07/04/01 17:45:53
>>595
>「私は、安い言葉を売り飛ばすくらいなら、言葉の仕事など選ばない。
> それは自分が安い人間になることに他ならないからである。
自分自身が安い言葉を売り飛ばしていて、その自覚がないってのは痛いな。
俺みたいに、宣伝にのせられて中身を見ずにうっかり買ってしまい、
後で金返して欲しいと思った人間の気持ちなんて、
結局わかろうともしなかったんだろうな。
762:考える名無しさん
07/04/01 18:06:21
池田は戦争体験について、言葉で残された体験を自分は知ることができる。だから自分は戦争体験をしたも同じだ。とでも言いたげな文を書いている。そこから池田は、「戦争を知っている」「戦争を知らない」などの区別は無意味だ、と持論を展開する。
言葉によるかぎり、意識は時間も空間も超える永遠性のなかにある。そこから話をすすめると斬新な話になる。
しかし、その考えは体験ということを誤解しているように俺には思える。
池田は世代という概念も否定する。意識の歴史的制約、地域的制約などないかのように言う。なぜかって?ロゴスとはそういうものだから。
池田は個体による体験を軽視している。リアル・タイム、てことを軽視していると思う。
体験ということのなかには、心の領域に食い込むものがある。また、生の意味が〈生きられたもの〉であるかぎり、体験そのものを伝えることはできないとも言える。それは個体としての歴史が一回きりのもので、かつ唯一であることでもある。
池田は「映像の世紀」という番組をみてボロボロと泣いたそうだ。人には人の体験を推し量る力がある。しかし、体験そのものは原理的には共有はできない。共有はできないが、推し量ることはできる。体験を語る言葉には人の心が染み付いている。
人間存在とはなにか、どこか勘違いしていたような気がする。言葉についてもっと考察すればよかった。
763:考える名無しさん
07/04/01 18:15:25
>>762
>そこから池田は、「戦争を知っている」「戦争を知らない」などの区別は無意味だ、と持論を展開する。
池田はどこでそのようなことを言っているのですか。
「体験」は語られなくては、その人にとってしか意味を持たないでしょう。
764:考える名無しさん
07/04/01 18:40:34
意味が何であるか、どのようなことであるかということが分からない。
意味論って論理学も入ってきて複雑だ。
765:考える名無しさん
07/04/01 18:42:24
初体験を語るメイドの晶子です。
766:考える名無しさん
07/04/01 19:27:22
>>763
> >>762
> >そこから池田は、「戦争を知っている」「戦争を知らない」などの区別は無意味だ、と持論を展開する。
> 池田はどこでそのようなことを言っているのですか。
>
> 「体験」は語られなくては、その人にとってしか意味を持たないでしょう。
『メタフィジカル・パンチ』中の「同世代の皆さんへ」で書いています。
《確たる世界認識は、自分の死を知るその明らかさと引き換えに獲得されるものだ。ひとたび死んで無になった自分だからこそ、世界の全てを自分と知るのだ。
認識は自在だ。どの時代におけるどの誰かも、全て、「私」だ。私は戦争を知っている。爆弾を抱えて敵艦に突っ込んだことがある。幼い部下にそれを命じたこともある。戦争を知りながら、しかし愚劣を真率に生きるよりしようがなかった人間の悲しみを知っている。
「戦争を知らない世代」などと自ら名乗るなど、恥ずかしいことと思った方がいい。
生死という絶対的形式において人は、個人も時代も超出しうる。これが我らの普遍である。個人の体験内容たらしめているところの普遍的形式である。》(95頁)
ここで池田は世代論への否定から、「体験した」「体験してない」の別を重視する戦中派や戦後派の双方へ否定を向けています。そのモチーフは理解できる。理解できるんだが、そう上記のように言い切ることが出来るだろうか、という疑問が湧いてきます。
世代論は不可能である理由を池田はこう書いています。
《同じ時代を生き、同じ体験を経たとて、全く別の感じ方をする人はいるのだから、世代論はつまらないだくでなく、そもそも不可能な言論であるといえる。》(96頁)
しかし、世代というのは、池田の言うように、同じ事件にたいして異なる印象をもっている、そのことがやはり世代を形成する要因だと俺には思えるのです。
767:考える名無しさん
07/04/01 19:29:32
>>762
>池田は個体による体験を軽視している。リアル・タイム、てことを軽視していると思う。
単に他人は自分でないということを言っているだけ。
私の想像では、個体による体験を重視するからこそ、言葉の普遍性ということを
強調する道をとったと思うのだが。
768:考える名無しさん
07/04/01 19:37:36
>>766
「知っている/知らない」の区別が無意味だということではなく、戦時ではない現代においても
戦争について知ることはできるということを言ってるんだろう。
「「体験した」ということのどこが偉いのか」という池田の言葉には、私は共鳴を覚える。
769:考える名無しさん
07/04/01 19:52:17
池田は同エッセイ中、
《言葉を甘く見るでない
言葉の力を侮るでない》と書いている。それには共感できる。
世代論に自閉し、対話を放棄する精神にたいしては、この批判は有効に思えます。
ただ、先に引用させてもらったくだり。《私は戦争を知っている》と連呼するセンテンス。これは異様というか、違うんじゃないか、という感を禁じえないですね。
言葉で語られた体験、それは出来事としての生だと思う。そこで生きられたものにはそれを共有することでは到達できないじゃないですか、池田さん?そう言いたいところです。
実際にリアル・タイムで体験したものと、あとから語られた体験(言葉)は、僕はやはり違う、同一視はできない、と思いますね。
で、池田自身が、このエッセイの最後に、生きられたものへの注意を書き込んでる。
《戦争は、端的に、生きられた、それだけだ。それぞれの仕方で感じられ、それぞれの仕方で生きられた、それだけだ。人は生きる限り己れの時代を生きるほかはない。しかし、想い出として語られるとき、ただ生きられていたそのことが忘れられる。
それが我らを繰り返し誤たせるのだ。》(97頁)
つまり、池田自身、《戦争は、端的に、生きられた、それだけだ。》と宣言している。生きられたものへの眼差しを池田も獲得しているとここでわかる。そのことの重要性を知っている。
じゃあ、どうして、語られた言葉でもって、「知っている」と言えてしまうのか、またわからない。
僕は語られた言葉での或る体験の理解には限度がある。あくまでそれは起こった出来事の理解で、それによって「知っている」とは言えないんじゃないかと言いたいですね。なぜなら、それを生きた体験は語れないからです。
770:考える名無しさん
07/04/01 19:56:18
>>769
>じゃあ、どうして、語られた言葉でもって、「知っている」と言えてしまうのか、またわからない。
知る方法は言葉によるしかないから。
771:考える名無しさん
07/04/01 20:04:16
知ることは体験を必ずしも要求しません。
772:考える名無しさん
07/04/01 20:24:41
知ることは、取り除くことになる。
中身は落とされ、形式は取りだされる。
戦争を知ることで、生と死は闇に葬りさられる。
"戦争を知らない世代も戦争を知っているのだ、それ故に、私は危惧しているのである゛
こう池田はいったのかもしれない?
773:考える名無しさん
07/04/01 20:28:46
知ることを危惧して
考えてるメイドの晶子です。
774:考える名無しさん
07/04/01 20:44:37
>>769
>じゃあ、どうして、語られた言葉でもって、「知っている」と言えてしまうのか、またわからない。
「あの戦争についてきちんと語れ」という、上の世代に対する、単なるアオリだろう。
775:考える名無しさん
07/04/01 20:52:08
池田は死のブログを批判し、自分に死が刻々と迫っていることを語らなかった。
言葉の力によって、死の生々しさを薄れさせたくなかったんじゃないか?
知を愛する社会において、考えることを愛し、最後には体験を愛するようになったのか。
彼女は普遍から個へ向かっていった。
だが唯一無二の自己を愛する者に、世界はつらくあたるものだ。
それにもかかわらず、なぜなのか、わざわざ個へ向かっていった。
それを嘆いた諸兄も多かったにちがいない。
だが事実、彼女は普遍的なものから退いていき、池田某というよりは、池田晶子、もとい、伊藤晶子その人として幕を閉じた。
何か示唆的な生き方であったように思う。
776:考える名無しさん
07/04/01 20:58:53
14歳の君達は
生き方に悩まないで
晶子の示唆だけを考えてればいいのよ。
哲学の巫女オバチャン冥土の池田本人です。
777:考える名無しさん
07/04/01 22:24:30
『君自身に還れ』177頁で池田はこう云ってるね。
《そうなんですよね。宇宙のこと考えていたのに、引っ繰り返ってメビウスの帯みたいに裏側に出てしまった。考えていたのは自己だったってことでしょう。》
つまり、宇宙や永遠性について、言葉を紡いでいると、その言葉を紡いでいる自己が気になってきた。
これは変化なんだろうけども、もしかしたら、そのように変わってきたのは病に冒されていったことが原因ではなかったのかな、て推測もしてしまう。つまり、死を意識したからではないか。
死をリアルなものとして意識したとき、今ここで宇宙や永遠について思考している自己はいずれ消滅する、てところに行き着いたのではないか、ということ。それは重大な転換点だったろう。
精神の一性という立場からは、個体の唯一性は問題にならない。事実池田はその一性のほうを中心に考える人間だった。それが、晩年はその反対概念である多性が気になってきた。
それはつまり個体の唯一性について考えはじめるということで、大峯との対話ではそっちのほうへ目を向けるところと、従来からの思考―精神への指向―が混在して出てきてますね。
他と交換不可能な〈私〉というのを意識せざるをえなくなった。〈私〉の消滅がそれを意識させた。
生の条件が思考を左右する、真理への眼差しを左右する、てことを証明する話だよね。
778:考える名無しさん
07/04/01 22:28:14
>>775
まあ、そういう読み方もあると思うけど。
俺は何も嘆かなかったなぁ。
779:考える名無しさん
07/04/01 22:41:05
何を言っているんだおまえたちは。
780:考える名無しさん
07/04/01 22:51:59
>>777
>そのように変わってきたのは病に冒されていったことが原因ではなかったのかな
それは違うと思う。
「魂」についての思索を始めたのは「残酷人生論」の頃から。
781:考える名無しさん
07/04/01 23:26:33
そうか。これまでの思索の問い直しが最後の対談では見られたので病の影響かと思ったが。
死後に仕事の内容が検討されること自体は本人は嫌がってはいないだろう。真っ芯で捕らえようという批判はよいことだよ。たとえ否定的でも。池田本人が生前、他人の仕事に(在世ないし故人を問わず)そうしてきたわけだから。言葉はきつかったからね、池田は。
782:考える名無しさん
07/04/01 23:40:56
>>761
>自分自身が安い言葉を売り飛ばしていて、その自覚がないってのは痛いな。
俺も最初は「池田さんという人は自覚がないんだろうな」
と思ったけど、それなりに自覚を持って用意周到だったことに気づいた。
「哲学じゃない哲学エッセー」とか「専門用語を使わない」とか、
しっかり言い訳を準備していたから。
"慶応大学哲学科卒業"の経歴についても、編集側に「いやらしくなる
からやめてくれ。中身がいいなら黙っても売れるから」と主張すること
もできたはずだ。
>俺みたいに、宣伝にのせられて中身を見ずにうっかり買ってしまい、
>後で金返して欲しいと思った人間の気持ちなんて、
新聞に載ったでかい広告に「慶応大学哲学科卒業」とあったので
その時点で胡散臭いと思っていたが、本屋でパラパラめくってみたら
あまりの中身のなさに驚いて買わなかったよ。
783:考える名無しさん
07/04/01 23:48:31
可哀想な卑俗な自分の方が生は充実する。
真、善、美と三拍子で望ましいものとしてよく挙げられるが、
普遍性をもつ高貴な自分はこれらを表現し、体現するだろうが、
特別に感ぜず感動できない。
卑俗な方はそれらをわかっておらず表現できないくせに、
思い込みんで感動し、夢中になったりする。
また俗であることで俗なことにも心を踊らすことができ、肌で生きることができる。
池田は恐らくは高貴に生まれ、俗であることを次第に選びとっていったといえ、それ故に、普遍性を失い、離れていったが、
何より確かで現実的で生々しいのは俗な自分であり、その思いである。
それ故に実際にはそれが虚しい性質のものではあっても、俗な方に惹かれていったのではないかと思う。
784:考える名無しさん
07/04/01 23:54:08
読み方どころかちょっとしか読んでないんですけどね。
思い込まなきゃつまらないって思ってる。
785:考える名無しさん
07/04/02 00:02:58
敢えて俗であることをよしとしたのはニーチェ的ですね。
まあ池田もニーチェあまり読んでないですけど。