04/05/12 06:14
結論から言うと「理論的蓄積や定理」は可能態としてのものではなく、
能動理性を働かす原因であると考えられる。現実化した思考と
その可能態の対象は同一だからである。あることにつき「である」と
語られるものが現実態、「できる」と語られるものが可能態である。
現実化した思考は、『ニコマコス倫理学』第六巻において複数に
分類されている。証明や計算については、知識エピステメーと呼ばれる
ものであり、論証によって秩序づけられている。なお論証の定義
に付き『分析論後書』第一巻第二章参照。
現実に知識を得るには、能動理性の働きと、可能態にある知識が
必要なのであるが、可能態にも二通りある。「子供が軍隊の統率者
であることができる」意味での可能態と、「成人においてそうする
ことができる」意味での可能態である(『霊魂論』第二巻第五章)。
後者の場合は、「外的なものが何か妨げない限り、そのひとが望め
ば知を行使できる」(『霊魂論』第二巻第五章)という意味であり、
ある意味で現実に知識を得ていると言うことができ、『霊魂論』
第二巻第一章において「第一次の現実態」とされている。この場合の
可能態にある知識が現実化したときは「思い出す」ということを
指すだろう。一方、前者の可能態が現実化することは「学習」や
「教授」や「発見」と呼ばれるだろう。この場合の可能態とは、
学習や教授ができる能力を指す。サルにはこの可能態はないだろうし、
一部の人間にも備わらないことがあるかもしれない。その明敏さも
問題となり、すばやく発見しうる人は「頭脳明敏」(『分析論後書』
第一巻第三十四章)と呼ばれる。