07/04/01 19:52:17
池田は同エッセイ中、
《言葉を甘く見るでない
言葉の力を侮るでない》と書いている。それには共感できる。
世代論に自閉し、対話を放棄する精神にたいしては、この批判は有効に思えます。
ただ、先に引用させてもらったくだり。《私は戦争を知っている》と連呼するセンテンス。これは異様というか、違うんじゃないか、という感を禁じえないですね。
言葉で語られた体験、それは出来事としての生だと思う。そこで生きられたものにはそれを共有することでは到達できないじゃないですか、池田さん?そう言いたいところです。
実際にリアル・タイムで体験したものと、あとから語られた体験(言葉)は、僕はやはり違う、同一視はできない、と思いますね。
で、池田自身が、このエッセイの最後に、生きられたものへの注意を書き込んでる。
《戦争は、端的に、生きられた、それだけだ。それぞれの仕方で感じられ、それぞれの仕方で生きられた、それだけだ。人は生きる限り己れの時代を生きるほかはない。しかし、想い出として語られるとき、ただ生きられていたそのことが忘れられる。
それが我らを繰り返し誤たせるのだ。》(97頁)
つまり、池田自身、《戦争は、端的に、生きられた、それだけだ。》と宣言している。生きられたものへの眼差しを池田も獲得しているとここでわかる。そのことの重要性を知っている。
じゃあ、どうして、語られた言葉でもって、「知っている」と言えてしまうのか、またわからない。
僕は語られた言葉での或る体験の理解には限度がある。あくまでそれは起こった出来事の理解で、それによって「知っている」とは言えないんじゃないかと言いたいですね。なぜなら、それを生きた体験は語れないからです。