弾左衛門at MIN
弾左衛門 - 暇つぶし2ch203:天之御名無主
05/08/05 22:36:25
>>202
軍靴の需要が拡大することを予感した弾直樹は、1871(明治4)年、3人の中国人を靴作りの指導者として雇った。
また、アメリカ人の製靴技師チャールス・ヘンニンゲルを雇用して、滝ノ川に皮革・靴伝習所を開いた。
ヘンニンゲルの指導の下に製造された造靴用の革はチャールスにちなみ「茶利皮」と名づけられた。
1872(明治5)年1月には隅田川に水利を求めて工場を浅草橋場町に移し、「軍靴12万足、十ヵ年納入」を受注すると製造工場を拡張し、靴工見習451名を募集して養成に熱中した。
こうしたことのために弾は膨大な私財を投資した。
江戸時代、三井と並ぶ江戸第一の大富豪と言われた弾左衛門家の財産も、この投資のためにほとんど使い果たされてしまうほどであったという。
しかし、十ヵ年契約は一年を待たずに中止となり、弾の事業は決定的な打撃をこうむった。
この理由については、戊申戦争の時に甲陽鎮撫隊に協力した弾左衛門に対する明治新政府の意趣返しではないかと推測される。
その後、三井の北岡文平が監督に入り、名称も「弾北岡組」と呼ばれるようになった。事業は製革と製靴に二分され、製靴部門は明治5年12月浅草亀岡町にある弾の邸内に移された。
結局、皮を集約する権限を奪われたことが決め手となって、1874年(明治7)、弾直樹の皮革会社は倒産した。
1871年(明治4)8月28日の太政官布告(いわゆる「解放令」)により、「ひにん」とともに「えた」の称は法的に廃止された。
ところが、この太政官布告後、被差別部落の生活はむしろ悪化していった。「解放令」の「身分職業共平民同様」は、士族らの皮革業進出を招来し、部落の皮革産業を危機に陥らせた。
その典型が、弾直樹の皮革会社倒産である。


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