07/03/17 03:20:19
“思想のセンスのある”“ために飯の種ができた”“終生幸福だった”人間が実は間違えていたことはありうる。そもそも池田が愛読したヘーゲルにしてからが若い自分は鈍重で、当時早くから認められていたのは友人のシェリングのほうだった。
才能がある、センスのある、飯の種ができた、ことなどその内実を保障はしない。現に俺が懇切丁寧に指摘しているような、問題があることがはっきりしている。
もう一つ池田のために指摘してやると、『考える人』で池田は《なんでハイデガーがヘーゲルを買わなかったか理解に苦しむ》と書いている。
俺が思うにハイデガーはヘーゲルにおける、分裂の止揚の仕方、その論理に安易なものを感じていたのだよ。
池田はヘーゲルを愛読したのだからまさか読んでないことはないとは思うが、念のためにあげておくと、『エンサイクロピディ』中の『自然哲学』冒頭にヘーゲルはこう書いている。
《自然は、理念が「他なる存在」という形をとってあらわれたものである。
ここでは、理念が自分を否定するような、或いは、自分の外部にあるようなありかたをしているから、自然はこの理念(そして、理念の主観的な実在体たる精神)と関係するときだけ外面的だというのではない。
理念が自然としてあるとき、「外面性」は自然のすみずみにまで行き渡っている。
〔口頭説明〕神が完全無欠の存在であるとすれば、その神が自分とはまったくちがうものへとむかう決心をするのはどうしてでしょうか。
神の理念とは、まさに、他なるものを内部からうみだし、そこからふたたび自分へと還ってきて、主体的な精神となるよう決意することにあります。自然哲学はこの還り道にあらわれるものです。》(『自然哲学』29頁長谷川宏訳)