【みんな】俺の哲学だっ!!【ついてこい!】at PHILO
【みんな】俺の哲学だっ!!【ついてこい!】 - 暇つぶし2ch65:考える名無しさん
07/06/03 19:08:12 0
kyrieさん
「事実から当為を引き出すこと」を哲学してくれ!

66:考える名無しさん
07/06/03 21:47:50 0
kyrieさん、
あなたにとって形而上学とは?

67:考える名無しさん
07/06/07 16:03:36 0
age

68:考える名無しさん
07/06/17 16:04:29 0
kyrieさんって意外とかわいいね、同学年だけど

69:kyrie ◆.RYdSpBfEI
07/06/17 18:47:06 0
諸事情により今までの考えを捨て去るぜ!

>>65

ごめん、後回し。

>>66

んー…ステータス?

>>68

あなた誰ですか(笑)リアル知り合いですか?


70:kyrie ◆.RYdSpBfEI
07/06/17 18:47:58 0
観念論は、マンガやアニメや映画の世界では通用しない。そこでは、登場人物が、主題性こそ
異なれど、また思惟が時おり覗くけれども、木は主人公にとっての木でもないし、他の人物は主人公にとっての他人でもない。
主人公は他人であり、いつでも、他人相互の関係のままである。

「この世界は、『私』が見ている以上のもの以外にはなにものも求められない」
これをどう否定したものか。これを克服しない限りは、物相互の関係すら全く考えられなくなるし、
従って物理学は意味のないものとなるであろう。

しかし、他人が他人と純粋に関係している、こうしたことが可能であったら?
それは「私の他人」と、「私の他人」かも知れないが、その関係自体はどうなるのだろうか。
それすら「私の他人と私の他人とによる私の関係」とでも反論されるのだろうか。

こうしたことに頭を悩ませながら、しかし「物理学」が現に存在している、ということに私は気づいた。
そして、木が天井からまっすぐ生えている、という想像もできる、ということに私は気づいた。
「涼宮ハルヒの憂鬱」が、その内部に営みを包している、ということに気づいた。
3年前から世界が始まった…誰が否定できよう?
映画「マトリックス」の世界観を、誰が否定できよう?
今見えているこの目の前が、見えたままなのか、そうじゃないのか、あるいは「私が見た」目の前なのか、他人が見た目の前なのか、
そのいずれでもないのか…全てはありえること、「可能性」だと言える。

可能性は、「問う」ことで明らかになるようなものなのであろうか。今こう言う事ができる、
可能性は全ての「存在」に先んじている、と。
可能性は、存在を可能性にする。可能性は全てを可能性にする。
「可能性は全てを可能性にする」とは、全てが可能性に先んじているわけではない。
しかしこの際、時間的な前後など、どうでもいいのだ。
全てを支配するものとして、時間すら可能性する可能性が、前後に揺れ動くことはない。
また「まず可能性があった…」と宗教じみたことを言う積りもない。可能性は時間を超越している。
このような超越するものを、どう扱ったら良いのだろうか。
それは思念することによって、と言うが、その存在すら可能性として疑わしくなった今、ある導きが必要である。


71:kyrie ◆.RYdSpBfEI
07/06/17 18:48:55 0
しかし、万物には必ず導きがある、といったものだろうか。
ある導きは、あるものの連関から導かれる、のみならず、イメージの漸次性にも拠る。
あのニュートンが林檎の落下から得た導きは、林檎が種々の果物、その生産者、落下場所、などに連関しているにもかかわらず、
その運動が彼の心を捉えた。
運動は、林檎の落下が描いた線-本当は林檎の落下が描いた林檎だったのだが-から林檎とその軌道を
一定の図にまでイメージを漸次させたのであった。

しかしニュートンの得た導きは、日常のものであったのだから、その理論にも日常が入り込んでいる、とは言えないものだろうか。
ニュートン力学にしろ量子論にしろ…あるいはカント観念論にしろハイデガー存在論にしろ、それが日常の導きから得られたものだと
するなら…かつ日常に対応させようという理論の包含する努力が認められたとするなら?

超常とは果たしてどうやって生まれるのだろうか。
それが見つかりさえすれば、そこから遠慮なく導きを漁ることができようものを-



72:kyrie ◆.RYdSpBfEI
07/06/17 18:49:49 0
木が、正面にあったと思った瞬間、横に移ったとしたら、誰もが驚くだろう。
自分で歩いてみれば、そのような事態はいくらでも作り出せるにも関わらず!
「あり得ない」
この世の幾多の物語(相対性理論やハイデガー哲学など)の読解力の欠如から、人はこう言う。
物語自体が間違っていることは、断じてない。もちろんそれは、可能性だからだ。
あるいは、日常との親近さにおいて。
木が横に移るというクロニクルの、どこに超常があったか。
それは彼女が、そのような可能性を包してなかったからだ。人は多くの可能性に囲まれながら、それを現実しない。可能性に気がつかない。
このような、可能性に対する無知、それは「その人にとっての」超常である。
この文から、可能性を狭める、「その人」を抜く。それは「にとっての」超常である。
これが意味するところは、全て存在するものがその膨大な可能性でない、ということである。やはり可能性は存在を超越しているわけである。
更に「にとって」とは、やはり可能性を狭めるので、「-超常である」としてみる。
すると、「にとって」は直線的無限であったものが、曲線的無限となる。
つまりは、「にとって」によって限定しないことで、可能な切り取り方がとてつもなく膨大になったのである。
だが、果たしてそれだけなのだろうか。切り取られることが可能なものばかりでなく、そうでないものまで、可能性でない、と解釈できる。
しかしこの「そうでないもの」とは、一体何なのだろうか。
この問いを超常への足がかりとして、留保しておく。




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