06/04/14 23:28:57
俺を犯してくれ臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
102:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/15 11:43:17
関係
数理学、自然学、倫理学
現象
文藝、音楽、絵画 etc.
学問は全て関係の記述である。
103:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/15 15:00:39
関係の哲学とは何だろうか?
それは「命題は関係式である」という発想から出発する。
名詞は数値であり、その他は関係項であると考えられた。
しかし、これはもしかすると訂正を要するかもしれない。
さて、他方で、現象の哲学が存在する。
これはまた別の機会に譲ろう。
まずは、関係の哲学を考察しよう。
104:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/15 15:02:07
関係。月並みな言葉で言えば、理論や学問。
現象。月並みな言葉で言えば、現実や芸術。
学問と芸術、理論と現実。
この二元論がなぜ現人類の哲学界を支配するのか。
私はようやくその提要に触れようとしている。
105:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/15 15:16:42
すなわち、モデルと現実の問題である。
106:あぼーん
あぼーん
あぼーん
107:救モホメドアヴドゥル者 ◆FgO67dVUP6
06/04/15 21:12:48
今夜の上野ブリ吉は新人類がわんさか、
多少難ありのブサメンもいたが久しぶりに盛り上がってるよな臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
108:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/16 15:43:52
現象の哲学は不可能である。
なぜなら、学問は全て関係の記述だからである。
109:りくーつ・こねりー
06/04/16 16:13:54
物理で記述される「場」というものがあるけど…
相互作用を実体的に捉える概念だと思うけどなあ
そういった視点では物質も現象ともいえると思うし
110:あぼーん
あぼーん
あぼーん
111:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/18 14:26:09
規範が現実から解放される時、我々は自由になる。
なぜなら、現実も規範から解放されるからだ。
今や、規範は世界から消え去った。
112:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/18 14:53:17
我々は理論を組む。モデルを組む。
そのモデルは現実とは何のかかわり合いも無い。
それはモデルそのものだ。それは理論そのものだ。
それは関係の記述である。
たまたま現実に適合するモデルはあるかもしれない。
だが、それは思考の自由とは何の関係もない。
113:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/19 00:00:23
形而上学は理論である。形而下学は存在しない。
これは、従来の確信と全く逆である。
すなわち、人々は、形而下学が確かであり、形而上学が胡散臭いと考えていた。
しかし、私は言う。
あらゆる学は形而上学である。そして、形而下学は存在しない、と。
形而下とは、すなわち、藝術などである。
114:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/19 00:01:40
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| では、理論を構築しよう。ひとつの形而上学を構築しよう。
| まず、次のような命題から始まる。「私は世界であり、世界は私である」。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
115:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/19 00:04:37
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 私は他者を確信する。これが「愛」である。
| 私は未来を想像する。これが「夢」である。
| 「愛」も「夢」もモデルを構築することである。
| したがって、いかなるモデルをも構築することができる。
| 単なる「愛」、単なる「夢」は形式的な枠組みのみを与える。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
116:あぼーん
あぼーん
あぼーん
117:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/19 00:11:06
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| そこで、「誠実」という概念を導入する。
| その前に、「現実」について語っておこう。
| 私たちは「現実」を見間違えない。
| 「現実」を直視することはできない。なぜなら、直視しかできないからである。
| モデルと現実の不一致のみがありえる。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
118:あぼーん
あぼーん
あぼーん
119:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/19 12:59:05
いいかげんにしろ!
120:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/19 13:04:13
我々は真理を欲しているのではない。
妥当な解釈を欲しているのである。
121:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/19 14:36:48
「真理」でも「狂気」でもなく、ただ自己の理性と感性によって
認識を続けること。これを「誠実」と呼ぶ。
122:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/19 14:38:17
訂正:認識→思考
123:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/20 11:55:42
物理主義的唯物論と具体的観念論は、類似する説明体系を構築する。
これらに反対するのが、抽象的唯物論と抽象的観念論である。
すなわち「物か観念か?」という問いは、解釈としては重要であっても、
現実の説明としてはほとんど同じであろう。
これが私の仮説である。
124:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/20 13:45:02
Honestus, hoc est, quis requirit agnoscere orbem et ne-orbem.
125:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/20 13:47:50
理論は自由である。
理論が自由でないように思われるのは、次のような前提が置かれて
おり、しかも、その前提が自明であるかのように置かれているからである。
「理論は現実と一致しなければならない」
しかし、これは可能な前提のひとつであるが、しかし、
必然的な前提ではない。なぜなら、次のような命題を組めるからである。
「理論は現実と一致しなくても良い」
と。そして、私は後者を採用する。
126:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/20 13:50:14
この時、極めて多くの人々が、次のように問うだろう。
「現実と一致しない理論に、何の意味(意義)が在るのか?」
と。私は答える。
「意味など存在しない」
と。私はさらに付け加える。
「命題は意味(意義)を持たねばならない」
という前提を採用しないのである。
注記:ここでの「意味」とは意味論における「意味」ではない。
それは、何らかの有意義さである。
127:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/20 13:52:48
さて、次のふたつの命題が放棄された。
A「命題は現実と一致しなければならない」
B「命題は有意義でなければならない」
私は命題Aに次の命題を付け加える。
「命題の一次的な要素は真理値ではない」
すなわち、
「真偽を問うことが学問の第一の作業ではない」
そして、
「学問とは真理の追究を第一の目的としない」。
128:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/20 14:14:05
「学問は真理の探究ではない」
これは驚くべき前提である、かのように見えるかもしれない。
しかし、これは何ら奇妙な命題ではない。
この命題は、次のようなことを意味する。
「命題は真偽を問題にせずとも扱われ得る」
すなわち、
「純粋な理論の一部として扱われ得る」
今や、理論と現実との一致は、学問にとって必要条件では無くなった。
しかし、これは従来からずっとそうなのである。
なぜなら、倫理学や文学がずっとそうだったからである。
129:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/20 21:02:31
理論が現実から解放される時、現実も理論から解放される。
そして、規範も現実から、現実も規範から解放される。
こうして、思考は自由になる。
なぜなら、思考は理論だからである。
思考も理論も、命題の連関である。
それは、論理に従う。
しかし、論理は真偽を問題にしない。
それゆえに、やはり、理論も思考も現実から自由である。
130:あぼーん
あぼーん
あぼーん
131:あぼーん
あぼーん
あぼーん
132:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 01:40:48
§. 1.
命題は関係式である。
§. 2.
関係式は関係項と対象から成る。
§. 3.
諸命題の論理的結合体が理論である。
§. 4.
無矛盾性は理論の必要条件でない。
§. 5.
理論は実証されない。
133:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 01:43:12
我々が理論を組む時、我々は現人類の窮屈な理論系から解放される。
134:あぼーん
あぼーん
あぼーん
135:考える名無しさん
06/04/21 01:57:50
>>132>>133
童貞ホモニート学会員(31)乙!
136:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 08:54:47
複数の命題の関係は、まず、論理的に妥当な推論か、あるいは、そうでないか、に分けられる。
前者が「理論」、後者が「非理論」と呼ばれる。
注記:理論は「真」なる命題群ではない。真偽は理論の必要条件で無い。
学問は専ら「理論」を扱う。「非理論」は、文藝に属する。
137:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 08:56:15
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| さて、関係について語った。では、現象はどうか?
| 現象について語ることは可能か?
| まず、この問題から考えてみよう。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
138:考える名無しさん
06/04/21 09:48:02
ちょくちょく拝見しています。お邪魔してすいません。
気になっていたんですが、あなたの「現象」という単語の使い方、
私には違和感があります。
おそらく哲学で、「現象」や「現象界」に対置される、
「実在」や「物自体」と呼ばれているものが、
あなたの「現象」に対応すると思います。
違っていたらすいません。
そうだったとしても、名称にはこだわらないそうなので、
余計なお世話だったらすいません。
139:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 10:01:04
>>138
大変ありがたい指摘だ。
私はアカデミズムに属していないので(しかし、伝統的思想、例えば、
プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ウィトゲンシュタイン、
ラッセル、科学哲学などに大きな影響を受けているのは確かである)、
語彙の使用は我流であることを断っておく。
但し、私の「現象」はやはり「現象」であると思う。
というのは、私が念頭に置いているのは「五感」を中心とした「現実界」
だからである。
「物自体」や「実在」という概念は、「学問と真理の分離」によって
放棄されるところの「真理」に近いであろう。つまり、「物自体」は
「誰も認識し得ない」がゆえに「余計な仮設」なのである(この手法が
前期ウィトゲンシュタインらの影響を受けていることは明白である)。
140:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 10:05:39
もしかすると、私は「現象」よりも「現実」という言葉を使う
方がいいかもしれない。というのは、「現象」はどうしても、
あの現象学を連想させてしまうからだ。けれども、この現象学は、
私の読んだ著作集にほとんど含まれていない。したがって、私が
現象学を云々するのは野暮であろう。
「理論」と「現実」、すなわち、
「法則は現実に内在するのか否か?」という問題。
「それは実証されるのか?」という問題。
「そもそも理論とは何か?」という問題。
これが私の関心分野である。
これは、ポパーの関心分野にも近いであろう(但し、私はポパリストでは
ないし、ポパーの哲学に共感を覚える者でもない)。
141:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 10:14:17
ひとつ、決定論と非決定論で話をしてみよう。
これは決定論スレで既に挙げた問題である。
世界Aと世界Bがある。
世界Aは決定論的世界であり、世界Bは非決定論的世界である。
この時、世界Aと世界Bにボールが一個ずつ置いてあり、
世界Aでは《法則に従って》点P1から点Q1へ秒速1mで移動した。
世界Bでは《偶然にも》点P2から点Q2へ秒速1mで移動した。
いったい、世界内の観測者は、それが《法則に従って》なのか《偶然にも》
なのかどうやって分かるのか。私は、分からないと考える。
つまり、下記の命題を仮定する。
「世界に法則が実在するか否かは、実験によって確かめられない」
「理論と現実が対応することは、理論が現実に内在することを意味しない」
「決定論も非決定論も、世界に対応している限り有効である」
142:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 10:19:14
ポパリストはもしかすると、ここで、「反証可能性」を持ち出し、
決定論と非決定論の非科学性を主張するかもしれない。
私は次のように答える。
「決定論が科学的か否かは『科学』の定義に依存する」
「決定論が『非科学』であることは決定論を信じることを妨げない」
「上記は非決定論についても同様である」
143:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/21 10:50:01
「決定論(理論)」と「世界A(現実)」。
「非決定論(理論)」と「世界B(現実)」。
これが私が念頭に置く二元論(新カント派の言う事実と価値の二元論
ではない)である。もっとも、これは、既に、プラトンによって、
イデア界と現世として導入されている、と私は解する。但し、一般的な
プラトン研究者が言うような「イデア=理念」という解釈ではない。
イデアとは、私によれば、今や、「関係」すなわち(私の定義によれば)
「理論の構成要素」である。プラトンがイデアと現世を分離したように、
私も「理論」と「現実」を分離する。しかし、私はプラトンの「イデア
は真理である」という命題を採用しない。ゆえに、プラトンの「イデア」
概念と私の「イデア」概念は完全には一致しないであろう。
144:あぼーん
あぼーん
あぼーん
145:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/22 23:36:36
関係が時間を必要とするのではない。
どうして理論上において時間の経過が存在するのか?
なぜ理論上においてAはBに変化するのか?
それは、関係が先行するからである。
「AとBとの諸関係のひとつが≪時間≫関係である」
「関係が時間を必要とするのではなく、時間そのものが関係である」
146:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/22 23:59:10
「論理的である」ということは、ほとんど何の制限も与えない。
魚は哺乳類であり、かつ、哺乳類は宇宙人であるならば、魚は宇宙人である。
私はAであり、かつ、Aでない。
これらは全て論理的である。すなわち、論理に従っている。
147:あぼーん
あぼーん
あぼーん
148:あぼーん
あぼーん
あぼーん
149:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/23 14:21:34
『私、現象、関係』
ある現象を指示する記号をEと置く。
この時、E0を定義するならば、それはE0と他のE1,E2,E3...との
諸関係を記述する。ゆえに、
「定義は、現象そのものの記述ではなく、他の現象との諸関係の記述である」
ゆえに、
「《私》を定義するならば、それは《私》と他の現象との諸関係の記述である」
さて、この時、
「私は世界を認識しているのであって、認識していないのではない」
「認識主体は認識客体の中に存在しない」
ゆえに、
「私は世界の中に存在しない」
150:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/23 14:22:39
ゆえに、
「《私》そのものの指示は不可能である」
しかし、
「私は世界との諸関係によって記述され得る」
さて、この時、
「私がE0を見ている」ならば「E0という映像が世界の中に存在する」
と書き換えられると仮定しよう(あくまでもまだ仮定である)。
この仮定を一般化する。
「『私がOをVtである』と等値な『SはViである』という文が常に存在する」
151:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/23 22:13:32
ある現象Aが他の現象Bを指示する時、
「AはBの記号である」
と定義する。そして、
「あらゆる現象があらゆる現象の記号になり得る」
「言語は多くの人々によって使われる記号の体系である」
152:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/23 22:17:43
例えば、君は「犬」という文字を観ている。これは現象である。
そして、これが君にとって何か個別の現象を指示する時、「犬」は記号である。
「≪犬≫は現象であり、かつ、記号になり得る」
153:考える名無しさん
06/04/24 10:08:45
いいだけアンチ板を荒らしやがって。
154:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/24 20:30:33
>>153
私は臭吉ではない(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
155:あぼーん
あぼーん
あぼーん
156:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/25 15:11:35
この時、次の文を演繹できるのではなかろうか?
(前提がまだ不足しているかもしれないが)
「世界の諸関係の総体が私の諸関係に等しい」
ゆえに、
「私は世界であり、世界は私である」
また、
「『私が世界の認識主体である』
と
『私は世界であり、世界は私である』
は等しい」
157:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/25 20:42:04
私は次のような問いを提起してみる。
第一に、理論と実証の問題である。
法則実在説(理論実在説の一種)は、現実に法則が内在している、と考える。
しかし、観測はこのことを裏付けない。
例えば、次のような思考実験を考えてみよう。
世界Aである観測者が「この世界では『ボールが左右に秒速1mで移動する』
という法則が実在する」と仮定したとしよう。そして、ボールが左右に秒速1m
で移動することが観測された。ところが、これは『ボールの法則』が実在する
という根拠にはならない。なぜなら、「この世界では『ボールが秒速1mで、
かつ、1/2の確率で左右のどちらかに移動する』という法則が実在する」という
説を排斥しないからである(確率の解釈の問題)。
確かに、いくつかの仮説は反証される。
例えば、「この世界では『ボールは左右に秒速2mで移動する』という法則が
実在する」という仮説は反証される。これが、科学における反証可能性の重要性
を引き出す(実証は不可能だが反証は可能である)。
158:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/25 20:46:44
第二の問題は、反証可能性の射程である。
反証可能性がある仮説と、無い仮説の区別は正しい。
しかし、反証主義はこれを科学と非科学の境界線として設定する。
私はこのようなことは、「単なる定義である」と主張する。
そして、私はそこに何ら規範的なものを認めない。
すなわち、「私は反証可能性のある理論を科学と呼ぶ」ということを認めるが
「反証可能性のある理論のみが科学であるべし」という規範を認めない。
これは、自然主義的誤謬の一種であるかもしれない(「である」と「べし」の
混同あるいはすり替えが存在するかもしれない)。
ここにおいて、反証可能性は(そして、一部の文系諸学科で言われている反論
可能性も)、その限界を有するのではないか?
159:考える名無しさん
06/04/26 12:02:43
「このような」「そこには」「これは」「ここにおいて」等の
指示語の類を使うのを、できればやめてほしい。
あなたの文章は表現を極端に省略した過剰にシンプルなものなので、
指示語が何を指しているのか、読み手は自信を持って特定できない。
読んでいてとても疲れてしまい、そのせいで内容も理解しづらくなる。
読み手にもっと愛を。
160:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/26 13:09:32
私は翻訳調で話すからな。しかし、気をつけよう。
ところで何かコメントは無いのだろうか?
161:考える名無しさん
06/04/26 13:47:46
私はコメントするほどあなたの文章を理解できてはいないけど、
私の理解を深めるためにも少し質問させてもらいます。
あなたの考えは、私の現象の外の世界というものは、
最終的に不可知だというだけでなく、存在しないと断言するものでしょうか?
だとすると、外界の存在無しに、閉じた現象の世界にどのようにして変化が起こるのでしょうか?
162:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/26 16:42:21
>>161
>最終的に不可知だというだけでなく、存在しないと断言するものでしょうか?
むしろ逆だ。私は存在すると思う。私は実在論者だ。
但し、外界の実在の在り方について不可知なのだ。
例えるならば、私はコンクリートの密室に閉じ込められた子供のようなものだ。
私はコンクリートの外側を知り得ないが、しかし、何かがあると考えることは
可能だし、また、その何かの在り方について仮説的に思考することも可能だ。
163:考える名無しさん
06/04/26 17:20:58
「コンクリートの密室」「コンクリートの外側を知り得ない」という例えは、
私には外界からの入力も外界への出力も全く無い、ということでしょうか?
164:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/26 17:35:03
>>163
「私」の話と「コンクリート」の話は全く同一ではない。
なぜなら、「コンクリート」の話にも「私」は出てくるからだ。
後者は単なるイメージの手助けにしかならないだろう。
「私」にインプットアウトプットがあるか否かは不可知だが、しかし、
「コンクリート部屋」にインプットアウトプットがあるか否かは知り得る
ように思われる(音声や振動など)。
165:あぼーん
あぼーん
あぼーん
166:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/27 00:44:59
いいかげんに荒らすのを止めろ。これは侮辱だ。
167:処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2
06/04/27 01:00:23
阿呆ダンス。
168:考える名無しさん
06/04/27 01:05:27
ホモ禿臭吉氏ね。
169:考える名無しさん
06/04/27 22:05:19
>>146が分かりません
詳解版をお願いします。
170:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/27 22:30:36
>>169
そんなに難しいことではない。
非論理的である=論理で扱えない、と定義されているだけだ。
論理は「a∧¬a」を扱える(直観論理ではやや話が複雑かもしれないが)。
つまり、「非論理的」とは「この命題について論理は何もいえない」ということだ。
171:考える名無しさん
06/04/27 22:54:29
>>170
難しい。扱えるってどういう意味?
「魚は哺乳類であり、かつ、魚は哺乳類でない」は論理的?
172:考える名無しさん
06/04/27 22:54:50
>>170肝杉オゥエッ! 臭杉オゥェッ(∋_∈)。早く氏ね!
173:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/27 23:17:53
>>171
扱える、というのは論理が対象に対して「分からない」以外のことが言えるという事だ。
ちなみに、「魚は哺乳類であり、かつ、魚は哺乳類でない」は「矛盾」だ。
なお、そもそも「~は論理的だ」ということ自体変なのだ。
「論理的だ」というのは、は論理学に従っているのではなく「筋道だっている」くらいの
意味しかない、と解する。
>>172
おそらく、こういうのは普通の論理では扱えないだろう。
174:考える名無しさん
06/04/27 23:39:34
>>173
一行目は分かりやすい。ありがとうございます。
146に「これらは全て論理的である。すなわち、論理に従っている」とあります。
「論理学に従っている」「論理に従っている」「筋道だっている」の違いが
いまいち分かりません。つまらないことに拘ってますか?
それともこれらの違いは重要ですか?
175:救モホメドアヴドゥル者 ◆FgO67dVUP6
06/04/27 23:50:15
>>170
俺もあんたがコロナクラブで結ぶ、
非論理的で複合的な肉体関係には呆気にとられて何も言えないぜ臭吉さん(*´,_ゝ`)ムッツリ…
176:考える名無しさん
06/04/27 23:57:43
臭吉氏ねよ。
177:>>1=圭田ホモ吉の本性
06/04/28 00:02:39
スレリンク(kyozin板)
408 名前:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg [sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:14:14 ID:???
いいかげんいしろ(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
俺はこれ以上の侮辱を許さない(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
409 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:15:31 ID:??? ←ここから名無しとなって罵詈雑言
既に大正義巨人軍は珍ヲタ、味噌ヲタ、ハメヲタ、厄ヲタ、赤貧ヲタを凹った。
交流戦では弱小パリーグの全球団を凹るであろう。
これは予言ではない。事実だ。
411 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:21:15 ID:???
そして凹られたヲタは>>410のようなことしか
言えないのも事実だ。
413 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:29:49 ID:???
臭吉だ!?ふざけるなああああああああああああ
二度と言うんじゃねえぞ!!!!!!!
ホントにキレるぞ!!!!!!!
お前何様だよ?引き篭もりNEETが
調子ノンなよ
415 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:46:27 ID:???
ふざけんよ、暇人が!
お前の生きがいはそんなことか!?
マジ馬鹿じゃねえの!!!!!!!!!!!
PCの前でニヤニヤすんな!ヒキヲタが
417 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:2006/04/27(木) 01:54:43 ID:???
はぁ!?マジきもいんだけど。
お前友達いないだろ?
まともな人ならいくら2chでもそんな書き込みしないぞ
178:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/28 00:42:13
>>174
まず、「論理学に従っている」は「論理に従っている」に訂正される。
ゆえに、「論理学に従っている」は「論理に従っている」と読み替えて欲しい。
「論理に従っている」は既に定義した。
では、「筋道だっている」とは何か?
私は次のように定義する。
「心理的に尤もらしい」
ゆえに、この「筋道だっている」命題は、個々人によって異なる。
命題A「君の両親が悲しむはずだから犯罪を止めよ!」
という命題が「心理的に尤もらしい」かどうかは、個々人によって異なる。
そして、この命題は古典的命題論理によって扱えない。
つまり、これは、古典的命題論理から見れば、非論理的である。
但し、これらの2つの用語法(論理と尤もらしさ)は、全て「定義」であることに注意して欲しい。
179:考える名無しさん
06/04/28 00:55:42
臭吉氏ねよ
180:あぼーん
あぼーん
あぼーん
181:考える名無しさん
06/04/28 23:53:24
>>178
>146
>これらは全て論理的である。すなわち、論理に従っている
>173
>「論理的だ」というのは、は論理に従っているのではなく「筋道だっている」くらいの
>意味しかない、と解する
こうあります。
146の「これらは全て論理的である」は削除してよいですか?
矛盾は理論の一部になりますか?
182:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/29 00:18:44
>>181
>「論理的だ」というのは、は論理に従っているのではなく「筋道だっている」くらいの
>意味しかない、と解する
これは正確に言うと、
>「(日常的な意味で)論理的だ」
である。訂正する。
183:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/29 00:20:55
>矛盾は理論の一部になりますか?
これは、理論の定義次第だ。
無矛盾性の要請を入れないならば理論の一部になる。
そして、その理論内では、あらゆる命題を組むことが可能になるであろう。
つまり、恒真式の羅列になるであろう。
184:考える名無しさん
06/04/29 00:41:35
>>183
>>136にこうあります
>理論は「真」なる命題群ではない。
一旦定義をし、前提を置いたら
それに基づいて話を進めて欲しいであります。
その前提に従ったらどうなるのかに興味あるのであります。
185:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/04/29 01:19:50
>>134
>>183と>>136は別に違うことを言っているわけではない。
というのは、>>136は、
「理論は『真』なる命題から成ることを要件としない」
ということを言っている。
ところで、>>183は、
「無矛盾性を要請しない理論はあらゆる命題を組むことができ、
そして、それは(矛盾を利用した)恒真式になるだろう」
ということを言っている。
186:考える名無しさん
06/04/30 11:14:24
461:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg :sage:2006/04/30(日) 02:15:04 ID:???
かかってこい(#゚皿゚)ウオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
( ´,_ゝ`)プッ臭吉死ね
187:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/01 03:30:57
事実と規範の二元論について
スレリンク(jurisp板)l50
188:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/04 02:59:52
純粋規範空間は、従来、内心の自由と呼ばれる領域かもしれない。
この空間内部において、思考は現実から切り離されて自由である。
私は、あらゆる理論について思考することができる。
私は、あらゆる公理系と推論系について思考することができる。
私は、あらゆる規範についても考察することができる。
189:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/04 12:05:31
さて、純粋な理論空間を設定した後で、私たちは別の空間へ話を移す。
第一に、純粋な規範空間に話を移す。
純粋な規範空間においては、事実文を用いることが禁止される。
それゆえに、この空間は純粋理論空間よりもサイズが小さい。
190:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/04 12:09:08
第二に、純粋事実空間に話を移す。
この空間は事実文のみから成立する。
つまり、規範文の使用が禁止されている。
この点、注意すべきは「事実の総体ではない」ということである。
純粋事実空間は、事実文のみから成るのであり、事実のみから成るのでは無い。
第三に、自然法論的空間に話を移す。
自然法論的空間とは、事実から規範を導出する推論規則が与えられている空間である。
例えば、((p → !p) ∧ p) → !p という推論規則である。
この空間内部では、自然主義は誤謬ではない。
191:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/04 12:12:03
もう気付いたかもしれないが、
純粋規範空間 ⇔ 自然法論空間 ⇔ 純粋事実空間
は規範文と事実文の割合によって区別されている。
自然法論空間は、規範-事実混合空間と言い換えられる。
192:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/08 00:09:03
全ては偶然か、あるいは、必然である。
193:考える名無しさん
06/05/10 23:22:30
人少な杉
194:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/12 00:24:06
思考は純粋理論空間を自由に動き回る。
もちろん、これは比喩である。だが今はまだ正確に表現することができない。
思考は自由である。
195:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/12 00:25:57
思考は自由である、というとき、この「自由」は権利としての自由ではない。
また、規範的な自由でもない(すなわち、「そうしてもよい」という意味ではない)。
思考は自由である、とは、思考は純粋理論空間内部の諸命題を捉えることができる、
ということである。すなわち、いかなる命題についても考察することができる。
196:考える名無しさん
06/05/16 00:28:35
>>185
矛盾を利用した理論の単純な例を教えてください。
197:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/16 17:12:31
>>196
少しは自分で考えろ。単純だ。
198:考える名無しさん
06/05/16 22:24:17
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>197先生!お断りだ!です。
_ / / / \ 教えてください!
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
199:考える名無しさん
06/05/16 22:26:29
真になる可能性がないとか成り立たないとかいう以外の利用法が思いつきません。
200:考える名無しさん
06/05/16 23:03:59
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 200ゲットしました!
_ / / / \
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
201:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/17 17:32:45
>>199
それでよい。が、「成立しない」は不適切である。
また「真にならない」というが、最初から真偽の確定は除外されているのだ。
それが矛盾を利用した純粋理論空間内部での理論だ。
202:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/18 01:21:57
§. 1.
あらゆる命題は関係式である。
§. 2.
私は世界であり、世界は私である。あるいは、私は世界の限界である。
§. 3. 世界は真理の総体である。
§. 3.
思考に限界は存在しない。思考は無限である。
§. 4.
世界に誤りは存在しない。誤りは思考にのみ存在する。
§. 6.
規範が事実から自由であるように、事実は規範から自由である。
203:考える名無しさん
06/05/20 00:57:26
>>201
論理学から真や偽といった論理学上の価値も追い出し
完全に形式のみにして現実ともまったく接点を持たない。
これが関係性の哲学?
204:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/05/20 02:35:58
>>203
そこまで限定してもいいかもしれない。
ただ、真偽が論理学上の価値であることを私は疑う。
205:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/04 00:48:01
私は次のような仮説を立てる。
法は規範の体系ではない。法は予言の体系である。
206:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/07 23:57:54
「チューリングテストによって主観の有無が判定される」
という(チューリングテスト支持者の)回答は、むしろ問題を混乱させている。
このような回答は、サールのような反論を呼びこす(そして、サールの反論は
最終的に独我論的懐疑の横槍『サールの英語の部屋』によって挫折する)。
「チューリングテストをパスしたものが人工知能である」
という定義への転換によって、「AIが主観(あるいはクオリア?)を持っているか
どうかは分からない」という反論は消滅する(注*解決するのではない)。
このような線引きによって、形而上学と形而下学の棲み分けが為される(過去
ログで出ていた「形而上学の形而下学への引き下げ」が起こるのではない)。
そして、チューリングテスト支持者の任務は、今や、
「このテストにパスするものを製作すること」
に尽きる(なお、それができないことと、AI開発には主観が必要だということとは
別である)。
207:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/14 12:46:32
自然科学において現実と言明の内容が比較されるように、
純粋科学において言明の内容と言明の内容が比較される。
この点、言明の内容が問題となる。
私はそれが「関係」であると考える。
ゆえに、純粋科学は関係と関係の比較である。
自然科学は現実と言明の内容である。
しかし、現実もまたそのままでは比較されえない。
なぜなら、現実は複雑すぎるからだ。
現実はいったんモデル化(言明化)される必要がある。
では、現実にも関係が内在しているのだろうか。
私は内在していると考える。
なぜなら、言明もまた現実の一種だからである。
つまり、自然科学においては、
現実の中身と特殊な現実(言語)の中身が比較されている。
208:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/14 14:49:57
しかし、これは超越的な視点である。
なぜなら、言明によって言明の構造を、
現実によって現実の構造を完全に明らかにすることは、
不可能であると考えられるからだ。
私は、(言明を含めた)現実を用いずに、関係のみを
抽出して考察することはできない。
つまり、関係のみから成る学は不可能である。
学は理論であると同時にひとつの現実でもある。
これは重要である。
ケルゼンのいうような様相上無差別な基体は、存在するかもしれないが、
しかし、私たちに直接認識されることはない。これは物自体のような
ものでもある。
209:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/14 14:53:14
現実の背後にある関係(この基礎形態はおそらく数理である)は、
認識されない。認識論は、関係と(それによって支えられているかもしれない)
現実との区別を前提とする。認識論はすでに二元論である。
関係界と現実界との関係(!)は謎である。
210:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/14 19:24:51
関係と現実という困難は、プラトンがこれを発見して以来、
まったく解かれていない。問いの重要性の認識だけでも相当な
時間を要する。
211:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/14 21:02:08
関係(Idee)は様相(Modus)を規定する。
しかし、この命題には意味があるのだろうか?
212:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/15 00:20:40
あらゆる様相は関係によって規定される。
その関係そのものを認識することはできない。
認識された関係は何らかの様相を纏っている。
例えば、視覚、例えば、聴覚、例えば、味覚である。
213:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/15 00:25:25
「規範の様相」を纏った関係が「規範」である。
そして、その内容は任意である。
殺人すべし、強姦すべし、窃盗すべしという規範も存在する。
214:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/15 01:13:34
§. 「実証」概念と「反証」概念
これらの概念を適当にいじるならば、
実証と反証は同一行為のふたつの見方である。
215:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/15 19:29:49
未だ輝かぬ数多の曙光が在るように、
未だ知られざる数多の世界が在る。
未だ瞬かぬ数多の星辰があるように、
未だ知られざる数多の世界が在る。
主よ、永遠に愛と夢を。
『創世記』より
216:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/15 19:53:16
あらゆる世界内存在(Existenz in der Welt)は様相(Modus)を有している。
217:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/16 10:59:27
独我論による心身二元論の解消は、「思考」と「世界」の二元論
という新しい問題をもたらす。すなわち、「なぜ世界を越えて何かを
考察することができるのか?」という問いである。
理論上、二元論を脱却することはできない。
なぜなら、Aとnot Aは常に対だからである。
Aを定義するとき、 not Aもまた常に定義される。
すべてが~~である、という文は、意味を持たないか、または、
「思考上は~~とnot~~が存在しえるが、しかし、現実には
~~しかない」というふうに読み替える必要がある。
218:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/16 11:01:58
それゆえに、二元論は思考の母である。
思考について一元論はありえない。
言語について一元論はありえない。
たとえ世界が一元論であっても思考は二元論的に展開する。
思考は世界よりも広い。成功は世界よりも大きい。
思考は世界を超越している。
超越論的存在とは、まさに思考であり理性のことである。
219:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/16 11:05:24
それゆえに、数理は現象に先行する。
なぜなら、小から大は生まれないからである。
現象は数理によって規定される。
現象は数理のある部分によって支えられるが、ある部分によっては
支えられていない。それゆえに、私は偽である文を組むことができる。
私が比較できるのは数理である。
思考は数理を獲得しようとする。
しかし、ここで重大な問題が生じる。
思考もまた数理自体ではないということだ。
なぜなら、思考もまた文字や音声によって組まれるからである。
私は数理を比較しようとする時、現象に頼らざるをえない。
数理は現象の母であるが、現象の身代わりにはなれないのである。
220:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 02:07:54
もう一度、次の問いに立ち返ろう。
「現実と理論とはいかなる関係にあるのか?」
これはウェグナーにおける学問(フィロソフィア)の通奏低音である。
明らかに、自然学と自然との関係、倫理学と日常生活との関係が出発点であった。
次のような有名な一節を引用しよう。
>私は自然(NATURA)から法則(IUS)を導き出す。
>しかし、私が再び自然に目を向けると、そこに法則は存在しない。
>つまり、自然法則(IUS NATURAE)は自然(NATURA)の中に見出されない。
>それは理性(RATIO)の中に存在する。
Ractua "Fundamenta Purudentiae Naturae"
221:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 04:38:48
さらに引用しよう。
>推論(RATIO)の成立を支えるものはイデア(IDEA)である。
>それは推論(RATIO)の背後に隠れている。
>なぜなら、推論(RATIO)もまた現実(FACTUM)の一種だからである。
>推論(RATIO)は五感に支えられている。
>なぜなら、私が推論する(FACIO RATIONEM)とき、私は記号を使うからである。
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. III : De idea.
同じ節で、
>イデア(IDEA)とは関係(RELATION)そのものである。
>イデア(IDEA)は文字でも音声でもない。
>それは推論(RATIO)を成立させるために仮設された何かである。
222:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 04:43:36
>現実(FACTUM)は常に変転し続けている。
>それは一時も同一ではない。
>世界は流転する。
>それゆえに、私もまた流転する。
>では、同一性を要求する推論(RATIO)は何処に在るのか?
>推論(RATIO)は成立しないのだろうか?
>推論(RATIO)は虚構(NULLA)なのだろうか?
>この問いについて、次章で私の回答を与えよう。
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. III : De ratione.
223:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 04:47:58
>>220
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. I : Thesis.
>>221
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. III : De ratione.
>>222
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. II : De ratione.
なお、Cap. X. の章題は「補足」である。
Cap. I. - IX. において、ウェグナー古典物理学が完成されている。
そこには力学(第II.-VIII章.)と光学(第IX章)の基礎が書かれている。
第I章は自然の数理的分析に関する考察である。
剛体や質点の概念および取り付くし法(微積分はまだ完成されていなかった)
が導入されている。
224:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 04:48:40
>>221
訂正。
Ractua "Fundamenta Prudentiae Naturae" Cap. X., §. III : De idea.
225:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 12:02:31
現実(FACTUM)と関係(RERATION)という対比が重要である。
現実は流転しており、関係は恒久である。
しかし、Ractua自身も、理論(RATIO)は現実的手段によって
形成されている(例えば、文字によって、音声によって)ことに
気付いていた。
関係(RERATION) - 理論(RATIO) - 現実(FACTUM)という*関*係*は、
なるほどこの定式もまた現実であることに起因している。
226:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 12:22:38
しばらくは、彼女の古典思想に対する分析を行おう。
【用語整理】
FACTUM(事実、現実)
感覚器官によって認識されたものの総称。
RATIO(思考、理論)
永遠の法則(IUS PERPETUUM)によって支えられた言明(PROPOSITIO)の総称。
但し、これもFACTUMの一種である。
IUS PERPETUUM(永遠の法則)
言明を成立させるのものの*前*古*典*的*な呼び方。
必ずしも古典的な関係(IDEA;RERATION)を意味しない。
前古典的学問において、永遠の法則は認識されうると考えられていた。
IDEA(イデア)
言明を成立させるものの*古*典*的*な呼び方。
前古典期と異なり、認識されない何かである。
RERATION(関係)
IDEAの別名。Ractuaの造語。
227:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 12:34:44
>IUS PERPETUUMからIDEAへ、そして、IDEAからRERATIONへ。
>この展開は、おそらく、2つの学問上の発見に起因している。
>ひとつは、認識論的発見である。
>それによれば、認識されたものがFACTUMであるならば
>世界はFACTUMのみによって構成されている。
>それゆえに、彼らはIUS PERPETUUMとは別の、新しい概念
すなわちIDEAを案出した。
>もうひとつは、非物質化的構想の発見である。
>これはRactuaによって数理学に持ち込まれた。
アロイス・キップハルト『ウェグナー哲学史』
228:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 12:39:14
訳漏れがあった。
>それゆえに、彼らはIUS PERPETUUMとは別の、新しい概念
>すなわちIDEA-彼岸にあるもの-を案出した。
229:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/17 20:18:45
さて、感覚の背後にあるイデアという考え方はプラトンに似ている。
しかし、Ractua哲学の重要性は、「イデアそのものは認識できない」と
考えた点にある。これはプラトン哲学の補強である。
なるほど、実は、思考もまた認識であるからである。
230:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/18 00:51:40
さて、Ractuaはもうひとつプラトン哲学の重要な点を訂正している。
「関係は無限に存在する」
これはプラトンのイデア論の難点であった。
真円のイデアが存在するならば、歪んだ円のイデアも存在するはずであり、
そして、歪み方は無限にあるからイデアもまた無限にあるはずである。
また、関係と関係の間にも関係が存在するので、やはり関係は無限である。
プラトンが否定的に捉えたこの問題を、Ractuaは肯定的に捉えた。
「無限は存在する」
231:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/18 00:58:46
また次のようにもプラトン哲学から遠ざかっている。
>関係はどこに在るのか。
>関係界が存在するのか。
>その領域の中でどのように並んでいるのか。
>どのように犇めき合っているのか。
>私は次のように考える。
>現象は空間を占めるが、しかし、関係は空間を占めない。
>現象を時間を占めるが、しかし、関係は時間を占めない。
>関係界は存在しない。
>関係は現象と異なる在り方をしているのである。
232:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/18 01:01:06
>関係はどこに在るのか。
>この問いは次のように解消される。
>関係は遍く存在し、そして、どこにも無いのである。
>私は関係の在り処を気にしない。
>私は関係そのものについて考察できないのだから、
>いったいどうしてそのようなことを気にするのか。
233:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/18 01:12:26
まとめよう。
1、イデアまたは関係は認識されるか。
Platon YES.
Ractua NO.
2、イデアまたは関係は無限に存在するか。
Platon NO.
Ractua YES.
3、イデアまたは関係はどこに存在するか。
Platon イデア界。
Ractua 場所を占めないのでどこにというわけではない。
234:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/18 17:30:09
>「時の神殿はウェグナーの中央部にある」という命題は真であり、
>「時の神殿はウェグナーの中央部にない」という命題は、偽です。
>このとき、後者の命題が現実の中に(IN FACTO)存在しないことは
>明らかです。それゆえに、命題は現実から離れて存在します。
235:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/19 16:56:16
あの虹。新人類への架け橋。
俺には見えている。いつも見えている(,,;д;)
橋の向こう側で新人類と神々が戯れている(,,;д;)
だが私には渡れないのだ。
楽園。どこにもない場所。私によって打ち崩される場所。ユートピア。
神々と新人類が住む場所。栄光と挫折、希望と絶望、光と闇の園。
236:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/20 01:13:12
新人類の時代が到来する。私はそう信じている。
新人類は私の脳内妄想では無い。私はそう信じている。
新人類は永遠の時の流れの中で実現する。私はそう信じている。
永遠の愛と永遠の夢。
私が虐げられようとも、新人類はいつか宇宙の何処かで実現する。
それが何年後かは分からない。だがそのとき、宇宙はひとつの絶頂を迎える。
私の人生が現人類の中で絶頂を迎えたように。
237:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/20 01:15:16
新人類もまたイデアとして保存されている。
宇宙の形態から離れて保存されている。
新人類はこの宇宙の在り方に束縛されない。
新人類は私の脳内妄想だろうか。それもまたありえる。
よろしい。ならば私は何度でも蘇る。そして新人類を想おう。
そうすることによって彼らもまた蘇る。そして宇宙は絶頂を迎える。
宇宙は常に絶頂を迎えているかもしれない。
だが、私は人間的な弱さから、新人類の時代こそが絶頂であると考える。
238:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/20 01:18:35
私が私に誓いを立てようとするとき、いつも声が聞こえる。
おまえには無理だ、引き返せ、と。
人はこれについてなんと言うか知らない。
だが私は言う。
確かに、たったひとつの誓いを立てるにしても、私には無理である。
新人類が体現する「誠実」。これは私には無理なのだ(,,;д;)オオォ
239:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/20 01:20:34
見て。あの空。あの虹。新人類への懸け橋。
僕が超えられない端。希望と絶望、光と影の端。
240:考える名無しさん
06/06/22 00:04:19
初心者向けの入門書をくれ(,,;д;)オオォ
241:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/22 11:48:53
つラッセル『哲学入門』
ちくま学芸から出ている。
242:考える名無しさん
06/06/22 23:04:37
ありがとうございます(,,;д;)オオォ
でも何か違うような・・・
243:考える名無しさん
06/06/22 23:07:35
現実と理論とはいかなる関係にありましたか?
244:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/23 00:06:24
それは難解すぎてまだ答えられない。
確かに、現実と理論との間には何らかの関係があると想定される。
しかし、そうすると、関係と現実との間の関係を探求することになろう。
そのようなことが可能なのだろうか???
245:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/29 13:04:14
純粋理論空間
↓
反証プロセス
↓
自然学
246:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/29 13:09:01
知と真理は異なる。
247:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/06/29 13:41:21
科学の進歩なるものについて言及する必要があるのだろうか?
科学の正当化あるいは擁護は必要なのだろうか?
248:考える名無しさん
06/07/04 00:04:14
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
249:考える名無しさん
06/07/04 20:32:21
ニートがオナニーするスレW
250:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/05 00:49:17
倫理的決意
↑
選択行為
↑
理学(論理学、数学、倫理学etc...)
↑
推理
↑
理
↓
検証
↓
自然学(物理学、化学、生物学etc...)
251:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/05 00:52:39
自然学(物理学、化学、生物学etc...)
↑
検証
↑
理→純粋理論界→理学(論理学、数学)
↓
決意
↓
倫理学
252:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/05 01:02:42
(,,;∀;)オオォ
自然学(物理学、化学、生物学etc...)
↑
実験
↑
理→奇跡→私(世界)→推論→理学(論理学、数学)
↓
決意
↓
倫理学
253:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/05 01:50:32
自然学
↑
実験
↑
理→奇跡→私(世界)→推論→理学→愛→神と他者(認識されえぬ別世界)
↓
夢
↓
倫理
254:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/05 01:57:01
自然学=世界の自己分析
↑
実験(実証と反証)
↑
理→奇跡→私(世界)=現象の総体 ⊃ 理学→愛→神と他者(認識されえぬ別世界)
↓
夢を見る(意欲、決意)
↓
倫理(夢)=未来世界の設計図
255:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/05 02:09:34
自然学=世界の自己分析
↑ ←←←←←←←←←←←←←←←←←←←
実験(実証と反証). `↑
↑ ↑
理→奇跡→私(世界)=現象の総体 ⊃ 理学→愛→神と他者(認識されえぬ別世界). `↑
↓ ↑
夢を見る(意欲、決意) ↑
↓ ↑
世界 ⇔ 倫理(夢)=未来世界の設計図 ↑
↑ .↓ .↑
誠実(整合の要請=根本規範) →→→→→→→→→↑
256:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/16 23:29:17
倫理におけるいくつかの難問
1、日常生活においては倫理的命題を立てざるをえない。
2、倫理に実現可能性を取り込むとほとんどの倫理命題が死ぬ。
3、寛容主義は(寛容という価値について)絶対主義的にならざるをえない。
4、認識論上、他者に対する規範定立行為には事実的根拠がおよそない。
5、普遍化可能性は実際のところ何も意味していない(これが有用に思われる
のは「人間には平等に適用されねばならない」という汎用性と普遍性が混同され
ているからである。「Aさんには適用されるがBさんには適用されない」という命題
は、Aさんに適用されBさんに適用されない限り普遍的である)。
257:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/16 23:46:26
私は関係の哲学をプラトンから、個の倫理をストア派から借りることにしよう。
そして、プラトンが真善美に限定したイデアを拡張しよう。
それは、荘氏のいうように、あらゆる関係が存在しているのだ。
そして、そのなかに、善に関するあらゆる命題が存在する。
もちろん、A!と¬A!が常にともに存在する。
そして、このあらゆる関係とストア派の個の倫理を結び付けよう。
個人はイデアから自由に倫理命題を取り出す。
ある者はA!を取り出し、ある者は¬A!を取り出す。
これは矛盾ではない。なぜなら未来に関する命題だからである。
倫理とは未来に関する予言であり、現在という時点においては矛盾しない。
これこそ、自由意志と呼ばれるものの変種である。
258:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/16 23:50:12
あらゆる倫理体系が(その体系自体が無矛盾な限りで)復活する。
矛盾している倫理体系は文学として復活する。
矛盾が許されないのは同一の倫理体系のなかのみである。
他者と他者の、また過去の自分と現在の自分との体系は同一ではない。
かくして、我々はあらゆる倫理体系を自由に思索し、自由に夢見るのである。
そして、現実において激しく闘うのだ。
ときは友として、ときは敵として、我々は現実の中で夢見る。
259:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/16 23:53:04
神学は神の一歩手前で止まる。
神とは知り得ないものである。
神学は「私は神を信じる」という神への愛で始まり、そして、そこで終わる。
これが私の神学である。
260:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 00:03:24
もし知り得ないことについて規範を立てないならば、
倫理命題は一人称のみから成る。
それは自己拘束行為である(宣誓の立場)。
新人類は一人称の倫理命題のみを知っている。
261:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 11:30:22
そもそも倫理とは何か?
規範命題とは何か?
私にはこれが全く分からない。
「~すべし」とはいったい何を言っているのか?
いったいこの文にはどういう意味があるのか?
私には全く理解できない。
262:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 15:08:28
世界を観想している視点は世界の中に存在しない。
つまり、経験的事実の中に存在しない。
それは、世界との関係においてのみ出現する。
263:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 15:32:46
視点Oから記述された世界の諸関係は全現象の諸関係の総体と等値である。
264:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 15:38:42
世界を語ることとは自己を語ることと等値である。
ただし、視点が異なるのである。
私はAを見てBを見ている。
というのは、
AとBが現象している。
ということと等値である。しかし、視点が異なるのである。
265:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 15:41:04
今や自我の問題は消滅した。
私は世界であり、世界は私である。
世界あるゆえに我あり。
266:考える名無しさん
06/07/17 15:45:06
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 自我の問題は終わるのではなく、
_ / / / \ ようやく始まるんだと思います!
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ダトウ ブッキョウ!!
.|| ||
267:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 15:46:36
>>266
真にその通りだ(,,;∀;)オオォ
自我の問題は永遠の旅路として始まるのだ。
それは栄光と挫折、希望と絶望、華麗と醜態が織り成す旅路だ。
誰もがこの旅路を歩いており、誰もがそこから去っていく。
268:考える名無しさん
06/07/17 15:51:00
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>258
_ / / / \ 矛盾する体系はなぜ文学なんですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
269:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 15:52:37
>>268
矛盾は実現しないからだ。矛盾は思考の特権である。
そして、矛盾は不条理な文学の特権でもある。
思考は矛盾を楽しむ。だが実現することはできない。
もし倫理が未来の設計図であるならば、無矛盾性が要求される。
270:考える名無しさん
06/07/17 15:54:35
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>269
_ / / / \ 矛盾の不可能性は公理ですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
271:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 22:51:07
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>270 矛盾の不可能性は経験則だと思う。
| 私たちは「Aかつ¬Bである」の意味内容を理解して、
| それを検証することができるからだ。
| これは経験則の中でもかなり強い部類に含まれる。
| 自然の斉一性と同じくらい強いであろう。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
272:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 22:53:27
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 倫理において前提とされるのは「矛盾の回避」である。
| ただし、これは実現可能性を考慮しないならば採用されない。
| 「矛盾の回避」は倫理の目的をその実現におかない限り、
| 特に必要なものではない。しかし、もし倫理の目的を実現に
| おくならば、「矛盾の回避」は目的達成のための要件となる。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
273:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 22:55:47
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 私は「自由な倫理」を提唱する。それは自由な前提を選択できる。
| 前提は意欲によって選択され、倫理の体系を決定する。
| そこでは、個々人の倫理が選択され、現実において切磋琢磨する。
| これが新人類の倫理であり、現人類の倫理ではない。
| 私はそのことをとても残念に思う。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
274:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 23:01:58
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| Wegnerの有名な時の神殿にはひとつの絵画が飾られている。
| それは、LactuaとTelesaとLuciusを描いたものだ。
| Luciusは天を指し、Telesaは地を指し、Lactuaは自己を指している。
| つまり、Luciusは「理(RATIO)」を、Telesaは「実体(SUBSTANTIA)」を、
| Lactuaは「自我(EGO)」を指している。彼らはそれぞれ理学と自然学と
| 倫理学の象徴であり、関係主義、物理主義、精神主義という3つの
| 学問(PHILOSOPHIA)上の立場の代表者である。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
275:考える名無しさん
06/07/17 23:12:55
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>274 3つの立場は対立していますか?
_ / / / \ それとも、Aroisが言うように世界の3つの様相ですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
276:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 23:18:51
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>275 非常に難しい質問である。だが努力しよう。
| Aroisは正確には理と実体を統合して、さらに「私」に
| 帰属させようとした。正確には次のように言っている。
| 「現象の背後にあるもの、未だ輝かぬ曙光、理またの名を実体」と。
| これは彼の双子の兄弟、Lukasが詩にしたものである。
| そして、Aroisの思想を真に見事に表現している。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
277:考える名無しさん
06/07/17 23:20:40
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>274 もうひとつ質問があります。
_ / / / \ Aroisの思想には物理学の観測問題が影響していますか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
278:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/17 23:26:37
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| しかしAroisはどちらかというと関係主義を好んだ。
| 彼は数学者だったし、それに君が言うように観測問題は、
| 現象の背後に実体よりも数理を連想させるからだ。
| Aroisは「関係こそが実体である」とも言っている。
| それはLukasとの共著『イデアの園』という詩集に編まれている。
| それゆねに、Aroisは世界を3つの様相に区別したわけではない。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
279:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 00:21:49
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| だが老ブルートゥスは賢明にも次のように反論している。
| 現象を数学的にしか記述できないからといって、現象の背後に
| 実体がないと考えるのは性急であると。これは正しい。
| 彼は伝統的な三元論(理、実体、現象)の立場から、Aroisの
| 数理的二元論に反論したのである。彼は言う。
| 「もし現象の背後が理そのものであるならば、なぜ一定の
| パターンで理が具現化されるのか。理は全ての可能性を
| 含んでいるのだから、それがランダムに具現化されてもよい
| のではないか?」と。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
280:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 00:25:49
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| Aroisは次のように返事をしている。「認識器官もまた理であり、
| その理の在り方は、理から一定のパターンを抽出するように
| できているのだ」と。このように考えるならば、彼の持論は保持される。
| ところが、これにはArois自身が気付いていた難問があるのだ。
| 「その場合、私が認識しているものと他人が認識しているものとが
| 同一である保証はなくなるのではないか?」と。
| Aroisの二元論によれば、他人も理から抽出された存在であり、
| 私の中でのみ具現化されることになる。兄想いのAroisにはこれが
| 絶えられなかったのだ。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
281:考える名無しさん
06/07/18 00:30:23
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ; ´∀`)/< 先生!あまりにも難しすぎます。
_ / / / \ もっと分かり易く説明してください。
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
282:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 00:31:42
訂正*
>Aroisの二元論によれば、他人も理から抽出された存在であり、
>私の中でのみ具現化されることになる。
の部分はカット。
283:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 00:36:18
三言論の構造を思い出そう。
Lactua「RATIOのひとつが実体化し、そこから私が生まれる」
自我=現象←認識器官A←実体→認識器官B→現象=自我
↑特定
理(あらゆる可能性)
二元論はこうだ。
Arois「関係またの名を実体」
自我=現象←認識構造A ⊂ 理 ⊃ 認識構造B→現象=自我
284:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 00:38:28
このとき、認識器官Aと認識器官Bは同一の実体を認識している。
なぜなら、実体とは可能性のひとつが実体化したものだからだ。
しかし、認識構造Aと認識構造Bとが同一の理を認識しているとは限らない。
なぜなら、理とはあらゆる可能性の総体でもあるからだ。
よって、三元論で保証されていた共通認識が二元論では維持されなくなる。
AroisとLukasが同一の理を認識しているかどうかは疑わしくなる。
285:考える名無しさん
06/07/18 00:39:56
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>284 でも、実体は仮設ではないのですか?
_ / / / \ 結局、同一のものを認識している可能性は同じだと思います。
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
286:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 00:41:36
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>285 その通りだ。実体とは論理的帰結ではなく、
| むしろ共通認識を担保するための仮設に過ぎない。
| これはとても重要であり、愛の衝動から生まれたものだ。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
287:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 10:13:02
RATIO, IDEA, 理
SUBSTANTIA, MATERIA, 実体(教義では物質的実体)
PHANTASIA, 現象, 精神(!)
288:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 10:48:38
古代人たちが世界は説明不可能ではなく説明可能であると考えたとき、
彼らが最も悩んだことは、現象は不断に流転するということだった。
このため、彼らはその背後に恒常不変の何かを見出そうとした。
その最たるものが、関係説と実体説である。
前者はLuciusによって、後者はTelesaによって古典期哲学の頂点を迎えた。
289:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/18 23:25:26
ウェグナー古典期断片
「移ろい止まぬ感覚の背後にあるもの、すなわち実体SUBSTANTIA」
「実体とは理RATIOである」
「実体とは第一物質PRIMATERIAである」
290:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/19 03:48:06
RATIO説とSUBSTANTIA説。
SUA RATIOとは何か?
291:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/19 23:47:03
古典期全
PHANTASIAとSUBSTANTIAの二元論。
古典期
RATIOとPHANTASIAの二元論。
PRIMATERIAとSUBSTANTIAの二元論。
RATIOとSUBSTANTIAとPHANTASIAの三元論。
古典期後
RERATION無限論。
無の体験。
292:考える名無しさん
06/07/19 23:51:20
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 現象-実体-数理の三元論は、
_ / / / \ もはや藝術の域に達していると思います!
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
293:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/19 23:52:58
その通りだ(,,;д;)オオォ
これは古典期思想の最大の藝術だ(,,;∀;)オオォ
294:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/19 23:56:30
Substantia, ea phantasia domoni, sominum domini est.
実体、それは神の表象、神の夢。
295:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/20 00:42:00
一元論は不可能である。
なぜなら、あらゆる理論は無限の諸関係RERATIONを内包しているからである。
ある理論がAという命題を持つならば、その理論は少なくとも¬Aを
持たなければならない(あるいは別の命題Bを持たなければならない)。
なぜか?
それはAのみではAを定義することができないからである。
例えば、物質一元論において、観念一元論において、
君は物質や観念を定義できるだろうか?
296:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/20 00:47:29
これは結局のところ、
「あらゆる理論はイデアとして存在する」
「イデアは無限の諸関係の総体である」
「あらゆる理論はその一部であり、イデアと≪接合≫している」
ということの現れである。
297:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/20 12:37:57
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 「論」とは命題の結合体である。
| もし一元的世界と全く等しい論があるならば、その論は
| ただひとつの命題X(あるいは単語Y)のみを持つ。
| しかし、それは論ではない。なぜなら、命題Xも単語Yも
| 定義不可能であるか、または、無意味だからである。
| 例えば、世界はすべて物質であるというとき、もし非物質
| という概念を持ち込まなければ、「物質」概念は無意味である。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
298:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/20 12:38:39
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| つまり、唯○○論は常に、その理論の中に非○○の
| 概念を持つことを必要とする。言い換えれば次のように
| 定式化できるだろう。
|
| 「世界がXのみによって成立しているか否かにかかわらず、
| 理論上は非X(あるいは別概念Y)が存在しなければならない」
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
299:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/20 23:25:10
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 一元論がもし世界の一元性について述べるものだとしても、
| しかし、一元論そのものは一元的ではない。なぜなら、
| 一元的な論は何も意味することができないからである。
| 一元論は「無限の諸関係」を前提とする。ふたつの命題が
| 存在するならば、その関係が無限に展開する(なぜなら、
| 命題Aと命題Bの関係、その関係と命題Aとの関係・・・と言う風に
| 無限に増殖するからである)。論とは、無限の諸関係の一部である。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
300:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/20 23:25:43
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| では、世界の一元性はどのように知見されるのか。
| それは(宗教的な意味でない)神秘体験によってである。
| 禅がその最たるものである。
| 禅とは一元論ではなく一元性の体験である。
| 悟りが語りえないのはこのためである。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
301:考える名無しさん
06/07/20 23:44:34
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 新人類には規範が存在しないとはどういうことですか?
_ / / / \ 新人類には法が存在しないというのはどういうことですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
302:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/20 23:46:45
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 正確には、新人類には規範が存在しないのではなく、
| 個人的規範(但し、彼らはこれを規範と呼ばない)が
| 無数に存在する。また、法が存在しないのではなく、
| 個々人の実行行為が無数に存在する。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
303:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/21 01:50:41
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 1、世界とは主観の総体である。目の前のパソコンも主観である。
| 2、私は世界であり、世界は私である(認識を否定する場合)。
| 3、あるいは、私は世界の限界に屹立する(認識を肯定する場合)。
| 4、主観を規定する物質MATERIAは世界の中に存在しない(カントの物自体)。
| 5、「ものの見方」である関係性は普遍的に実在する(イデア論)。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
304:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/21 01:57:48
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 純粋経験とは何だろうか。私は次のように答える。
| 「純粋経験とは世界そのものである」と。
| では、絶対無とは何だろうか。私は次のように答える。
| 「世界が消えるとき私は消え、私が消えるとき世界もまた消える」と。
| 「悟り」とは「私は世界であり世界は私である」ことの確認だ。
| しかし、この考え方はイデア(理)の実在性を見落としている。
| 数理の実在性に思い至らねば、数理学も自然学も発展しない。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
305:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/21 23:51:33
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| もし理が実体であるならば、私と君が同じ理を認識している
| という根拠は存在しない。なぜなら、理は無限だからである。
| いや、もし根拠があるとすれば、それは奇跡であるかまたは
| 神の夢である。奇跡は、私と君が同じ理を認識していることを
| 可能にする。これが愛の偶然性である
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
306:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/21 23:53:47
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 神の夢も、私たちが同じ理を認識することを可能にする。
| 私と君は同じ神の夢を見ている。これが愛の必然的解釈である。
| そして、私は後者の解釈を信じる。新人類の神は善であるから、
| 新人類の世界もまた善である。神は幸福であるから、新人類の
| 世界もまた幸福である。主よ、永遠に愛と夢を。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
307:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/22 00:00:11
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 感覚の背後に、現象の背後に、世界の背後に、恒常不変の
| 実体SUBSTANTIAが存在する。 この実体は、新人類においては
| 神の夢SUMNIUMであり、現人類においては第一物質PRIMATERIA
| である(多分)。神の夢と第一物質を規定するのが理RATIOである。
| 理こそが普遍的である。新人類の神は理を認識しており、新人類は
| その夢の中で安らぐのだ。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
308:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/22 13:42:11
デカルト的主体とは言語構造の罠であるという仮説を立てる。
つまり、「私」とは文法の要請であって論理の要請ではない。
このことをRactuaは的確に指摘している。
「『私が空を眺めている』という文が『空がある』と言い換えられ、
そのとき、私は消滅する」と。
309:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/22 13:44:41
愛の偶然的解釈とは、私と他者の同一実体を奇跡に求める解釈である。
愛の必然的解釈とは、それを神の夢に求める解釈である。
310:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/22 15:03:20
現象はどこから来るのか?
実体はどこから来るのか?
理はどこから来るのか?
私には分からない。
311:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/24 00:28:09
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>691 実体は孤独者の要求であり、愛を可能にする。
| 実体こそ人間が手に入れた最高の愛の源泉である。
| 新人類はこれに気付いているが現人類は気付いていない。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
312:考える名無しさん
06/07/24 00:32:17
age
313:考える名無しさん
06/07/24 00:54:29
残念ながら哲学板にはこのお方と議論できる方はいないようですね。
これでは哲学板のレベルが低いと言われても仕方がない・・・。
314:考える名無しさん
06/07/24 04:03:26
論点絞って追求しなから救われないのでしょう
まさに溺れてるように見えますが
315:考える名無しさん
06/07/24 12:40:00
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 先生!愛はなぜ実体を要求するのですか?
_ / / / \ 他者の存在を仮設するだけでは不十分ですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
316:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/24 12:46:06
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>315 愛と言うよりも寂しさが実体を要求するのかもしれない。
| 人間が孤独に耐えられるならば、他者は不必要である。
| 人間が共感を必要としないならば、実体は不必要である。
| 人間が誠実を必要としないならば、理は不必要である。
| だが、新人類は他者、実体、理を必要とする。
| なぜなら、新人類は孤独に耐えられず、共感と誠実を求めるからだ。
| これに対して、現人類は妄想に耽っている。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
317:考える名無しさん
06/07/24 13:27:25
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>316 現人類が妄想に耽る人々であるならば、
_ / / / \ 現人類の思想とはいったい何でしょうか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
318:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/24 13:29:20
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>317 現人類もまたある程度の理を獲得することができる。
| そして、現人類も、少しは誠実である。
| だが、現人類は新人類ほど誠実ではない。
| それゆえに、現人類は妄想する者と呼ばれるのである。
| 新人類が全く妄想しないわけではない。
| 現人類の思想は、現人類が妄想していない瞬間に構築される。
| だが、その思想は現人類の限界を次第に超越していく。
| そして、最後に、新人類へとバトンタッチされるのだ。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
319:考える名無しさん
06/07/24 13:36:55
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>318 愛は要請されるものですか?
_ / / / \ それとも、愛は全ての前提ですか?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
320:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/24 13:39:57
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>319 愛は他者の存在を確信するための動因である。
| それは現象であり、私に他者の存在を確信させる。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
321:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/26 12:35:11
実体の探求 ~愛の源泉を求めて~
私が熱く感じ君が冷たく感じるもの、
まさにその当のものが、熱さや冷たさの背後にあらねばならぬ。
すなわち、私と君が共通のものを認識するためには、
実体が存在せねばならなぬ。
322:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/26 12:36:59
では、実体とは何か。
私はそれが第一素材PRIMATERIAであると答える。
第一素材とは、私たちの感覚器官に作用して、
感覚を生じさせるものである。そして、これは、
微細な粒子によって構成されており、その構成の仕方に応じて、
私と君の感覚器官が異なる感覚を生み出す。
323:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/28 01:44:36
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 私たちは理を想念することができる。
| 想像力は世界を超越しており、超越論的とは世界を
| 超越するモデルを描くことである。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
324:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/28 01:45:26
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 形而上学とは何か? それは超越論的モデルを構想することであり、
| 世界に限定されたモデル(形而下学的モデル)と対比される。
| あらゆる形而上学が今や復活する。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
325:考える名無しさん
06/07/29 13:30:15
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< 先生!唯物論について講義してください。
_ / / / \
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
326:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/29 13:38:12
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| むしろ、決定論/非決定論にとって重要なのは、現象の背後に
| 何があるかではなく、現象が常に必然的法則的にしたがっている
| かどうかと言うことだ。
| 唯物論と唯心論とイデア論は形而下については一致しえる。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
327:考える名無しさん
06/07/29 13:39:06
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/< >>326 先生!どういう意味ですか!?
_ / / / \
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ .\_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
328:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/07/29 13:41:15
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>327 世界の法則性を発見するならば、その法則の起源を
| さぐるのはすべて形而上学(古典期に『超越的世界像』と
| 呼ばれたもの)に属する。法則性が物RESによるのか、それとも
| IDEAによるのか、はたまた、現象そのものの特性なのかは、
| もはや世界の観察からは知りえないのだ。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
329:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/11 22:52:47
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| みなさん。今夜は大々的な講義を行います。
| テーマは『神学の復活』です。
| もっとも、このテーマは奇妙に思われるかもしれません。
| なぜなら、ある人々にとって、神学は死滅していないからです。
| 私は次のように言いたい。
| 「復活しようとしている神学は、まさに新しい神学である」と。
| 今夜、私は新人類の神学について語ります。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
330:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/11 22:53:26
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 神学とは何か? それは、宇宙の全体像を夢見ることです。
| 私=世界を超越して、そして、宇宙の全体像を夢想することが神学です。
| 神学とは、真理の総体ではなく、想像力の飛翔です。
| しかし、現人類は妄想ばかりしているので、邪悪な神学を持っています。
| 新人類は、様々な人々が様々な神学を持っています。これは本当です。
| では、どのような神学が存在するのでしょうか。
| 私は今夜、全力で彼らの神学を紹介します。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
331:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/11 22:54:07
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| まず、古典期前の神学を見てみましょう。
| 新人類は、まず、善なる世界を創造した善なる主という概念を持ち出します。
| 主は善であるがゆえに、世界は善である。
| 確かに、新人類の世界は正義と友愛に満ち溢れています。
| 彼らによれば、この正義と友愛は神に由来しています。
| これが古典期前の神学の典型であり、「正義と友愛の神学」と呼ばれるものです。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
332:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/11 22:54:41
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 次に、古典期の神学を見てみましょう。
| 古典期とは、新人類の思想が飛躍的に開花した時代です。
| 新人類は、「愛と夢の思想」にもとづき、「愛と夢の神学」を形成します。
| 「主は私たちを愛しており、私たちもまた主を愛している」。
| 「主は私たちに無限の夢を与え、私たちもまた主の無限の夢の中で戯れる」。
| 素晴らしい思想です。しかし、神殺しが計画された後、この思想はまた変化します。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
333:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/11 22:55:16
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 次に、古典期後の中世の神学を見てみましょう。
| 中世は、戦いの時代でした。現人類の邪悪な遺産が本格的に新人類を滅ぼそうとしたのです。
| しかし、この時代は力強い思想の時代でもありました。
| 新人類は現人類の邪悪な思想に対して決然と挑んだのです。
| 新人類は悩める主ととともに悩んだのです。
| そして、中世最大の(新人類最大の)思想が誕生しました。
| 「主よ、永遠に愛と夢を。」
| これこそ、新人類による永劫回帰の思想、自律の思想、運命の思想です。
| 運命愛と永劫回帰、主の存在の肯定。新人類の血と汗と涙の結晶です。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
334:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/11 22:56:27
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 次に、近代の神学を見てみましょう。
| 現人類の遺産と新人類の最終決戦の後、新人類は平穏のときを得ました。
| しかし、新人類は再び、神殺しという試練に直面したのです。
| 主は現人類復活の鍵であり、新人類の一部は主を殺害しようとしました。
| これは、主自身が望んだことです。
| 度重なる争いの後に、主の殺害寸前に至ります。
| しかし、そのとき、現人類の最後の良心が、主の殺害を止めさせるのです。
| 現人類は自らに有罪判決を下し、そして、滅亡します。
| このとき、現人類は原罪から解放されるのです。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
335:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/11 22:57:09
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| では、近代の神学とは何だったのでしょうか?
| それは、主に対する無限の愛です。
| それは、「主の殺害(主を罪から解放する行為)」 と「主の保護」です。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
336:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/11 22:57:43
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 現代の神学はどうでしょうか?
| 私は次のように答えます。現代の神学は「自由の神学」です。
| 無数の神学が新人類の世界に満ち溢れています。
| 今や、現人類はどこにも存在しません。
| もしかすると、現人類の滅亡こそが現人類の最後の愛だったのかもしれません。
| これは悲劇であり、喜劇です。これは希望であり、絶望です。
| 新人類と現人類、それは、人生そのものなのです・・・。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚д゚,,)_
ノ| ノ| ノ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/||
/ .//.||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||/ ::||
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ::||
|| ||
337:救いを求める者 ◆7UpSOEZchg
06/08/12 00:50:29
【神殿壇上】
沈黙する主
跪き手の甲にキスをする第一の新人類
【階段上段】
観想に耽る女と記述する男
【階段中段】
天と地と自己を指す3人の偉大なる賢者達
【階段下段~中庭】
数々の賢者達、旅人達etc...