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官軍の砲撃が迫った慶応三年の江戸は浅草新町の屋敷に、薩摩藩の密使が訪れるのです。
その屋敷には、長屋門(大名格の屋敷門)があり、その門には「丸に十の字」の紋がある
提灯に灯りが入っていました。大玄関を入り数間を通り立派な床間を持した数十畳もある
表座敷に、その屋敷の主人を前にして、筒袖のむさ苦しい髭面の大男が、
「おまはんと島津家は同族ぞ。いにしえは秦氏ぞ。今こそ秦氏の恨みを晴らす倒幕ぞ。」
と言うのです。
南九州で鎌倉時代から六百年も続く豪族の島津氏は、「島津」と名のる前は、惟宗氏(これむね)
と名乗っていました。それは、鎌倉幕府を拓いた源頼朝により薩摩国島津荘の地頭職安堵により
「島津氏」を名乗ったのが始まりです。その惟宗氏とは秦氏が平安時代に改名したものです。
その屋敷の主人の名は、弾左衛門、穢多を束ねる頭です。
弾家の祖先は、鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼です。
その昔、この族より秦左衛門尉武虎という武勇者が出、鎌倉の源頼朝に認められ、
鎌倉長吏(警察業務をおこなう人。平安時代では、専門的な職能をもって、朝廷に使える
集団構成員のうち、特に優れた者を長吏と言った。
これが何故、江戸時代にアウトカーストになったのか。江戸時代に長吏は、穢多と蔑称された。)
の頭領と成り、秦氏を弾氏と改めたのです。
薩摩の密使の言うことは事実でした。しかし、不思議です。江戸時代の身分制度の士農工商の
カースト制度の中に入らない穢多頭の弾家が、そのカーストの最上級の士族と同族であることです。
そして、その弾家は、昔は藤原氏(平安時代の貴族)を名乗っていたことです。