08/12/09 20:08:14
>>1
矢野弾左衛門の先祖は律令時代に畿内の陵戸(賎民の一つで墓守)
の親玉だった。中世には摂津の穢多(屠児・川原者)の親玉。
後に関東に移住し、関東管領足利氏の下で関八州の穢多の親玉に
任じられたが、
後北条氏時代にはさっそく早雲に便宜を図った小田原・山王原の
太郎左衛門の配下に置かれ、鎌倉・由比ヶ浜の穢多の頭の過ぎなくなった(
ただし、小田原・山王原の太郎左衛門も大きな力はなかった)。
徳川家康が関東に移封され、弾左衛門は家康に【家系】を示し、
(佐竹領や里見領の除く)関東・伊豆の長吏頭に任ずるよう頼み、
一方、小田原・山王原の太郎左衛門も北条早雲に任命されて以来の権利を
訴えたが、後者は退けられた。
江戸衆をはじめ後北条氏遺臣を大勢召抱えた家康だが、賎民の親玉まで
後北条氏時代のままというのは困る。
かと言って三河や遠江あたりから呼び寄せた者を頭に任ずるわけにも
いかない。そこで、賎民の親玉としての【名門】で、関東管領の下では
関東十国の長吏頭だった地元の弾左衛門が相応しかった。
長吏頭(穢多頭)に任じられた弾左衛門は鎌倉から浅草に移住。
関ヶ原合戦後、江戸幕府開府後から次第に勢力範囲を広げ、
さまざまな賎民を配下において利益を吸い上げる、
大金持ちの特権階級にのし上がっていった。