07/03/28 10:51:32
池田愛読者も、愛読者ではなかった俺も、池田が何をやろうとしてたのか、揃ってさほど把握してはいない、という面白い光景が現れていませんかね?
池田晶子の思考を“これ”、とまとめるのは困難だということ。もちろん『考える人』のように、西洋哲学を俯瞰して重要人物について筆を走らせている本もある。だけどそうして試みた幾つかの読みや批判によってどこへ行こうとしてたのか。
輪郭がはっきりしないのではないかな。
ただ、ヘーゲルや小林秀雄や埴谷雄高やソクラテスへの言葉の捧げものを池田は書いてますね。
つまり、哲学や思考の神々を祀る祭壇の巫女だった、と。時々現れてはお祓いをし、観覧料をとり、有り難さを訪問客に説明し?
そう考えることはできるかもしれませんね。だからこのスレ名は激しく正しい。スレ名考えた奴は偉い(笑)
しかし、思考の歴史ってのは、先人の業績を有り難く拝聴するだけではよくなくて、なぜならそれでは思考の歴史はそこで終わってしまうから。
池田がありがたがった人たちにしても、遺された作品に問題が皆無なわけではない。事実それを指摘し格闘する人間もいるのだから。
彼らを祭壇にあげたこと、祀りあげたこと。そこには同調したくないですね。ただ、思考することの意味を問い続けた、それは愛読者には伝わったとは思うけど。