壱思想at PHILO
壱思想 - 暇つぶし2ch2:壱
07/07/29 16:55:38 O
さっきテレビで香取君が
生まれて来て意味の無い人間なんて一人もいない
なんて言ってたけど
こういうような思想こそあらゆる害悪の根なのであって
本当は
生まれて来て意味の有る人間なんて一人もいない

3:壱
07/07/29 17:32:59 O
なぜ害悪の根なのかといえば
生まれて来たことに何かしらの意味があるとなると
多くの人が思い悩むことになるからであります
私の生きてる意味ってなんだろう
こういう悩みに答はありません
もともと意味などないからであります

4:考える名無しさん
07/07/30 14:30:58 0
終わり?

5:壱
07/07/30 17:06:58 O
悩む必要がそもそもない
最初からないものを探す必要はない
なぜそれをあるあるって言う?
あるある詐欺じゃないか!

6:壱
07/07/30 18:39:10 O
だいたい
生きてる意味がないとか言って
鬱になったり自暴自棄になったりするのは
心のどこかで
本当は生きてる意味があるはずなのに・・・
と思っているからで

7:壱
07/07/30 18:42:38 O
最初から生に意味なんかないとわかってれば
そんなの当たり前のことで
ため息つくようなことじゃない
鼻で笑うべきこと

8:壱
07/07/30 18:48:18 O
だから例えばいじめられっ子に
僕はもう生きてても仕方ないから死ぬよ
と相談されたときに
そんなことないよ
生まれて来て意味のない人間なんて一人もいないんだよ
なんて言うのは本末転倒なのであります

9:壱
07/07/30 18:56:10 O
なぜかというと
彼の苦しみの根は
いじめそのものよりも
人生はもっと道理の通った意味のあるものである
というその信念にこそあるからで
それをまた
君にも生きてる意味はある
なんて言ってしまうと
苦しみの根をさらに増長させるようなものであり

10:壱
07/07/31 16:25:25 O
誰だって生きててもしょうがないよ
生きててしょうがある人間なんていない
この世はまるごと不条理なコメディー
失笑してやり過ごせばいいだけ

11:壱
07/07/31 20:46:41 O
人生はすこぶる出来の悪い不条理なドッキリみたいなもので
ほとんどの人が死ぬ間際になって初めて
生が何かの悪い冗談だったことに気付く
で大して笑いも起こらないし
なんだこりゃ?
失笑するしかない

12:考える名無しさん
07/07/31 21:01:48 0
壱よ、往生際がよくて気持ちがいい。

13:考える名無しさん
07/07/31 21:27:40 0
「意味」が分かっていない壱の人生の意味は不明に決まってるだろうが。ヴォケw

14:壱
07/07/31 22:04:53 O
「意味」の意味って何だろね
どういうときに「意味」は生まれるのだろか
香取君が言う人生に意味があるってどういう意味だろうか

15:壱
07/07/31 23:19:23 O
何かの目的の為に役に立つかどうか
という意味がまずあるかな
何かがその目的に全然役に立たない場合
それ意味ないじゃん
と言われる

16:壱
07/07/31 23:26:07 O
もうちょい広くとれば
対象となる物事に対して何らかの関連を持つかどうか
それが対象に対して関連を持たない場合
意味わかんねー
と言われる

17:壱
07/08/01 12:12:03 O
香取君や世間の人が言う意味は多分前者の方で
その言わんとするところは
君が生まれて来たのに意味がないなんてことはないよ
例えば君のお母さんは君がいるだけで嬉しいんだよ
だから君はお母さんの役に立ってるんだよ
故に君が生きているのは意味があるのさ
君ががんばればもっと多くの人を喜ばせたりできる
そしたら君の生はもっともっと意味深くなって充実するよ
誰でも誰かのためになってるんだ
意味の無い人間なんて一人もいないんだ!
まあそんなとこだろ

18:壱
07/08/01 15:23:56 O
そういう意味ならまあ確かに
誰にでも多かれ少なかれ意味があると言えるんだろう
じゃ俺が「人生は無意味である」と言う時の
「意味」の意味って何だろう?

19:壱
07/08/03 02:40:20 0
例えば何かの文章が意味不明という場合
それぞれの単語が何を指し示しているのかが不明な場合がまずあるし
もしくは単語それぞれの意味はわかるけれども
それらのつながりが非論理的であったりして
結局何が言いたいのかわからないという場合もある


20:壱
07/08/03 02:43:52 0
私が「人生は無意味である」と言うときの「意味」は
これに近い
人生は総体として非論理的で脈絡の無い偶然の集積である
ところで非論理的で脈絡の無いものは無意味である
よって人生は無意味である

21:壱
07/08/03 02:53:27 0
意味を感じるのは一つの思考システム
一つの色眼鏡
一つの言語のようなもの
我々は未知の言語を聞いても全く意味がわからないが
その言語を話す人たちの間では意味が成立している
香取君や世間の人はそういう色眼鏡をかけているので
世界は意味に満ちていて意味の無い生など無い
けどいったんその眼鏡を外して世界を眺めてみれば
とたんに不条理に満ちた失笑すべき情景が広がる

22:壱
07/08/03 02:56:47 0
意味のある生とは一つの神話である
それを信じて生きて楽しいならそれでもいいけど
つまんなかったり苦しかったら早いとこ捨てちまいな
こっちへ来いよ
みんなで笑おうぜ

23:考える名無しさん
07/08/03 17:37:08 0
壱さんは生きてて楽しいですか?

24:壱
07/08/03 22:32:56 O
楽しくなさの根にあるのは必ず不満感や不足感で
不満感や不足感は希望や期待や信念から生まれる
例えば合コンが楽しくないのはあらぬ期待をするからで
全く期待しなかったらどんなに不細工だらけでも案外楽しめたりする
こうあるべきだという信念を捨てれば
どんな悲惨なことにてっも大概納得できる
私はそんな風にこの意味不明な生を完全受け身で漂う
なので少なくとも楽しくないということはないです

25:壱
07/08/04 00:56:21 O
やなことあっても気にならないし
いいことあればそれはそれでそれなりに楽しいし
得だべ?

26:壱
07/08/05 02:09:16 O
私はもともと無色
なんか生きてたら勝手に色がついてきてるけど
別にどんな色になっても構わない
この色は私に関係ないから

27:壱
07/08/08 22:46:07 O
何があってどうなろうと
でもそんなのカンケーねぇ!
でもそんなのカンケーねぇ!
で済まして良い
でもそんなのカンケーねぇ!
でもそんなのカンケーねぇ!
で済ませられないことなどない

28:考える名無しさん
07/08/08 23:34:45 0
いや、壱はどんなに次元の違うモノやコトやヒトともすべて関係がある

29:壱
07/08/09 03:25:54 0
まあある意味そうですね
すべて関係があるといえば関係があるし
関係が無いといえば関係がない
そもそも関係って何だろね

30:壱
07/08/10 02:09:53 0
何かが何かに何らかの影響を及ぼすとき
それらは関係がある
何かが何かに何の影響も及ぼさないとき
それら二つには関係がない
こういう意味でいえば
例えば私の呼吸一回で地球上の大気は僅かに変動し
それは地球全体の生態系に何らかの影響を及ぼすだろうから
私に関係のないもの生物などいないだろう

31:壱
07/08/10 02:25:27 0
もうちょっと普段の生活レベルで考えてみても
例えば私は日々回りの人から影響を受けているし
私もまた回りの人に影響を与えているだろう
私の思考はこうして電子信号によって運ばれ
会ったことの無いあなたの思考にも影響を及ぼす
そんな風に考えていけば
私に関係の無い物や事や人などいないといえる
では私が「私と私の人格(色)は関係ない」
「この生で何が起ころうと私とは関係ない」
というのはどういう意味だろう?

32:壱
07/08/10 02:36:48 0
私はこの生に主体的に全然関与していない
勝手に人格は形成され偶然与えられた環境の中を漂っていたら
何か知らんけどあれこれ事が起こったりするだけ
だからこんな人格も生も知ったこっちゃない
私に私の人格や生に対する責任などない
私は無責任
私は無実
私は関係ない
私はこの人格を私と認めない
私の人格やこの肉体はあらゆるものと関係しているだろう
でもそれと私は全然関係ない
私は全然関与してないし向こうも私に影響を全く及ぼさない
だから何が起ころうと関係ない
ま、そんな意味です


33:壱
07/08/10 02:48:17 0
要は「私」と「私の人格」を両方「私」と呼ぶから
ややこしくなるんだわな
「私の人格」は物語の中の「私」
「私」は私
「私」は「壱」
余計ややこしい?
まあゆっくり説明していく
そのうちわかる人はわかる
わからない人も死ねばわかる

34:考える名無しさん
07/08/13 12:33:57 0
俺には関係ない
おれは完全に責任をはたした












35:壱
07/08/13 15:40:27 O
私は車の車軸の中心
車がどんだけ回転しようとも私には関係ない
私は微動だにせずそれを眺めてただ笑う

36:壱
07/08/13 17:45:59 O
私の肉体や人格や周りの世界は車の回ってる部分で
常に転変生滅を繰り返すがそれは決して私じゃない
「壱」は永久に宇宙の中心において不動不変不滅
それが本当の私

37:考える名無しさん
07/08/14 07:00:51 0
>>26
色即是空
お釈迦様の境地に辿りついたようですな

38:考える名無しさん
07/08/15 02:02:10 O
ちょっと待ってくださいよ。一つ気になるところがあるんですよ。壱さんの考えには概ね共感できるんですが
>>19-20のほうの「意味」についてなんですが、壱さんもおっしゃる通り
>>人生は総体として非論理的で脈絡の無い偶然の集積である
ここまでは僕も同意なんですが
ところで非論理的で脈絡の無いものは無意味である
よって人生は無意味である
この部分は少しばかり短絡的ではないでしょうか?
僕は例え非論理的で脈略のないものの連続が人生であっても、それを理由に「人生は無意味」とするのは早すぎると思います。
僕にとって無意味というより「意味がわからない」「全貌が掴めない」「理解不能」数学で使う「X」と同じような感覚なんです
たぶんこれから先も解ることはないだろうけど、解らないからといって
無理やり答えを決めて楽になりたくない!もっと追い詰められたい!もっと苦しみたいんすよ!

39:考える名無しさん
07/08/15 02:07:30 O
その上でもっとオナニーしていっぱい気持ちよくなりたいんすよ!

40:壱
07/08/15 03:52:28 0
苦しみたいなら苦しめばいい
それに耐える体力知力があるのなら
君は多分強い人なんだろう
私は楽になる方を選んだ
選んだというかこっちに来たらしっくりきて楽になっちゃった
だからもう戻る気もしない
ただそれだけ

無意味と断定するのはおかしいね確かに
「意味不明」「理解不能」の方が適切な表現と思います

まあいつか辛くなったらこっちへおいでよ
別にいいと思うよそれでも

41:壱
07/08/15 04:03:42 0
生に勝ち負け優劣など無い
どんだけ奮闘しようがどんだけ逃げ回ろうが
そんなのカンケーねぇ!
そんなのカンケーねぇ!

42:壱
07/08/15 04:12:02 O
俺はもうあがったよ
こっちへおいでよ
みんなでなごもうぜ

43:考える名無しさん
07/08/18 12:42:07 O
>>壱
じゃあ取りあえず俺とセクースしようぜ
してもしなくても一緒ならキモチー方がいいじゃいあん

44:壱
07/08/18 15:43:05 O
君が美少年なら考えないでもないけどな

どうせ意味ないなら気持ちいい方がいいというのは同意
私も生をできるだけ快適にやりすごしたい
適度に食って適度に寝て適度に遊んであとは笑う

45:考える名無しさん
07/08/18 16:26:06 O
美少女じゃ不満なんですね

46:壱
07/08/18 16:40:59 O
女はもっと熟れてないとね

47:壱
07/08/18 19:40:29 O
私は右から左へ生を受け流す

48:考える名無しさん
07/08/18 21:24:44 O

このスレの目的は

49:壱
07/08/18 23:10:41 O
特にないっすよ
似たような人がいたら雑談したいなとか
一人か二人くらいこれを読んで楽になる人がいたらいいなとか
まあそんな程度かな強いていえば

50:考える名無しさん
07/08/19 01:04:08 0
そうかい

人生最大の発見★12
スレリンク(philo板)

51:壱
07/08/19 03:19:08 0
ざっと読んでみたけどおらあんまわがんねぇだ
とりあえずこっち来れば?
俺と遊んだ方が楽しいよ多分

「原則」は老子の「道」に近いみたいだけど
「壱」も「道」と似てる
まあおいおい説明していく

52:壱
07/08/19 13:56:17 O
流れを見つけて
それに完全に身を委ね
ただただ漂う
これが快適な生を送るコツ

その流れが多分原則であり
道であって
「壱」はその流れの原動力みたいなもの

53:考える名無しさん
07/08/19 19:34:00 0
なるほど。上から読んでみたが、なんとなく仏教っぽさがあるな。


54:壱
07/08/20 00:21:29 0
まあ仏教思想の過激派といえなくもないかもね
俺はどっちかっつーと同じインドならヒンズーの方が近いと思うけど
あとは道元、老子、ショーペンハウアー、Oshoあたりも近いかな
でもそれらのどれともある意味遠い
ま、ゆっくりおつきあいくだされ

55:壱
07/08/20 21:55:00 O
意味から解き放たれたとき人間は笑う
壱思想は笑いの思想
人を意味から解き放つ思想

56:壱
07/08/21 00:44:39 O
葬式では
それがふさわしくないとわかっていながら
思いのほか笑いが起こるものだ
身近な人の死に直面すると人は一時的に生の意味から解放される
そんなときこそチャンス

57:壱
07/08/21 04:50:47 0
だから例えばあなたの家族や友人が毎日立て続けに死んでいったとしたら
それが一ヶ月くらい続けば
あなたも私と同じように生の意味から解放されて
もうこんなんなら笑ってやりすごすほかないと思うことだろう
どうせいつ死ぬかわからんし
気張ったってしょうがない
そこが壱思想の一つの入り口

58:壱
07/08/21 15:52:47 O
けど少し想像を逞しくすれば
それと似たような状況が実際現実に起こっていることがわかる
毎日毎日我々の隣人はバタバタと死んでる
我々が明日生きている保障はどこにもない

59:壱
07/08/21 16:08:28 O
どっかで聞いたことあるよな感じだし
陳腐でくだらないと思うかもしれないけど
でもこれは厳然たる事実
我々の生は本当に脆い
そんで笑えるくらい軽い

60:壱
07/08/21 16:16:18 O
我々の生がとんでもなく軽いのだから
それの寄せ集めである社会もめちゃめちゃに軽い
そりゃーもうふわっふわしてるね

61:考える名無しさん
07/08/22 00:04:59 0
そうそう。重要なものなどどこにもない。あるように見えるとすれば、
それは惑わされてあるように見えているだけ。


62:壱
07/08/24 01:22:15 O
誰が何の為に惑わしてんのかね
悩む必要ないのに悩んでる人が多すぎる
誰も得してるとは思えないし
不思議なもんだ

63:考える名無しさん
07/08/24 02:53:29 0
人が惑う原因を考えれば答えは見えるよ

64:考える名無しさん
07/08/24 03:06:49 0
非常に分かりやすい惑わしは、広告だ。TV CM もそう。これは単純に商売のために惑わしている。
自分の利益のために惑わす。これが基本。

そういえばカメレオンが色を変えて身を守るのも、利益を守っているのと同じようなものだな。
葉っぱそっくりの虫とか、色々いるね。


65:考える名無しさん
07/08/24 09:43:28 0
視野が狭いな

いけてる理論は人間が存在する前から世界に潜在してるものだぜ

66:壱
07/08/24 20:50:26 O
そのうちそういう話にもなるから
まあゆっくり待つんだぜ

67:壱
07/08/24 20:52:32 O
いけてる理論はどんな卑近な事象にも潜在してるもんだぜ

68:壱
07/08/24 20:59:06 O
例えば江戸時代の人たちなんかは
何の為に生まれて来たのかなー
生きてて意味なんかあんのかなー
なんて悩まなかっただろう
とすると西洋思想に人を惑わす元凶があるのだろうか
それとも社会体制にあるんだろか

69:考える名無しさん
07/08/24 21:10:12 0
それはオリエンタリズムってやつでしょう。
多かれ少なかれ悩んだと思うよ。


70:壱
07/08/24 23:07:26 O
そうかなあやっぱ悩んでたかなー
じゃこういう悩みが人類普遍のものであるとして考えてみようか
子供は生きる意味について悩んだりしないわな
大概思春期あたりから悩みだす
その違いってなんだろね
そこに惑わされる原因はあるかな?

71:考える名無しさん
07/08/25 05:32:17 0
発情期に入るからだろう。
人間の場合、そのまま発情しっ放しになる。


72:考える名無しさん
07/08/25 13:26:54 0
欲求Aがありました。
欲求Bがありました。
A,Bを同時には満たせないです。

ハイ、悩みの完成。

A=生きていたくない。つらい。
B=死にたくない。痛い。
これを代入すると
「何のために生まれてきたのかなぁ」
という悩みは生まれ得ます。

西洋思想が元凶とかばかじぇねぇの?

子供が悩まないのは
別の欲求を満たすために
ほかの欲求をあきらめる必要があり得ることを
まだ経験的に知らないからだよ

欲求が単純な上に刹那的で移り気だからというのもあるがな

お前の頭は、いっぱしの思想を語るには十分でも
熟達した理論を語るにはあまりにも未熟だよ

73:壱
07/08/25 15:18:15 0
まあそうかもね
私には熟達した理論とやらを構築していくような気力も体力もない
未熟で単純な子供じみた理論でただ遊びたいだけ

74:壱
07/08/25 15:33:53 0
でも

生きていたくないし死にたくもないというジレンマから
何のために生きているんだろう?という悩みが生まれ得る

っつーのはよくわからんけどな
そんな深刻なジレンマを抱えてなくても悩む人はいるし

75:壱
07/08/25 15:45:07 0
発情期になるから自己の存在理由を問うようになるってのはおもしろいね
その発想はなかったわ
でも多分事故かなんかで生殖器が無くなっても悩む人はいるだろうから
悩みの直接の原因が発情にある
とは言えないだろね

76:壱
07/08/25 16:01:37 0
あなたは何か理由があって生まれてきたんだよとか
個性を大事にして自分らしく生きなさいとか
そういうことを我々は小さい頃からさんざん聞かされる
思春期になると自我が形成されてくる
じゃあ私は何をしに生まれてきたの?
私らしい私ってどんな私だろう?
よくわからない
そんなところがまあよくある悩みの発端じゃないかな

77:壱
07/08/25 18:30:44 O
子供が存在理由に悩んだりしないのは
自我の意識がまだ弱く思考の対象にならないからじゃないかな

78:壱
07/08/25 21:37:52 O
そんな悩みが発展していって
生きるのも死ぬのも嫌っていうジレンマが生まれる
これならわかるけどね
逆にね

79:考える名無しさん
07/08/26 07:06:23 0
自分の持つ価値観や常識の枠組みから自分の一部がはみ出していると
認識した時に悩みになるのではないか?

たとえば現在の日本社会だと学校の成績が高いのが良いとされている。
その社会的価値観を自分も取り込んで同じ価値観を持って生きていた
場合に、自分の成績が一部でも落ちるとそれが悩みになる。

戦前戦中の日本の場合はお国のために兵隊になることが良いとされて
いたので体力がないということで悩む人が居ただろう (徴兵検査で落と
されるから)。

また、おそらく昔から同性愛者の人は他の人と違うということで悩むことが
あったのではないか? (自分がそうじゃないからはっきり分からないが)。


80:壱
07/08/26 13:35:55 0
なるほどそれはありそだね

良いとされる生き方が社会に常識として存在し
その常識をある程度受け入れてしまっていて
しかし自分にはその生き方が難しいと感じている

そういう人は悩むだろうな

私が生きても世の中に意味をなさない
じゃ何のために生きてるんだろ

81:考える名無しさん
07/08/27 09:15:18 0
これが人種の問題にからんだりすると努力でどうにもならなくなったりする。
たとえば白人の方が素晴らしいという白人の持つ価値観を受け入れてしまった
黒人がいたら、悩むことは悩むだろうが普通は白人にはなれない。(マイケル
ジャクソンとか謎の白い黒人も居るには居るが)。

しかしそれ以前の問題として、努力でどうにかなることだったとしても、
価値観に合わせて自分を変える必要があるのかという問題がある。
価値観の方を捨てる、または違う価値観を持つという選択も可能だからだ。

人から「ハゲてますね」と言われても「ええハゲてますよ。格好良いでしょう」
と誇らしげにハゲを見せびらかす、というようなことも可能なのだがなぜか
そうする人は少数派であり密かに金を掛けてヘアコンタクトをしてしまう。
だからハゲは格好悪いという価値観が継続されてしまいカツラ屋は儲かり
続ける。


82:壱
07/08/27 19:39:58 O
まあ人は普通一人ぼっちにはなりたくないからね
できれば世の中の大体の人と価値観を共有して生きていきたいというのも人情
でもそれができずにしかもその価値観を捨てることもできなくて悩む人が多い
まあそんな構図なんだろな

83:壱
07/08/27 19:53:32 O
辛かったらそんな価値観全部捨ててこっちへ来いよ
俺たちは一人じゃない
みんなで笑おうぜ
ってのがまあ壱思想のスタンスなわけだけども

84:考える名無しさん
07/08/27 20:59:08 O
価値観を捨てる事は可能だが、捨てると敵が現れるんじゃないかな。
その価値観による利益を得ているやつが敵になると思う。

ハゲを格好良いという価値観はカツラ屋の妨害によって阻止される
のではないか? 試験の成績が悪くてもよいという価値観は教育産業
によって阻止されるのではないか? 格好悪くてもよいという価値観は
服を売るメーカーに阻止されるのではないか?

こういったあらゆる敵に勝てるかという問題があると思う。失敗
すればまた洗脳されて逆戻り。

85:壱
07/08/27 21:16:56 O
どうでもいいけど君ハゲ好きだねw
せっかくだからハゲで例えると
ハゲは本当はカッコいいんだ!と主張して
ハゲを格好悪いとする価値観に対抗しようとするのは
ハゲの価値観を捨てたことにはならない
まだ同じ土俵で戦ってる
ハゲの価値観を捨てるというのはハゲだろうがフサフサだろうが
んなこたぁどーでもよくなること
バカバカしいやと土俵から降りる
だから敵はいなくなる

86:考える名無しさん
07/08/27 23:13:38 0
ただ、ハゲの土俵からは降りることができても
土俵そのものからは誰も降りることはできないんだなぁ
せっかくハゲの土俵から降りたと思ったら今度はデブの土俵に立たされていたりする

価値そのものから降りることはできない
生きてる限りそれはどこまでもつきまとう

87:壱
07/08/27 23:30:20 0
ほんとにそうかな?
同じように生の土俵から降りればいいだけさ
まあ今の状態で構わなけりゃ無理に降りることもないけど
どうせ死ねば降りるし

88:壱
07/08/27 23:50:55 0
でも確かに生きてて意識がある限り
ある種の価値判断は続くだろうね
これうまいとか
これ気持ちいいとか
そういう意味では価値から逃れることはできないと言える

89:壱
07/08/28 00:00:13 0
でもそれは残しといたままでも
生の土俵から降りることはできる
よしんばハゲの土俵から降りられなくても

90:考える名無しさん
07/08/28 03:43:18 0
開き直ればいいんじゃないかな。
そして気にしない。

一切を気にしない状態になったら、完成。


91:壱
07/08/28 14:59:56 O
気にしない気にしないって一休さんも言ってるしな
もう知らね
カンケーねぇし
と開き直って
あとは破顔一笑すればいい

92:考える名無しさん
07/08/28 23:51:26 0
あえて付け加えれば
気にしないこと、カンケーねぇことがいいことだと価値判断してるうちは
まだ価値に縛られている
気にしないことも気にしない、カンケーねぇこともカンケーなくなれば
価値の呪縛から逃れられる
何があってもなくても何もないに等しいような
そんな境地には当然達してませんが

93:考える名無しさん
07/08/29 00:17:32 O
ボケ老人は忘れたことを忘れる。

最強だ。

94:考える名無しさん
07/08/29 02:04:52 0
めしはまだか。


95:壱
07/08/29 04:02:13 0
まあ確かに人生は無意味だと主張して
人生は意味があるとする主張に対抗するようでは
人生の価値観そのものを捨てた事にはならないわな
ごもっとも
その論でいけばボケ老人が確かに最強だわ
でもそれじゃ俺が言いたい事とちょっとニュアンスが違う
難しいね言葉って

ちょっとまた違う視点から考えてみる

96:壱
07/08/29 04:06:20 0
価値判断には比較対象が必要
これはあれよりもよいという評価が価値判断
もし比較対象や基準が無く
単にこれいいなあとかこれ気持ちいいなあとか思うだけだったら
それは価値や意味を成しているだろうか?

97:壱
07/08/29 04:11:15 0
例えば気持ちいいことがあったとき
あん時のあれより気持ちいいなあとか思う
おいしいものを食べたときは
あん時のあれよりうまくないなとか思う
それは価値判断だよね

じゃあXXXいい!
という何だかわからない未知の快感に出会って
それと比較するようなものが無い場合
それは価値や意味を成していると言えるだろうか
赤ちゃんの体験ってそんなんなんじゃないかな

98:壱
07/08/29 04:16:44 0
つまり価値の外側で生きるってのは
全然判断が停止した脳死状態みたいな感じだけではなくて
もっと生き生きとした感動の連続みたいな状態でもあり得るんじゃないか
そういう感じの方が私の思ってる事に近い

99:壱
07/08/29 06:07:46 O
つまりボケ老人より赤ん坊でいる方が好き

100:考える名無しさん
07/08/29 12:34:12 O
全ての価値は幻想。
一切に価値なし。


101:考える名無しさん
07/08/29 14:05:05 O
俺もお前もみんなも動物も植物も山も川も海も地球も宇宙も、
一切の価値はなく等価。時と共に部分的に価値があるように
見えたりないように見えたりするだけ。それは海の波のような
ものであって、どんな形の波であろうとも海水であることには
代わりがない、というのと同じこと。

102:考える名無しさん
07/08/29 14:12:35 0
>>98
価値の外側で生きることに価値を感じる
(生き生きとした感動の連続みたいな状態でもあり得る)
からそうするのであって、
それは、真に価値の外側で生きたことにならない。
新たな価値観の内に生きているというだけだろう。
なにがしかの望ましい状態になることを
一切求めない事が価値の外側で生きることではないかい?
となると、もう動物的いや昆虫のように
遺伝子レベルの反射行動のみで生きていかねば
価値の外側で生きたことにはならない。




103:考える名無しさん
07/08/29 15:25:57 O
全ての書き込みは延髄反射で書かれることが望ましい。

104:壱
07/08/29 16:00:12 0
>>101
ま、そんな感じだね
その「海」が「壱」なんだけど
それはまたそのうち説明する

105:壱
07/08/29 16:18:58 0
>>102
なにがしかの望ましい状態になることを
一切求めない事が価値の外側で生きること

それはそうだと思うな

けど
価値の外側で生きる事に価値を感じて
価値の外側で生きていれば
なにがしかの望ましい状態になることを一切求めなくなる

なにがしかの望ましい状態になることを一切求めない事は
君によると
価値の外側で生きる事である

106:壱
07/08/29 16:24:03 0
まあそんな言葉遊びは別にいいんだけどさ
要は価値だとか意味だとかにこだわらず
適当に笑って生きてこうぜってことさ

107:考える名無しさん
07/08/29 17:53:02 0
んで、壱は何かがキッカケで壱思想にたどり着いたんだ?そして、それまでの経緯はどんな?

108:壱
07/08/29 19:06:56 O
大体今の形になってから5年くらいは経つからなぁ
あんま覚えてないけども
親が死んだこととかかなぁ
きっかけの一つとしては
あとは勝手にこうなったとしか言い様がないっす

109:壱
07/08/29 19:18:00 O
あらゆる苦痛はこだわったりしがみついたりするから起こる
およそ万物の本性は変化にあるので
それに乗って漂ってればいい

こういうこと言うとまた
こだわらないという事にこだわってるじゃん
って言われそうだけどなw

110:考える名無しさん
07/08/29 19:58:21 O
やはり仏教的だ。

111:考える名無しさん
07/08/29 20:32:48 0
>>109
じゃあ、何も言わないのがほんとは一番いいんだろうけどね
何も言わないことが「こだわらない」ことを態度で示す
そこが言葉(価値)を所有してしまった人類の矛盾でもあるんだろう
言葉が先にあるから後で黙ることもできる
ボケ老人はものを言わない、他人に積極的に主張すべき言葉(価値、こだわり)がない
でも、そんなボケ老人だってボケる前は何らかの価値に縛られ何かにこだわっていて
そこを1回通過してボケたのだから誰もが一度は通る道なんだろけど
かと言ってボケることがいいこととも言えないし誰もがボケるわけでもないし
言葉の所有によって価値の所有者となった理性的人類が
それ以前の動物本能的存在に逆行するの無理だろし

112:【重要】注意【必読】
07/08/29 21:07:56 0
こいつの話聞かないほうがいいぞ

本人はある意味で完成してるけど
自己だけで完結してるから
他人は関わった分だけ損し続けることになる

自分のことを実はわかっていないのに
なまじ完成してるからわかっなくても本人にとっては何の問題もない
だから何を指摘されても認めないし、気にも留めない

発言がうそでも間違いでも本人は気にしないから
回りは何が事実かどうやっても理解しようがない

食うためじゃなく、どうでもいい暇つぶしのために
ありを捕まえるタイプのあり地獄みたいな存在
それが、このスレと壱

113:考える名無しさん
07/08/29 21:36:12 O
コテハンスレッドは削除対象

114:壱
07/08/30 01:01:20 0
そうなんだ
じゃちょっと引っ越ししよう

115:壱
07/08/30 01:09:36 0
と思ったけどスレ立てできないので
もうちょっと待って

116:壱
07/08/30 01:14:25 0
>>111
何も言わないのがほんとは一番いい
まあ多分そうだろう
禅では「不立文字」と言うしね

>>112
まあ得することは無いだろうね
全部捨てちゃえって言ってるわけだし
失うことばかりだろう

117:考える名無しさん
07/08/30 02:59:35 0
>>112
人の話を聞いただけで損をするということがもしあるとすれば、
それは聞いている側の人間の甘えや依存心が強いからではないか?


118:考える名無しさん
07/08/30 04:04:49 0
>>112
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒」
が生じた、と言うのがセコ厨の懸命な主張だが、
その内実が「文体がくどいから納豆ネバネバ文体」というような、まさに、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言であるので、それが、
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒。」
を生じさせたと考えるにはかなり無理があり、
そんなものに自分のル・サウンチマンを仮託してカタルシスを求める人間は、やはり、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにして
のであり、その結果、哲学板でバカにされ、論理で立ち向かうことができないので、
自作自演、騙り、擬似ウォッチスレ立て、あるいは、2ちゃんのクリシェに逃げ、
挙句の果てには意味の無いコピペを板のスレッド中に貼り付け、迷惑を掛けまくるのも、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにしている
当人自身知的ルサウンチマン(=ル・サウンチマン)に重篤に冒された人間の当然の成り行きである。

119:考える名無しさん
07/08/30 13:23:53 0
インドだったか中国思想だったか忘れたが
「私は在る」って言葉がでてきた。
いるじゃなく、「在る」ってわざわざ言葉を使って
るんだから「在る」に意味があんのかと思ってるんだけど
壱はどう思う?

壱思想を確立?したことによって壱自身人生変わったか?

120:壱
07/08/30 14:25:24 O
面白い夢見て笑いながら起きることが増えた程度かな

私が居るだとここに物理的に居るって感じで
私が在るだと観念として自我が存在してるってニュアンス
かなあ

121:考える名無しさん
07/08/30 16:48:08 0
>「壱」は永久に宇宙の中心において不動不変不滅
>それが本当の私

どんな?何故それがわかる?




>流れを見つけて

どんな?何故わかる?




>それに完全に身を委ね
>ただただ漂う
>これが快適な生を送るコツ

自分の意図を加えないのか?





>その流れが道であって
>「壱」はその流れの原動力みたいなもの

詳しくどーぞ。
ってことはタオとやらを超えてるってことかー。



122:壱
07/08/30 19:33:14 0
んーまあ全部一気に答えると長ーくなるので
ちょっとずつ

まず
>「壱」は永久に宇宙の中心において不動不変不滅
>それが本当の私
から

これは我々の主体は一体何なのかという問題
普通我々はそれぞれの人格をもって「私」とし
それが「私自身」つまり私の「主体」だと思っている

123:壱
07/08/30 19:33:44 0
でも本当にそうかな?
まだ人格や言語をもたない赤ちゃんのときでも
君は確実に存在していた
でもまだ君という人格や自分という意識はなかった
そのとき君は誰だったのだろう?

君は無からポンと生まれたわけじゃない
君は赤ちゃんになる前
一つの受精卵として君のお母さんのおなかの中にいた
その受精卵と今の君は同一の生命体だよね
じゃあそれは君だ

124:壱
07/08/30 19:35:39 0
何が言いたいかというと
君は人格や自我なしに存在し得るということ
これは大自然の絶景に対峙したときなどにも起こる
我を忘れて立ち尽くすとき君は自分のことなど忘れている
でも君は消え去ったわけではなくそこにいる

ということは人格や自我というのは存在の絶対条件ではないわけだ
人格や自我は浮かんでは消える泡のようなものにすぎない
となると人格や自我は君の存在の主体ではない
では君の存在の主体とは何だろう?

125:一
07/08/30 20:52:30 O
同じことを禅では
父母未生以前の面目は如何にと問う
父さん母さん生まれる前に君は何だったの?

126:一
07/08/30 21:34:32 O
君の人格や自我は君の心臓さえ自由に動かすことができない
君の人格や自我は君の主人公じゃない
いてもいなくてもどーでもいい端役

127:考える名無しさん
07/08/30 23:08:41 0
>人格や自我というのは存在の絶対条件ではないわけだ
>人格や自我は浮かんでは消える泡のようなものにすぎない
>君の人格や自我は君の心臓さえ自由に動かすことができない

なるほどなるほど、これは目から鱗、で、それで?

128:考える名無しさん
07/08/30 23:11:53 0
121です。

>人格や自我なしに存在し得るということ
 
頭ではわかる。人格や性格もかかわった外部からの影響と自分の解釈で
創りあげたようなもんだから。
頭ではわかる気がするんだが、それなしの状態に壱自身がなっているということか?

そういう状態だとして、思考することも感じることも変わらずあるのか?
感情はどうなってる?ある?



ところで自我とはなに?くぐってみたが意味が色々で、、、壱がいう自我とは?




129:一
07/08/31 01:46:50 0
いや、微妙な感じで共存してるって感じかな
自我や人格なしに存在している私は何も語らない
なぜなら言語を持たないから
語っている私は人格や自我を持っていて
思考することも感じることもある
でもその私は私の主人公でないことが分かっている

ここで言う自我とは
語る私としての私
ややこしいね

だからちょっとHNを変えてみた
自我や人格なしに存在している私が「壱」
語ってる私は自我を持つ「一」
私の主体は「壱」
「一」はあってもなくてもどうでもいい付録

130:一
07/08/31 02:03:19 0
で、私の主体の話の続きだけど
それが自我や人格ではないことはわかった
じゃそれは一体何なのか?

私の心臓を動かしているのは
生命を維持しようとする生命としての本能だろう
それが受精卵であった頃から今日まで常に私の肉体を操ってきた

私のチンコを勃起させるのも
種族繁栄を目論む本能の仕業

あんまり脳科学とかには詳しくないけど
意識上のことに使われている脳なんてごく一部なんでしょ?

となると、そういう動物的本能こそ我々の主体なのだろうか?

131:一
07/08/31 02:56:52 0
まあ人格や自我よりは主体的な役割を果たしてるだろね
生きてる限り気絶してても働くし

ところで
私の生物的本能は親父とお袋から受け継がれたものだ
ということは私の主体は親父やお袋の主体と同一なわけだ
ところで親父の生物的本能はじいさんばあさんから受け継がれたものだ
こういう風にどんどんどんどん何十億年と辿って行くと
私の主体は地球上の最初の生命と同一ということになり
それから派生した歴史上のあらゆる生命体と同一ということになる

132:一
07/08/31 03:06:21 0
ところで地球最初の生命はどのように誕生したのだろうか?
まあ今のところよくわからないらしい
でもわからなくても何らかの原因によって
生命は誕生したんだろう
ということは私の主体であるところの生命維持の本能も
その「何らかの原因」によって生命の誕生と同時にもたらされたと考えられる

133:一
07/08/31 03:14:11 0
そうやってさらに何十億年も遡って行くと
宇宙の誕生を引き起こした何かが私の主体だと言える
なぜならば生命維持の本能も元を辿ればその「何か」なのだから
それを老子は「道」と呼び
私は「壱」と呼ぶ
だからその意味ではタオと「壱」は変わらないです

宇宙を誕生させ地球を誕生させ生命を誕生させた
その「力」「流れ」みたいなものが「壱」
それが私の主体であり君の主体であり
ありとあらゆるものの主体
まあそんな感じ

134:一
07/08/31 03:19:10 0
いややっぱ「流れ」は「壱」じゃないな
ごめんちょっと酔っててさ
「流れ」は「壱」によって引き起こされた現象だ

酔っぱらったので続きはまた明日

135:考える名無しさん
07/08/31 04:17:43 0
川の流れが一定で何も引っかかるものがなければ何も発生しない。
小石など何か引っかかるものがあればそこに砂が溜まったりしてやがて中州ができる。

生命とはこのようなものではないか?
不規則な流れ、ノイズ、不純物、塵、ゴミ、カスなどだ。

空の雲も雲しかないのであれば雨にはならない。
大気中に塵がなければ寄るところがなくて雲のままだ。


136:135
07/08/31 04:20:27 0
その寄り集まったカスが、流れによって揺らいでいる状態。
それが生命なのではないか?

いずれ押し流されて元のバラバラなカスに戻り。
そしてまた下流で引っかかって新たなカスの塊になる。


137:一
07/08/31 14:03:25 O
そんな感じだと思うよ
私が死ねば私の肉体は滅びてバラバラになるが
そのうち草木や魚の一部になるだろう
どうなろうと「壱」にとっては同じこと

138:一
07/08/31 14:12:59 O
「壱」は力であって宇宙のありとあらゆる現象を引き起こす
万物は「壱」によって転変生滅させられるが「壱」はその中心で微動だにしない
なぜなら「壱」は現象ではなく純粋な力だから
ゆえに「壱」は永久に宇宙の中心において不動不変不滅

139:考える名無しさん
07/08/31 20:34:16 0
具体的に壱という力を表現すると?

壱を知ることによって なんかい~ことあんの?

140:一
07/08/31 21:32:32 O
具体的にってのは難しいなー
君の細胞一つ一つを動かしてるのも「壱」だし
太陽を燃やしてるのも「壱」
いーことは特にないんじゃない?
ただ自分の人格が自分の存在のほんの薄皮一枚でしかないことが分かれば
気が楽になる人はいるかもね
この生で起きることなんかどーだってよくなるからね

141:一
07/08/31 22:38:49 O
この生の快適な過ごし方は
壱の作り出した流れにできるだけ逆らわずに生きること
まずは変化に身を委ねること
自分がどう変わろうと人生で何が起ころうとそれに抗わない
自分はこういう人間だからとか
人生はこうあるべきだとか
そういう固定観念を捨てること

142:考える名無しさん
07/08/31 23:42:59 0
人格や自我が、壱が引き起こす現象のひとつに過ぎないようなこの身体に発生する
理由とか必然性はありますか?またそれも壱によるひとつの現象と解釈していいですか?
それとも理由もなく偶然発生する身体の副産物のようなもので
それをあなたは浮かんでは消える泡のようなものと表現するのですか?

143:一
07/09/01 00:14:20 0
壱による一つの現象としての身体の副産物のようなものだとは思うけど
理由や必然性についてはよくわからないな

そもそも人格や自我はどうやって発生するんだろうね
少し考えてみようか

144:考える名無しさん
07/09/01 00:27:54 O
流れに身を委ねるというか、実際には自分のやりたい事をやれば
良いのではないか? 一見やっていることが流れに逆らっているように
見えてもだ。

たとえば鮭は流れに逆らって川登りをするが、鮭にとってはそれが
自然な行為なのであっておそらく遺伝子にも書かれているのだろう。
だから行為だけを見るといかにも頑張って無理をして流れに逆らって
いるように見えるが、それは人間の勝手な思い込みであって、鮭に
とっては単に自分のやりたいことをやっているだけであり、決して
頑張って無理をしてやっていたり苦痛などは感じていないだろう。
もしかしたら川登りを楽しいと感じているかも知れない。

145:一
07/09/01 00:34:34 O
人格と自我ってどう違うんだろう
人格は私の性格とか性質かな
じゃ自我ってなんだろう?
私から性格や性質を剥ぎとったあとにも残る純粋な自意識?

146:一
07/09/01 00:40:20 O
>>144
やりたいことをやればいいと私も思う
流に逆らうということはやりたいと思うことを無理してやらないこととか
やりたくないことを無理してやることだから

147:一
07/09/01 00:57:48 O
だから身を委ねるというのは
自然に沸き上がってくる欲求に素直に従うということ

148:一
07/09/01 01:04:04 O
で自我の問題だけど
デカルトが「我思うゆえに我あり」
と言うときの我は
私から性格や性質を剥ぎとったあとにも残る純粋な自意識
というようなニュアンスなのだろう
けど、ほんとにそんな自意識は在り得るだろうか?

149:一
07/09/01 01:08:42 O
言い換えるなら
人格なしに自意識は存在し得るだろうか?
という問いになる
どう思う?

150:一
07/09/01 01:34:10 0
性質や性格は今まで経験してきたいろんなことによって形作られたもので
自分から性質や性格を剥ぎ取るということは
過去を度外視するということになる
その状態でも自意識は存在するだろうか
今しかなくても自意識はあるだろうか

151:一
07/09/01 01:39:35 0
過去がなければ自意識は無いと私は思う
言い換えれば過去の自分のいろんな経験を想起して
そこに自己同一性を見出すからこそ自意識として感じられる
そしてそのときは既に人格を同時に意識せざるを得ない
よって自意識は人格の意識なしに存在し得ない?

152:一
07/09/01 01:41:10 0
子供の頃を振り返っても
大体自意識が目覚めたころには
俺ってこんなキャラだみたいな人格の意識があったように思う
自分がどんな奴かわからないうちは自意識もなかったように思う

153:一
07/09/01 01:46:10 0
つまり自我や自意識とは自分の性質の認識といえるのではないか

では幼児は自分の性質をどのように認識し始めるのだろう

154:一
07/09/01 01:51:42 0
んーまあちっと難しいな
幼児はどのように自意識を持つに至るのか?でもいいや
明日また考えてみる

155:考える名無しさん
07/09/01 05:18:30 0
自分だけの秘密を持つからかも。

156:一
07/09/01 15:31:29 O
なるほどね
自分が持ってるこの感じをこの人たちは分からないらしい
と気付くこと
それも自意識の芽の一つかも

157:一
07/09/01 16:21:10 O
けどやっぱ根本の自意識の種は記憶かな
学習本能としての記憶がまず得られる
まずは腹減ったとき泣いたらおっぱいをくれたことを記憶する

158:一
07/09/01 16:30:41 O
そして次腹減ったときにその記憶を思い出してまた泣く
しょんべんやうんこもらしたときも泣けば何とかしてくれることを学習する
次は概念の獲得かな
記憶と想起を繰り返すうちに過去と現在の事象に同一性があることに気付く

159:一
07/09/01 16:35:20 O
そして概念にはそれに対応した言語があることを学習し
おっぱいをおっぱいのこととしておっぱいと呼ぶようになる
この辺までは生存本能の延長だと考えられよう
問題はこの後

160:一
07/09/01 16:50:41 O
まず生存本能の延長で
物を自分のものとその他に分けて考えるようになるかな
動物でも昆虫でもテリトリーとかあるし
そこら辺が怪しいな
その辺から自意識が生まれないかな

161:一
07/09/01 16:55:55 O
動物の場合
記憶と反射行動はあっても
想起して同一性を認識しそれを概念化する能力がないために
テリトリーの感覚はあっても自意識が作られるには至らない

162:一
07/09/01 17:07:45 O
ちっちゃい子でもよく取り合いなんかして喧嘩してるよね
あの辺から自分って意識が出てくるんじゃないかなー
子供ができたら詳細に観察したいもんだ

163:考える名無しさん
07/09/01 17:13:32 0
自我やら性格性質に拘ることはないとわかりつつ
それがなくなるということの想定ができないため
怖い。よってまだしがみついたままの人々も多そうだよな。
俺もなーw

164:一
07/09/01 17:28:32 O
まあ捨てちゃえってのは言い過ぎだったかもしれない
より正確には自我や人格及び人生をできるだけ軽視して笑い飛ばせって感じ
これならそんなに難しくもないっしょ

165:考える名無しさん
07/09/01 20:15:35 0
好きなことだけやって


やっていけんの?おじちゃん

166:考える名無しさん
07/09/01 20:58:07 0
「我思うゆえに我あり」は哲学史上でも真と証明されたわけではないので
というより証明できないでしょうから
この命題に特にこだわる必要はないと思います。

自意識は意識が意識自身を意識する意識。
言い換えれば対象ではなく主体を意識する意識。
「リンゴ」という対象を意識しつつリンゴを「意識しているということ自体」を意識する意識。
それによって意識がそれまでは対象としなかった意識自身を対象として意識することで意識という作用を発見し
それが意識する者の意識、即ち自分の意識となって自意識が芽生える。
ですから、リンゴ(意識の対象、人、物)があれば自意識が発生する可能性もあるので
必ずしも経験による人格性格が自意識の発生に必要かどうかは分かりません。
経験によらぬ生まれながらの先験的作用かもしれません。


167:考える名無しさん
07/09/01 21:30:18 0
自我は単純に自分が今ここにいる自分であるということ、その自覚とでも解釈すればいいと思います。
誰だって普通にそう考えて生きてるでしょうから。

それより壱による現象のひとつであるこの身体に自意識とか自我とか人格からなるこの自分が
なぜ存在するのかが分からない。
身体が壱からなる万物の一連のつながりの生成変化の中のひとつというのは分かりますが
自分はどこからのつながりとして存在してるのか?
壱の仕業である身体上に発生するから元を辿れば自分も壱による現象と捉えて構わないかも?
その身体に理由もなく突然変異の如く発生するのが自分なら
それはあなたが言うように浮かんでは消える泡のようなもので
自意識、自我、人格、自分は存在の絶対条件ではないからそれに特にこだわる理由もないですね。

168:考える名無しさん
07/09/01 23:23:02 0
何千年も前から同じようなことが様々な人によって伝えられてきているのに
どうして それについて広まらない?実体験としてわからないのだろうと不思議
に思わないか?

169:考える名無しさん
07/09/02 00:00:03 0
今気づいたんだけど166に絡めて言えば
自分というのは何かに「気づく」ということかな?
世界(人、物)があることに気づくことを通して同時に
それに気づいている自分がいることにも気づく。
そして、気づくということは気づく以前にもそれはあったということだから
世界は自分が気づく以前から壱による現象としてあり
自分も自分が気づく以前から壱による現象としてあり
自我、自意識が芽生える以前から自分はあったことになるから
自我、自意識が自分の全てではなくなり
それは自分にとっては浮かんでは消える泡のような副産物と言えるのかもね?

170:考える名無しさん
07/09/02 00:18:31 0
>>164
のっぴきならない事態に
(例えば目の前で親しい人が殺された)
遭遇したときにこの思想は崩れ去ると思う。


171:一
07/09/02 03:13:44 0
んーまあいろいろあるけど少しずつ

>>165
まあできるだけやりたいことを素直にやって
できるだけやりたくないことはやらないって感じかな
無理をしない事が大事
私も好きじゃなくてもやらなきゃいけないことはやりますよ

172:一
07/09/02 03:19:11 0
>>168
まあ確かに不思議だわな
老子でさえも昔の人はもっと自然に生きてたみたいな事言ってるくらいだし
昔っから広まらないんだね
でも何千年も前から
そういう思想が絶えずに残ってきたのも不思議だと思わないか?
人類はどっかやっぱひっかかってるんだと私は思う

173:一
07/09/02 03:27:13 0
>>170
そりゃあ誰でもそんな事態に遭遇したら
悲しみにくれるだろうし怒りに震えるでしょう
でもそうなるのは存在のうちのごく一部分のみ
壱としての存在のうちの自意識の部分のみ
だからまあしばらくは笑えないかもしれないけど
思想が崩れたりはしないさ
しかも人間の心は幸か不幸か忘却という能力を持っている
しばらくしたらまた笑えるようになるよ
人間はそんなに強くないから

174:一
07/09/02 03:38:33 0
>>166
んー難しい問題だけど
我々は既に自意識を持っているので
リンゴがあっただけでそのリンゴを見てる私を意識できる
それはわかるけれども
リンゴとそれを見る人がいるだけで自意識が発生するとなると
自意識のない人がリンゴを見ることになるよね?
自意識のない人はどうやってリンゴを見てる自分を発見できるの?
自意識がないなら自分を発見できないよね

175:一
07/09/02 03:44:50 0
>>167
んーこれも非常に難しい問題だけども
一応今の私の見解を書いておくと

まずやはり生存本能がある
これは壱から連なる力
人類は二足歩行になることによって脳がでかくなって
まず記憶と想起という能力を身につけた
これは農業なんかするとき役立つ
去年あんな感じだったから今年はこうしてみたらとか
そういうのに使えるからね
それで食料は飛躍的に確保できるようになっただろうから
それはまだ生存本能から発展した能力だった

176:一
07/09/02 03:50:46 0
記憶とその想起を繰り返すうち
想起したものと今現実にあるもののうちで
同一性を持つものがあることに気づいた
例えば今見てる空で光ってるあれと
昨日見た空で光ってたあれは同じ物っぽい
じゃあこれを太陽と呼ぼうってな感じで
人類は概念とそれを指し示す言語を持つようになった

177:一
07/09/02 03:55:14 0
いろんなものを概念化して思考することは
食料の確保や安全の確保に非常に有益だったので
人類は喜び勇んでいろんなものを概念化しそれに名前を付けた
役割分担なんかもあっただろうからお互いを名前つけて呼んだりしただろう
最初は自分のことも名前で呼んでたかもね
今でもそんな女いるけどなw

178:一
07/09/02 04:00:12 0
そして一方では生存本能として
自分のなわばりを持とうという意識とか
食料を自分の分確保しようとする欲求などがあった
多分食料や女をめぐってこれは俺のもんだ的な争いも多々あったろう
そのときふと概念化の能力が働いて
自分のことは俺って呼ぼうってなったんじゃないか
それが自我の発生の瞬間じゃないか

179:一
07/09/02 04:11:39 O
自我の概念の発生までには何度も何度も記憶と想起が繰り返されただろう
あんときあいつと女を奪いあった
あんときあいつとマンモスの肉を奪いあった
あいつと争ってたのはいつもXだった
あれ?じゃあXって何か概念になるっぽい
んーじゃあXを俺って呼ぼう!

180:一
07/09/02 04:16:19 O
つまり自我も生存本能の結果として生まれたんじゃないか
さらに思考が複雑になって今では直接生存に関係ないことも思考できるけど
それは概念化の能力から副産物的に派生した余計な能力だと思う

181:一
07/09/02 04:28:33 O
>>169
これはさらに難しいな
確かにそういう線もありそうだね
他者に気付くっていう時点で自分にも気付いてる
なるほどそうだ
でも気付くっていうより多分
それまでぼやっとしてた一つの世界が自他にふと分裂するんだろう
その原因はなんだろう

182:考える名無しさん
07/09/02 08:11:55 0
>>181
例えば動物や幼児にも多分、意識はあると思うよ、あくまで推測だけど。
でも動物や幼児は自分が意識してるということが意識できてないから
ただ意識によって意識された対象に動物本能的に反応してるだけで
まだ意識する自分と意識された対象(他者)との区別がついてないんだと思う。
その意味で動物や幼児にとっての世界はぼやっとした一つの世界だろうね。
そこになぜか自意識が芽生えて意識する自分と意識された他者に世界が分裂する。
あなたが言うように記憶と想起を繰り返しての物事の同一性の自覚と共に
自意識が生まれるのかは分からないけれども
身体と共に自意識があるのは間違いないだろうし
身体がなければ自意識もなかっただろうから
まず壱による身体現象(生存本能)ありきではあると思う。

183:考える名無しさん
07/09/02 09:40:27 0
~~だろう。
~~と思う。
~~じゃないかな。

を積み重ねていくうちに
前提が推測だということを忘れて

~~だ。
になってしまわないように注意しろよ>おまいら

お前たちは推測の話しかしていないことを忘れるな
そこに真実の結論など生まれない。
言葉遊び以上ではないということを。

184:考える名無しさん
07/09/02 18:46:06 O
だろうな。

185:一
07/09/03 02:41:09 O
>>182
そんな感じだと思う
世界の自他への分裂に関しては引き続き考えてみたい
自分の手足が他のものと違って思い通りに動かせることに気付くこと
その辺にも原因があるかもね

186:一
07/09/03 13:28:26 O
しかしその場合でも記憶と想起の能力は必須だろう
犬や猫でも自分の体だけ自分で動かせることは感じてるだろうけど
記憶と想起の能力がない為それを概念化することができない
よって世界が自他に分裂することもない

187:一
07/09/03 13:37:29 O
以上より自意識の形成には記憶とその想起が不可欠であると思われる
記憶が無ければ自我は無い
過去が無ければ自我は無い
デカルトは「我過去を想起すゆえに我あり」と言うべきだった

188:一
07/09/03 13:41:49 O
茫然自失、我を失うという状態はゆえに
何かのショックのために過去という記憶を失っている状態である
ふと我に帰るというのは
記憶とともに自意識がよみがえることを表現している

189:一
07/09/03 13:45:04 O
我を失うとき人間は現在のみに夢中になっている
だから過去を忘れその結果自意識を失う

そして自意識を失ってもなお残るものが壱

190:一
07/09/03 13:54:43 O
だから壱思想的には何でも夢中になってやることは非常によいことだ
歯を磨くなら夢中になってひたすら磨くべし
セックスするなら夢中になって快感を貪るべし
その対象に自己を溶かして没入して同化してしまえ

191:一
07/09/03 14:11:19 O
それゆえ私は昨今巷で大流行の自分らしくという言葉が大嫌いである
ミュージシャンやアスリートが自分らしいプレーができればいいと思います
とか言うの聞くと虫酸が走る
理想のプレーを本気で夢中になって求めたらそこに自分なんていないはず

192:一
07/09/03 14:51:11 O
同様に自分を表現したいとかいう思想も嫌いだ
俺はお前のことなんざ知りたかないよ
人が感動するのはひたむきに無私になって道を求める姿や
それによって研ぎ澄まされた美しい技術を見ることじゃないかねえ

193:一
07/09/03 15:00:33 O
動物や子供の番組が妙に泣けてくるのも
やっぱみんなどっかで無私の美しさに気付いていて
それにあこがれてるからだと思う

194:考える名無しさん
07/09/03 17:04:36 0
何かする時
その瞬間できることは1つなのに
それだけに集中できず他を考えながら他に気をとられながら
している俺はアホでつか?

195:考える名無しさん
07/09/03 19:41:35 0
自分の手足は自分の意志で自由に動かすことができるが他人の手足は動かせない。
なるほど、物体の目に見える区別だけでなくこういう目に見えない身体の運動条件からも
自他の分裂と区別が生まれるのかもね。

でも、改めて考えてみると自分の意志や意識で手足が動かせるのも不思議なことだね。
その方法を誰からも(神様からも)教わった記憶はないのに
いつの間にか自分で自由に手足が動かせるようになっている。
でも、自分の意志や意識では心臓ひとつ動かせない、毛一本生やせない、ウンコ一つ生産できない。
その意味で身体はあなたが言う壱の意志と自分の意志の二つの意志で動く二重の構造になってると言えるね。

196:考える名無しさん
07/09/03 20:01:57 0
ああ、でもよく考えたら、自分の意志とか意識があるって普通に言うけど
それにしたってどうやって持てたのか不思議だ。
意志や意識(自意識)を持つ方法を誰からも(神様からも)教わった記憶はないのに
いつの間にか自分の意志や意識がある。今ではそれが当たり前のことになってる。
変な言い方すれば、自分は自分になる方法を知らないのにいつの間にか自分になってる。
自分になろうと意志したつもりも意識したつもりもないのに気がついたら自分になってる。
その意味で自分にとって自分の意志や意識(自意識)はちっぽけなもので
自分は自分を超えたもの(それも壱かな?)によって自分であるとも言えそうだ。

197:考える名無しさん
07/09/03 20:08:31 0
蛇足ですが「自分らしく」というメッセージは
「自分をなくせ」と裏解釈すればいいんだね。
それを世の人は「自分の個性を発揮する」ことと履き違えてるんだろう。
確かに何かに集中してそれに没頭すれば自分は消えて「無我」「無私」の境地だろうし。

198:考える名無しさん
07/09/03 20:22:08 O
>>195
草食動物なんかもっとすごいぞ。産まれたらすぐ立ち上がっておっぱい飲むんだから。
ま、それができなかったやつは死んでるわけだが。

199:考える名無しさん
07/09/03 21:12:03 0
>>187
>以上より自意識の形成には記憶とその想起が不可欠であると思われる

記憶はさておき、想起は、
自我がなければ、不可能。

現在と過去をつなぐには、
過去と現在の意識の同一性(自我)が必要(かもよ?)

200:考える名無しさん
07/09/04 01:55:24 0
話を蒸し返すようで悪いですが
その記憶にしても想起にしてもやはり誰からもその方法を教わった記憶はないのに
いつの間にか何かを記憶してて何かを想起してる。今ではそれを当たり前のようにしてる。
でも、どうやって記憶し想起してるのか分からない。
となると自分の記憶や想起や意識を超えた何ものかを想定せざるをえない。
それを西洋では神と呼び一さんは壱と呼ぶのかな?
万物の中心の不変不動の壱によって物質からなる身体が現象し
そこにまた非身体の精神が現象し、この身体とこの精神のみがなぜか対応していて自分となる。
でも全物理現象、全精神現象は生成変化消滅を繰り返すが万物の中心である壱は不変不動。
そう考えると壱からなる全存在においては自分などというものは
浮かんでは消える泡、吹けば飛ぶような塵という喩えにもうなずけるね。

201:一
07/09/04 09:24:53 0
>>194
あれこれ考えてしまうのもまた
記憶と想起という能力を与えられた人類の性
特に問題ないと思うよ
よしんば人生で何一つ集中することができなくて
何一つ生きた証や生きた意味を残すことができなくても
何の問題もない
なぜならあなたの主体は壱であって
壱は常に完璧だから
あなたの人生がどうであっても
壱には何の影響もないから

202:一
07/09/04 09:31:23 0
>>195
そうだね我々の身体は壱と自我の二重構造によって操られるとも言えるね
私は壱の方がはるかに巨大で自我はほんのおまけのおまけだと思う
脳科学でも意識上のことに使われている脳はほんの一部だと言うし

203:一
07/09/04 09:36:13 0
>>196
そうだねそれを言い換えるとするなら
自分は自分によって自分になったわけじゃない
君を存在たらしめたのは君じゃない
君じゃないそれとは壱

204:一
07/09/04 09:42:05 0
>>197
無我や無私を尊ぶのは古来からの日本人の美点だと思う
個性や私を尊ぶ浅はかな社会に今なりつつあるのは残念だ

205:一
07/09/04 10:03:18 0
>>199
難しい問題だね
もし自我がなければ想起することが不可能だとすると
人間は最初に想起をする前から自我を持ってなければならない
自我とは君の言うように意識の同一性の認識だ
では人間は想起なしに意識の同一性を認識できるだろうか?
同一性を認識するというのはあれもこれも同じだと認識することであって
それは記憶と想起なしにはあり得ないのではないか

だから多分より正確には
現在と過去をつないだまさにその瞬間に自我が形成されるんじゃないかな
私の説明にあったように想起したあと自我が形成されるのではなく
想起行動と自我形成は完全に同時に行われるのかも
というか両者は全く同じものなのかもしれない

206:一
07/09/04 10:21:01 0
>>200
まあ大体そんな感じ
ただキリスト教由来の思想ではほとんど出て来ないのが
神とは実は私自身のことであるという発想
彼らにとっては自我を超えた存在は常に他者だったわけだ

東洋では自我を超えた存在が本当の自分であるという考え方が
結構あちこちに昔っからある
壱思想もどちらかといえばこっちに分類されるものであろう

だから壱からなる全存在においては自分など塵にすぎない
などと言うと少し西洋的な感じがする
壱思想では壱は他者ではなく君の主体ことでそれはつまり君自身だから
だからより正確に言うなら
壱という私の全存在性においては私の自我など塵にすぎない
って感じかな


207:考える名無しさん
07/09/04 17:28:04 0
脳死になったら自分はあるんだろうか?
物質的なものではなく。

208:考える名無しさん
07/09/04 19:16:14 0
壱に全てをまかせるとどうなるんだろう?


209:考える名無しさん
07/09/04 20:24:26 0
原因と結果について壱と一から説明してください。

210:考える名無しさん
07/09/04 21:15:35 O
>>207
それは死んだときのお楽しみだな。そのうち寿命が来て死んだら分かるだろう。

211:考える名無しさん
07/09/05 00:49:48 0
天職って本当にあるんだろうか?

212:考える名無しさん
07/09/05 02:15:30 0
>>206
なるほど、神が自分を超越して存在する主体なら
壱は自分に内在する主体であるというわけですね。
全てをロゴス(言葉、論理)で認識できるとして
ロゴスのみで考えようとする西洋思想にはない発想なんだろうな。
論理で認識できない神は超越的に存在するから自分ではない他者になる。
となると自分に内在する主体である壱からなる自分においては
壱は常に不変不動だが変動する自我、自意識、人格は泡、塵に等しいと言うべきだね。
となると結局、身体のみならず、精神も壱による現象と解釈して問題ないわけですか?
この点だけなぜか腑に落ちないもので。




213:一
07/09/05 03:16:31 0
>>207
脳が死んだら記憶と想起は行われなくなるので
君の自意識は無くなるだろう
だがそれで君自身がなくなるわけじゃない
動物としては生きているので
君のうちの生存本能は存在している
あまつさえ肉体が死んだとしても壱としての君は存在し続ける

214:一
07/09/05 03:20:11 0
>>208
壱は純粋な力であって目的を持たず万物を転変生滅させる
壱に全てを任せるといろんな偶然事によって君はいろいろに変化し
まあそのうち死ぬだろう
つまり壱に任せようが任せまいがあんま変わらない

215:一
07/09/05 03:25:00 0
>>209
えらくむつかしいお題だ
原因と結果を説明することがそもそもむつかしい

結果Aの原因はBだというとき
我々はそもそも何を言わんとしてるのだろう

ちょっとやそっとじゃ答えられそうにないので
また後から考えてみるね

216:一
07/09/05 03:31:51 0
>>211
天職という言葉のニュアンスには
その人の個性が十分に発揮できる仕事がどこかに必ずある
という主張を感じるけど
人の個性も仕事を生む社会も常に流動的で変化し続けるカオスだから
それぞれがピタっとマッチするなんてあり得ないと思う

217:一
07/09/05 03:55:32 0
>>212
んーまあ今の私の見解としては
前にも書いたように
・精神は記憶と想起行動から副産物的に形成される
・記憶と想起という能力は生存本能の一形態として人類に与えられた
・生存本能は壱による現象である
以上により精神は壱による現象と言える
ってな感じかな

218:一
07/09/05 04:26:07 0
んーでも
生存本能や精神は壱による現象というよりも
壱から連なる力の一つの様態であると言う方が理解しやすいかもね

身体は物体であって
宇宙のあらゆる物体は壱によって転変生滅させられているので
身体は壱という力によって生成した一つの現象である

一方壱は純粋な力でありあらゆる力の元の力であるが
力にもいろいろ様態がある
太陽を燃焼させる力もあればゴキブリを動かす力もある
生命としての人間の肉体を動かす力は生存本能の力であり精神の力である

そんな風にも言えるかも

219:一
07/09/05 04:28:39 0
身体は壱によって生成された物質的な現象であり
生存本能や精神は壱によって生成された非物質的な力的現象である

とも言えるかな

220:一
07/09/05 04:31:03 0
例えば万有引力なんかも
壱によって引き起こされた非物質的な力的現象である

221:一
07/09/05 05:10:20 O
>>215に戻る

ところで万有引力というのはボールが落下する原因である
ボールに万有引力という力が働きボールが落下する
ということは結果とは現象であり原因とは力のことだと言えそうだ

原因とは現象を引き起こす力のことであり
それは壱と一の関係でいえば壱を指す
結果とは力によって引き起こされた現象であり
それは壱と一の関係でいえば一を指す

こんなんでどーですか?>>209

222:一
07/09/05 05:31:42 O
となると壱はあらゆる物事の原因の原因の原因であるとも言えるだろう
なぜなら壱は物質的非物質的を問わずあらゆる現象を引き起こす力だから
老子も道についてそんなような事言ってた気もする

223:考える名無しさん
07/09/05 16:54:41 0
君はここで何がしたいんだ?

なんでその思想にとりつかれたの?

224:考える名無しさん
07/09/05 20:24:36 0
>>214
でも、どう思おうが結果的には壱に全て任せてることになるんですよね?
万物は不変不動の壱によって変化してるんだから。変化してるのは我々の方なんだから。

にしても、自分の意志とか意識なんて無力なものですね。
自分の意志で身体を動かしたり、目的を持って生きたり、因果関係を決めたりしてるのに
壱はそれとは関係なく何の目的もなく万物を偶然に変化させてるのなら。

例えば「我思うゆえに我あり」だと
思うから思う我がいて我に思われた世界がある、みたいな観念論、独我論に陥るのだと思うけど
そんな自分の観念も壱による万物の偶然による変化の中のひとつに過ぎないから結局おまけみたいなもんなんでしょ?

よく、念ずれば叶うとか、気の持ちようとか、病は気からなんて言うけど
ああいうのって結局迷信ですか?ストレスから病気になるなんて言うけど。
でも、壱においては全ては偶然事の積み重ねなんですよね?



225:考える名無しさん
07/09/06 00:07:32 0
ああ、でも自分の意志で手足動かせたりリンゴつかめたり
仕事したり遊んだりできるから無力は言い過ぎか。
自分の意志でうまくいくこともいかないこともあるけど
自分の意志通りにいったと思えることも結局は壱による偶然と解釈すべきか?
気の持ちようで病気が治ったとしてもそれは壱による偶然の結果であるという風に。

まぁ、どんだけ自分が生きたいと意志してもそれとは関係なく死ぬ時は死ぬんだから
自分の意志もそれを超えた壱の意志の前では微力なものと言うべきですか?

226:考える名無しさん
07/09/06 13:34:21 0
壱は物質(生命体含む)に対しての動きっぽくね?

227:考える名無しさん
07/09/06 16:05:27 0
【闇】虚無主義者・ニヒリストスレ2【無】に「タゲ」を探しに行く壱。

>465 :壱:2007/08/14(火) 02:27:58 0
> 虚無を感じて鬱になったりヤケになったり自殺したりするのは
> 絶望が中途半端だから
> 人生や世界はもっと意味があるものなはずだという
> 「望み」が残っているから虚無が苦しい
> 字義道り本当に絶望したなら虚無だからといってどうってことない
> むしろ笑える
> こっちへ来いよ
> スレリンク(philo板)


私(壱)は「ニヒリズムを超克した(≒悟った?)」と言わんばかりの、
(さほど根拠があるとは思えないが)確信に満ちた上から目線でのほのめかし。

> まあゆっくり説明していく
> そのうちわかる人はわかる
> わからない人も死ねばわかる

> 俺はもうあがったよ
> こっちへおいでよ
> みんなでなごもうぜ


228:考える名無しさん
07/09/06 16:14:16 0
名無しさんから「このスレの目的」問われる壱。

>48 :考える名無しさん:2007/08/18(土) 21:24:44 O
> で
> このスレの目的は

>49 :壱:2007/08/18(土) 23:10:41 O
> 特にないっすよ
> 似たような人がいたら雑談したいなとか
> 一人か二人くらいこれを読んで楽になる人がいたらいいなとか
> まあそんな程度かな強いていえば


>50 :考える名無しさん:2007/08/19(日) 01:04:08 0
> そうかい

> 人生最大の発見★12
> スレリンク(philo板)


>51 :壱:2007/08/19(日) 03:19:08 0
> ざっと読んでみたけどおらあんまわがんねぇだ
> とりあえずこっち来れば?
> 俺と遊んだ方が楽しいよ多分

> 「原則」は老子の「道」に近いみたいだけど
> 「壱」も「道」と似てる
> まあおいおい説明していく

229:考える名無しさん
07/09/06 21:49:01 0
>>222
一さんによれば壱は目的を持たない万物の不変不動の中心だから
壱は盲目的な偶然によって万物を変化させてるだけで
そこには何の必然性もなく、ただ人間が因果律や法則性でそれを解釈してることになるんじゃないの?
例えば生まれたことが人生の原因なら死はその結果であるという因果関係があるとしても
壱による万物の盲目的な変化においては人の誕生も死も因果ではなく1つの過程、1コマ、一場面に過ぎないのでは?
でも、世界も自分も単なる偶然とか意味も理由もないじゃ理性が納得しないから、ある因果、ある法則を当てはめるんだろけど。



230:考える名無しさん
07/09/06 22:37:05 0
>>129によれば
「壱」は自我も人格もなく言語を持たない自分で
「一」は自我、人格を持って言語で語る自分と言ってるから
一(自我、人格)は言語を持ってしまったから
その言語でもって必然的に万物に意味、理由、原因、目的、法則などを
当てはめて考え、解釈してしまうような存在だが
壱は言語を持たないから何も考えず語らず
ただ盲目的に、無意味に万物の中心にある存在になると思う。
でも、自分の主体は一ではなくあくまで壱だから
万物は意味も理由もなく盲目的に変化するだけ、となるんですかね、やっぱり?
どうも壱と一の関係を考えるとややこしいですが
壱思想ではこの辺はどうなってるんですか?
(と問うと、また関係性で解釈することになるなるけど)

例えば西洋思想の神だと
創造主である神は完全だから意味も理由もなく世界を創造しない。
よって世界には意味があり、理由があり、目的があり、原因があり、法則がある、となるはずだけど。

231:考える名無しさん
07/09/06 22:43:16 0
>>229
意志や 想いや こういったことをしたい! これが好きだ!モロモロ、、、
そういったことも全く意味ないと?
そんな意志や想いはアホクサ~ってな感じっすか?


壱はミクロも含むんだろうけど、なんつーかマクロの大枠みたいなもんっぽいなw
つまんね。

232:一
07/09/07 02:22:10 0
>>224
>>225
だいたいそんな感じだと思うよ

ただ壱を他者としてとらえると
それに対する自分の意志が微力であることに
何か空しいような感じがすると思うけど
壱とは実はあなた自身のことなのであるという事が分かれば
そこには無力感は生じてこない

自分の中での主人公が人格や自意識ではないと気づく事がまずスタート

233:一
07/09/07 02:24:30 0
>>226
壱はあらゆる変化の原動力であり原因
その現象として物質や生命体の動きが現れる

234:考える名無しさん
07/09/07 02:30:33 0
>>231
もちろん意志や思いがなければ生活が成り立たないわけだから
その意味で、自分の思いにも意味はあるよ。
ただ万物の主体であり自分の主体である壱からすればそれはおまけだと一さんは言ってるから
自分の全てではない自我や観念にこだわらないほうがいいってことだと思うよ、一さんの見解は。

>>230の補足
聖書によれば神は言葉であり、言葉は価値であると言われてるけど
壱は言葉を持たないからその意味で
壱は非論理的で無意味無価値な盲目的主体と言えますかね?
で、言葉を持ってしまった自我としての一が壱による盲目的な万物の生成消滅に
言葉による論理で意味価値目的因果などを当てはめて認識する。
でも、言葉を持たない非論理の壱は「んなことわしゃ知らん」てな感じですかね?



235:一
07/09/07 02:31:33 0
>>223
何がしたいか?
まあいろんなことを壱にからめて考えたりしたいかな
なぜとりつかれたか?
いろんな偶然が私の思想をいろいろに影響し勝手にこうなった感じっす

236:一
07/09/07 02:48:47 0
>>229
壱は万物を変化させる原動力なので
人の生や死の原因は壱であると言っても問題ないと思う
ただ壱には西洋の神と違って目的がないので
人間の存在は壱の意志であって必然的なのだとか言うと変かなとは思うけど

ただのカオスじゃ理性が納得しないから因果律を当てはめて考えざるを得ない
というのは私もそうだと思う
人間が思考する限りそういう思考パターンからは逃れられない
もちろん壱思想もその例外ではない

237:一
07/09/07 02:58:12 0
>>234
まったくもってそんな感じっす

238:一
07/09/07 03:15:39 0
>>230
壱と自意識としての一の関係については確かにややこしいですね
なかなかスパッと説明ができないので思うつくまま書いてみる

壱は宇宙が誕生したときから常に変わらず存在していて
一は人間として生まれてしばらくたってから記憶想起行動によって誕生し
脳死に至れば存在しなくなる
つまり壱は時間を超越しているが一は時間に束縛されている

壱はあらゆる物質や非物質を変化させる力であるが
一はその力によって生成された現象である
これを因果関係に当てはめれば壱は原因であり一は結果である

壱は力であり一は現象である

239:一
07/09/07 03:28:22 0
キリスト教の世界観の元になっているのは
自我が自分の手足を思うように動かせるという体験や
思考の働きによってものを作ることができるという体験にあるのかな
となると自我は主であり肉体や物質は従であるということになる
また、ものを自分が意志を持って作ることができるなら
自分の存在を作った存在も必ずいるはずだ
それが神で神は何らかの意志を持って自分を存在させたのだろう
まあそんなとこじゃないかな

つまり神と自我の関係は意志をもって創造するものと創造されるもの
壱と一の関係は何の意志や目的も持たない力とそれによって起こる現象

240:一
07/09/07 03:35:06 0
一は非物質的な力的現象としての人間の存在のうちの
意識行動の主体である
壱は物質的非物質的に関わらず私の全存在性の主体である

とりあえずそんなとこすかね

241:考える名無しさん
07/09/07 08:03:01 0
>「原則」は老子の「道」に近いみたいだけど
>「壱」も「道」と似てる

おでさぁ バガだから 老子も 「道」も よめねんだ
壱思想って なんかすごそだから 「カンケイネェ音頭」とかで 
表現してみてぐんねが?

242:考える名無しさん
07/09/07 12:33:59 0
壱と自分がイコールなのがどうしてそうなのか全く理解できません。
理解できるようになる方法はある?

243:一
07/09/07 23:01:13 0
>>241
ははw
なら俺とバンドでもやるべい

244:一
07/09/07 23:13:33 0
>>242
方法についてはあまり考えた事無いな
まあまずは自意識の範囲が
いわゆる自我や人格の範囲より大きくなるかどうか

言語化不能な動物的本能や衝動を感じることは誰でもあるだろう
それを自分の一部として認めることがスタートかな

245:241
07/09/08 01:20:54 0
んだばおで シーケンサ担当 譜面 くででズラシ
適当に入れれば それなりの「ノリ」は 表現 でぎっがらさ

246:一
07/09/08 04:27:53 0
したらメールくらさいな
ichi_zen_trance@hotmail.com
譜面はないけどね

247:一
07/09/08 04:59:21 0
>>244続き
まあ言語化可能な衝動でもいいや
例えばめちゃめちゃ眠くなってつい寝ちゃうことってあるよね
人格や自我を持つ君は寝るつもりはなかったのに

この場合君を寝させたのは無意識の力だ
君の脳の意識下の部分では君の身体が疲れていることを把握していて
身体にもう寝ようと命令を出したんだろう

そしたらその君の脳の意識下の部分って誰なんだろう?
壱思想ではそれもまた君に他ならないと考える
言葉や論理を全く気にしないワイルドな君がそこにいる

248:一
07/09/08 05:16:20 0
そういう名も無い動物としての自分を認識することが第一歩だ

ところで
日本で団塊の世代がやたら人口が多いのは
彼らが生まれた終戦前後に日本が非常な困難に直面していたからだ
アメリカでも911以降出生率が上がった
これらは人類の集合的無意識によるもので
身近な人の大量死を目の当たりにすると人類は本能的に子孫を残そうとする
つまり我々の無意識には個体の生存本能を超えたものも存在している
人類として、種として生命を残していきたいという欲求がある

さてではそういう風に欲求しているのは一体誰だろう?
壱思想ではそれもまた君に他ならないと考える
言葉も論理も個体性さえも全く気にしない超ワイルドで巨大な君がそこにいる

249:一
07/09/08 05:33:44 0
まああとは同様に類推していくと壱にたどりつき
壱もまた君に他ならない、となる
壱に至っては君は
言葉も論理も個体性も生命性も物質性も何もかも全く気にすることなく
全くの無言で何の感情も意志も理由も持たず
宇宙全体をただただ転変生滅させる
そういう純粋な力となる

250:241
07/09/08 10:24:56 0
そが おでさ 譜面ねば なんも でげん
いぢさんど バンド なんで おごがますがっだな
てづがぐに すごし ぎょうみもっだがら そしーる
でもよんでみる

251:一
07/09/08 13:06:15 O
そっか
おこがましいことないけどな

でもこういうこと表現するには言葉よりも音楽の方が時に雄弁だ
音楽は意識下に直に語りかけることができるから

252:一
07/09/08 18:14:49 O
でも音楽って無意識のどういう部分に働きかけてるんだろか
考えてみれば不思議なもんだ
セックスが気持ちいいのはわかる
それは子孫を残したい本能が我々の意識にそう思わすんだろう
でも音楽を聴いたからって特に本能にとって得になることなさそうだよね

253:考える名無しさん
07/09/08 18:22:03 0
体感的に大きな音から波形的な音と身体の相互性とか

254:一
07/09/08 18:48:30 O
1/fゆらぎとかそういうこと?
んーまあそういうのもあるかもな
また後で考えてみる

ところで
例えば雄蝉が鳴くと雌は興奮して寄ってくるんだよね
音楽を聞くと興奮するのはそういうのの名残なのかな

255:一
07/09/08 19:29:14 O
生物が耳を持つようになったのは何らかの生存に役立つ情報を得る為だろう
危険を察知したりラブコールを聞いたりとか
最初はそういう役割しかなかったんじゃないか

256:一
07/09/08 19:39:46 O
それがだんだん犬猫くらいになると伝達する情報が増えてくる
威嚇や服従を音声から判断できるようになる
人間も最初はショッカーみたいに一言しか言えなかったんじゃないかな

257:一
07/09/08 19:52:25 O
やがて伝達する情報の量は飛躍的に増えて鳴き声だけでは足りなくなり
言語が生まれた
その一方である種の音声を聞くと
興奮したりロマンチックな気分になる習性はそのまま残った

258:考える名無しさん
07/09/08 21:37:29 0
僕が以下に与えるイメージ映像と、数式を矛盾(違和感)無く重ね合わせてください。
この時はロジックを使ってください。それができた時、あなたは期せずしてレトリック
を読んでしまった事になります。「理解する前→理解した後」この道中に垣間見える
モノこそが、老子がいう「道」です。


259:考える名無しさん
07/09/09 01:12:20 0
>>236
壱が万物の原因てことは
万物のあらゆる変化はその結果にすぎないってことでしょ?
てことは

壱(原因)→生(結果)→老(結果)→病(結果)→死(結果)

となるよね。
てことは死の原因は病気だからとか、病気の原因は老いたからだとか言えなくなって
死も病気も老いも生も万物の変化の中の1つの過程、1つの場面、1つの断面でしかないんだけど
それじゃ誰も納得できないから
結局今現在の各々の立場でそれを都合よく因果関係で解釈してることになるんじゃないのかな~なんて思ったりしたわけです。
つまり万物は因果もなく相互に平等にただ関連し合ってるだけだし
1個の物も因果もなくただ偶然変化していくだけになるんじゃないのかな?
で、その原因は目的のない壱にしかないということでしょ?結局。

260:考える名無しさん
07/09/09 02:00:43 0
>>247
その逆もあるよね。
自分は寝たいと意識してるのに身体は寝てくれない、身体には寝る気が全くない。
そう考えるとこの寝るってのも不思議な現象だよね、寝てるのは自我なのか身体なのか?

>壱思想ではそれもまた君に他ならないと考える
>言葉や論理を全く気にしないワイルドな君がそこにいる

ここが重要なポイントだと思うよ。(一さんの見解はわかんないけど)
正統的な西洋思想だと
神は言葉で語る主体だろうしデカルトの考える私も言葉で考える主体主観だろうし
どっちにしろ正統的な西洋思想はガチガチの論理主義、まず初めに言葉ありき主義で
非論理、非言語なものは排除の対象になり、それは神秘主義とか極端だとオカルト扱いだけど
壱思想は非論理非言語の壱を万物並びに自分の主体としてる点が斬新だね。
別にどっちがどうという話じゃなくて
西洋思想とは全く逆の視点から見てるのが面白いと思うよ。
つっても仏教関係では普通かもしれないし西洋にも類似した思想はあるけど疎いだけかもしれないけど。


261:一
07/09/09 06:15:48 0
>>259
んーなるほど
なんとなく言いたいことはわかった
原因や因果という言葉で意味してることが私と君じゃズレがあるんだな多分

私の解釈でいう因果関係とは
現象Aが力Bによって現れた
よって結果Aの原因はBである
という単純なもの

君の言う原因とは多分
私の言い方でいえば根本原因に相当すると思われる
確かにあらゆる現象の根本原因は壱という力しか無いんだけど
でも死は実際病気という力によってもたらされた現象なので
私的には死の原因は病気であると言う事ができる
じゃ病気の原因は何か?その原因の原因は?とどんどん問うていって
その原因の原因の原因のもっとも根本にある根本原因が壱

262:一
07/09/09 06:40:40 0
>>260
でへへ
斬新だなんて言われると照れちゃうな
確かにデカルト以降カントくらいまでの西洋哲学は
自我=理性としてそれ以外をテーマにしなかった
種明かしってわけじゃないが
近代西洋の哲学者で初めて自我の無意識の部分に光を当てたのは
インド哲学にも傾倒していたショーペンハウアーだ
彼は世界の主体は非言語的な「生きようとする盲目な意志」だとした
あまり当時は評価されなかったが後世になって
フロイトやユングが無意識をテーマにいろいろ考えるきっかけになった
だからまあ西洋に全くなかった発想というわけでもないっす
でも彼らも非言語の部分はやはり他者として見ている感じがあるし
それを自分の主体なんだとするのは東洋的な発想だろうね

263:一
07/09/09 06:51:19 0
自分で言うのもなんだけど
私が壱思想を斬新だと思うのは
インド思想や禅などでは自分が宇宙の主体と合一する為には
ヨガとか座禅とか瞑想によらなければならないとするのに対して
何もしなくたって始めっから私は宇宙の主体と同一だと主張するとこにある
まあこれだけ書くといかにもオカルトっぽいけども
私は別に霊感があったりしてこういうこと言ってる訳じゃなく
いろいろ類推してこういう思想に至ったわけなので
これからもまあ懲りずに説明していこうと思う

264:考える名無しさん
07/09/09 17:30:31 0
かなり前のレスから

>それゆえ私は昨今巷で大流行の自分らしくという言葉が大嫌いである
>ミュージシャンやアスリートが自分らしいプレーができればいいと思います
>とか言うの聞くと虫酸が走る
>理想のプレーを本気で夢中になって求めたらそこに自分なんていないはず

「自分らしいプレーが出来ればいい」という言葉を発するミュージシャンやアスリート
達がいたとして、それらの人々全員が「理想のプレイ」とあなたが呼ぶ、フロー状態のよ
うななものを伴ったプレイしていないとは、いえないのでは?むしろある瞬間、あるプレイ
でフロー状態を経験していたら、それを「自分らしい」と表現する場合が多いのでは?

265:考える名無しさん
07/09/09 19:14:37 0
>何もしなくたって始めっから私は宇宙の主体と同一だと主張するとこにある

壱から発生した万物(俺含む)なんだから全て同一だろうということを指している
 のか?

266:考える名無しさん
07/09/09 22:17:05 0
どんだけーー

267:考える名無しさん
07/09/09 23:13:29 0
>>261
あ~なるほど
万物の変化のうちにも因果はあるが
その総体としての万物の根本の原因は壱にしかないということね。
病気だから死んだとか眠くなったから寝たとか腹減ったから飯食ったとか
そう解釈するのが普通か、そりゃそうだね。

あ、でも壱思想では壱のみが万物の主体であり根本原因だから
病気によって死ぬという因果関係に固執して
病気になったことをくよくよ悩むより
病気も死も結局は壱による偶然の結果に過ぎないと解釈したほうが
病気も死もスッキリと納得できるような気がしないでもないけど。

268:考える名無しさん
07/09/09 23:45:59 0
>>262
やっぱ西洋人には神という超越的存在が基本にあるだろうから
原因は神の如く自分を超えてあるという発想になっちゃうんじゃないすかね?
もしくは思っててもおいそれと顰蹙買うようなことは言えなかったとか、ニーチェみたく。
増してや「自分を超えたものも自分である」なんて字義通りとれば矛盾だしね。

269:考える名無しさん
07/09/10 00:10:29 0
>>263
なんか壱思想って頭で考えて認識するっていうよりも
体感する、実感する思想って感じがするんだよね。
精神性より身体性を重視するっていう感じかな?
「考えるな、肌で感じろ」みたいな。
だから>>242みたいな疑問が生じるんじゃないすかね?
だからそういう人が修行や瞑想で自我を超えたものを直観しようと試みるんすよね?
インド思想とか禅とか全くの無知で完全なる推測ですけど。

270:一
07/09/10 03:56:41 0
>>264
んーそうかそういう意味で言ってるのか
そういう意味で言ってるなら文句はないや
けど無心で最高のパフォーマンスをしてる状態を
自分らしいと表現するのにはまだ抵抗を感じるけどね
まだ、自分が自分じゃないみたいでした
みたいなコメントの方が好感が持てる

271:一
07/09/10 04:17:07 0
>>265
万物は壱の力で現れた現象である
だから万物はその根本原因においては同一
それは確かにそう

けど私の言おうとしてることはそういうことじゃない
簡単に言い換えれば
私は壱によって現れた現象なのだけど
壱は私の他者として私の外側から私を現象させたのではなく
私の存在性の内側から私を現象させているので
壱は私の主体であり
つまり私の主体は宇宙の主体と同一なのだ
てな感じかな

272:一
07/09/10 04:26:51 0
>>267
んー因果って言葉でもちょっと解釈のズレがありそだね

私の言う意味での因果ってのは
単に原因と結果という意味なんだけど

君の言う因果という言葉には「必然的な運命」「宿命」みたいな
意味合いもありそうだ
まあ実際そういう意味でも使われてる言葉だしね
だから両者を分けて説明したらいいのかな

つまり
あらゆる現象には原因と結果の関係は存在するが
必然的な運命や宿命のような関係は存在しない

273:一
07/09/10 04:34:57 0
>>268
そうだろね
ちなみにニーチェは確か晩年
キリストも仏陀も私である
そればかりでなく歴史上のあらゆる人物は私である
みたいな事を言った
まあ普通の人からしたら単なる気違いだろうけど
私はああニーチェもそこまでは来てたんだなーと思うな
つまりニーチェは自我や個体性や時間さえも超越した自意識を感じていた
感じていたけど西洋的自我観との矛盾に耐えられなかったんじゃないかな

274:一
07/09/10 04:41:57 0
>>269
なるほどね
そういう感じがするのも不思議じゃないわな
まあそれをあえて言葉で説明してみようというのがこのスレの趣旨かな
どこまでできるのかはまだ自分でもわからないけど
でもまあまだまだ語り得ることはあると思う

275:考える名無しさん
07/09/10 14:43:23 0
壱の一者的な思想には共感するが。
文体やものごとの思考過程を見る限り、
壱のみている「壱」という一者的なものは、
まだまだ現象にすぎないように、思えてくる。
と微妙な批評をしてみる。
ユングを読んでいててくるような麻薬的な感覚が全然ないから。

276:一
07/09/10 17:37:32 O
若いときに狂気とか麻薬とか憧れる気持ちはわからんでもないけど
それと哲学や思想の深さは全然カンケーないと思うよ
ギリシャ哲学や老子なんかすごく健康的だけど2000年以上読まれる力を持ってるし

277:考える名無しさん
07/09/10 18:04:09 0
ここに貼ってあった「人生最大の~」を読んでいる。
っつか、すっげーーーー長すぎて読む気失せるw
やっとパート1を読み終えたところ。
なんで読んだかっつーと、関係あんのか?と思ったから。
同じことを言ってそうだが、どうなんだろうな~的な感想。


ついでに俺は禅もインド哲学も知らん。


読み終わったらまたここのぞいてみるが、これまでのやり取りを読んでいる限り
誰かも言うように、なんつ~か深みがない感覚を持っている。
奥深く広くないってな感じ。
文章表現で伝えることを意図したなら、まっさらなわからん俺みたいなヤシにも
わかるような表現して味噌。余計なお世話だろうが単純にそう思うよ。


278:一
07/09/10 19:38:38 O
んーまあどこがわからないのか聞いてくれればできる限りは説明するよ
深さうんぬんについてもどこがそうか言ってくれれば面白いんだけどな

279:考える名無しさん
07/09/10 20:41:24 0
>ちなみにニーチェは確か晩年
>キリストも仏陀も私である
>そればかりでなく歴史上のあらゆる人物は私である
>みたいな事を言った

このあたりの意味も全くわからない
ダメダコリャ orz
どういう意味?
一が今まで色々と類推して至ったというその類推を披露してくらさい。


280:一
07/09/11 03:54:54 0
>>279
昔は私も人格をもってそれを私と認識して特に疑問を持つ事などなかった
最初のステップは前にも書いたけど動物的本能を自分の中に発見したことだ
それは>>247にも書いた
つまり言語を持ち人格をもつ自分だけで私が構成されてるわけじゃない
ということに気づいた

例えば君が腹が減ったと思ったとしよう
普通ならそのとき君の身体の動物的本能も
生存のために何か栄養が必要だというふうに感じているだろう
それで脳に指令を出して腹が減ったと思わせ何か食べ物を探させる
さてこの時どこからどこまでが自分なのだろう?

281:一
07/09/11 04:09:07 0
デカルト的自我観でいえば
肉体はあくまでも他者ということになるだろう
腹が減ったと思う私だけが私
私に腹減ったと思わす存在は何であれ他者

でもそれって何か変じゃね?
私は肉体も精神もいっしょになって腹減ったと思っている
そう考えた方が自然だと思わん?
私にはそう考えた方がしっくり来た
言語をもって思考する自分以外に言語を持たない野生の自分もいる

282:一
07/09/11 04:20:45 0
これでまず自意識は人格の範囲より広くなったわけだ
動物としての本能もひっくるめて自分と認識するんだから

言語や理性や思考を持たない動物的本能としての私は
とにかく生命を維持しようとして24時間ずっと働いている
呼吸をして酸素を取り込み心臓を動かして血液を循環させる
子孫を残すため精子を作り裸の女を見るとチャンスとばかりに勃起する

まずはそんな自分を自分として認識できるかどうかだ

283:一
07/09/11 04:43:22 0
ところで
動物的本能としての君はどこからやってきたのだろう?
君はかつて母親の胎内に眠る一つの受精卵であった
しかしその受精卵は無からポッと生まれたわけじゃない
それは君の父さんの精子が母さんの卵子に突入してできたものだ
つまり動物的本能としての君は親父とお袋の細胞から発生した
ところで動物的本能それ自体も無から発生するものではない
ということは動物的本能としての君は父さん母さんの動物的本能を
受け継いでいるのだ
もともとが君は君の父さん母さんの細胞なのだから
父さん母さんの細胞には父さん母さんの動物的本能が宿っている
つまり動物的本能としての君は君が肉体として発生する以前
君の両親の動物的本能であったのだ
両者は全然異なるものではなく同一なものだ

284:一
07/09/11 04:52:57 0
これで動物的本能としての君は君の肉体という個体性を超越する
ということは君が君と認める範囲は自我の範囲を超え個体の範囲を超えた
親父お袋の動物的本能も含めて君なのだから
ここまで来るとなかなか想像しにくいとは思うけど
何回も読み直してよーく考えてみればそんなにおかしな話じゃないと思うよ

285:一
07/09/11 04:58:41 0
そしたら君の両親の動物的本能はどこから来たのか?
それは君のじいちゃんばあちゃんから受け継がれたものだ
ほらまた君の自意識の範囲は広がった
動物的本能としての君はじいちゃんばあちゃんの頃から生きていたのだ
そしたら君のじいちゃんばあちゃんの動物的本能はどこから来たのか?
こうしてどんどんどんどん遡っていけば
君は地球で最初に生まれた人類まで辿り着く
つまり動物的本能としての君は地球上に最初の人類が生まれたころから
既に存在していたのだ

286:一
07/09/11 05:23:12 0
そしたら今度は時間をまた逆に流してみる
地球で最初の人間がもっていた動物的本能は
その子に受け継がれその孫たちに受け継がれまたその子や孫へ
現在では60億人の全人類に受け継がれている
ということは動物的本能としての君は動物的本能としての私でもあるし
両者に全然違いはなく同一だということになる
だって全く同じものが受け継がれているんだから
だから私や君は歴史上の全ての人と動物的本能としては同一なのだ
そしてそういう動物的本能の存在の巨大さに比較すると
我々の人格や個性などははるかに小さく一瞬のもので誤差の範囲内だ
よって私や君はキリストや仏陀とおんなじだ

ちょっと終盤めんどくさくなってはしょったけど
まあこんなあたりが私の類推の経緯
ニーチェと同じ推論ではないだろうけど
行き着いたところは同じでそれは自我や個体性や時間を超えた自意識の感覚だ
まあ壱思想はさらにその先まで行くけど
まだ壱は出て来ない

287:考える名無しさん
07/09/11 09:50:11 0
>地球で最初の人間がもっていた動物的本能は
>その子に受け継がれその孫たちに受け継がれまたその子や孫へ
>現在では60億人の全人類に受け継がれている

えーーーっ、「地球で最初の人間」って誰々?

>そしてそういう動物的本能の存在の巨大さに比較すると
>我々の人格や個性などははるかに小さく一瞬のもので誤差の範囲内だ

えーーーっ、巨大って誰が決めてるの?どんな風に巨大なの? 「個性など
這かに小さく」って、何らかの測定したりして結果のことだよね?

「誤差の範囲」って何々?あるデータが抽出され、何らかの統計的処理を
施して、それが「誤差に収まる」と認識されたんだよね?

結果、「人間の意識?なんつーもんは~、巨大な動物的本能に比べたら所詮誤差、
アタシも仏陀もキリストもマキエも、エイジ(←多少語気が変わったように感じ
たのは思い過ごしか・・・)もみんな(誤差範囲内つながりで)一緒~」と
言う結論が生じたんだよね?

と、最近知恵が付いてきて、小うるさいJK(=女子高生)のサエコが携帯片手に申
しておりました。ダラダラ長いメール止めとけって言ってるのになぁ。

288:考える名無しさん
07/09/11 13:12:04 0
一の説明、よくわかりました。
ありがとうございます。

続きを宜しくです。

289:考える名無しさん
07/09/11 19:08:50 0
質問があります。
人格や自我がでてくる前・・・赤子や胎児の頃の純粋な自分というのは
そもそも認識できるのか?一はそれを認識できたのか?それとも~こんな
感じという妄想に近いような感覚なのか?


次の質問
壱思想によって淡々としない?


次の質問
俺は野球をするんだが、すこぶる調子がいい時ってまわり全体が見えて
なんの雑念もないようで頭で考えずとも勝手に体がベストなプレーをしてくれ、
球だろうがまわりだろうがスローモーションのように見えてお茶の子さいさい状態に
なったりするんだけど、これは壱と関係あり?


最後の質問
壱からしたら世の中には説明できない現象は一切なし?

290:考える名無しさん
07/09/12 01:30:02 0
>>281
デカルトは悩んでたね
考える自分と考えない他者である肉体がなぜ対応してつながってるのか?と
肉体(他者)と精神(自分)の二元論から
他者である肉体は消滅しても自分(精神、魂)は残るという発想が生まれたのかな?
考えてみれば考えない非言語の肉体がなければ言語も考える自分もなかったわけだから
肉体だけを他者として軽視する理由も確かにないな。
つ~ことは考える自分も自分だが、考えない肉体も同じく自分と考えても何も問題ないわけだ。
考える言語的自分と考えない非言語的自分、両者はなぜか対応しつつ同じ自分を構成する。
なるほどね。


291:一
07/09/12 11:40:02 0
>>287
サエコちゃんの突っ込みももっともだから
また考えてからそのうち答えるねって伝えといて
>>288
あいよ

292:一
07/09/12 11:50:17 0
>>289

質問1

赤子や胎児の頃の純粋な自分をそのまま認識できたわけじゃないすね
ただ言語や思考を持たない自分はやっぱ
どうしようもなく腹減ったり眠くなったり勃起したりとか
そういうときに認識することができる
そういうような思考以前の生命維持のための衝動は
赤ちゃんや胎児のころにもあっただろうと思う
だからそれは認識というより推論でありまあ妄想と言われれば妄想だな

293:一
07/09/12 11:53:21 0
>>289

質問2

そうだね比較的淡々とするようになったかな
熱くなることもあるけど冷めるのが早くなったかな
でも昔からそうな気もするから
あまり変わってないような気もする

294:一
07/09/12 12:00:55 0
>>289

質問3

美しさと壱は何かしら関係しているという気がしている
アスリートが最高のパフォーマンスをするとき
その姿を見て美しいと私は思う
その感動は動物や魚の動く姿を見て美しいと思うのと似ている
両者の共通点は無心でいることにあるのではないか
無心でいることとは壱と一体になっていることではないか
まあざっとだけどそんな感じ

そのうち「美しさ」や「感動」と壱の関係についても
書いてみたいと思ってます

295:一
07/09/12 12:09:53 0
>>289

質問4

それはわかんないな
説明できることはたくさんあるとは思うけど

>>290
どうして二元論みたいな不自然な主張が
何百年もまかり通ったのかが逆に不思議だわ

296:考える名無しさん
07/09/12 20:41:02 0
>美しさと壱は何かしら関係しているという気がしている
>アスリートが最高のパフォーマンスをするとき
>その姿を見て美しいと私は思う

防波堤で寝転びながら、カモメやウミネコの飛んでる姿をただ受け入れてる時がある。
だけど、あの子らにも個体差はある。威嚇しながら、餌も奪い合う。そんな時に我に返る。
可愛そうに思うときは、釣針ついたままの魚を、何の疑いもなく飲み込んじゃう時だなぁ。


297:考える名無しさん
07/09/12 22:45:42 0
ある日、母が勤め先のスーパーから鳥取のホテル宿泊券を2枚もらってきた
「店長さんが『休みなしのお勤めご苦労様。たまには坊やと一緒に行っといで』って」

       J('∀`)し
        (ヽロロ   ヽ('∀`)/ワーイワーイ
        ||      (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

生れて初めての旅行に興奮する俺に母は
「鳥取には砂丘があるらしいよ」「きれいな風紋が見れるといいね」と
お出掛け用に新しい洋服を用意してくれた

   J('∀`)し ♪
t─┐ノ( ノ)        ヾ('∀`)ノロロ
  │■| |       .  (_ _)
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そして旅行当日 電車やバスを何本も乗り継ぎやっと鳥取砂丘に着いた

        J( 'ー`)し
.         ( ) \('∀`)/
          | |   (_ _)
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298:考える名無しさん
07/09/13 00:51:57 0
>>295
でも、普通の感覚だとやっぱ肉体と精神は別物と考えるのが逆に自然だと思うよ。
じゃないと他人の死を見て肉体は無くなったけど心はどうなったか?なんて発想が浮かばないだろうね。
そう考えるってことは肉体消滅後の心=自分の行方が気になるという心理が働いてるんだろうし。
精神が肉体を認識するという時、認識する精神は主体である自分だが認識される肉体は対象である他者とみなしてるんじゃないかな?
それが常識的な捉え方だと思う。
で、ここがやっぱ壱思想理解のポイントであり難点なんだと思うな。
言語で思考し認識する自分と言語で思考し認識される言語を持たず思考も認識もしない物質(肉体、生存本能)としての自分。
認識においては主体と対象に分かれる両者は元を正せば同じ自分であり自分を構成する二つの側面である。
それは自我、自意識、言語によって自(精神)と他(肉体)に分裂した結果にすぎない。
ここら辺りで大抵はつまずくんだと思うなあ。
289氏の最初の質問もやっぱ自我による認識重視で自分が認識できない対象は他者扱いしてる感じあるし。


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