07/04/01 18:06:21
池田は戦争体験について、言葉で残された体験を自分は知ることができる。だから自分は戦争体験をしたも同じだ。とでも言いたげな文を書いている。そこから池田は、「戦争を知っている」「戦争を知らない」などの区別は無意味だ、と持論を展開する。
言葉によるかぎり、意識は時間も空間も超える永遠性のなかにある。そこから話をすすめると斬新な話になる。
しかし、その考えは体験ということを誤解しているように俺には思える。
池田は世代という概念も否定する。意識の歴史的制約、地域的制約などないかのように言う。なぜかって?ロゴスとはそういうものだから。
池田は個体による体験を軽視している。リアル・タイム、てことを軽視していると思う。
体験ということのなかには、心の領域に食い込むものがある。また、生の意味が〈生きられたもの〉であるかぎり、体験そのものを伝えることはできないとも言える。それは個体としての歴史が一回きりのもので、かつ唯一であることでもある。
池田は「映像の世紀」という番組をみてボロボロと泣いたそうだ。人には人の体験を推し量る力がある。しかし、体験そのものは原理的には共有はできない。共有はできないが、推し量ることはできる。体験を語る言葉には人の心が染み付いている。
人間存在とはなにか、どこか勘違いしていたような気がする。言葉についてもっと考察すればよかった。