07/04/01 19:27:22
>>763
> >>762
> >そこから池田は、「戦争を知っている」「戦争を知らない」などの区別は無意味だ、と持論を展開する。
> 池田はどこでそのようなことを言っているのですか。
>
> 「体験」は語られなくては、その人にとってしか意味を持たないでしょう。
『メタフィジカル・パンチ』中の「同世代の皆さんへ」で書いています。
《確たる世界認識は、自分の死を知るその明らかさと引き換えに獲得されるものだ。ひとたび死んで無になった自分だからこそ、世界の全てを自分と知るのだ。
認識は自在だ。どの時代におけるどの誰かも、全て、「私」だ。私は戦争を知っている。爆弾を抱えて敵艦に突っ込んだことがある。幼い部下にそれを命じたこともある。戦争を知りながら、しかし愚劣を真率に生きるよりしようがなかった人間の悲しみを知っている。
「戦争を知らない世代」などと自ら名乗るなど、恥ずかしいことと思った方がいい。
生死という絶対的形式において人は、個人も時代も超出しうる。これが我らの普遍である。個人の体験内容たらしめているところの普遍的形式である。》(95頁)
ここで池田は世代論への否定から、「体験した」「体験してない」の別を重視する戦中派や戦後派の双方へ否定を向けています。そのモチーフは理解できる。理解できるんだが、そう上記のように言い切ることが出来るだろうか、という疑問が湧いてきます。
世代論は不可能である理由を池田はこう書いています。
《同じ時代を生き、同じ体験を経たとて、全く別の感じ方をする人はいるのだから、世代論はつまらないだくでなく、そもそも不可能な言論であるといえる。》(96頁)
しかし、世代というのは、池田の言うように、同じ事件にたいして異なる印象をもっている、そのことがやはり世代を形成する要因だと俺には思えるのです。