06/01/16 00:55:37
野矢茂樹「哲学の謎」
われわれもまた枯葉と同様に自然法則に従うしかないというのであれば、われわれの動きは自然法則に縛られている。
しかし、もし自然法則に従った動きしかできないというのであれば、「自由な行為」ということも私には虚しく思える。
それはけっきょくのところ操り人形の見た幻影にすぎないのではないか。
ベンサム「道徳および立法の諸原理序説」
自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないか
ということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。
一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている。苦痛と
快楽とは、われわれのするすべてのこと、われわれの言うすべてのこと、われわれの考えるすべてのことについて、
われわれを支配しているのであって、このような従属をはらいのけようとどんなに努力しても、その努力はこの
ような従属を証明し、確認するのに役だつだけだろう。
フロイト「エロス論集」ナルシシズム入門
鎖の一つの環としての個人は、自己の意に反して、少なくとも自らの意志をもたずに、鎖に奉仕するのである。
個人は性を自己の意図に従ったものと考えているが、別の視点からみると、個人とは自己の生殖質の付属物にすぎない。
そして快楽という褒美につられて、生殖質に自分の力を捧げているのである。生殖質は、おそらく不死の実体であり、
死すべき個人とはその乗り物に過ぎない。
ドーキンス「利己的な遺伝子」
彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生み出した。そして彼らの維持ということこそ、
われわれの存在の最終的論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。今や彼らは遺伝子という
名で歩きつづけている。そしてわれわれは彼らの生存機械なのである。