07/10/22 10:04:04 0
387 独力で思索することのできる哲学者ならば私のノートを興味をもって読んでくれるの
ではないかと思う。私は稀にしか問題の核心を射当てないかもしれないが、私がいつも
狙っているのが何であるかを彼(読者)は認識することだろう。
160 子供は大人を信用することによって学ぶ。疑うことは信じることのあとに来る。
信じることがあるから疑える。
208 私が電話でニューヨークの友人と話す。友人が庭の木に花が咲いたという。
私はその庭に咲いたのだと確信する。しかしそこに大地が存在するという
ことも併せて確信するのか。
209 大地が存在するということはむしろ、私の確信の出発点になっている全体的な
像の一部なのである。
210 つまりニューヨークとの通話で大地の存在の確信を「さらに」強めるだろうか。
(いや強めない。大地はあるという確実な認識の上の会話だからさらに強めるなどという
ことはありえない。)
232 個々の事実について私は疑うことが出来る。しかしこれらの事実をすべて疑うことはできない。
234 概括的にいえば、地理や歴史に関する基本的な事実をみな信じているわけである。
288 私は、皆がそう信じていると信じているのである。
289 他の人々もすべてが実際その通りであると信じている、すなわちそう知っていると
信じていると私は確信するのだ。
342 つまり科学的探究の論理の一部として、事実上疑いの対象とされないものがすなわち
確実なものである、ということがあるのだ。
343 ただしこれは、われわれはすべてを探求することはできないという意味ではない。
われわれがドアを開けようと欲する以上、蝶番は固定されていなければならないのだ。
(つまり探究するときには、常に確実な足場がなければ、探究できないのである。)
確実性を巡ってひたすら様々な場面を想定し問い詰めていく、そしてその過程を本にする。
しかしまぁ改めて珍しいスタイルですね~。