07/03/20 19:19:59
ハイデガーが初期ギリシア思想から非覆蔵性アレテイアとか、とか自然ピュシスとか、論じる場合、それはすべからく有、存在のことを指している。しかも、人間のことを指している。人間において、有がいかなることになっているかを指してかような言葉遣いをしていた。
人間と有なのです。人間における有の忘却から有を取り戻そう、想起しようというのがそこでの意図である。たからこそ《人間は有の牧人である》というテーゼが出てくる。
また、世界内存在というタームの意義にしても、時熟、にしても、すべて、人間において、忘却された有、存在への想起がモチーフとして託されている。
いったい何がそこで本当に問題になるのか、というのが最大の難所だともいえる。俺ばそれは倫理ではないか、という気がしています。本当の倫理。善悪ですね。その場合の倫理は、有の真性から割り出される。だから真理の意味に近い。しかも実存的である。
有の真性から割り出される倫理、という地点を飛び越え、一気に宇宙論へ移行することをガダマーは警戒してたのじゃないか。そこで、いまだ人間に課せられた、思考の主題がないがしろにされる恐れを感じてたのではないか。
そうしてガダマーのそうした部分は池田には残念ながら通じなかった。ちょうど池田がハイデガーを読む場合に飛び越えた、その部分にガダマーはこだわっていたことに池田は気付いてなかった。