07/03/27 00:27:32
善悪について、唯円が著したとされる『歎異抄』で親鸞は、「私は善・悪については両方とも知らない。
というのは、阿弥陀仏が善を知っているほどに善を知っていれば、また阿弥陀仏が悪を知っているほどに悪を知っていれば、善・悪を知っていると言えようが、到底それほどに知りえずにいるからである」と語った、とされていますね。
すなわち人間のとらえる善・悪を非常な相対性としてとらえてる。そこで語られている善・悪ほどに池田晶子は善・悪をとらえていただろうか。
池田は著書の中で、かなりな毒舌を弄している。皮肉屋でもあった。もともと理論家というのはそういうところがあり、池田も例にもれず、当人が読めば傷つくような言い方をかなり残している。その面からだけみても、池田が善とは縁遠い人間だったことは明らかである。
言論に携わるということは、言葉による斬り合いにかかわることでもある。池田は自分が正しいと思うことは相手が傷つこうが言わずにいられない人間だったろう。そこには紛れもない悪がある。しかし、そんなことを言っていたら批評などできない。
池田晶子が、唯円や親鸞ほどの真理を語ることもなかった。語る器もなかった。「世の中の悪」も「自分だけは善」も、本当は相対的なものだ、たいした問題ではない。親鸞ならそう言っただろう。
根本的な問い方を、池田はしたことがあったろうか。先のレスで引用された池田の生前の発言を読んで、またしても疑問を感じた。