07/07/20 08:41:29 0
>>332 「真理」と「真のもの」とは具体的にどうちがうですか?
『真』については上述を参照してもらうことにしまして、違っている『理』と『モノ』の比較を。
『理』とは方法論でしょうね。料理で例えれば日本料理、フランス料理、ベトナム料理など料理法によって食材をどう活用するのかが違ってくる。『モノ』は存在。>324冒頭で3種類の存在を説明しています。
ここから窺えること。『真理』とは、正しい方法論。料理で例えたように多様化が認められている現代社会では、「これ一つが正しい」と言える方法論はない。
ただし、『料理する』という観点からみれば全て正しい。この場合、「『料理する』ことに対して真摯な姿勢で向かっている」ことが、正しいと言えば正しい。
翻って、『真理』とは、「哲学的であろうとすることに対して真摯な姿勢で向かっている」という風な解釈も成り立つかと。
『真のモノ』。Ⅰ自然物については、その存在自身疑うことはありません。Ⅱ人工物については、作品の出来不出来という価値判断のもと「真/偽」を下している方もいます、いわゆる評論家ですな。
Ⅲ言葉に関してはⅡ以上に、というか、そもそも価値判断しかない。言葉を使用する者によって或る言葉に対して価値基準を持ち判断を下し使用する。このことを通じて言葉は『存在』を表明しているわけです。
Ⅲにおける『真のモノ』とは何か? 言葉を他の言葉で説明しようとしてもそれは例えの域をどこまでいっても越えられるものではなく、ということは『真のモノ』の証明要素たりえません。
ってことは言葉の信頼性を裏打ちするのは、その言葉の使用者しかありえない。使用者の表現全てをひっくるめて言葉の信頼性を高めてゆくしかありません。この際、『表現』とは言語のみならずその他の表現をも当然ながら含みます。
或る人物の発した言葉が『真のモノ』であるとしましょう。で、その言葉を用いて他の人物がその通りの意味で用いたとしましょう。しかし、です。先に用いた人とそれを受け継ぐ人の全表現は、どこか違ってしまう。生物的にはヒトですから。どっか違う。
その違いようを理解した上で理解することが必要になってきます。当たり前といえば当たり前の話。前人の言葉をそのまま使ったとしても、そこには『違い』が生じてしまう。ここを踏まえた上で使用する、観察する、という視点が必要になってくるわけです。