01/11/27 03:44
>>232
お答えします
聖徳太子が小野妹子と隋の使節をでむかえていた頃には、随書東夷伝に秦王国の
記述がでてくるので、吉備にも五条都市構造をもつ寺は建立されていたのでしょうが、
吉備秦廃寺の社紋なんてものはありません。6世紀のころなんで、まだ大和と
連合しつつ対立していました。出雲は滅ぼされたけど吉備王国は半島経営などで、
まだしぶとく生き残っていた頃です。秦氏系渡来人も8世紀までは受け入れていた
ので、吉備式瓦は新羅系、百済系両方に通じます。菊花弁模様。庭からでるので
いくらでもあります。(昔、柱の礎石の穴は鶏の餌場でした、規模は法隆寺並。
親戚の橋本某が吉田内閣で大臣になったとき、うちの幟をそこにさして祝ったぐらい
かな。使い道なし、通常は放置。最近近所で国内最古のたたらの発掘が注目)
社紋のできる平安時代には多分廃寺になっていたので、不明です。十字ではないですね。
うちの家紋も中世以降だと思うので秦氏とは無関係かもしれませんが、扇五線で
源氏新羅三郎のものと類似、五線の端がばらけてるので古いらしい。
遠縁の神主には始皇帝までさかのぼる系譜を開帳してる爺もいますが、怪しい(w
いずれにせよ社紋、家紋は中世以降だし、秦氏の血は天皇家、藤原4家、源平を
通じ全国民に混じってる。