10
>>92
>システムを構成する各要素が(個、サブシステム)が、自律的に行動しながら、強調、競合的に行動しあい、
全体として任務を達成する(秩序を形成または維持する)システム}。

社会は確かに一つのシステムとして捉え得るが、本質的にシステム以上の存在であること、を忘れないことです。
パーソンズおよびルーマンの社会システム論も、生物学のアナロジーとして出発したが、行為からコミュニケーシ
ョンへとその機能的要素の内容をシフトさせてきている。

>本来争わなくてもよいところに争いを持ち込んで無駄に時間と労力を浪費することは無い。
まったくその通りであり、私企業が私的利益を追求することは、社会にとっては時間と労力を浪費することであり、
“経済的”とは呼べない。

>ここでも生物(ここでは生物内組織での協調)にその範を求めることが出来る。
企業内の生産システムと生物体システムの本質的な相違点は、後者では自律的な自己調節機能が即自的
にのみ存在している点です。全体(個体)がその実在的要素(器官、細胞、細胞内器官)に対して、“見えざる手”
として働き、器官の自律的機能は外部パラメータ(体温、水分等)の下で、相互に媒介し合う多くの反応サイクル
として自動的に制御されている。
一方、生産システムでは、目標は外部から与えられ、部分間の関連とそのリズムによる調整は綿密に計画されな
くてはならない。
そこでは、常に意志的な働きとコミュニケーションが重要な要素になる。

>>94
>働かなくても健康で文化的な生活ができるはず。
衣食住の用を満たす財があり余る社会がきたならば、労働(仕事)の意義も現在とは全く異なるものになるで
しょう。好きな仕事をするとは、人間の社会的・精神的・類的な自己を表現することでしょう。


157:考える名無しさん
07/12/02 23:06:18 0
廃棄される食い物は大量にある。

しかし餓死する人がいる。
食うのにカツカツな人も大勢居る。



158:考える名無しさん
07/12/03 18:17:23 0
だめはだめ>>906

159:考える名無しさん
07/12/03 18:39:54 0
>>160もだめ

160:考える名無しさん
07/12/03 18:40:51 0
>>159はいい

161:考える名無しさん
07/12/03 18:42:10 0
>>160もだめ

162:考える名無しさん
07/12/03 22:03:47 0
とんだ弁証法loop、自己loopオナニ

163:考える名無しさん
07/12/08 21:33:38 0
97 名前: OFW 投稿日: 2001/04/01(日) 10:12
>>95(90)
>その言説とマルクスの思想とを区別する必要がある
全く同感です。「福祉切捨て反対!」とは正しいが、「福祉を切捨てざるを得ない福祉国家自体の廃止を!」
が真実でしょうね。

>ナチズムやスターリズムのメカニズムと共産制のメカニズムの違いがわからないのですよ(マルクスの著作にも
具体的指摘はない)
まず、賃労働の有無が根本的に異なるのです。そして、そのことを突き詰めた場合、誰が生産手段を
握っているのか、そして階級発生の必然性とその止揚の条件に関する認識が進むでしょう。
個人とは類的な存在(具体的普遍)であり、全体が存在するとは種的(特殊的)な立場に止まること。

>問題の核心は関係論や時間論にあり、その解釈如何によっては前述の抑圧的体制に頽落する惧れがある
抽象的には正しいと思います。
「閉じた関係」vs「開かれた関係」、
「過去の決定」vs「未来の非決定」
等の対立を具体的・弁証法的に詰めることは、マスクス主義の理解(社会の本質論)にとって
重要でしょう。
ヘーゲルも言うように、「現実性」(働き)の概念とは本質力自身の現象として自己を生み出すもの、
のことです。
…実際、マルクス主義を唱える論者や活動家が、未来社会の具体的な姿を云々しないことは、
現実的な運動家として実践的には正しいが、その理念的な内容が誤解され、展望を失っている現在、
将来の社会が如何に運営されるかという点について、もっと理論的に議論されてしかるべきだと思い
ます。構想力の欠如は、実践的な情熱にも影響する。


164:考える名無しさん
07/12/08 21:35:10 0
100 名前: OFW 投稿日: 2001/04/03(火) 00:26
>>98
 (横レス失礼)
>勤労は道徳ではありません。勤勉とも違います。
まあ、道徳かどうかはともかく、憲法では日本国民の権利および義務であるとされていますね。
「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」(第27条第1項)
ところで、義務を果たさない人がいる場合、何故、憲法違反とはならないのかな?
1.果たしたくても、果たせない? (労働能力のない人、非自発的失業者等の場合)
2.果たしたくないから、果たさない? (1さんの様に、個人の自由権を絶対的だとする主張)
3.「勤労」の解釈により、たとえば資本家として直接労働していない人も、「金勘定」という勤労
義務を果たしていると言える。 (現在の主流的な法解釈かな?)
さて、憲法自身は何と言う?
「憲法とは、畢竟、妥協の産物である」(ヘーゲル)

『工場日記』を書いたシモーヌ・ヴェイユのスレが、たまたま上がっているので、ついでながら彼女
の言葉(正確ではない)から…。
「権利とは相対的なものですが、義務は絶対的なものです」
「過酷な労働に痛めつけられた私は、この自分が、もはや乗合バスにも乗ってはいけない程、
価値のない人間(非国民?)であるかのような感情に襲われました。」


165:考える名無しさん
07/12/09 09:49:31 0
103 名前: OFW 投稿日: 2001/04/05(木) 00:19
>>101
>OFW氏に反論したいんだが、取っ掛かりすらつかめん。
反論は大歓迎です。何でも取っ掛かりになると思う。

>少なくとも全体主義批判の矛先が、個人やシステム論に行く事
私の説明不足でしょうが、個人=近代的個人か、具体的普遍(ヘーゲル)としての個人か、で全然異なるという点。
また、社会システム論が何故問題なのか、はもっと詳しく説明が要るでしょうね。

>統合的理念の落とし穴
私は理念が統合的だとは思っていない。むしろ自由な運動というイメージの方が強いな。

>>102
>労働は賃金を得るためにするわけで
現在の資本主義下の労働(賃労働)はその通りですから、

>それ以外に生き甲斐みたいな価値を置くことは
資本主義の下では、すべて欺瞞となり、その結果

>資本家の思うつぼ
となるのはその通りですね。ところが、最近の企業研修や就職情報誌などでは「会社のためではなく、
自己実現の欲求を満たすために仕事をしろ」などと煽られているのが現状です。

>そしてそういう価値観が親から子へ受け継がれ再生産を繰り返す。
資本とは「過去の労働が対象化されたもの」ですから、賃労働自体が、資本関係と共に、その価値観を
再生産しているわけです。
しかし、労働(仕事)には、歴史貫通的な積極的な意義がある、という事を忘れないことが重要です。
そして、その肯定的な面は資本主義下においても、労働現場では生きている。仕事仲間と協働して
成果を上げる、という労働の社会的・人間的な面は、労働者自身が何よりも密かな誇りとしている点です。
その矛盾した姿を捉えること(否定の否定)が肝要。


166:考える名無しさん
07/12/09 09:52:04 0
115 名前: OFW 投稿日: 2001/04/08(日) 20:20
>>104
>そもそも勤労道徳なるものは明治維新、富国強兵いらいのものでしょ。
あからさまに「労働は美徳だ」と言う道徳は、日本が近代世界の仲間入りをして国富を蓄積するために、
資本主義的な労働を必要としたためでしょう。しかし一部の働かない階級を除き、働く事自体は人間の
自明のあり方として古来から肯定されていたでしょう。

>「過労死」最もばかげた死に方だろう。
そのばかげた事が現実であり、何故死ぬまで働いてしまうのか、が問題。
「自己の名声のため」あるいは「会社のため」という理由はむしろ少なく、「家族や同僚に負担がかかり、
ここで止めるわけにいかない」あるいは「責任ある仕事に対していい加減なことはできない」という、
それ自体は高邁な理由のためではないかな。

>>109
>個々の間の自律したコミュニケーションの能力が高いほど、その協調する能力は高くなると思います。
その通りでしょう。自律は協調と統合される。
>コンピューターやそれによる通信の技術を利用することによって、個々の間の自律したコミュニケーションの能力を、
飛躍的に高めることが出来る
技術的にはその通りですが、問題は制度的な部分でしょうね。

>>112
>フレックスタイムを導入するなどして
時間の問題こそが労働の鍵です。それは社会経済的な事柄ですから、社会全体が生産労働の相互調整を
いかに合理的に成し遂げるかが、課題です。
フレックスタイム制がなかなか普及しないのは、「時は金なり」が先にあるから。


167:考える名無しさん
07/12/09 09:54:43 0
116 名前: OFW 投稿日: 2001/04/08(日) 20:21
>>113
>共産主義の共同体が原始共同体を発展させた
ものではなく、その止揚(現状の否定としての復活)というべきでしょう。

>(共同体:マルクス主義で、近代の私的所有社会以前に存在するとされる社会。(三省堂 大辞林 第二版 ))、
ちょと違うな。この説明なら「伝統的共同体」が正しい。共同体(Commune)とはむしろマルクスが
「ついに発見された」と呼んだ、パリ・コミューンのものに近いでしょう。

>現代の共産主義の共同体には、集団をまとめるものとして、どのようなものがあるのでしょうか?
「現代の共産主義の共同体」が旧ソ連、現中国等を指しているなら、それらは国家資本主義の国家であり、
共産主義の共同体ではない。
また、理論的なモデルを指しているなら、具体的な点は労働者自身が考えるべき課題である、としか言えないが、
要点は、社会経済的な面では、生産手段の共有に基づく直接生産者の生産協働体がまとめる。
それは、社会的分業の全部門に亘って、(財・サービス)生産の計画・実行・監視・改善(PDCA)の合理的な
マネジメントを行う主体です。要は、単に「自分達で自分達の社会を運営する」組識です。
(当然、生産手段の私有に基づく賃労働、貨幣、商品は廃止です。)
政治的な面では、上記の生産協同体自体の直接民主制による組識が調整機関として働くべきでしょう。
それは固定した指導部・官僚組識vs一般大衆の関係ではなく、行政事務は成員全員が交替制で当たる
べきでしょう。(代議制議会と官僚制行政機関が形成する現状の政治的国家は廃止です。)
近代社会をまとめているのは法ですが、当然ながら物理的な力、つまり警察がその裏付けとしてある。
人倫から法状態への移行は近代の利己的個人の実存を支えているわけですが、法の止揚として人倫の復活が
現実のものとなるでしょう。


168:考える名無しさん
07/12/09 09:55:58 0
118 名前: OFW 投稿日: 2001/04/09(月) 23:44
>>117
>最後の問題への返答は、まさにNAMそのものではないか
さぁ、どうでしょうか。私はそうは思わない。
労働者の協働体(Commune)を言うことなく、抽象的個人の連合(Association)を言う。・・・これは言葉の問題ではない。
類的な統一を言うことなく、個別的な結合を言う。
生産関係の変革を言うことなく、不買運動を言う。
貨幣の廃止を言うことなく、地域通貨を言う。
国家の廃止を言うことなく、それへの抵抗を言う。
唯物論的な必然性を言うことなく、倫理的・恣意的な自由を言う。
労働者階級に依拠せずに、何が「可能なるコミュニズム」なのでしょう?


169:考える名無しさん
07/12/09 09:58:44 0
120 名前: OFW 投稿日: 2001/04/11(水) 00:25
>>119
>労働者の協慟体とは?
現代社会は既に全面的な分業体制による生産活動により維持されている。
すべての生産財と生活財は相互に緊密に関連する生産部門で生産され、市場を介して流通している。
そこでは、利潤原理に基づく私企業が主体となって生産・流通・分配が営まれているわけですが、
その主体を生産現場で直接生産に従事している労働者の手に返還し、協働的な労働に基づく、本来の
共同的で階級のない人間社会を復興しよう、というのが共産主義の理念であり、現実の実践の最終目標です。

>類的な統一とは?
人間が類的な本質存在だということは、「人類は一つである」ということ。
類(具体的な普遍性)- 種(自由な特殊性)- 個(現実的な主体性)とは諸個人が自然的な被規定性の
中にあって、社会を形成することにより、現実的に自由な共同存在だということを、概念的・弁証法的に表現している。

>生産関係の変革はNAMも主張してるのでは?
NAM公式サイトの文章を読む限り、階級的立場が希薄ですね。
「非資本制的な生産と消費のアソシエーション」とは、局地的な生産協同組合程度のイメージですが、全面的な
生産関係の変革ではなさそう。
「消費者としての労働者」とは、要するに消費者でしょう?

>貨幣を廃止できるの?
貨幣とは何か、を理解すれば、廃止は必然的です。

>国家の廃止とは? 唯物論的な必然性とは? 労働者階級に依拠するとは?
マルクス、エンゲルス、レーニンのすべての言説に共通する基本的な思想であり、共産主義の原理原則(ABC)です。


170:考える名無しさん
07/12/09 15:19:16 0
バカサヨの脳内お花畑談義はいい加減やめれ!

171:考える名無しさん
07/12/09 15:50:32 0
だからいってんじゃん。このへんくるともーつまんねーって。

172:考える名無しさん
07/12/09 19:58:09 0
だったらなんか面白れーのやって。

173:考える名無しさん
07/12/09 20:06:42 0
いいんじゃねーの、下らないコピペでもな。
2ch自体がお花畑どころか雑草談義、カス談義じゃん。
なんでもアリが2chの面白みだし、各人楽しめばそれでOKだぜ。
なんでもいいからガンガン逝けや、やったほうが勝ちだぜ。

174:考える名無しさん
07/12/09 21:40:18 0
>>173
お言葉在り難く頂戴致しました。
それでは私めが黒衣を務めますです、はい。
おっと、忘れるとこでしたが、24番がOFWさんですよ。
24 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2000/10/28(土) 22:34
(折角古いスレが上がったのでカキコしよう。)
お金が価値に関係するという点は誰でも分かるようだが、価値について理解している人は極めて稀である。
1.「価値とは何か?」という質問をすると、「何らかの点で優れた、望ましい存在であり、人によって評価が
分かれる主観的なもの」と言う答えがまず返ってくるが、それ以上は進まない。
2.価値にも種別があり、それは価値の質を形成する。
a.認識的価値=真理
b.道徳的価値=善
c.芸術的価値=美
d.経済的価値=モノの効用
e.政治的価値=権力
f.精神的価値=知性、教養
g.社会的(伝達的)価値=情報  等々
3.価値(Value)という以上、何か数量的な存在でもある。
それは単に人の主観的な評価だけではない、「価値の尺度(ものさし)」を予想させる。
4.しかし、ある人にとって価値があるものでも、他の人には無価値であり得るのは通例であるから、尺度の
尺度として「標準的な人間」を考える必要がでてくる。
5.つまり、価値には「得難い」(稀少性)という側面がある。標準的な価値から外れて高くなればなる程、
それは稀な(出現頻度が少ない)存在である。
6.反価値というものがある。
例:真理-誤謬、善-悪、美-醜
また無価値というものがある。
例:無意味、無用、無教養、無知
7.上記の事情は、「価値の限度」を予想させる。
「ありふれたものはむしろ価値の少ないもの」という反比例関係(負の相関)があり、一定の社会の中での
全体量(限度、質量)は一定なのではないかという点である。
8.限度に至って、「価値の本質(価値自体)」への反省が必要となる。


175:考える名無しさん
07/12/09 21:41:06 0
32 名前: 24 投稿日: 2000/11/03(金) 10:38
(24の続き)
9.およそ事物の本質とはその自己同一性の根拠を言うから、価値の本質とは価値が他のものではなく、
まさに価値である所の固有な属性(価値そのもの)であり、無価値(価値のないもの)との対立を通して
浮かび上がる個別的な価値の生成・変化によらない価値自体を言う。
10.経済的価値の本質は効用性と稀少性の対立と統一を根拠とする。
それは主観的価値として表象された価値からそれ自体に復帰したものである。人間の生活にとって有用な
物(財)も必要量以上存在する時は無用となり余剰となる。
そこで、価値は社会的な本質存在として外面化される。
ある人にとって無用であるものが他の人にとって有用なものである以上、それは財の移動を引き起こすだろう。
所有という法状態が成立した社会では、財は私的贈与あるいは交換として所有者から非所有者に移動する。。
11.本質は現象する。
価値の本質は反照形態(現象形態)として財の交換において展開される。
それは直接的な反照(物々交換)、その相対化(多くの交換)、その一般化(市場の広がり)を通して
普遍的になる。
それは価値基準としての貨幣の誕生を告げる。貨幣は元々多くの交換における一商品に過ぎなかったろう。
12.貨幣と交換される財は商品と呼ばれる。
商品価値とは交換価値であり、交換を通して実現される、「他者にとっての有用性」である。
貨幣は自分以外の商品すべての価値を実現するための媒体であり、その測定器である。
交換力は私的所有を前提にした社会において有用性を配分するためには必要不可欠な手段となる。
13.価格とは価値の貨幣表現である。
それは価値および貨幣を前提にしている。市場において商品の価値は売買によって、社会的な普遍妥当性を
実証する。しかし、需要と供給は不断に不均衡となる。
14.貨幣はその交換力のためにそれ自体が価値の根源であるかのような幻想(貨幣物神)を獲得する。
すべての有用物(財)が商品として存在する社会ではそれは絶対的なものである。


176:考える名無しさん
07/12/09 21:42:47 0
33 名前: 24 投稿日: 2000/11/03(金) 10:40
(32の続き)
15.商品、貨幣と進化した価値形態は、資本に至ってその完成をみる。
資本とは「価値を生む価値」である。
16.社会的な生産が私的に行われている社会では、生産物は商品とならざるを得ない。
さらに、生産手段から切り離された生産者は労働力商品として生産手段の所有者(資本家)に買わ
れる以外に、自らが生産した生産物を取得できない。
17.さて貨幣は国家と結びつき、信用を公認される(鋳造貨幣)。
それは貨幣の政治性であると共に、経済が決して政治から無縁になり得ない絆である。
国家が複数ある世界では世界貨幣としての金が世界市場での価値基準であったが、信用の発達と
共に、金属貨幣は信用貨幣にとって代わられている。金本位制の崩壊、ドル本位制の崩壊の中での
国際為替は「貨幣も一商品」というその本来の姿に戻って行くようだが、富の圧倒的な量に対して実在
貨幣量では価値を実現できず、信用貨幣がますます大手を振るって世界をかけめぐる。それは実体的
な生産から流通、金融が遊離して投機性を増すことである。
18.結局価値はその実体(価値を生み出すもの)である有用物(財)の生産に帰って行く。
価値の実体、それは社会的な必要労働である。有用な財が持つ価値とはその再生産に必要な
社会的労働を物象的に表現したものである。
経済(Economy)とは節約つまり労働の節約のことである。
(以上)


177:考える名無しさん
07/12/09 22:43:06 0
>>173

 お花畑て、虚構を真実と思い込んで心酔すること。
 
 はたで見ていてしらけるばかり。

178:考える名無しさん
07/12/10 11:23:09 0
>>177
鉄板でもガキみたいなカキコ合戦があるんだ。
もっとも、虚構と真実についての暇潰しこそ鉄ガ苦だろうからな。
まぁ、お二人で愉しんでね。

179:考える名無しさん
07/12/10 12:12:15 0


139 :考える名無しさん:2007/12/01(土) 13:40:40 0
242 名前: OFW 投稿日: 01/10/27 22:38
>>233(rageさん)
>革命論
労働者階級が主体として自己を形成しない限り、何事も成就しない。そのためには労働者に対する
徹底した啓蒙が欠かせないでしょう。

>>236(226さん)
>生産手段の共有性から来る同胞的意識
国有と共有を混同することは大きな誤まりです。それとも即自的(潜在的)な共有”性”を指しているのかな?



180:考える名無しさん
07/12/10 18:12:35 0
38 名前: 24=OFW 投稿日: 2000/11/09(木) 21:37
>>35(ほげーんさん)
>バタイユの普遍経済学的な貨幣や富の解釈は近年では崩れてきている
バタイユの解釈は知りませんが、解釈ではなく根拠付けと必然性の解明が必要でしょう。

>現在の外国間商取引の70%は資産の移動です。つまり貨幣=商品として扱い、売買高を殖やし
>ヘッジを採って利益を得ているわけです。
上に述べた通りです。
商業や金融は価値の移転を行うだけで、価値を生み出さないのは、それがどんなに複雑化しても変わりません。

>つまり、労働から富を形成すると言う単純な図式が崩れてきている
労働から富(多様な財)が形成されるのではなく、労働から価値が形成されるのです。富は生産されるものであり、
生産手段と生産力の結合です。

>33さんの仰る通り、貨幣に対する価値を貨幣で賄うという信用取引が蓄積された富の蕩尽すらも邪魔を
>しているからです。
私はそのような事を言っていません。信用という制度が発生してきた理由は生産力の増大に応じて生産物商品
の流通量が増大し、それらの価値を実現するだけの本源的貨幣(金属貨幣)の量が不足してきたためでしょう。

>そしてその価値が下がったことは未だかつて無いのですから。
貨幣には本来価値(使用価値)はないが、交換価値は絶大だという点が貨幣の謎であり、
「(経済的)価値とは何か」を考えるきっかけでしょう。
どちらの価値のことをおっしゃっているのでしょう。また、「物価が上昇する=貨幣の交換価値が減少する」は
昔から常態的に存在した現象です。

>ここから先、価値はその実態である生産物に返って来ることは無い
意味不明です。私の発言を受けておられるのなら、「価値という仮象がその実体である労働に帰って行く」
という事です。現実的な労働が生産物に対象化され、そこに社会的(共同的な)労働が体現されていながら、
それが隠れた存在であることを、価値の実体と言います。
「現実的人間の対象的活動が対象(モノ)自身の属性であるかのように、疎外され、物象化されてしまう」とは、
主体的・合目的的な活動が実体的・自然的な姿で現れるということであり、それが貨幣物神を生み出すのです。


181:考える名無しさん
07/12/10 18:19:08 0
おいおい、そんならなにか、サービス業や銀行で働いてる
"賃労働者ども"は価値を作れない"珍労働者ども"ってか?
つか、150年も昔にゃサービス業なんて現在の主力産業は
存在しなかったからな。
さしものマルクスも一本取られたってとこかな。

182:考える名無しさん
07/12/10 18:52:09 0
53 :OFW:03/06/28 01:23
>>49(横レス失礼)
>マルクス主義に相応しい唯物論はエピクロス、デモクリトス系の唯物論
確かにマルクスは学位論文で両者の違いに着目して、偶然と自由の関係について考察しているようですが、
自然の中に偏在する<空孔>が人間の自由にまで結びつくには、伝統的共同体の境界にすむエピクロス
の神(商人)の媒介が必要であり、それは「目的論的な唯物論」とは異なる社会の自然史として解明される
べきでしょう。
アルチュセールの構造主義(構造論的因果性)自体が矛盾を抱えており、ポスト構造主義へのフレを示して
いるのは、それが労働(働き)の視点のない機械論的唯物論であるが故かと。

55 :OFW:03/06/28 10:17
>>54
>肉体の機械的物理的な法則
肉体(有機体)は機械的というより、生理学的な法則性に従った活動体です。生物学者はそれを<合目的性>
と呼びます。つまり運動の法則性には、物理的(機械的)→化学的→有機的という発展があるわけで、
その辺から目的論そして唯心論を議論すべきでしょう。
その場合、
「生命体の合目的的な活動は何を目的にしているのか?」
ではなく、
「生命体の合目的的な活動は如何なる条件の下で実現されるのか?」
という設問が重要であり、それは生命の歴史に関わる問題です。
近代唯物論の源流の一つは解剖学であり、それは進化論にまで発展した。
「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である。」(マルクス)
「自然選択による最適者生存の結果が種の起源である。」(ダーウィン、パラフレーズ)


183:考える名無しさん
07/12/10 18:53:07 0
60 :OFW:03/06/29 10:19
>>58いったん作られた論理はモノとは切り離され
何にせよ何かを作るためには材料(素材)が必要ですね。モノから分離された論理の材料は何かな?

>>59「唯」の文字がすでにうさんくさい
名称の問題なら英語では唯心論=spiritualism、唯物論=materialismだから抵抗が少ないのでは?
前者は魂(スピリット)、後者は物質(マテリアル、素材)を根源的な存在として立てる立場ですが、
<根源的な存在>を問題にしなければ、別に対立もしないでしょうね。

79 :OFW:03/06/30 23:00
>>61関係性・形式性を第一次的と考えているのです。
最近の流行用語だが<関係の一次性>つまり「最初に関係ありき」とはそれ自体、形容矛盾でしょう。
「本質は媒介的に定立された概念としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、
まだ端的に自己のうちに反省したものとして存在していない。」(ヘーゲル『小論理学』第二部本質論)
関係性とは媒介的本質の謂いであり、一次性とは直接的実在の謂いです。

>>66イメージの総体が私であって、それとは別に私の実体があるわけではないの。
日常語でも、イメージとは<像>であり、何らかのオリジナル(原物)を必要とする。
実体を写す像は実像、実体と違う像は虚像と言いますね。
例:「知性ある大学生」という虚像の実体(正体)は<レイプ魔>だった。

>>69実体と主体はどう違いますか?
認識論的に言えば、<知られたもの>と<知るもの>の違いですね。


184:考える名無しさん
07/12/10 19:14:54 0
81 :OFW:03/07/01 04:51
>>80(_さん)
>ヘーゲル的有機体もカント的超越論的個人
「ヘーゲル的有機体」?「超越論的個人」→「超越論的自我」では?

>こうした普遍的実体という前提そのものを否定するのが構造主義
>不変の特性を保つ直接的実在こそが構造としての関係性
とは、まさに普遍的実体(現代的にはシステム)の謂いでしょう?
<構造>という概念は、何らかのシステム(機能ー構造複合体)について言われる概念であり、
もともとは建築学や解剖学からきたもの。
例1:当社の免震システムは鉛層とゴム層とから成るLRB構造を取ることにより、ビル構造を不変に
保つ高い免震機能を実現している。
例2:有機体は細胞を最小要素(単位)とする一つのシステム(個体)であり、多細胞生物において
器官構造を形成し、細胞間の諸関係(相互作用)により、固有の生体機能を実現している。

レヴィ・ストロースの親族構造においては、諸個人が要素であり、その機能は一定の親族システムの
再生産でしょう。マテリアルである個人が実在しない親族関係は<木のない森>のようなもの、
とは唯物論の主張。

82 :_:03/07/01 09:13
今度は分析哲学系の例を挙げよう。
カントに始まりロールズの正義論に継承されている超越論的主体をサンデルらのコミュニタリアンが
「負荷なき自我」と呼んで批判した。
逆に彼らは、ヘーゲルの絶対精神であれマルクスの唯物論であれなんらかの実体の内在的矛盾
による自己発展という弁証法を現前の形而上学と呼んで斥ける。
じっさい唯物論者であるはずのマルクスさえ、「人間とは社会的諸関係のアンサンブルである」といって、
物質主体のホーリズムも人間主体のアトミズムもともに否定し関係の第一次性を承認していたのは
常識でしょう。


185:考える名無しさん
07/12/10 19:15:48 0
84 :OFW:03/07/01 22:10
>>82(_さん)
>唯物論者であるはずのマルクス
マルクスはれっきとした唯物論者です。別スレ参照。

>「人間とは社会的諸関係のアンサンブルである」
当該発言は、<人間なるもの>(現代的に言えば人間性)を個人の本質として立てたフォイエルバッハを
批判したものですが、別に
>関係の第一次性を承認
したものではない。
まず現実的な諸個人が存在し、彼(女)等の取り結ぶ社会的な諸関係こそが諸個人の何たるか
(<人間なるもの>)を規定する、という人間の社会性(抽象的に言えば関係の必然性)を指摘して
いるのです。


186:考える名無しさん
07/12/10 19:16:54 0
85 :OFW:03/07/01 22:11
>>83
>関係は「なぜ」存在することになるのですか?
本来、関係のないものどうしが関係する理由(根拠)は、関係を離れては、それらの存立が無くなるからです。
また、関係の関係性にも段階があります。
まず、機械的関係とは、
諸要素(部分)が相互に外的であり、関係を離れても諸部分は独立に存立できるという、外的な関係性です。
次に、化学的関係とは、
たとえば酸+塩基→塩のように、諸要素が互いに関係すると、それ自体が自己反発を起こすような、
半ー内的な関係性。
そして、有機的関係とは、
全体が部分の存立性(根拠)をなすような、内的な関係性です。その自己関係性を或るものとして立てた場合、
<心>と呼ばれますね。
そして最後に、諸個人が社会的関係を取結ぶのは、個人は単独では生きていけないという単純な理由からであり、
その社会的実体性が自由な諸主体の根拠(存立性)をなすわけです。


187:考える名無しさん
07/12/10 23:34:57 0
>>186
いろいろこむつかしいコピペを貼りつけてるが、
むかし、共産党員に
「弁証法とはなんですか」と聞いたことがある。
彼は答えた。
「変革の立場に立つ、ということです。」
つまり、革命のために役立つ、あらゆることが弁証法の名の下で
正当化されるということだった。マキャベリズムだ。
悪魔的テロリストの便利な斧だよ。

188:考える名無しさん
07/12/11 11:57:55 0

"悪魔的な"資本制生産社会に対しては"便利な斧"かな。
まぁ、強酸盗のヴォケの言う事を信じる真性ヴォケっているんだ。


189:考える名無しさん
07/12/13 18:15:17 0
88 :OFW:03/07/05 04:08
>>86(横レスかな?)
>言語がシニフィアン(意味)とシノフィエ(音韻)の両項を離れて存在しえず
ソシュールならシニフィアン=音韻、シニフィエ=心像ないし概念では?
言語が自立存在をもたないのは、それが対象の記号(代理物)だから。

>商品が相対的価値形態(財)と等価形態(貨幣)の両項以前にあり得ず
商品は財と貨幣の関係ではなく、交換関係の中で財(有用物)が商品となり、一般的等価物である貨幣に
相対するわけです。
つまり、商品とは相対的価値形態自体です。
また、貨幣とは諸商品の中から析出してきた一般的等価物(一般的等価形態の自立化=モノ化)ですから、
貨幣以前に商品があり、商品以前に財があったわけです。

>顔が目・耳・鼻・口という要素間の関係としてしかありえず
<顔>は外面性から言えば、一つのゲシュタルト(形態)でしょう。
一般に形態(form)とは内的諸関係(内容)の現われであり、未だ関係(相関)として定立されてはいない
ような関係です。また、内実性から言えば、顔は諸器官の有機的な統一(頭部)として客観的な存在です。
>>87で言われるように)のっぺらぼうでも、一種の顔でしょう。


190:考える名無しさん
07/12/13 18:16:10 0
89 :OFW:03/07/05 04:09
>>86(つづき)
>家族が夫と妻という役割連関以前にありえず、
自然的な家族と制度(役割)としての家族は区別すべきでしょう。ちょうどジェンダー(制度としての性)が
生物学的な性と異なるように。

>人間が身体と意識のかかわりとしてしかありえないからです。
人間は単なる関係(他への反照)ではなく、自己関係です。

>あらかじめ普遍的で自存的な存在などありえないからです。
それは正しいが、まさに、あらかじめ“関係という一次的な存在”などありえないのです。
夫と妻の前に夫婦関係は存在しないのであり、それは歴史的唯物論(あるいは質料主義)の主張です。
たとえば、「諸個人はいつでも自分自身からーとはいっても、もちろん、彼らに与えられた歴史的諸条件・
諸関係の枠内での自己からであって、イデオローグたちの意味での「純粋な」個人からではないがー出発した。」
(『ドイツ・イデオロギー』[56](廣松渉編訳、岩波文庫p.175)
「黒人は黒人である。一定の諸関係のもとで、はじめて彼は奴隷となる。」(『賃労働と資本』三)


191:考える名無しさん
07/12/13 18:18:17 0
90 :OFW:03/07/05 04:11
>>87(83さん)(これまた横レス?)
>「関係の第一次性」という議論をよく聞くので(廣松氏とか)
多分、廣松氏自身もその言葉をよく理解していなかったのではないかな。
<関係の一次性>とは関係の直接性(始めに関係ありき)の主張ですが、関係(相関)とは定立された
媒介性ですから、それは直接性の否定です。
それはあるものと他のものとの中間(媒介)ですから、始めでもなく、二次的な他者性を指しているのです。

>これは間違いでしょうか。
正しいでしょう。関係とは他者との相互媒介(規定、作用)ですから、既にそれぞれ(質料的部分)が
実在しなくてはならないわけです。

>レーニン的な「物質」
とは面白い表現ですね。
観念論に対する唯物論の定義は、精神に対する自然の先在性あるいは本源性を説く立場、と表現できる
でしょう。
精神は森羅万象に及ぶ関係性(コミュニケーション)ですが、何らかの肉体に宿るものです。
物質(自然の質料)は単なる内的な実体ではなく、活動つまり<自ら働くもの>です。
それが「レーニン的な物質」かと。


192:考える名無しさん
07/12/13 18:19:32 0
91 :OFW:03/07/05 09:58
>>87(83さん)(つづき)
>この議論は余り「唯物論」的でないような
概念とは何でしょう。
それはまず、一つの観念的なものであり、表象を質料にした実在の論理的な再構成と言えます。
たとえば、上に出てくる<家族>という概念を例にとって説明しましょう。
家族(family)の実在は多くの男女と親子にありますね。
男・女あるいは親・子とは諸個人の属性であり、人間個体の生物学的な被規定性に基づく人間の区別-<区別>
とは最も抽象的な反照規定(関係規定)-です。
一対の男女の性的・人格的結合が一つの家族を形成し、そこから子供が誕生して、一つの親子関係が生まれる。
思考主体がその事態を“後から”反省することから、総体としての<家族>という概念が成立する。
観念論者(概念論者、関係論者)は、まず家族関係があり、それが男女および親子という要素を成立させる
と言うが、実在的な事態は逆であり、それは、観念を実在に先行させる観念論とその逆の唯物論との対立です。


193:考える名無しさん
07/12/13 18:20:42 0
92 :OFW:03/07/06 08:32
>>87(83さん)(つづき2)
さて、家族の例がでたついでに、ウィトゲンシュタインの<家族的類似>概念を例にとり、観念論と唯物論の
違いをさらに説明しましょう。
彼は、
「家族の構成員の間に見られるさまざまな類似性、たとえば体つき、顔つき、目の色、歩きかた、気質、等々も
おなじように重なり合い、交差し合っている」(『哲学探究』第66節)
として、家族成員間には部分的な共通性はあっても、全成員共通の特性はなく、それ故、家族(及び言語ゲーム)
には本質と呼べるような実体性はないと主張します。
まさに言語論的な本質廃棄の主張ですが、分析的思考特有の表面性が現われていると言えるでしょう。
実際、家族的類似という概念は、言語のゲーム性(無規則性)と家族の無根拠性を結びつけるために導入され
ているが、無論家族成員間の類似には明確な客観的根拠があります。


194:考える名無しさん
07/12/13 18:23:43 0
93 :OFW:03/07/06 08:33
>>87(83さん)(つづき3)
家族とは、上にも述べたように、一対の男女から始まる。両者の遺伝子型はさしあたり相互に独立だが、
両者から生まれた子供は一定の確率的な分布で、両親の遺伝子型を受け継ぐ。
遺伝子型と形質型との間には、その発現の過程での環境との相互作用による一定の変容があるが、
因果関係がある。そこから、複数の子供(兄弟姉妹)間の類似性が出てくるわけです。
また、同一の生活様式は<似たもの夫婦>を生み出すでしょう。

言語とて同様であり、ある民族の言語は一定の生産様式(マルクス&エンゲルス)の下で営まれる協働の
必要性から、使用法の同一性を維持しなくてはならない。
ウィトゲンシュタインは、労働の場での言語を「原始的言語」と呼ぶが、自然は言語ゲーム(観念遊戯)を
許すほど、偶然的なものではないわけです。
確かに家族内の親和的言語と労働における指示的言語は性格を異にするが、労働がゲームより“原始的”
であるわけでもないでしょう。


195:考える名無しさん
07/12/13 18:28:53 0
96 :OFW:03/07/06 10:47
>>87(83さん)(つづき4)
『哲学探究』には面白い話がいろいろ出てくるようで、さらに・・・。
「私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙片を渡す。・・・商人は「リンゴ」と
記された箱を開け、次いで目録の中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本を見つける。
それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定する―を「五」という語まで口に出し、それぞれの数
を口に出すたびにサンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。 ―このように、あるいはこれと似た
仕方で、人は言語を繰るのである。」(第1節)

確かに、商人にとっては<赤いリンゴ>は商品見本でしかないから、原物と記号双方の意味には関心がないが、
それが<五>であることには大いに関心がある。
量とは、それ自体無概念的な概念(ヘーゲル)だが、実在の量は常に<単位>(質と量の直接的統一)をもち、
単価ーそれが何を意味するのかは経済学者にも分からないーは商人の生死を左右する。

上記は<価格>という商品語(マルクス)が支配する世界の言語ゲーム(マネーゲーム)の厳格な規則(価値法則)
を暗示していますね。


196:考える名無しさん
07/12/14 12:01:14 0
97 :OFW:03/07/10 02:54
ウィトゲンシュタインは「語の意味とはその使用である」と言って、まず<言葉に内在する意味>といった
唯心論的な実体性を否定した。その極端な形は、>>96で引用した例で言えば、図像「リ・ン・ゴ」と、
「赤・い」をインデックス記号とする<色見本(標本)>とを使用して、赤いリンゴを取り出した“勘定高い”
商人のように、機械的で無意味な記号計算(プログラム=原始言語)である。

次に彼は、言語行為のゲーム性(無根拠性)という観点から、<予め定まった規則>の存在を否定した。
すると、用法そして意味とは、規範ではなく事実であり、文法・論理よりは修辞として、記述され、解釈され、
理解されるべきものとなる。
それは多くのゲーム(例:命名、指示、疑問)として働きかけられ、応答される精神的交流の試みである。
しかし、精神的交流の基礎には物質的交通があり、伝達される物質(質料)の形相化が伝達内容としての
意味を規定する。内容が伝わるためには形は変化する必要があり、形が伝わるためには内容は変化する
必要がある。
例:ウィトゲンシュタインは「○○」と言って、□□を行った。



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