弁証法は哲学者のオナホールat PHILO
弁証法は哲学者のオナホール - 暇つぶし2ch2:考える名無しさん
07/11/15 06:36:21 0


はじまるぞぉ~

3:考える名無しさん
07/11/15 08:39:10 0
今どき弁証法なんて、だれが本気で言っている?
冗談で「弁証法的に」なんて言うことはあるけれど…。

4:考える名無しさん
07/11/15 10:30:55 0
>>3
90年代以降盛んな論理的動性の理論とか矛盾許容型論理は、
弁証法の形式化とも見なせるかもしれないけど、こられの研究
者は一部(プリーストとかプンテル)を除いては、弁証法とか丸
で興味ないし、肝心なヘーゲリアンとかはこういった形式化に一
向に見向きしないしw 

5:考える名無しさん
07/11/15 14:57:54 0
「電波の影響でない」わけないだろ!
というのはどういう解釈をしたらいいでしょうか。できれば哲学でまじめに。

って一般質問スレで聞いたんですけど、誰も答えてくれなかった。
このスレが最適なので。

6:考える名無しさん
07/11/16 09:32:56 0
611 名前:OFW :02/06/19 21:25
>>590
>これがソ共謹製なら、OFWさんのマルクス解釈は多少なりとも動揺する>と思うのですが、いかが
でしょうか?

岩波『哲学・思想事典』「弁証法的唯物論」の項によると、「マルクス,エンゲルスは自らの唯物論をおり
おり弁証法的と称したが,この呼称はかれら自身のものではなく,プレハーノフが普及させ,ほどなくレーニ
ンも『人民の友とは何か』(1894)で採用したものである.」とあります。
スターリン体制下で教条主義化(神学化)し、固有名詞的に使われることが多い<弁証法的唯物論
>(内容は少しも弁証法的ではない)とは異なり、マルクス、エンゲルス、レーニンはそれまでの機械論
的(事物は永遠の繰り返し運動をするという見方)であった唯物論に対して、弁証法的(事物は歴史
的な生成・発展をするという見方)な観点を強調したわけで、私もそういう文脈で使用しています。(た
だし、エンゲルスは「最高の科学としての弁証法」と呼んでおり、少し違うとは思うが。) 
「プレハーノフ」を含め、「唯物論」「弁証法」の説明は下記に詳しい。(確かに戸坂潤は日本のプレハ
ーノフとでも言えるかな・・・)
URLリンク(isweb35.infoseek.co.jp)
また、たとえば(別にマルクス主義者ではない)G.バシュラールも『否定の哲学』において、科学的合理
論の次に来る認識段階として、「弁証法的唯物論」という用語を使用しています。


7:考える名無しさん
07/11/16 09:34:18 0
616 名前:OFW :02/06/21 05:05
>>614(いっしょさん)
>マルクスは科学として弁証法という言葉を用いていなかったのですか?
そうですね。そういう用法は見かけないし、多分使うこともないはず。

>マルクスの弁証法は「哲学」だが、エンゲルスは「科学」ということですか?
無論「哲学」および「科学」の定義(共にそう明確ではない)によるわけですが、両者が違うという点(哲
学は諸科学の統一性の解明である、とか、哲学は科学以前あるいは科学以後である、とか言われる
所以)を踏まえれば、弁証法を科学の一種として捉えることは、余計な誤解を与えると思います。(実
際、「我々の社会主義は弁証法に基づく科学的なものであるから、他の社会主義より優位に立ってい
る。」と主張する人は現在でも少なからずいるようで。)
弁証法について言えば、それは第一に一つの方法論であり(その限り認識方法)、事物の<運動>に
着目してその論理を追うものです。それはしばしば逆説的な表現を使う(例:存在は存在しない)が、
(運動変化する)対象存在とその規定内容(概念内容)とが一致しないことを表現する場合には、否
定的な表現をとらざるを得ないでしょう。第二に弁証法とは特に唯物論的な立場において、事物の客
観的な運動を表現するものとされるが、それは科学的法則ではない。法則の概念とは「諸存在(現存
在)の本質的な規定内容が現象において具体的に展開されたもの」ということですから、現象において
何が本質的なのかという点を忘れると、法則なのか例外なのかすらはっきりしなくなる。そして対象的
本質自体が歴史的に変化するわけですから、「永遠の法則などあり得ない」というのが、弁証法的な
主張です。(よく「マルクスの窮乏化法則なるものは現実に妥当しない。故にマルクスは間違っている」


8:考える名無しさん
07/11/16 09:34:58 0
といった主張を目にしますが、一定の条件付きそして統計的な範囲内でしか成立しないという性格を
もつ法則一般に対する誤解でしょう。)
結局、弁証法の解説書で(エンゲルス由来の)「質から量への転化その他3つの根本法則」などと書か
れているのは、「もうアホかと」・・・。


9:考える名無しさん
07/11/16 09:35:52 0
630 名前:OFW :02/06/22 20:34
>>618(いっしょさん)
>やはり過去から「保存」されているものがありつづける以上、なんらか>の永遠というものが存在する
のではないでしょうか?
保存することがただちに「永遠(的なもの)が存在する」ことに繋がらないのは、何でも良いが、持続的・
連続的な発展と衰退を遂げる事柄を考えれば理解できるでしょう。マルクスが自らの方法的立場を<
ブルジョア社会の運動を人間の自然史として捉える>という場合、人類発生以来の変わらない自然
的条件と、社会の発展によって変化する歴史的条件とを同時に見据えるということです。それに対し
て、科学者には(一回限りで繰り返さない)歴史的な側面は度外視して、永遠に繰り返すかのような
本質的な同一性を探究することがまず求められる。
弁証法においては運動が永遠(正確には絶対的)であり、「保存するもの」とは運動の基体を指してい
ますが、それは<生成変化><反照><発展>という、より高次の運動様式の中に止揚され、反
照の最高段階では<実体>(自らは動かず他を動かすもの)と呼ばれる。発展とは生成変化と反照
の統一(変化の中において自己を保つ活動)であり、実体は最終的に<主体>(自己を知りつつ働く
もの)に反転する。

>ニュートン物理学
日常的なスケール(時空の単位)を超えるとニュートン力学の法則は成立しない、という事情は、ブル
ジョア社会を超えると価値法則は成立しない、という事情と類比的であり、科学法則には適用限界が
あるという点で共通的です。それはより一般的な法則の特殊ケースとして保存され、量子力学的ミクロ
の世界でもエネルギー保存の法則はより根本的なものとして満たされます。また、ミクロの統合化(積
分)により日常的単位が理論的に構成され<科学的説明>が可能になる。「質は量に転化する」が
客観的な法則なら、本質から科学的に説明される必要があるわけです。


10:考える名無しさん
07/11/16 09:59:12 0
632 名前:OFW :02/06/22 20:36
>>625(ふにゃぽんさん)
>エンゲルスが、「もうアホか・・・」ということですか?

エンゲルスの言葉を教条的に読む人達を指したのです。『自然弁証法』は当時の自然科学的唯物論
に対抗して弁証法的思考の優位性を説いたものであり、いくつものひらめきが示されているが、科学的
方法論と弁証法との区別については明確ではない。多分、未完の遺作を編集した旧ソ連の学者(ミー
チンとか)が「もうアホかと」の元なのでしょう。

>>626(ふにゃぽんさん)
>それらの3大法則は、有機的かつ、相対的に絡み合って、対象の構造を立体的に把握させる方法
論ではないのですか?

1質から量への転化(とその逆)2対立物の相互浸透 3否定の否定
たとえば「限度は質と量の統一である」(ヘーゲル)という根本法則?から見れば、「質は量に転化す
る」という法則?はまさに質概念の適用限度を示している下位法則?と言えますが、根本法則が何
故上記の3つに限定され、同格的なのかは疑問です。
因みにレーニンは『哲学ノート』において、<弁証法の諸要素>として、「1)概念をそれ自身から規定
すること【事物そのものがその諸関係とその発展において考察されねばならない】;2)事物そのもののう
ちにある矛盾性,あらゆる現象のうちにある矛盾した諸力と諸傾向;3)分析と綜合との結合.」と延べ、
さらに16の要素に具体化した後で、「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる。
これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開とを要する.」と述べていま
すが、よほど生き生きとした理解ですね。
上記3つをニュートン力学の3法則や熱力学の3法則と同様の、固定した法則(Law)とすることは、
思考を法(Law)により拘束するに等しい。(やはりスターリン主義の似非学者に問題ありという感
じ・・・)

>>627(カルヴァンさん)
>プレハーノフがどう関係あるんですか?

「弁証法的唯物論」という用語を最初に使ったマルキストという位です。


11:考える名無しさん
07/11/16 10:00:37 0
637 名前:OFW :02/06/23 20:59
>>634(ふにゃぽんさん)
>「弁証法はどういう科学か」(三浦 つとむ 著)

(多分出ると思てた。)
以前読んで、啓蒙書としての制約があるにせよ、ガッカリしましたね。確かに旧ソ連の公認教義(スター
リン主義)を批判し、主体性を強調する点は良いが、具体的な説明では卑近な例を挙げて「これが弁
証法という法則の実例である」といった説明法は変わらない。内容面でも、<相対主義>的な世界
観と<最高の(絶対的な)科学>という教義(教条主義)との奇妙な混合で、批判相手と同じ通俗性
を共有している。・・と言うことで、お勧めできないな。

>さらに三浦 つとむ氏をどう思われますか?

国語学者としては優れており、『日本語はどういう言語か』は第一級の研究書(かつ啓蒙書)でしょう。
実際、独創的な指摘や生き生きとした事例が多く、教えられる点が多い。
それだけに、弁証法理解や科学観における通俗さとのギャップが大きいということは、やはり抽象的・論
理的思考が苦手なのかな、という印象を受けます。


12:考える名無しさん
07/11/16 10:03:49 0
642 名前:OFW :02/06/25 23:32
>>641(いっしょさん)
>諸行無常

>>630でも少し触れたが、図式的に言えば、弁証法的な<運動>として
1外在的な運動:生成変化(移行)
2内在的な運動:反照
3現実的な運動:発展
という3段階(様式)が区別され得るでしょう。
「諸行無常」の洞察とは1の運動様式(他への移行)の対象化と言え、その空しさ(空無性の知)から
自己に還帰(反省)することによって、 2の反照の知に進む。それが<歴史意識>の誕生ですね(か
って歴史は現在を照らす<鑑>と言われたように)。それは、ものごとが成り立ちを持つ、つまり過去の
結果であるという認識であり、決して永遠の空しい繰り返しではない、という認識です。そしてさらに、生
きて働く主体がそこにあり、その活動的生命において、運動は現実的(現在的)なものという様式を獲
得する。生命体は不断の運動としてのみ存在し得るのであり、静止は即、死をもたらすからです。そし
てその自覚(働くものの自覚)が歴史の主体として、歴史の運命を自由に転化させる。<類的解放>
という運動様式です。

>マルクスの「歴史は共産主義へ向かう」という予言

マルクスは(当然ながら)およそ予言的な言明はしなかった。
「共産主義とは、現実を止揚しようとする不断の運動である。」と言い、常に現実の内にある現実的な
運動のみを見ていたのです。

>運動の方向性(弁証法的な到達点)ははずれた

歴史(学)は予想でもなく、予測を使命とする客観科学でもない。
それは過去に学び、現在を知り、未来を切り開く人間に対して、世界と人間の本質を教え、実践の指
針を与えるもの。(再び引用)
「弁証法とは歴史という風を受けて大海を進む帆のようなものです。」(ウォルター・ベンヤミン)


13:考える名無しさん
07/11/16 10:07:48 0
655 名前:OFW :02/06/29 16:43
>>652(いっしょさん)
>共産主義世界をつくろうという自由を実践するかぎり、共産主義の到来は必然であると。

少し違うな。共産主義世界をつくろうという意志は自由を目指す<必然的な意志>(俗に「止むに止
まれぬ」とか言うように)であり、運動としての共産主義の原動力だ、ということ。共産主義とは到来すべ
き何らかの状態を指した言葉ではない(マルクス)。それは、毎日の通勤や職場の現実の中において、
その矛盾を個人が生きることにより主体の必然(必要)(例:「俺たちはモノ(客体)ではない、人間を返
せ!」という叫び)として立てられ、諸個人のうちに常に働いている(作動している)理念として、またその
現われとしての数々の事象の総体として、現実的な(不断に働く)もの。それは既に到来している(始ま
っている)。

>実践を行うのは、人間の意志です。

近代個人主義は<個人の自由意志>を社会の原理としていますが、人間は本質的に(既に)社会
的な存在だから、「人間の意志」とは<共同意志>を指します。それは個人の恣意に依らない必然
的・客観的な内容をもち、個人の行為が実践であるのは両者の意志が合致する場合のみです。

>外的必然性と内的必然性の区別

<原因>と<理由(根拠)>の区別(そのものではないが)として考えれば分かりやすいかな。必然性
の概念とは<他であることが不可能であること>と定義でき、反対に偶然性とは<他でもあり得るの
に理由無くそれであること>と定義できますね。客観的世界のうちに生起する事物に対して、「何故そ
れが生起したのか?」という設問には、通常「これこれがその原因である」という答え方をするが、原因
自体は前提された偶然的な事象であり、さらにその原因は?という無限遡行が避けられない。それに
対して、理由(根拠)とは<事物の内的本性>に基づき、無限遡行を終わらせる。たとえば、清純派
女優(死語?)が「ストーリーに必然性があればヌードOKよ」と言う場合の用法が内的必然性です。


14:考える名無しさん
07/11/16 10:32:12 O
ええ、ええ、要するに正反合、闘争と血がものをいうんですよ。

15:考える名無しさん
07/11/16 10:38:26 O
悟っちゃいましたが、真と偽、信と疑の闘争、
こういった文字通り矛盾した闘争、運動によって流れる血の海が世界なんですね。

16:考える名無しさん
07/11/16 20:53:00 0
19 名前: OFW 投稿日: 2001/01/20(土) 22:16
>>1
弁証法はヘーゲルの専売特許ではないが、他の思想家は弁証法を主題として取り上げていないし、弁証法を自分の哲学
的方法の根幹に置いているのも、ソクラテスそしてヘーゲル位かなと思うなので、弁証法って何?というと、どうしてもヘーゲル
弁証法から始めるざるを得ないということになってしまう。
因みに旧ソ連(そして日本共産党)で言われていた(いる)「最高の科学としての弁証法」とは明らかに誤まりです。
また、弁証法が本当に理解できる教科書は日本には存在しない、と言うしかないのが現状でしょう。(余り調べたことはありま
せんが)

>>18
>どうして、定立と反定立との関係が止揚されて総合出来るのか
弁証法に関する通常の解説書は、「正、反、合のトリアーデ」といった言葉を使いますが、私はどうもしっくりしない。少なくと
も、初めてその言葉を聞いて、「なるほど、そういう事か!」と言える人など、まずいない。
大体、ヘーゲル自身が上記のような説明を「フィヒテ流の外的な構成」と批判するでしょう。
>それぞれの形態の空間の次元の広がりに、時間の次元の広がりを加えて、それぞれを時空間の広がりに立体化して一つ
にすることになる
自然現象に弁証法が成立するかどうか?とは、結構問題になっているようで、かの共産主義思想家エンゲルスが『自然の弁証法』という本を書いたが、ひどく評判が悪いのです。その悪評が妥当かどうかはさておき、空間と時間の関係は物理学のみ
ならず、哲学的な問題として古くからあった。
たとえば、古代ギリシャの哲学者ゼノンが「飛ぶ矢は飛ばない」と言って「ゼノンのパラドックス」として有名なものですね。現代
流に言えば、「運動の不可能性」とでも言えます。


17:考える名無しさん
07/11/16 20:54:18 0
25 名前: OFW 投稿日: 2001/01/21(日) 14:54
>>23
>心身問題を弁証法的に解決すると?
心理学板で議論が高まっています
 URLリンク(yasai.2ch.net)

>>24
>弁証法とは「否定の否定」
と急に言われても、初めての人はわからないでしょう。サルトル(そしてラッセル?)も、「何故、否定の否定が肯定になるのか
理解できない」と言っています。
私も2チャンで弁証法についてカキコするのはこれで3回目ですが、なかなか理解されないのは、「一言で言えば…ということ」
という言い方で説明して、「なるほどそうか、良く分かった」とは逝かないのが、思想というものだからでしょう。ヘーゲルも「学とは
苦労の多い労働である」というようなことを書いています。そのためにも、弁証法とは何?と聞かれて、真理に至るための一つ
の認識方法であり、前の段階から次の段階へと、一歩一歩苦労しながら探求していく、思考の過程ですとでも言う必要が、
まずあるでしょうね。(「一歩前進、二歩後退」(レーニン)、なんちゃって。)
それで、出発点として、「弁証法は事物の<概念>を捉えることを求める」ということから始めるのが良いと思う。当然、すぐ<
概念>って何?という疑問がでてくるでしょ。
日常でも
「あなたの言うことは概念的には理解できるが、具体性に欠ける」とか
「それは概念に過ぎず、現実ではない」とか言いますね。
その場合、
「ものごとを全体としておおざっぱに捉えること」といった意味合いで使う訳ですが、ヘーゲルやマルクスが<概念>と言う場
合、より強い(厳密な)意味を持っています。それはヘーゲルが常に言う所の「具体的なものはそれ自身とその否定との統一と
して理解されなくてはならない」ということに関係します。
つまり、「否定の否定」とは<概念把握>のことだと言えるでしょう。


18:考える名無しさん
07/11/16 20:57:48 O
うとうと♪うとうと♪♪♪♪

19:考える名無しさん
07/11/16 20:58:15 0
30 名前: OFW 投稿日: 2001/01/21(日) 22:06
>>27
>弁証法で証明もしくは把握・理解することが可能であった、具体例
また「証明」ですか。最近では、物事を数学の証明に導出することが真理の解明だと、皆が考えているようですね。そのうち、
「弁証法による計算結果が正しくなければ真だと認めない」と言う人が出てきそう…。
私は、哲学とは「存在の根拠への問い」と理解している。そして、根拠への遡及は、弁証法的な反省を抜きには為し得ない
でしょう。

>>28
>>あの心理学板の心理学的な議論は弁証法的なんですか?
現在の議論自体が弁証法的とは必ずしも言えないが、少なくとも真剣で真摯な議論があり、それが事柄の本質に迫るなら
ば、弁証法的な側面が出てくると言える。見解の対立とは事柄の本質(根拠)に向かうための必然的な契機ですから。合い
言葉で言えば、それは一つの「否定の否定」です。
私が引用したのは、「心身問題」というテーマ自体に含まれる弁証法的な内容のためです。いわゆる「心身問題」というのは、
唯物論的な立場から言えば、偽の問題であり、それは有機体の現実的行動に向かうことで止揚されるべき事柄でしょう。特
に、人間の意識的な側面については、言語行動を解明することなしには、物心二元論的な表象から逃れられないでしょう。


20:考える名無しさん
07/11/16 20:59:28 0
36 名前: OFW 投稿日: 2001/01/22(月) 05:24
>>31(伍長さん)
>「否定」=非A群が存在する。
>「否定の否定」=非・非A群が存在する=A群が存在する。
(伍長流にきっぱりと)違います。
概念化とはAと非Aを統一的に把握する認識作用ということです。
まず、何らかの対象をAであると措定することは、Aと非Aを弁別することであり、全体的(具体的)な対象世界からAを取り出
す(抽象する)ことですね。つまり、実在者の措定=質的(実在的)な区別ということです。
その場合、非Aは否定されたものとして、「不特定な一般」と言えますが、それはむしろ、非-実在(背景に退いている非-
対象的な観念的存在)として存在する。上記を対象認知の運動として過程的に言えば、
1.これは何?
(2.それはAか?そうではない(B、C、D、…)か?)
3.それは(A以外のものではなく)Aである。
という実在者の措定としての弁証法的な運動を含んでおり、その成果として<それ-A>という質的な存在者(実在)が措
定される。しかし、括弧でくくった思考(観念化作用自体)の運動は終結して表面上消えている。
これが第一の否定です。「すべての規定は否定である」(スピノザ)。
「そうではない」という否定を対象的にできれば、つまりAとは非Aに媒介された直接性(実在性)だということが対象化できれ
ば、第二の否定にジャンプできる。「AのA」とは実在する多くのAから、それをAとする所以のもの、つまり<Aそのもの>(Aの
本質、根拠)を反省することです。
通常は共通性(一般性)として見られる本質性とは、本当は否定の否定としての実在の根拠を言い、弁別作用を弁別する
こととして、自己同一的な存在(種別的なもの)を遡及的に措定すること(前提作用)です。
つまり、「否定の否定」とは実在的対象に対して、その存在の根拠を明らかにするという、反省的(反照的)(Reflective)な立
場へのジャンプです。
ヘーゲルの功績は、同一性-区別-根拠等の反照規定を明示的に取り出し、その概念を明らかにしたことでしょう。(行数
一杯!)


21:考える名無しさん
07/11/16 21:02:47 0
38 名前: OFW 投稿日: 2001/01/22(月) 21:40
>>37(農民ゲリラさん)
>弁証法とは、経験を通じて認識を新たにすること。
確かに、認識を新たにすることは、既成の認識の枠組みを革新することですね。それは、素朴実在論、実証的経験論、悟性
的合理論、反省的観念論、そして弁証法的唯物論へと深化するのでしょう。
>社会全体を認識するのもそれと同様で、経験によって思考のプロセスが深まり、より多くのことを知り得るようになる。
確かに、思考のプロセスが深まること=プロセスの成果としての概念が高まり、その内包(潜在的な内容)が豊かになることで
すね。そして、その適用範囲は広がり、社会全体にまで及ぶ。深さは広さに比例する訳です。

>(概念の運動=弁証法的運動)
まさに、概念は世界の内に生起する事柄の発展を反映した、客観的世界の見取り図と言えます。我々は経験からそれを学
び、それを頼りに、さらに広大な世界に乗り出す訳です。


22:考える名無しさん
07/11/16 21:03:26 0
43 名前: OFW 投稿日: 2001/01/24(水) 05:13
>>41(伍長さん)
>もっと平易な言葉にならないのかなあ?
また言われてしまった…。確かに一度に全部を言おうとするから、いけないのでしょうが、具体的にどういう面が分かりにくいか、
指摘して貰うと助かるのですが。言葉、言い回し、何を表象したらいいのかとか、…。
私も最初はヘーゲルの書いたものを読んで、さっぱりでした。それは、たとえば「無は有と同一である」などと言われて、具体的
に何を思い浮かべればよいのか分からないので、解釈の手がかりがなく、謎のような言葉として現れたわけです。しかし、そのう
ちに、具体的な表象というより、概念として考えよ、と言っているのだと、理解するようになった。無とは表象としては、たとえば「何も見えない闇」「暗黒宇宙」というような何ら存在と呼べるものが無い、漠然とした広がりのようなものをイメージする。
しかし、問題は「無」「無い」と「有」「有る」との区別は何かという点でしょう。純粋に言えば、「両者の間には明確な、特定の区
別がない」ということであり、対象(有的なもの)と非-対象(無的なもの)という区別でしかない。それはまさに「存在の措定」と
いう認識の最初の行為です。区別(弁別)することから認識が始まるし、「なにものかが存在する」するのであって「すべてが存
在する」のではない、ということです。
それが最初の肯定です。(ね、既に否定を否定しているでしょ?)
そして「なにものか」は直示的に指差すことができたとしても、他者には不定です。それを特定するためには、その規定性(質
的な内容)を表示しなくてはならない。たとえば「それは『赤い』ものだ」とかね。


23:考える名無しさん
07/11/16 21:14:56 0
44 名前: OFW 投稿日: 2001/01/24(水) 05:14
>>41(伍長さん)(つづき)
>>「否定」=非A群が存在する。
まず、イコール記号は誤解されやすい、というよりは比喩ですね。
それは、数式で使われる等号ですから、式の両辺の「値」が同じだということを表わしている、とつい考えてしまう。
それは簡便な表現ですが、否定は代数計算ではない(最近は皆そう考えているようだが)。
そこで、上記は否定という言葉の「解釈」が表明されているのだと理解してみる。
まず、非A群が存在するとは既に思考運動の結果ですよね。
まず「非A群」を分析して、非-A-群とすれば、
A :なんらかの個別的な実在者が複数存在していて、その共通な特性を一般的に表現した記号と言い換えることができる。
そうすると、そこにはなんらかの、個別的な、実在者、複数、存在する、共通な、
特性、一般的、表現、記号というかなり高度な(抽象的または専門的な)概念が
登場してくる。特に実在者は個別的であるという点がまず問題ですね。
実在者は指差すことのできる、単一なものという前提がそこにはある。
つまりそれは、複数の実在者が存在するを潜在的に含んでいるのです(質は量である)。
そして、それは数の概念(単位と集合数)を予想させる。
また、実在者は質的な存在であり、変化しない質を特性と呼ぶ特性とは、複数の実在者に
共通な質であるというかなり専門的な部類の概念も前提されていますね。
ここまでで、如何でしょう?


24:考える名無しさん
07/11/16 21:16:08 0
53 名前: OFW 投稿日: 2001/01/26(金) 22:14
>>45(伍長さん)
>43はよくわからないけど、44は何とかついていけます。
確かに43を読み返してみると、「弁証法は否定の否定」という合言葉に引きずられて、その説明を性急にしようとしたために、
端折った言い回しになってしまいました。あまりそれに捕われないほうが良さそうです。
そこで、事柄を経験と思想といった面から考え直してみると、経験は具体的な対象に直接触れるのに対して、思想は対象の
抽象的、一般的な面を捉える。
と言えると思います。そして、対象の一般的な在り方を概念と呼べば、その個別的な在り方は実在と呼べるでしょう。その場合、
概念とは事物の運動様式を存在形式として表現したものと言えると思います。それは我々がある対象を捉える場合、それが
何らかの運動の結果として存在するそして、反照的(相関的)に言えば、それが他のものとの関係の中において存在するとい
う面を表現したものが、概念だということです。その限り、個別的な実在の否定として概念が存在する、と言えるわけです。そ
れは観念的なものとも呼ばれます。何故なら、観念とは実在の否定として、我々の「頭の 中」にしか存在しないからです。目の前にある経験的実在と、どこにも実在しない抽象的観念との対立は認識にとって基本的なものでしょう。
両者の一致を真理と呼びます。そのことは、目の前にある個別的な実在はその真理においては、決してそれが経験された通
りのものではなく、他のものに媒介されたもの(媒介とは「他になること」です)であり、他の実在との関係性のうちにおいての
み、それが何であるかを正しく規定できる、ということです。


25:考える名無しさん
07/11/17 01:36:57 0
弁証法ではなく、小便法の誤りだろ

26:考える名無しさん
07/11/17 06:15:05 0
そのコピペを3行程度で頼む。
全部は無理だろうから、1レス辺り3行で。

27:考える名無しさん
07/11/17 08:06:21 0
>>26
わかった。こんどはオレ様が読みやすいコピペしてやっから。
じゃ、ちゃーんと付いて来いよ。

54 名前: OFW 投稿日: 2001/01/26(金) 22:18
>>45(伍長さん)(つづき)
そうなると、認識の発展につれて認識の対象も変化するという弁証法的に重要な面がでてきます。始めは個別的なものとし
て質的実在と呼ばれた対象も、それが他に変化しまた消滅する以上、それは「他在性」という存在形式のうちにある。つまり、
定まった存在として質的であった対象は、むしろ「他になること」がその内的規定(定め)であるということです。

そのことが認識された場合、認識の対象は質的変化のうちにある「他になっても同じもの」、つまり量的な存在に移行する。
「可変的かつ可分的とみられる量も、その純粋な姿においては単一かつ不可分な存在である」(スピノザ)という(純)量の概
念が得られるわけです。

上記のことを要約すると、質的実在の真理(他在性・変化性)がそれとして定立されたものが量であ
るという命題(ジンテーゼ?)になります。また、量はさらに限定されると、最終的に数の概念が得られる。それは単位(観念
的)と集合数(実在的)を対立的な契機として含むそれらの統一です。…等々。


28:考える名無しさん
07/11/17 08:07:55 0
以上の過程を一般的に言えば、対象を規定(限定)することにより対象自体が否定され、その真理(概念と対象自体の一
致)はさらに高次の概念として表現されるということ(否定の否定)を示しているわけです。

「人間の認識は常に生成の言葉を存在の言葉に翻訳する」(マルクス)と言われるのも、運動を止める(止揚する)ことで認識
が可能になると言っていると解釈できる。

ついでながら、このことは、いわゆる実証主義(Positivism)のもつ肯定的な側面と否定的な側面を共に明らかにするでしょう。
マルクスがPositive(肯定的、積極的)と言う場合、それは単なる経験主義ではなく、認識作用のもつ否定の否定としての実
証的、現実的、実践的な面を強調していると思います。


29:考える名無しさん
07/11/17 08:33:22 0
57 名前: OFW 投稿日: 2001/01/28(日) 21:07
>>55(伍長さん)
>どうも私には無理みたいです。
そう言わずに。私の説明の仕方が問題なのでしょうから。
「弁証法とはかくかくしかじかのことである」という正面切った言い方は、所詮無理があるようなので、少し変えて、具体的なテ
ーマに即した方が良いようですね。


30:考える名無しさん
07/11/17 08:34:16 0
>>56
>2チャンで例えれば、エロネタ・遊びネタと硬派ネタを脳味噌の同じ部分で思考し、表現する事ですね。
そうですね。ニュース板で言えば、テレ朝のSCOOP特集に対する2チャネラーの反応を同じものとして観察する視点のような
ものです。
先週は新宿にいる<車イス>の女性ホームレス、今週は南紀の動物園での<痛んだ足>をもつ象の死に関する特集だっ
たが、反応は実に対照的です。
先週は通行人に蹴られて歩けなくなった女性を見て、圧倒的に「ホームレスおよびやらせテレ朝は逝ってよし」の反応だった
が、今週はタイ人調教師に傷つけられて歩けなくなった象を見て「動物虐待は許せん」のカキコばかり。
URLリンク(saki.2ch.net)
両者(ホームレスと象、そして、両者に対する2チャネラーの異なった反応)の同一性と差異性を共に把握することが、弁証法
的な社会認識かな。


31:考える名無しさん
07/11/17 08:35:37 0
80 名前: OFW 投稿日: 2001/02/19(月) 20:38
>>79(通りがかりの人)
>73の僕的解釈みたいなのは懐疑論っていうって事でしょうか?
近代哲学の祖デカルトは懐疑をもって自らの反省的思考を開始しました。
既成の意見(独断的教義)を徹底的に疑い、最後に「我思う、故に我在り」つまり「疑う我は疑い得ない」との自覚に到達した
わけ。
懐疑は第一の否定であり、真理に向かうための必然的な一歩でしょう。


32:考える名無しさん
07/11/17 08:36:27 0
>A国とB国がある問題で対立しています。
対立とは本質的な区別であり、矛盾そのものです。

>A国人にとっては自分が正しく、B国人も自分が正しいと思っています。
「正しい」とは主観的な真理であり、一定の基準自体を「思い込むこと」。


33:考える名無しさん
07/11/17 08:37:17 0
>この対立が深刻になると戦争になり、結局A国またはB国どちらか一方の意見が通ります。
いわゆる「矛盾」とは「どんな盾をも突き通す矛」と「どんな矛も突き通せない盾」との戦争です。しかし、状況により、矛は盾に
なり、盾は矛になる。たとえば、「武器が不足しています」と訴えた部下に対して、革命家毛沢東は「心配するな、武器は敵
が持っている」と答えたとのこと。
革命的思考とは通常の思考を転覆することです。それは、両国が共に負ける(国家の廃絶)と同時に、共に勝つ(人々の勝
利)ことを目指します。


34:考える名無しさん
07/11/17 08:38:00 0
>ハーフの意見の方がA国人、B国人よりもより正しい(進歩した)意見
そうですね。ハーフは矛盾を身に帯びているから、対立の乗り越え(止揚)に成功するか失敗するかは、まさに一身上の一大
事でしょう。
昨日もNHKで「二つの民族、一つの教室」というタイトルで中東紛争(イスラエル-パレスチナ戦争)の特集をやっていました
が、「子供は仲良くできるのに、何故大人は争うの?」という疑問にどう答えるか。
ユダヤ-アラブの対立には、「神々の争い」という誤った根拠と、「階級対立」という真の根拠がある、というのが私の意見(答
え)です。


35:考える名無しさん
07/11/17 10:18:49 O
ニヒリスティックな現実的意見ですな。

36:考える名無しさん
07/11/17 15:51:48 0
34の次のカキコで~す。

>最近はインターネットとかがあるので結構簡単にできるんじゃないか
確かに、インターネットは戦争に対抗するための強力な手段になり得る。対話は、共同の真理に向かう、最高度の弁証法で
すから。

86 名前: OFW 投稿日: 2001/02/23(金) 02:14
>>83
>全体としてどこが「否定の否定」なのか「弁証法とはなにか?」がいまいち分かりません
ども、困った。まあ、またーりと、行くしかないでしょう。

>経験的実在と抽象的観念の一致とはどういうことでしょうか?
まず、「一致」という言葉は日常的には実在的な存在間について使われるため、
「観念と実在の一致」とは誤解を招きやすい表現ですが、それは実在的一致で
はなく、(言語を含む)記号とそれが表わすもの(記号の対象)との一致とし
て捉えた方が良いでしょう。
『意味の意味』(オグデン&リチャーズ)には、記号の機能として「指示の象
徴」説が述べられており、「我々は、現前していない実在的対象への指示を記
号によって象徴する。」と述べられています。
これは、対象に正しく到達するための脈絡(筋道)の代表(代わり)として記
号が使われる、ということです。我々が何らかの対象を思い浮かべ、それを他
人に伝える場合、「こうしてそうすれば、そこに到達できる」という指示的な
言い方と、「それは○○だ」という象徴的な言い方の二通りをします。
ここで、前者を簡略化(概念化)したのが後者だということです。自分が到達
したい(または相手に到達させたい)対象に自分が(または相手が)めでたく
到達できた場合、観念と実在が一致した、つまり真の対象が得られたと言える
でしょう。
弁証法的に言えば、「媒介性と直接性の統一として、完全な対象」という所か
な。(どうしても難しい言葉になる…)



37:考える名無しさん
07/11/17 15:57:13 0
87 名前: OFW 投稿日: 2001/02/23(金) 02:17
>>83(つづき)
>実在というのは個別的なもので、観念≒概念はそれを分節するものなので、
一致するようだったら、個別的実在の数だけ概念があるみたいなおかしなこ
とになってしまう

次に、象徴(記号)は常に一般的・抽象的ですから、具体的な個物を対
象にする場合、その位置(場所)を指定するための世界が必要です。
上記の説では「象徴場」あるいは「談話世界」と呼ばれています。
すべての個別的実在は何らかの世界の中で他の実在との間の関係性のう
ちにあるからこそ、そこに存立しているということです。概念という記
号体系は世界の見取り図であり、対象に正しく到達するために、世界の
分節と実在間の関連性を表現したネットワークと言えます。同時に、そ
れぞれの概念自体は「単一なもの」ですから、上記と合わせると結局
「全一的なもの」が概念です。そこから「具体的普遍」という概念の個
別的かつ普遍的な側面が出てくる。


38:考える名無しさん
07/11/17 16:00:45 0
>その一致を真理と言ったとして、その時に実在はなぜ他との関係性の
中で正しく規定されるのでしょうか?

カントはカテゴリー(範疇)を「最高類概念」と呼び、森羅万象(実在
)はすべて何らかのカテゴリー区分の元に置かれることでその本質規定
(それが何であるか)が正しく認識される、と言いました。
そして、質、量、関係、様相およびそれらの下位区分(各3種)から構
成される範疇表を提示したわけですが、ヘーゲルは「それはカテゴリー
自体を固定化する外的・偶然的なやり方だ」と批判して、カテゴリー間
の関連性を明確にしたと言えます。
実在の規定は質、量、限度と否定的に推移し、それは本質へと反照する、
そしてモノから現象に外化して、現実性に至って、概念として自己
(真実在)に復帰する、といった具合。むろん、観念論ですが、むしろ
観念の弁証法(否定の否定)を明らかにしたと言えます。


39:考える名無しさん
07/11/17 17:05:28 0
全部読んだけど疲れた。
読んでると、弁証法は進む(発展を出す)と思われがちだけど戻るのもありのようだ。
ヘーゲルの本に書いてあるのか、又は注解での解釈なのかは不明だけど。
とりあえず、その弁証法とやらで頼む。
>>5

40:考える名無しさん
07/11/17 17:08:35 0
こんなんも挟ませてね。

90 名前: OFWファン 投稿日: 2001/02/24(土) 09:35
>一連のOFWさん
丁寧な解説ありがとうございます。
だんだん分かってきたような、ますます分からなくなってきたような…
でともかく埒があかなそうなので、ここは発言36に戻って36の僕
なりの解釈をさせてもらいました。
――――――――――――――――――――
弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。
事物を概念化するということはAと非Aを統一的に把握する認識作用である。
で話を分かりやすくするため、概念化というより認知作用を例にとってみる。
1.これは何?
(2.それはコップか?、「そうではない」(カップ、おわん、…)か?)
3.それは(他のものじゃなく)コップである。
()は暗黙の思考として意識から消えている。
この「そうではない」という暗黙の否定が「第一の否定」である。
そしてこの「第一の否定」自体を対象化すると、つまり「コップとはカ
ップやおわんに媒介された実在性」だという事実そのものを対象化する
とき、「第二の否定」に向かうことができる。
この「第二の否定」とはここで新たに対象化した「第一の否定」の根拠
を反省することである。(きっと否定とはnotの意味ではないんでしょうな…)
そして「カップ」の本質とは、上のような「否定の否定」による実在の
根拠の問いかけによって規定され、また保証される自己同一性である。
よってこの「否定の否定」による実在の根拠の問いかけをつきつめると、
人は事物の本質の正しい認識(=絶対知?)に到達することができる。
この運動が弁証法である。


41:考える名無しさん
07/11/17 17:14:13 0
91 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:16
>>90
私の抽象的な言い回しも少し理解されてきたかな。
ヘーゲルも同じことを繰り返し繰り返し思考し直して、概念の働きを明
らかにしていった訳ですから、しつこく説明を試みよう。

>弁証法とは事物の<概念>を捉えることを求める。
そう。概念的把握とは実在対象の十全的な(欠ける所のない完全な)理
解とも言えるでしょう。直接的な存在は、その根拠が明らかにならない
うちは、偶然的で不十分な存在でしょう。概念的把握とは結局、対象を
歴史的に発展する事柄として、動的・総体的に理解することです。

>事物を概念化するということはAと非Aを統一的に把握する認識作用である。
通常の科学や形式論理ではAはあくまでAだと言い、非AとAの区別は
外的なつまり主観的な区別に過ぎないと言われる。
ヘーゲルはA自体の中に非Aを見るから、区別するだけの認識(悟性)
をむしろ「無概念的な認識」と言っています。(マルクスも当時の(今
もそうだが)経済学を同様に批判している。)

>1.これは何?
事物に対する問いがすべての認識の出発点であり、それは、主観が対象X
を立てること(措定と言います)です。「これ」とは目の前にある「何
ものか」(何らかの実在者)です。それは認識によって明確に規定され
るが、それ自体は既にそこにある、つまり前提された存在です。
このことは、「対象」概念の二重性を示しています。「対象」とは、
一方でそれ自体で存在する実在(客観的な存在)を指すが、同時に主観
にとっての「対-象」であるということです。
ヘーゲルは前者を真(実在)の契機、後者を知(認識)の契機と呼んで
いる。両者の区別と統一が働きとしての概念化作用です。
カントは両者を機械的に分離したから、「我々は現象を超えて、物自体
を認識できない」という不可知論になった。


42:考える名無しさん
07/11/17 19:23:30 0
92 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:19
>>90(つづき)
>(2.それはコップか?、「そうではない」(カップ、おわん、…)か?)
認識は対象の特定、区別(弁別)、識別(同定)ですが、さしあたり主
観は対象認識を“遂行する”から、認識自体は対象化(意識化)されない。
対象を認識しようとする思考は否定的な働きです、というのは、知性は
感性と違い、対象をあるがままに受容するのではなく、「これは何だ?」
と言って、その「あるがまま」(自体)を否定するからです。
「対象を知るには、その直接性を否定しなくてはならない」そして、直
接的な対象(実在)はまず質によって区別されます。「質とは対象を実
在とする、最初の規定性である」(ヘーゲル)
それは主観の区別作用が対象の上に反映しているということであり、
対象を実在(直接的な存在)とすることは「あれかこれか」の側面から
対象を吟味することの結果(差異に基づく対象認知)です。

>3.それは(他のものじゃなく)コップである。
思考の直接的な否定性は、否定性自体を対象化できない。それは「Aで
ない」を常に「他のもの」、つまり「Bか、Cか、…」という実在的な
形式(対象的形態)でしか捉えられない。そのため、自らの作用である
「他のものじゃなく」(否定の否定)は対象化(意識化)されず、その
結果として得られた一般概念「コップ」が対象そのもの(真の実在)だ
と主張する。
実際、「それはコップである」(個別的なものは一般的なものである)
は根拠のない断言であり、まさに直接的(根拠をもたない)対象の判断
(質の判断)です。しかし、その真理は「個別的なものは一般的なもの
である」という形式に含まれており、その結果、「あれかこれか」の質
の判断は「あれもこれも」という、量の判断(形式論理の数学的等価性
「A=B」)に移行する。



43:考える名無しさん
07/11/17 19:25:49 0
>きっと否定とはnotの意味ではないんでしょうな…)
いや、まさにnotであり、何ら神秘的・深遠な働きではない。
サルがnotを正しく弁別できれば、人間になれる、かな。(少なくとも、
見せかけと真実の区別は分かっているようだ。)

93 名前: OFW 投稿日: 2001/02/25(日) 00:20
>>90(つづきのつづき)
>そして「カップ」の本質とは、上のような「否定の否定」による実在の根拠の問いかけによって規定され、
また保証される自己同一性である。

そう。本質とは「生成変化する事物の本体、その直接的な存在の底にあ
る自己同一的なもの」です。
客観科学とは普遍的な法則、原理を目指す本質の探求ですが、そこでは
対象が相関的な関係性において捉えられる。
また、根拠とは「同一性と区別との同一性」であり、「あるものがそれ
であるのは、あるものが他のものとは違うからである」ということ。


44:考える名無しさん
07/11/17 19:28:56 0
>本質の正しい認識(=絶対知?)に到達することができる。
ヘーゲルは「正しい(正当性)」と「真の(真理性)」とを明確に区別
します。
前者は悟性(分析的、判断的理性)の在り方であり、何らかの基準に合
致する妥当性を求め、後者は本来の理性として根拠に基づく、認識と実
在的対象との一致を求める。
また、絶対知とは「概念とそれ自身との一致」という絶対的観念論の主
張であり、神がかりですね。

>43の有と無の話
例が悪く、ヘーゲル流な難解さの例になってしまった。
「概念と対象」の最も抽象的なケースとでも言えば、良かった。
上にも書きましたが、概念は具体的なものであり、常にその対象面(実
在的側面)とその規定性の面(観念的側面)との否定的統一です。
最も抽象的な概念は「存在」でしょうが、それは特定の対象をもたない。
「すべてのものは何らかの点で存在するが、『すべて』は存在せず、常
に特定の対象が存在する」からです。つまり、抽象的な存在とは、対象
性そのものだということであり、最初の具体的概念とはむしろ「生成」
(有と無の統一)です。存在論では、「存在するとはどういうことか」
という過激な設問を出して、「存在と区別される何ものか」つまり「無」
を存在的(対象的・主語的・名詞的)に立てる。
「存在が存在するのであり、無が存在するのではない」(ハイデガー)
と言われたりもする。しかし、我々は常に何らかの経験的実在から始め
るのであり、存在自体から始める存在論は形而上学(天上の学問)と呼
ばれます。(以上、長文失礼)


45:考える名無しさん
07/11/18 09:01:25 0
"6"がOFWですよ、みなは~ん。

10 名前: 6 投稿日: 2000/08/25(金) 20:27
>9
違います。逆に全体主義は非弁証法的なもので、たとえばアドルノの
「否定の弁証法」はまさにファシズムおよびスターリン主義が荒れ狂った時代
を身をもって生きた経験の上に書かれたものです。
弁証法が忌み嫌われるのは、端的に言えばそれが「革命的な」精神を育てるか
らであり、現状維持を望む知識人および為政者等は何としても非弁証法的な思
考を押し付けようとやっきになるでしょう。


46:考える名無しさん
07/11/18 09:02:50 0
12 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 00:41
>7
>「歴史の終わり」とは弁証法的意味で使われているのであって・・・
意味がよく分かりませんが、私の言いたい事は「歴史の終わり」という
主張は非弁証法的だという事です。

>11
そうではなく、8さんの「何故弁証法が忌み嫌われるのか?」と言う質
問に対して、9さんが「全体主義につながるから」と政治的な理由を挙
げられたので、政治的な点に絞って嫌われている理由を言ったのです。勿論「難解だから嫌われている。」「形
式論理に反するから嫌われている。」と言う答えも有り得ます。
当然、二分法で「あれかこれか」はヘーゲル弁証法とは無縁ですね。


47:考える名無しさん
07/11/18 09:04:09 0
18 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 02:59
(目が覚めてしまった)
15、16は全体化、同一性に対するアンチとして弁証法があるという
点でそれ程異なった意見ではないと思う。
私がアドルノを持ち出したのも、ヘーゲルのジンテーゼ(総合)という
契機は狭い意味では非弁証法的で、彼自身も「思弁的」契機と呼んでい
るという点を、全体主義=弁証法という「余りにも」な見解に対して言
いたかったからです。


48:考える名無しさん
07/11/18 09:08:57 0
1 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 15:15
と言う事で、ヘーゲルは弁証法を近世において復活させたが、その(遅
れたドイツに媚びを売った)政治イデオロギーによって自らを裏切った。
  ・・・これが歴史の終わり③
逆に言えば、(マルクスが言っているが、)政治的に遅れたドイツだっ
たからこそ、却って哲学的には弁証法という革新的な思考が生まれ得た。
  ・・・これが歴史の弁証法的な進行例①
さらに言えば、遅れた帝政ロシアにおいて社会主義革命が成功した理由
は何か? そして、成功したのもつかの間、結局スターリン主義という
国家資本主義体制の下での似非弁証法(例:不均等発展の法則)が公認
のものとなった理由は何か?
要するに、現実の世界史の中ではどのような停滞、反動も結局許されず、
虚偽の体制はやがて没落の時を迎え、新しい主役に道を譲らざるを得な
いと言う事、これが弁証法的な意味での必然性の洞察でしょう。
つまり、歴史の真理と人類の解放に向かう媒介的・批判的・現実的な運動、
これが弁証法と呼ばれる実践的・主体的・類的な働きと言えるのではな
いでしょうか。無論、「歴史の真理」などという抽象観念は具体的分析
と主体的実践の契機を忘れると、つまらない「最後の審判」論あるいは
非弁証法的な観念論に堕してしまうが。
アドルノの場合、弁証法を余りにも観念的なものに止め、批判を全体主
義イデオロギーにだけ限定し過ぎた。唯物論的な根拠(人間の自然史)
について無理解であり、プロレタリア的ではなく、小ブル的な抽象論議
に堕している。
そのため、その論述は論理的と言うより、個人の主体性を守れという倫
理的な色彩が強い。


49:考える名無しさん
07/11/18 09:31:04 0
25 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 20:11
さてしかし、このスレのテーマであるヘーゲルの評価について言えば、
アドルノあるいはデリダが称揚する不協和あるいは差異性(差延性)と
いったそれ自体あまり役に立たない直接的な表象をもって反発するだけ
では、余りにも安易と言える。
それらは、現実の歴史を規定してきたものがヘーゲルのもたらしたパラ
ダイムだと言わんばかりである。
20世紀の思想的閉塞状況あるいはファシズムの原因がヘーゲルの絶対
的観念論(あるいはそれに代表される何物か)にあると錯覚する程ばか
げた事はない。そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、
彼らの属する中産階級固有の肯定かつ否定の両義性をごまかしているだ
けである。
「全体主義には反対、しかし共産主義にも反対。」これが、決して団結
しない不協和あるいは決して階級として統一されない差異性を後生大事
にしたい否定的かつ肯定的な弁証法(むしろ反弁証法)の正体である。
ヘーゲルならば、そのような退廃的・逃避的な小精神を大いに哄笑する
であろう。

27 名前: 6 投稿日: 2000/08/26(土) 20:34
>26
どうもスミマセン。ちょっとヘーゲルぶりをしてみたかったので・・・。
私がヘーゲルを評価するのは、弁証法論理において反省(反照)規定を
それとして明確に取り出したという事ですね。私の論理的思考はそれに
よって大いに鍛えられました。
特に現代の科学や哲学において相対主義や主観主義が蔓延しているのは、
本質論をしっかりやるという姿勢がなくなったためで、本質論に関して
はヘーゲルを参照せずには論理的な裏付けは得られないと思っています。


50:考える名無しさん
07/11/18 09:34:49 0
33 名前: 6 投稿日: 2000/08/29(火) 20:50
>32
>弁証法って結局どういうモノなの?
一言で言えば、「事物を生成発展の相で捉える見方」かな。 勿論これ
では、具体的な内容はまったく分からないので、もっと説明が必要です
が。

>いろんな本にチャレンジしたけど、どうもよくわからん。
確かにロクな解説本はないようです。ヘーゲル『小論理学』を読むしか
ない。でも、これは古今東西の書物の中でも難解と言う点ではトップク
ラスの本です。(いやー苦労した。)

37 名前: 6 投稿日: 2000/08/30(水) 21:23
ヘーゲル論理学の難解さの一つの原因はその独特な用語のせいでもある
が、通常の形式論理学とは違い、論理形式とその対象との間に内在的な
関連を認めているからです。
通常の論理学で「xxは真である。」と言う場合、xxの位置に来るの
はなんらかの命題(判断を言い表したもの)であり、既に主語-述語の
関係が成り立っている(対象は主語として言語化(表象)されている)。
後は判断の形式だけを論じるだけで、元々の主語が正しいか(実在にか
なっているかどうか)などは全く議論されない。
しかし、ヘーゲル論理学では概念とその対象との関係を巡って、その真
偽が云々される。つまり、「xxは真である。」と言う場合、xxの位
置に来るのは第一義的には「概念」なのです。たとえば、「質の真理は
量である。」などとは形式論理学では絶対に出てこない言い方であり、
「ヘーゲルは馬鹿か?」と言われても良い筈なのだが、さすがにそこま
で言う人が出てこないのも不思議な事です。
つまり、ヘーゲル論理学とは既に認識論(認識はどこまで実在を捉えら
れるかを問う、カント的に言えば「超越論的」論理学)でもある訳です。


51:考える名無しさん
07/11/18 11:10:46 0
  弁証法で秀逸なのは、合理的なことが現実的だ、現実的なことは合理的だ、ということだと思うがなあ

52:考える名無しさん
07/11/18 11:13:13 0
  同時に、普遍的なことが今はまだ特殊であることもあるという注釈もいい
これはへーゲルでないけどね

53:考える名無しさん
07/11/18 11:53:41 O
>>1
メーカーは?
あと、ローションはなんだろう。

54:考える名無しさん
07/11/18 12:20:38 0
46 名前: 6 投稿日: 2000/08/31(木) 21:14
弁証法とは一方で世界がどう在るのかという存在論でもある。
弁証法的世界観というのは非常に古く、よく例に出されるヘラクレイトス
の「パンタレイ」(万物は流転する。)は弁証法の精神(スピリット)
を表現したようなものです。
つまり、そこでは一切の存在は生成・変化の内にあるという根本的な直
観がすべての認識を貫いている。 それは釈迦(仏陀)が(人間を含め)
森羅万象至るところに「燃える火」を直観した事にも通じる。
また、マスクスも言う、「人間の思考は常に生成の言葉を存在の言葉に
翻訳する。」と。
弁証法の論理は動的、過程的、立体的なものであり、生成・変化を捉え、
実在の内奥に迫ろうとする。それは形式論理の静的、結果的、平面的な、
実在に触れない抽象的思考を超えているのです。
否定、矛盾、媒介、止揚といった弁証法の特徴とされる論理形式も根本
的にはそこから出てくるのです。
W.ベンヤミンの言葉、「弁証法とは歴史という風を受けて進む帆のよ
うなものです。」
その事はヘーゲルが一番理解していたと言ってよいでしょう。

55:考える名無しさん
07/11/18 12:24:14 0
52 名前: 6 投稿日: 2000/09/01(金) 10:19
(今日は夏休みだ!)
>46 誤:マスクス 正:マルクス
弁証法論理を理解する上で、私が最も基本的だと思うことは、ヘーゲル
も繰り返し言っていますが、「具体的なものはそれ自身の規定性とその
否定との統一である。」という事です。
これはどういう事かと言えば、実在する存在者がそれとして存在してい
るのは、その規定性とその否定とを合わせ持つが故に具体的な存在者で
ある、という事です。
それは39さんのように>AイコールAかつ非Aという矛盾律が弁証法の
基本原理です。 と言うと少しミス・リーディング(誤解を招き易いも
の)になるでしょう。
Aと言う記号は抽象的な規定性自体を指すから私が言う具体的存在者で
はないし。また、イコールという数式記号の喩えだと数的相等性を思い
浮かべるから、統一(より正確には不可分離性)という内容が消えてし
まう。さらに矛盾律というのは元々アリストテレス論理学(形式論理学)
用語であり、「あるものは同時に同一の観点からその否定であることは
できない。」という格律を指すから、上記で言われた事の正反対です。
前にも書いたように、弁証法では単に思考形式だけを議論の対象にせず、
思考対象がそれに合っているか(真の対象か否か)を吟味します。
「対象Aが規定性Aをもって存在(実在)しているのは真実か?」とい
う問いを発し、それに対して「対象Aは変化し、Bに成る。故に、対象
Aは既にその否定(第一の否定)を内在している。」
つまり、すべての存在者はその没落・消滅の根拠を自らの内に含んでい
る、という認識に至る。
この過程的な思考の運動(真の対象への媒介運動)を弁証法と呼ぶので
す。


56:考える名無しさん
07/11/18 12:27:54 0
>>53
カリスマセクシーエロギャルは650円だけあって
チンコ入れたらすぐ壊れた
ガバガバだった

57:考える名無しさん
07/11/18 15:20:08 0
55 名前: 6 投稿日: 2000/09/01(金) 20:40
解りにくいのは私の説明が悪いためでしょうから、更に突っ込みます。
「対象Aは変化し、Bに成る。」
という事態について、弁証法論者が
「対象AはAであると同時に非Aである。」①と言う場合、形式論理学者はそれを非難して言うでしょう、
「ある対象xはある時点ではAであり、他の時点ではBである。」②と言うのが正しいのだと。
確かに通常の思考(表象)ではそのほうが自然であり、弁証法論者は逆説を弄んでいるだけの様に見えます。
しかし少し考えて見ると、
②は「変化の結果」を表現してはいるが、「変化自体」を表現していない事に気づきます。確かに現在進行形の変化とは直
覚されるべきものであり、判断あるいは推論されるものではない。それは<変化>と言う概念として定着されるしかない。
それを命題の形で表現する(分析する)と、
①のような一見矛盾した言い表し方にせざるを得ない。今ここにあり、次の瞬間にはそこにない。その変化自体を静止的な存在の用語で表現すると「矛盾」となります。
①は緊張に満ちた「変化そのもの」を分析して、矛盾した契機の統一として表現しているのです。つまり、「矛盾」は存在する
のです。
「直接的な存在は生成に媒介された結果として見られるべきである。」
-例:永遠と見える資本主義も歴史的生成の結果であり、その胎内に自らの滅亡の根拠を抱えている。
(やっぱまだ解りにくいかな。見方の転換が要求されているので。)


58:考える名無しさん
07/11/18 15:21:30 0
59 名前: 6 投稿日: 2000/09/02(土) 11:24
>57
(だんだん深みにはまって来た。)
前にも書いたように、ヘーゲル論理学に関してまともな解説書は(少なくとも)日本には無いのではないでしょうか。古くは武市
健人から近くは広松渉まで(さすがに遠慮して)完全な的はずれとまでは言わないまでも、読んで理解できると言うより、更に
訳の分からなくなる事になる。
更に言えば、件のスターリン主義的な自称「弁証法的唯物論者」(日本○産党も含め)の説く弁証法は、エンゲルスの無理解
にもよるが、バカバカしくて話にもならない。
どうせ分からないなら、原著を読んだ方が良いと思うのも自然でしょう。と言う訳で、『小論理学』(松村一人訳、岩波文庫)を
久しぶりに埋もれた本の山の中から探し出してきました。(埃だらけ!)
手元にあるのは下巻のみですが、その「第二部 本質論」全体が反省規定の展開です。目次を見ると、
A現存在の根拠としての本質
   a純粋な反省規定
   イ同一性  
ロ区別 ハ根拠
   b現存在
   c物
   B現象
   ・・・
   C現実性
   ・・・
となっています。これら全部が反省規定です。
(因みに「反省」というと道徳的なニュアンスが出るし、ヘーゲルの概念=主体の絶対的観念論に添う形にもなってしまうの
で、私は余り好きではなく、反照(或いは反射)(英語でReflection)と言う訳語の方が良いと思っています。)
この位で宜しいでしょうか?私は先生ではありませんので。


59:考える名無しさん
07/11/18 15:24:34 0
4 名前: 6 投稿日: 2000/09/02(土) 19:45
>61
エンゲルスの高潔さは好きですが、こと弁証法については余り感心しない。特に『自然の弁証法』で弁証法を科学と同一視し
ているのは、その後のソ連官製哲学から現在の日共にまで至る誤解の原因を作った。不破委員長までが相変わらず、「我々
は科学的社会主義に基づいているのだから云々」などと言うのを聞くと、「ダメだ、こりゃ。」と思わざるを得ない。
もっとも、教条主義はエンゲルスのいではなく、非弁証法的スターリン主義のせいでしょうが。

69 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 10:44
現代においてヘーゲル弁証法の再評価が重要だと考えられるのは、繰り返しになりますが、「本質論」の持つ認識論的な意
義です。
特にマルクス『資本論』において商品・貨幣・資本の本質を理論的に説いた冒頭部分の理解は、明らかにヘーゲル弁証法を
必要とします。戦後日本の「マルクス(主義)経済学」で繰り返された不毛な論争および最近のくだらない(ポストモダン的?)「貨幣論」の流行は「本質とは何か」を見失った現代科学、哲学の主観主義の典型です。レーニンも言いました、「ヘーゲルを
もっと研究せよ。」と。


60:考える名無しさん
07/11/18 15:50:56 0
69 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 10:44
現代においてヘーゲル弁証法の再評価が重要だと考えられるのは、繰り返しになりますが、「本質論」の持つ認識論的
な意義です。
特にマルクス『資本論』において商品・貨幣・資本の本質を理論的に説いた冒頭部分の理解は、明らかにヘーゲル弁証
法を必要とします。戦後日本の「マルクス(主義)経済学」で繰り返された不毛な論争および最近のくだらない(ポスト
モダン的?)「貨幣論」の流行は「本質とは何か」を見失った現代科学、哲学の主観主義の典型です。レーニンも言いま
した、「ヘーゲルをもっと研究せよ。」と。

72 名前: 6 投稿日: 2000/09/03(日) 20:14
>71
レーニンを持ち出したのは失敗でした。しかし「哲学のレーニン的段階」などとはスターリン主義的御用学者が言った言
葉ですよ。権威主義は弁証法とは無縁です。自らの生み出した資本という幽霊に日夜苦しめられている労働者こそ
が最大の権威でしょう。

79 名前: 6 投稿日: 2000/09/04(月) 23:06
>75
レーニンの『哲学ノート』はどこに行ったか見つからないので、正確に引用はできませんが、ヘーゲルを非常に高く評価
しているのは確かです。確か「殆ど唯物論に近付いている。」とか、「弁証法はおよそ17、18くらいの格律にまとめる
事ができる。」とかのメモを書いていたと記憶している。
昔、『哲学ノート』を読んで初めて弁証法が何となく理解できた、と言っていた人もいたな。


61:考える名無しさん
07/11/18 15:52:48 0
93 名前: 6 投稿日: 2000/09/07(木) 23:25
実在は移行し、本質は反照し、事柄は発展する。
これらが弁証法的な運動形態である。
と言う事で、特に「本質」という概念を捉える事はヘーゲル抜きには無理でしょう。
移行する実在は仮象であり、認識は仮象を去ってその根拠、始源(自体)に溯る。自己同一的本質は対立の統一
(非同一の同一性)であり、現存在の根拠として捉えられるが、直接的に現存在する根拠すなわち「物」として向自
化される。それは現象、すなわち仮象(見かけ)の全体として外化する。・・・
こんな禅問答のような文章でも、マルクスは商品および貨幣の本質を分析するために「大いに役に立った。」と書いて
いる。

112 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 15:05
弁証法は科学だと言う人がいるが、通常の意味での科学ではない。むしろ科学批判であり、形式論理の限界を明らか
にする思考です。それは変革の論理と言えるが、それも実在に迫る思考の否定力に基づくからです。
「すべての規定はその否定を内在し、それとの反照関係において成立している。例えば全体は部分であり、内容は形式
であり、実体は関係であり、必然性は自由である。すべての固定した規定性の内にある真理に迫れ。」とそれは要求す
る。


62:考える名無しさん
07/11/18 15:54:58 0
114 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 17:11
>113
なるほど。(また謝らなくてはいけないかな・・・。)しかし、
>日本人は普段、論理的思考で動いているとは思えないんですよ。
確かに自覚的に論理的に動いてはいませんが、先の「全体と部分」に関連して言えば、
例えば、
A:「君、会社は今窮状にある。会社全体のためにこの際君は止めてくれ。」
B:「いや、社員が集まって会社がある。社員がいなくては会社は存在しない。」
A:「それは違う。会社という全体あっての社員で、個々の社員は部分でしかない。ごたごたへ理屈を言わずに止めなさい。」
と言った現実的な問題はどうでしょう。論理的に筋を通す事が求められています。
この場合、どちらが正しいと思われますか?
これは全体主義と個人主義という「厄介な」問題です。形式論理ではカタがつかないでしょう。

116 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 18:54
>115
(更に弁証法は進む)と言う事で既に論点が移行してくる事が非形式論理的だと言う事です。形式論理は問題を抽象的・
一般的に論じますから、事柄の形式性にだけ捕われます。
ところが、弁証法論者は事柄を具体的に考え、「真の問題は何か。」と捉えようとします。
例題が理論的ではなく、実践的な性格を持つ本性である事はまさに弁証法的な思考によってのみ解明されるのです。
因みに例題の場合、事柄の本質は資本主義自体の階級対立にまで進む事があり得ます。
その場合、単なる論争は実践的な「判断」として、「首切り反対」という闘争的局面に移行します。論理的な思考を通して
実践的に現実に関わる事が弁証法なのです。私の議論の対象も既に「全体と部分」という機械的対立からその真理で
ある「力と発現」という力学的対立、更に「形式と内容」という記号論的対立に移行している訳です。


63:考える名無しさん
07/11/18 15:54:57 0
なんなんだこのコピペスレは

64:考える名無しさん
07/11/18 19:10:12 0
>>63
俺もそう思う。が、続けてくれーい。

65:考える名無しさん
07/11/18 21:02:13 0
119 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 20:49
(対話は更に続く)
>117
私は116でまさにヘーゲルの森羅万象を弁証法論理で思考しようとことを否定したつもりですが。それは「絶対的観念論」
と呼ばれました。何故なら、「現実的要素」をすべて思考可能としたからです。彼が「現実的なものは理性的である」と言
った時(これはこれで含蓄あある洞察を含んでいるが)、轟々たる批判が巻き起こったそうです。
マルクス(「武器の(による)批判は批判の(という)武器にとって代わる事はできない。」)およびキルケゴール(「ヘーゲルの
弁証法は現実を止揚(観念化)してしまうが、現実自体は止揚されずに残る。」)
但し、マルクスはその中にある真に弁証法的な核は保存しました。 「現実は観念ではない。しかし、観念が現実を捉え
る時、それは物質的な力になる。」
弁証法の力とはその現実批判およびイデオロギー批判によって、「結局だめさ。」という諦め(これも宗教的イデオロギーに
つながる)から人間の実践的・主体的な力を取り戻すことにあるのです。
それは共同的な行為であり、ニーチェ流の超人のなせる業ではないでしょう。そして「人間は自然の一部である」とは唯物
論の基本であり、そこには自然に対する畏敬と信頼が基本にあるのです。


66:考える名無しさん
07/11/18 21:02:54 0
122 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 21:07
>119 誤:しようとことを 正:しようとした事を
その他おかしな表現(116含め)がいくつかあり、失礼。

126 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 22:10
(では、・・・)
>117
>弁証法には限界がある、ということでいいんですか?
「限界」とは何でしょう?「あるものがそれで無くなる所、地点」と一応言えますが、すべてのものがそれであるのは
その限界「内」にあるからであり、同時に限界においてはそのものが消滅する以上、すべてのものは限界の「外」
に在ることになります。
ではあるものの限界とは、そしてあるものはどこに存在するのでしょうか?

>「現実的要素」を取り込めなければ、思考の「方法論」としては有効でも、実際的問題の「解決法」にはならない
でしょう?
「現実的」とは何でしょう?「本質自体の現象」と一応言えますが、本質および現象とは思考の対象でしかありません。
あるいは「感性的現実こそが現実的だ。」と言えば、たちまちデカルトの批判を受ける所まで戻ってしまいます。現実の
現実性を捉えるのは、例えば資本主義社会の現実性とその幻想性を捉えるという「実際的問題」にとって重要事で
はないでしょうか?


67:考える名無しさん
07/11/18 21:05:36 0
29 名前: 6 投稿日: 2000/09/09(土) 23:56
>128
では今日は発言は控えます。
一遍に話すと、本当に「下痢気味」になってしまいますから。
但し、弁証法が言葉の弄びではない事は私のレスを良く読んでみて貰えれば、分かると思って書いたのです。

135 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 10:18
(お早ようございます。下痢も治った(嘘)。)
>131、134
まあそう喧嘩せずに。ソクラテスは弁証法を対話法として実践しましたが、彼の対話は産婆術とも言われ、相手の
主張に沿って問答をしながら、その無根拠性を自覚させてより高次の認識に導くというものです。それは基本的に
2者間のやりとりで、今回3すくみ状態になったので私が引いた訳です。

>132
人一倍記憶力のない私で、何十年も前に読んだうちのどれかは急に出てこない。多分『ドイツ・イデオロギー』前後
の若い時期のものです。ただ有名な言葉ですので回りの人に聞いてみて下さい。

>133
私は116および126で具体的に弁証法的論述を弁証法的に行いました(余り成功していないようですが)。前提と
する論理の枠組みに含まれる矛盾を通してより高い立場への飛躍を計るという方法は特に限界的な状況において
威力を発揮します。固定した存在を生成・消滅の中に突き落とすことと言っても良い。


68:考える名無しさん
07/11/19 00:10:31 0



しかしの青体はガガと震えだしたようだね?


69:考える名無しさん
07/11/19 19:19:26 0
39 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 15:54
>135
引用された文章の出典が分からないので、へたなことを言うとまた(ネット上の著作権も含め)謝らなくてはいけなくな
るかも知れないけれど、余り弁証法的な思考ではないと思います。

>>普遍主義を装った帝国主義に対抗するには、より高次の普遍主義を提示して見せるしかないのだ
私なら、「現在の『グローバルスタンダードを!』という普遍主義の掛け声の正体はアメリカを中心とした政治経済的な帝国主
義であり、事柄の本質は単なる技術的標準云々の位相にはない。
帝国主義に対抗する真の普遍主義すなわち具体的な地域性・民族性・歴史性を考慮した多様な個性を持つ普遍主義と
はプロレタリアの普遍性に根差した社会主義の上にしか花開かないであろう。」とでも言いますね。
ヤードポンド法ではなくメートル法にすれば良いなどという矮小な(抽象的かつ個別的な)話ではない。本質論が無い。


70:考える名無しさん
07/11/19 19:21:46 0
140 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 16:01
>139
誤:>135 正:>136
(最近乱れていて失礼。あと以前の引用も正確な引用ではなく、パラフレーズ(記憶違いも含め?)として理解してください。
謝々)


71:考える名無しさん
07/11/19 19:22:33 0
144 名前: 6 投稿日: 2000/09/10(日) 21:02
>141
『小論理学』では、「全体と部分」の相関についてそれが最初の規定された相関であり、実在的諸部分から全体が構成され
るにも拘らず、全体は部分の総括としてその否定であり、両者の関係は真実でないものと言われています。
つまり、まず全体とは実在しない観念に過ぎないという事であり、実在するのは常に部分なのです。それが何らかの全体を
「代表する」とされる部分に実現されていると思い込まれる時、すべての全体主義が生まれます。
「国家あっての国民」、
「国会は全国民の代表から構成される」
など全て虚偽、真実でないものです。
しかし、全体を抽象的に否定して、全体無しの部分に分解された場合は、逆に部分は部分で無くなり、その実在すら無くな
る。個人主義は社会の中でこそ成立できる。全体主義と個人主義は共に抽象的であり、第3のものとしての両者の総合がそ
れらの真理でしょう。それは如何なるものか。ヘーゲルはそれを「具体的普遍」という概念で表現しました。しかし、プロシャ帝
国と言う特定の実在にそれを夢見たために、失敗した。したがって、社会が諸個人間の開かれた関係(相関)として共同的な
精神が全ての個人においてその自由な個性の形態によって表現される時に、第3のものは初めて現実のものとして地上に現
れて来るでしょう。
共産主義はそれを目指すものと考えますが、「前衛党物神」は同じ反弁証法的な全体主義に陥ってしまった。やはり、個人
の内に客観的精神を根づかせる啓蒙を同時に推し進めるしかないと思います。
ですから24さんの言われるように、ヘーゲルの「人倫と国家の弁証法的止揚」という「未完の近代」の問題は未だ決着がつい
ていないと言える。ましてやポストモダニズムなどは、127さんの言われるように、近代合理主義すら満足に根づいていない
日本ではお話にもならないでしょう。
また、会社でのリストラに対する最も弁証法的な対抗策は「団結と闘争」しかないし、「認識は闘争の中で最も良く鍛えられ
る。」のも本当でしょう。(但し、偉そうに言っても今の私は所詮日和見ですが。)
(また長文になってしまった。スミマセン。そろそろ引き時でしょうか。)


72:考える名無しさん
07/11/19 19:24:59 0
150 名前: 6 投稿日: 2000/09/11(月) 22:59
>145
113さんもそうですが、「現実問題に弁証法をあてはめる」あるいは「弁証法を利用して現実問題を解決する」という言い方
自体がおかしい。弁証法は便利な道具・手段ではなく、真実に向かうための方法であり、誤謬を通して真理に至る運動が作
る軌跡のようなものです。
確かに、リストラの例を「全体と部分」の矛盾という概念の客観的説明に使ったのは質問の意図に沿うものではなかったようで
す。むしろ、「主体と客体」あるいは「理論と実践」といった、より高次の弁証法の例とすべきだったでしょう。(と言う事で、説明
のやり直しをしよう。)
毎日勤勉に働いていた人が、突然上司からクビを言い渡される。「会社の窮状」と言う理由は本当か。「窮状=困窮した状
態」とは一見客観的な事柄のようだが実は相対的な概念です。ヘーゲルは「状態とは質の外面性である」という内容の定義
をしている。状態性とは「あるものに固有と見える質は回りとの関係の中においてのみそれである」と言う真理を直接的に表現
しているのです。関係性の中で異なる主体によっては困窮した状態=喜ばしい状態かも知れない(例:ライバル会社)。「会
社の窮状」=「社員の窮状」という等式が成り立つのは、会社=社員である場合だけでしょう。論理的にはこれは会社と自己
との「実体的同一視」と呼ばれます。会社と一体化していた社員が会社の窮状を救うために自分の窮状をもってするとは何た
る矛盾でしょう。ですから、リストラを告げられた社員には実体(客体)の主体化こそが求められています。これはエンゲルスも
言うように、最高度の弁証法です。日常的・没主体的なあり方から、非日常的(限界的・危機的(困窮的)・状況的)で主体
的なあり方への転換(弁証法的転化)が必要となります。(ハイデガーなら「状況の開示性」とでも言うだろう社会への本質洞
察(運命の声)がこの瞬間に起きるかも知れない)ただし、ここから実存主義的な主体性論者と別れるのは、「状況の本質」
を捉えるには対象の理論的・科学的な分析と本質の概念的把握が必要だと言う事です。


73:考える名無しさん
07/11/19 19:26:24 0
72の続きで~す。

「俺をクビにする会社と今の社会とは一体何なのだ。」と言う哲学的反省は、
「今の社会の本質が生産者と非生産者との階級対立に基づき」、
「資本とは過去の労働の物象化の事であり」(労働価値説)、
「階級対立という矛盾を闘争(矛と盾との最終戦)なくしては、否定(階級という否定的存在)の否定(反撃あるいは否定の本
質)としての真の肯定(階級そのものの消滅)は得られない。」と言った、
多くの媒介的知識による客観的・概念的認識を成立させる事で、真に「現実的な」展望を持てるし、真理と正義なくして自ら
の窮状を真に救えない事を確信できる様になるでしょう。(「矛盾は世界に満ち満ちている。矛盾を笑え。」)


74:考える名無しさん
07/11/19 19:30:55 0
169 名前: 6 投稿日: 2000/09/14(木) 22:45
>154
>昔からヘーゲルが人間の足跡を見てそこに神を見出してるような姿が拭えないでいます。

とても良い(Nice?Good?Phylosophical?)指摘で、対話を続ける契機として相応しいポイントだと思います。
ヘーゲルの全哲学体系は、前にも書きましたが、「絶対的観念論」と呼ばれています。「絶対的」とは「他に比較できるものの
無い」という事であり、例えばカントの主張する「最高、最善、最強と言った相対性」を超越しているという事です。
ヘーゲルの初発の疑問は多分「何故に神はこの世界を創造したのか?」という事では無かったのかと(勝手に)想像できます。
神様は人間等を遥かに超えた存在なのだから、「この矛盾、苦悩、不合理に満ちた世界」など必要としなかった筈だと考える
のは自然です。そしてヘーゲルはその事を若い時から大真面目に考えて死ぬまで続けたのだと思います。時代的にも西欧近
世が近代に移行しようとする18世紀末の事ですから、歴史的激動期(確かにどんな時代でも激動期と言える訳ですが)にあ
ってそれまでの総括を余儀なくされていました。そしてその結果、あの森羅万象を論理的に語り尽くした「哲学体系という弁神
論」が出来たのです。
「観念論はヘーゲルをもって完成し、同時に本質的に終わった。」、これは確かな事です。。(「ミネルヴァの梟」とはヘーゲルの事です。)
19世紀の人ニーチェは言いました、「神は死んだ、余りに人間を愛したが故に。」と。そして、20世紀はまさに「神無き時代」
であり、モノとカネを神とする人間が殺戮と暴虐を繰り広げた(そして今なお繰り広げつつある)時代でした。
(”Heil,Hitler!”は辞書では”Hegel”の近くにありますが、何と遠い事か)21世紀を間近にした現在、改めて人類の歴史を総
括すべきかも知れません。
そのためにも、ヘーゲルが到達しようとして果たし得なかった、しかしマルクスが確実に継承したものが何か、を考えるのは有益
でしょう。
哲学の定義が何であれ、すべての哲学者に共通している事は「存在の根拠、始源、本質を内省的に問い、言葉によってそ
れを表現し万人に伝えようする営為」を自らに課していた事でしょう。「尋ねよ、さらば門は開かれん。」(これもパラフレーズで
すよ。)


75:考える名無しさん
07/11/19 19:33:35 0
170 名前: 6 投稿日: 2000/09/16(土) 06:14
>154(続き)
>マルクスの「資本論」でも読んで現状の資本主義システムを理解するということなのか? さらには唯物、機械的な認識を
得る必要があるといったところでしょうか?

リストラの例に沿った私の説明はそうなっているのですが、一挙にすべてを言おうとしたため、非常に乱暴になっています。そこ
でもう少し話しを戻すと、まず「社会の本質」という言葉で何を理解するかという点です。
まず「本質」という言葉の定義について、ヘーゲルはまず「現存在の根拠」と言っています。
「現存在」(Existence)は単に「存在」と訳される事もあるが本来「現れたもの」という事であり、何かが現れたその何かの事
をその「根拠(理由、基盤)」と呼びます。
感覚される存在はみな「これ」とか「あれ」とか指差せるものであり、個別的なものですが、それらは生成・変化します。
それは仮象(見かけ)に過ぎないというのが哲学的認識(反照的認識)の第一歩です。その本体は何かと問い、それを本質と
いう言葉で表現します。それは直接的な存在と見なされると、変化しない、自己同一的な「それ自体」と呼ばれます。それは
「これ」「あれ」という個物ではなく、「すべてのxx」といった全体を対象とする(マクロ的と言っても良いかな)概念です。
したがって「本質とは何か」を問う本質論ではすべての概念は二重化され、相互反照的あるいは相関的になります。自己の」反対(対立物)においてその概念内容が表わされるという事です。たとえば「同一性の何たるは対立において現れ、本質の何
たるかは非本質的な現象において現れる」という事です。


76:考える名無しさん
07/11/19 19:34:49 0
75の続きで~す。

科学者でも、何らかの存在の本質を理解するためにはまず「存在の起源(始源)」を求めることから始めるでしょう。何故なら
「すべての存在者は生成の結果」であり生成の源に遡及することがそのものの「何」を明らかにするからです。
たとえば、「貨幣はその生成の秘密を商品において表現している」と言った具合です。貨幣は元々は商品の一つに過ぎなかっ
た。金色に光り輝くその衣装の端から透けて見えるのは卑しいその出生の秘密だと言う訳です。(これはマルクス流でヘーゲル
は観念論者としての気高さからそんな言い方をしないでしょう。)と言ったように社会の本質を唯物論的に探っていくことが、ア
ホな経済学とこの資本主義体制を根底から転倒させるための哲学的・弁証法的なやり方でしょう。


77:考える名無しさん
07/11/19 19:48:49 0
この辺来るともう弁証法(ヘーゲル)とは遠くなるからつまらん。ほとんど解説者のオナニーだし。

78:考える名無しさん
07/11/20 12:38:34 0
>>77
オナニーでも手淫でも自家発電でも獣姦でも何でもいいけどさ、
こんだけ中味が濃ければヴァギナに突っ込むよりよっぽどぶっ飛ぶぜ。
と、与太話はここまでと。
おい、早く再開してくれ。頼まぁ。


79:考える名無しさん
07/11/20 13:24:44 0
↑おまえが不勉強でバカなだけ。

80:考える名無しさん
07/11/20 15:03:19 0
弁証法は、脳内思考領野での神経興奮モデルの一つ?

81:考える名無しさん
07/11/20 15:05:04 0
そういっちゃおしまいかな。

82:考える名無しさん
07/11/21 17:59:55 0
171 名前: 6 投稿日: 2000/09/17(日) 11:47
>169
誤:Phylosophical  正:Philosophical
(かなり酔って書いていた。偉そうにして失礼)

175 名前: 6 投稿日: 2000/09/18(月) 22:20
>172
やはり、そうかなぁ。掲示板でできるだけ分かり易く説明しようとしても限界があるな。しかし、ヘーゲル論理学を解説する学者
は必ずその観念論の罠にはまってしまう。173で言われている紀平正美教授も絶対観念を称揚しているらしいし、下記サイ
トの人もそうだ。
 URLリンク(www.sanynet.ne.jp)
繰り返しになるが、ヘーゲル弁証法は唯物論的に把握し返さなくては何の価値もない。もっとも鯵坂真を始めとするスターリン
主義型似非唯物論者の言う「最高の科学としての弁証法」など何の役にも立たないが。
(と言う事で少し、話のテーマを変えた方が良いかな。)


83:考える名無しさん
07/11/21 18:01:10 0
177 名前: 6 投稿日: 2000/09/19(火) 21:57
「観念と物質は違う」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと考えると結構難しい。「すべては観念に過ぎず、各
自の主観的な考えが絶対である」とされる20世紀では特に難しい。
「本質は現象とは異なる」とは決して晦渋な言葉ではないが、その違いは何かと考えるとかなり難しい。本質を学問の対象から消去した20世紀では特に難しい。
ヘーゲルは言った、事物の違い(差異、区別)を知ることがその本質を知る始まりであると。差異、不等、対立、矛盾と深まる
区別を知ることで対象の本質に迫ることができる。
(ポストモダニスト達は差異という第一の否定(抽象的否定)ばかりを強調したが、差異を言う時、実際に対象にしているのは
むしろ同一性なのです。否定の否定こそが具体的な認識をもたらしてくれる。)
「すべては鏡、反射、反照のうちに現れる。」、この場合の主語「すべて」とは「『すべて』という概念」のことです。
「すべての存在」などは存在しない。
それは区別された実在に反照する本質存在をいうのです。
結局、ヘーゲルは「概念的認識」の重要性を弁証法的に明らかにした事で、ソクラテスやアリストテレスと同様に、永遠に歴
史に残る事になるでしょう。
しかし、F.フクヤマといったチンピラ保守反動のヘーゲル誤読者とは違い、歴史は未だ終わってなどいないのです。
(と言う事で、一旦引くことにします。活発な議論を!)


84:考える名無しさん
07/11/21 18:02:19 0
197 名前: 6=OFW 投稿日: 2000/12/30(土) 21:10
お久しぶりです。私、固定HNにしました。
ヘーゲルが結構読まれているようなので、意外かつ心強い、です。
しかし、私のカキコもあちこちで晦渋、難解と言われ、困っています。具体的にどの辺(全部?)が難しいか、教えてもらえると
助かります。21世紀には、ますます弁証法が必要になる、ってか。

202 名前: OFW 投稿日: 2000/12/31(日) 22:02
>>200
>マルクスは『資本論』で弁証法を活用したわけだが、
マルクスは商品、貨幣、資本価値について、「労働」をそれらの実体的本質だと見た訳ですが、そのこと自体はアダムスミスや
リカードが既に発見していた。マルクスの独自性はその「必然性」を解明しようとしたことであり、そのためにはむしろ「価値形
態」に着目して、その展開を行う必要があったのです。そして、それは、特に『資本論』の最初に出てくる「教科書的」な説明に
要約されているように、価値なるものの弁証法的な矛盾とその発展、そしてその止揚として捉えられた訳です。。
>資本の動きは弁証法的に記述できるなら、弁証法の称揚は資本の単なる肯定になりはしないのか?
内在的本質における矛盾は現実の事態として現象せざるを得ない、と言うのが弁証法的な記述と言えるなら、資本自体の
矛盾を記述するとは、それを肯定することではなく、否定の否定(他ではあり得ない必然的なもの)として捉える事です。それ
は例えば、価値自体に内在している「使用価値と交換価値の矛盾」という抽象的な本質が価値法則として展開されており、
それは資本形態においても実体として、”最終的には”恐慌を引き起こす原因になっている、という認識であり、法則の根拠で
ある根本的矛盾(資本と賃労働の対立)を止揚しない場合、自己を否定して、無法則な事態に結果する、という認識です。
もちろん、「実体の真理は主体である」とは実践的な命題ですから、現実の矛盾は記述によってではなく、実践的変革によっ
てのみ止揚できる。
そのためには、労働者階級の組識的団結と現実における必然性の洞察(主体的かつ客観的な世界認識)が必要です。
「必然(運命)を自由(未来)に変える」事は労働者の共同的な事業としてのみ達成可能です。


85:考える名無しさん
07/11/21 18:03:41 0
202 名前: OFW 投稿日: 2000/12/31(日) 22:02
>>200
>マルクスは『資本論』で弁証法を活用したわけだが、

マルクスは商品、貨幣、資本価値について、「労働」をそれらの実体的本質だと見た訳ですが、そのこと自体はアダムスミスや
リカードが既に発見していた。マルクスの独自性はその「必然性」を解明しようとしたことであり、そのためにはむしろ「価値形
態」に着目して、その展開を行う必要があったのです。そして、それは、特に『資本論』の最初に出てくる「教科書的」な説明に
要約されているように、価値なるものの弁証法的な矛盾とその発展、そしてその止揚として捉えられた訳です。。
>資本の動きは弁証法的に記述できるなら、弁証法の称揚は資本の単なる肯定になりはしないのか?
内在的本質における矛盾は現実の事態として現象せざるを得ない、と言うのが弁証法的な記述と言えるなら、資本自体の
矛盾を記述するとは、それを肯定することではなく、否定の否定(他ではあり得ない必然的なもの)として捉える事です。それ
は例えば、価値自体に内在している「使用価値と交換価値の矛盾」という抽象的な本質が価値法則として展開されており、
それは資本形態においても実体として、”最終的には”恐慌を引き起こす原因になっている、という認識であり、法則の根拠で
ある根本的矛盾(資本と賃労働の対立)を止揚しない場合、自己を否定して、無法則な事態に結果する、という認識です。
もちろん、「実体の真理は主体である」とは実践的な命題ですから、現実の矛盾は記述によってではなく、実践的変革によっ
てのみ止揚できる。
そのためには、労働者階級の組識的団結と現実における必然性の洞察(主体的かつ客観的な世界認識)が必要です。
「必然(運命)を自由(未来)に変える」事は労働者の共同的な事業としてのみ達成可能です。


86:考える名無しさん
07/11/21 18:04:47 0
203 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2001/01/27(土) 16:23
さてしかし、このスレのテーマであるヘーゲルの評価について言えば、アドルノあるいはデリダが称揚する不協和あるいは差異
性(差延性)といったそれ自体あまり役に立たない直接的な表象をもって反発するだけでは、余りにも安易と言える。
それらは、現実の歴史を規定してきたものがヘーゲルのもたらしたパラダイムだと言わんばかりである。20世紀の思想的閉塞
状況あるいはファシズムの原因がヘーゲルの絶対的観念論(あるいはそれに代表される何物か)にあると錯覚する程、ばかげ
た事はない。そんな考えは小ブル的な知性の脆弱さを示すだけであり、彼らの属する中産階級固有の肯定かつ否定の両義
性をごまかしているだけである。
「全体主義には反対、しかし共産主義にも反対。」これが、決して団結しない不協和あるいは決して階級として統一されな
い差異性を後生大事にしたい否定的かつ肯定的な弁証法(むしろ反弁証法)の正体である。
ヘーゲルならば、そのような退廃的・逃避的な小精神を大いに哄笑するであろう。

255 名前: OFW 投稿日: 01/12/23 11:47
>>251
>「自由主義的民主主義が自己の正当性を証明してゆく過程」

とは近代ブルジョア自由主義に基づく平板な進歩主義史観の主張であり、現在も某国大統領がその“証明”のために「不朽
の自由」作戦を敢行している所ですね。
ヘーゲル自身は歴史を客観的精神の発展過程として捉えており、その一段階としての政治的国家の最高形態を立憲君主
制に見ていた。若きマルクスは『ヘーゲル法哲学批判(序説)』において、その反動性を見事に(弁証法的に)批判していま
す。


87:考える名無しさん
07/11/22 11:14:54 0
コピペはやめてくれませんか?
迷惑だから。

88:考える名無しさん
07/11/22 20:26:06 0
久しぶりに来てみたらどなたかにお手伝いを戴いたようで。
そのせいとは言いにくいけど、なにかOFW氏のコピペが錯綜してるような。
87氏のように批判的且つ否定的だが、"関心"を持って戴き是にすぐる幸甚は
無し、と言うことで44の後からで~す。

98 名前: OFW 投稿日: 2001/02/26(月) 23:28
>>95
いやぁ、哲学板では皆お金の話には関心がないと思っていたので、珍しいな。もっとも、この板でお金についてカキコするのは、
これで3回目ですが。

>『資本論』で、商品における使用価値と価値との矛盾が 貨幣において止揚されるというのも弁証法的展開だと 考えてい
いのでしょうか?

良いでしょう。しかしまず「商品における使用価値と価値(正確には交換価値)との矛盾」とは如何なるものか、を考える必要
があるでしょう。(経済学者は誰もそんな事を考えない。これは経済学を震撼させる設問だ!)
使用価値とは通常の言葉で有用性あるいは効用と呼ばれる、経済学の基本概念ですね。経済学者は皆「それは主観的な
あるものだ」と言い、それ自体について余り深くは考えません。彼らは常に価格、つまり価値の貨幣形態から議論を始めます。
貨幣を価値の絶対的基準だと見なしているから、価値自体についてそれ以上考察しなくて良いという訳です。
しかし、一方で、たとえば「物価の上昇は貨幣価値の減少だ」などと平気で言い、貨幣と商品は互いに鏡のような関係にある
ことを暗黙に認めている。


89:考える名無しさん
07/11/22 20:28:12 0
>>98の続き

現在、殆どすべて有用物は商品として市場で交換される。それは売買と呼ばれ、貨幣を商品と交換することです。しかし、
小学生も物々交換の存在を知っており、それは有用物と有用物を直接交換することです。
しかし少し考えてみれば、貨幣が無ければ、Aの所有物aとBの所有物bを直接交換することは、理論的にはなし得ない行為だということが分かる。
何故なら、物の効用は主観的であり、Aにとってbがaより有用であり、同時にBにとってaがbより有用であることが、物々交換の条件なわけですから、
物々交換とは「二つの不等価性」どうしの交換でしかなく、決して「aおよびbの客観的価値」に基づく「等価交換」などではないから。
「物々交換は不可能である」、これが使用価値と交換価値の矛盾です。
その矛盾を解決するために、万物の価値を尺度するもの、貨幣が要請される。それは商品世界を統一する、グローバル・スタ
ンダードです。しかし、それは商品の矛盾の完成であり、決してそれを止揚しない。
貨幣とは社会的人間の疎外された姿であり、その物象化の完成なのです。


90:考える名無しさん
07/11/22 20:32:50 0
99 名前: OFW 投稿日: 2001/02/26(月) 23:30
>>95(つづき)
>しかし、生産物交換がない社会とはなかなかイメージしにくい

歴史を遡るまでもなく、今でも漁村や農村など村落共同体の中には、協業により生産された生産物は成員への「再分配」と呼ばれる分配方式が残っている
でしょう。「共同体の神」と「老人、寡婦、病弱者、子供」の取り分をまず控除し、次に「不時の将来への備え」として(可能な分を)控除し、残りを
各自の必要に応じて均等に分配する。
そこには商品、貨幣などなく、さらには「価値」と呼ばれる物象的な力など、かりそめにもない。 また、「互酬」と呼ばれる(広義の)再分配方式もある。
それは「所有物(あるいは労力)を互いにプレゼントし合う」という、これまた商品、貨幣を不要とする生産物の「無等価交換」でしょう。

>生産物交換(交易)は縄文時代からあった
まさに商人は歴史上最も古い「世界市民」であり、伝統的な共同体を超えて、価値の差異(マージン)を利用して富を蓄積して行ったわけです。
「実在(質)の『限界』とはその内において実在がそれであり、同時にその外において実在(質)がそれである所として、他の実在(質)と出会う『共同性』(広場、量)の定立である。」(ヘーゲル@パラフレーズ)
彼らはそれと知らずに、伝統的な共同体を外部から壊し、その世界化を推進した革新者です。確かに貨幣は「革命的」であったが、もはやその歴史的使命は終りつつある。「否定の否定は真の肯定」、かな。


91:考える名無しさん
07/11/22 20:35:20 0
108 名前: OFW 投稿日: 2001/03/13(火) 21:21
>>100(95)
忙しかった仕事が一段落したので、亀レスながら。

>貨幣は確かに弁証法的(革命的)契機だが、それはたかだか「第一の否定」しかなしていなく、貨幣(第一の否定)の
否定としての共産主義をもって始めて弁証法的展開(否定の否定)だということになるわけですね。よろしいかな?

OKです。マルクスの「社会の自然史」という方法論的立場は、
即自的(=向他的)(自然的、潜在的、推移的)
      |
向自的(自立的、顕在的、反照的)
      |
即且向自的(歴史的、自覚的、発展的)
というヘーゲルの否定の否定を、社会の唯物論として転倒し、歴史の真の主体が何かを明らかにしたものと言える
でしょう。
>>101
>弁証法は、3段階のどの部分に力点を置くかによって立場も大きく変わる
確かに、対立(矛盾)を強調するか、その止揚を強調するかで、ニュアンスが異なる。ヘーゲルも自己の哲学を「思弁哲学」
と呼んだが、それは、むしろ遅れたドイツの反映でしかなく、保守的・妥協的な観念論になった。

>>102
>A + anti A =B
数学的な記号は「相当性」「等価性」という外的なものを表象させるので余り適当ではないでしょう。(記号論理学のような
無思想になる。)
anti(反)とはA自体に含まれているものです。

>>103
>A + antiA ≡ A , ∵antiA⊂A
集合論的な比喩を離れれば、「Aと非Aからなる全体」とは、「Aの定立根拠」のこと。「Aとそれ自体との同一性」が
「Aと非Aとの区別」と同一であることをAの存立と言います。それは「自己に帰る運動」です。


92:考える名無しさん
07/11/22 20:37:56 0
109 名前: OFW 投稿日: 2001/03/13(火) 21:23
>>104
>そのあまりのつまらなさに モチベーションの低下はさけられず

日本には、まともな弁証法の解説書は無いのではないかな。
弁証法的な思考は具体的・実践的・革命的なものであり、活きた現実の中でこそ力を発揮するものでしょう。

>>105
>AとBは同時に存在出来ない、そこからAを発展させBを止めておく。これで2つの物が存在できるってこと?

通常、B(非A)はAによらずそれ自体でBと考えられているが、AならばBでない、という排他性(他者の否定が
自己である)に進展すると、AとBは関係性において見られることになりますね。そのことは、両者は独立した2つの
物ではなく、1つの物の2つの現れとして存在することを示している。

>>106
>Aの内包が時間という概念のもとに変化する限りは

変化とは「Aが非Aになること」であり、「非AはAであった」ことですから、内包Aは非Aにおいて“否定的に”保存されて
いますね。

>~Aの外延がAの外延と同値であるとはいえなくなるので

非Aとはむしろ外延しないもの、観念(内包)そのものでしょうね。
外延論理学(形式主義論理学)は内包(質的区別)を抽象して、その真理である量において世界を外的に(無思想的に)
思考します(計算と呼ぶ)。
そこでは、非(否定)は無-差別という肯定に過ぎない。内包が変化しても、それに無頓着なわけ。

>弁証法も科学的といわれ続けるのですかねえ。

エンゲルス以来、日本共産党に至るまで弁証法を科学と呼ぶが、それは大いなる誤解、です。


93:考える名無しさん
07/11/22 20:40:07 0
118 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:31
>>110(・e・さん)
どもです。
>面白いスレだなぁ。
いえいえ、・e・さんにはとても及びません…(とおべんちゃらなど)

>A(或いは、これはコーラだろうか)という定立に 既に潜在的にAの定立を否定する非Aの契機…が含まれている
わけですね。

そう思います。「何かがある」とは、多様で変容する世界の中で主体が特定の存在者に向かうことであり、対象Xを実在
するものとして指示するためには、「それの何」(質)をAとして、非Aから識別(区別)する働きがそこにある。
しかし、区別から同定に帰る運動自体は非対象的で、対象化されるのはその結果(総括)としての「これ-A」という
存在者です。

>そして非Aが顕在化すると同時に、「これはコーラだ!」という総合へと発展する、

実在判断(質の判断)は「個別的なものは普遍的なものだ!」という形式内容を持ちます。しかしコーラとは個別対象
ではなく、一般概念ですから、主語「これ」と述語「コーラ」との関係は「である」という同一性ではあり得ない。
「これはコーラそのものではない」からです。「これ」は様々な(多様な)個別者、一般的な個別者を指している。
つまり「これのこれ」「あれのこれ」等の間の共通性が<これ-コーラ>です。
しかし、そうなると質の判断は反省の判断(関係性の領域)に移行します。

>非A+の内容が顕在化すると同時に、…「これは飲み物だ!」という総合へと発展する、

反省の判断は、単称判断、特称判断、全称判断に区分されます。
「<これ-コーラ>は一つの飲み物だ!」(単称判断)
>抽象性や一般性のより高度で幅広いステージへ移行する

『(小)論理学』では、質の判断→反省の判断→必然性の判断→概念の判断→質的推理→反省の推理→必然性の推理→客観的関係→…として、より“具体的”なステージへの移行として示されています。


94:考える名無しさん
07/11/22 20:42:31 0
119 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:34
>>111(・e・さん)
>この内容が顕在化されて初めて「創造」されるものなのか、

創造ではなく、より客観的・具体的な対象への移行でしょう。
「これはコーラだろうか?」に対する答としては、
1. いや、これは牛乳であってコーラではない。(偽の概念)
2. いや、これはコーラと呼べる代物ではない。(偽の対象)
3.そうだ、まさにこれはコーラと呼ぶべきものだ。(真の対象・概念)
の3通りがある。
ある対象をコーラと呼ぶためには、コーラの質(コーラの<コーラ性>)が他の質と区別され、明確になってい
なければならない。
対象Xがコーラであって牛乳ではないのは、それがまさにコーラだからでしょう。それは、概念としての質を表現し、
単なる名辞ではない。
そして、真の概念とは客観的な対象を指示するものを言いますから、対象の「見かけ」を通してその本体に向かう場合、
本体は前提されたものです。
それは、現象に過ぎない存在から、より現実的で客観的な世界を対象化して行く知性の運動であり、「真の実在」に
到達するための(精神的)労働です。

>要するに弁証法的思考における自由と必然性に関するものです。

客観的世界の必然性を認識することは、認識主体の自由そのものではないでしょうか。
必然性の概念は「他ではあり得ない」(否定の否定としての自己肯定)ということですから、必然的なものとは本来、
自己を媒介する運動です。しかし、それがその媒介に対して外的な関係を持つが故に、「外的必然性」と呼ばれ、
盲目的運命に喩えられたりもする。必然的なものを認識するとは、その被媒介性を知り、「他でもあり得た」という
可能性と「他ではあり得なかった」必然性とを結合すること、すなわち、全体として歴史を動かす自己を知ることです。
そのことが、歴史の主体として「プロレタリアートの運命をその未来に変え」、「必然性の王国から自由の王国へ」
(マルクス)と向かうための第一歩と言えるでしょう。


95:考える名無しさん
07/11/22 20:45:07 0
120 名前: OFW 投稿日: 2001/03/15(木) 23:36
>>111(・e・さん)(つづき)
>弁証法発展というものにおける「生成の論理」は 何らかの時間規定を含んでいるのでしょうか。

とても重要な指摘ですね。
存在と生成の関係は弁証法の基幹にある。
経験的な世界は変転極まらず、固定した存在と見えるものも生成消滅を免れ得ない。その様相を「生成」という概念で
定着させると、それは無から有への移行として跡付けられる。
では“何が”移行するのか、と問えば、「未だ生まれず、既に無ではない何者か」と言わざるを得ないが、それは移行の
“内に”あって自己に止まるものであり、移行の果てに現れるものでしょう。それは外化しつつある何者か、時間的な過程を
通してその統一を保持しつつ発展する<事柄としての歴史>そのものと言えます。ハイデガー的に言えば、
「時熟」するものの概念化が歴史的形成の論理としての弁証法でしょうか。(ハイデガーは<存在>観念に捕われ過ぎ
たが、生成する物質的自然こそが本源的な存在でしょう。)

>理性の自己発展としての世界史は、神的な普遍理性が「永遠の今」のうちに繰り広げる 歴史の必然的な推移のように捉
えられていた

ヘーゲルの弁神論においては、絶対者は決して世界に現存在できない。
実体の主体化が見せかけに過ぎないのは、結局、主体が単数だからです。
それは具体的普遍を説くことで、近代的個人主義(すべての個人が絶対的主体である)の抽象を超えてはいるが、
本源的自然(唯物論)が欠けているために、本来的な他者を知らない。人間にとって自然とは必然であり、自己の根拠
をなすものですが、社会的労働により自然は媒介され、諸個人は共同的な類として、初めて現実的主体になる。

>だとしたら弁証法は、思考の「しなやか」な自由を保証するものではなく歴史的事象の必然性を正当化するようなもの
になってしまう

内的な必然性とは外的な必然性(偶然的な必然性)とは違い、自己を必然とする(自己の実現を目指す)ものです。
それは、外的な世界の必然性を自己の自由な条件とする思考(歴史的構想力)によって、しなやかで創造的なものに
なるでしょう。
「状況は開かれており、未来はそこにある。」


96:考える名無しさん
07/11/22 22:16:22 0
生滅流転、栄枯盛衰のほうがいいんじゃねーの?
進歩史観なんかダメだろ。


97:考える名無しさん
07/11/23 06:44:29 0
121 名前: ・e・ 投稿日: 2001/03/16(金) 00:45
>OFWさん
なるほど。
ところで『小論理学』を一度読みたいのですが手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか?
それと個別的な事象に「質」が対応する(一致ではないですね、厳密には)のは分かるのですが、一方でヘーゲルの言う「量」
概念が分かりません。。。ご教授いただけます?


98:考える名無しさん
07/11/23 06:45:10 0
122 名前: OFW 投稿日: 2001/03/17(土) 10:21
>>121(・e・さん)
>手ごろなところではやはり岩波の古い翻訳になるのでしょうか?
そうですね。講義ノート(補遺)がついているから、理解の手がかりとして便利です。しかし、難解さは天下一品ですから、
スルメをしゃぶるように読むしかないでしょうね。

>「量」概念が分かりません。。。ご教授いただけます?
そんな大それたことはできませんが、ヘーゲルの紹介程度なら…。
1.量とは質の止揚(揚棄)である。
質とは存在(有)と一体となった規定性(区別)であり、

有(純有、無、成):始源における無-規定性としての質

定有(実在性(即自有)、他在(向他有)、限界):変化としての質

向自有(一者):自己関係(自己復帰)としての質
 
と進行するが、向自有において、その自己関係性は矛盾(多くの一者)として立てられ、量(無-差別性)に移行する。

2.量の規定性は、
純量(連続量と不連続量、単位):量の即自有、無-関係性としての量
   ↓
定量(外延量、(集合)数)  :量の定有、自己超出としての量
   ↓
度(内包量、尺度、比)    :量の向自有、自己関係としての量

と進行する。

3.度に至って、量は限度(質的な定量、質量)に移行する。

…と書くと、「不可解なりぃ!」となるでしょうから、少し解説をば。


99:考える名無しさん
07/11/23 06:48:14 0
123 名前: OFW 投稿日: 2001/03/17(土) 10:22
>>121(・e・さん)(つづき)
「通常分割可能と考えられる量も、それ自体を直観すれば、唯一かつ不可分な存在であることが分かる」(スピノザ)と
言われるように、質的な多様の底には存在の一様性がある。それが純量であり、絶対的な連続性としての自然の在り
方です。

同時に、質の否定性としての他在は限界として立てられた訳ですが、量においては単位という区別に止揚されている。
単位とは区別の無差別性であり、多様な存在を連続化(一様化)させる根拠であると同時にそれを区別化(集合化)
させる根拠でもあるでしょう。
それらを完全な形で展開したものが、数(単位と集合数の統一)です。エレメントとしての“1”において、両者は直接的に
統一されている。数学は数を作ること(数えること)から始まるが、何を単位にするか、が重要な点です。
そして算術は単位と集合数の関係の展開であり、和とは数を規定すること(数の限定)、積とは集合数を単位に変換す
ること、冪は単位と集合数の相等性を立てること、等々と言われます。

また、ヘーゲルは微分にも言及しており、微分量を「消滅しつつある量」と呼んでいます。それに呼応した言明として
エンゲルスの「微分積分の登場によって、科学は運動を取り扱えるようになった」というのがあります。
数学的思考は事柄の内面に踏み込まない外面的な思考であり、外面的(相互外在的)対象には妥当するが、
それも一定の<限度>内でのみということを忘れると、現代の形式論理や経済学の無思想になるのはホントですね。

近代は商業と数学によって切り開かれてきた。それはデカルトの「幾何学の精神」の源泉でもあり、さまざまな国を冒険
したガリバーが到達した結論「人間精神の違いは体の大小に過ぎない」にも示されている(花田清輝『転形期の精神』
のバラフレーズ)。

しかし、深遠なものは広大なものでもあるから、内包は外延に比例するのです。外面的な大きさはむしろ卑小な内面を覆い
隠す「見せかけ」だということは、「外見がすべてだ」という現代にこそ相応しい警句でしょう。



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