07/11/24 05:22:43 0
>>401
これは該当行為が「虐め」であるという認識の共有が広くされている場合には言えます。
しかし、多くの場合「虐め」であるか否かと言う点が問題となります。
とりあえず、テキトーにアルファベットふって解りやすく(解りにくいかも?)
A―行為者
B―被行為者
C―第三者
x―「行為」が虐めであるという認識あり
y―「行為」が虐めであるという認識なし
たとえABC全員がxだとしても、時が経てば認識が変化する場合もあります。
(今考えるとアレは虐めでは無いだろ、と。逆もまた然り―今考えたらアレは虐めだよなと)
また、ABC何れも一人では無く複数であるケースもあり、夫々が別の認識である可能性も考えると、何をもって「虐め」とするか判然としません。
(「体罰」なら「物理的な暴力」という事実で認識の共有がし易いのですが)
卑近な例で言えば、亀田一家の騒動等いかがでしょう?
批判的報道&世論に対して大雑把な傾向はAy、Bx、Cy でした(まあ、アンケートや報道を参考にした主観による判断ですが)
(勿論少数意見としてCxやAxもいたでしょう。相手にネームバリュー&高い影響力を持つ反論の場があるのでAxの場合、ただ喧嘩腰だっただけかもしれませんが)
「虐め」というレッテルを「批評」「批判」「不快感の表明」「喧嘩」(―喧嘩の場合、行為者・被行為者が同じ。単に強弱の差が問題となる)に張替えると、途端>>401は説得力を失います
(被行為者に行為の原因を求めるのは行為者の甘え・責任転嫁でしかない。というのは究極的に変わりはしませんが)
逆に言えば「虐め」「差別」「虐待」という便利なレッテルは、「弱者=善」という通俗的なイメージを利用した防御・攻撃方法となっている面があるのです。
さて。
何をもって「虐め」と認識しましょう?