01/02/14 20:28
>>127
レスを見のがしていました。申し訳ありません。
当方の立場としては、「作品としての『古事記』の世界観を考える」というもので、
そういう意味で、『日本書紀』や祝詞における(広義の)クニツカミと、
『古事記』における国神とは弁別すべきであろう、という意識でいます。
また、揚げ足を取るようで恐縮ですが、「地祇」について「クニツカミ」という訓注は、
紀の中にもなく、平安期の日本書紀講義の関係者もしくは卜部系学者による
後天的な訓みであることにも留意すべきであろうと思います
(その訓が間違っているとは思いません。悪しからず)。
また、『古事記』における「国」と、『日本書紀』における国の概念には
大きな違いがあるようにも思われます。
「六合」の語は紀にはあらわれますが、記にはあらわれません
(「六」が意味するのは、四方と天地であります)。
クニが常に「六合」と同義であれば、天上にある神々も広義の
「クニツカミ」ということになってはしまいませんか?
そもそもの疑念なのですが、『古事記』や『日本書紀』に先行する、
体系としての「日本神話」というのは存在しえるのでしょうか?
当方といたしましては、ヴァリアントとしての神話群とでもいうべきもののみが
諸家にあったのではないかと思われるのですが。
存在したとしても、断片的な記録からそのような「日本神話」を
正確に推定できるのでしょうか?
ごく端的に申し上げれば、現存する諸々の文献から共通する因子を
積み重ねても、「日本神話」の復元は不可能なのではないか、という
ことであります。
そういう意味で、まず作品ごとの世界観を確立させた上で、
神話というものを考えるべきではないでしょうか。
なお、
>また、祝詞に
>「天津神、国津神、八百万神等」と必ずいうのは、
>足名惟神のみを、わざわざ言っていることになりますよ。
>あまり、古事記の言葉尻のみにとらわれないように。
というご発言に対しましては、
>いわゆる「出雲」系の神の中で「国神」と明確に記述されているのは、
>足名椎神のみで、しかも名乗りの場面においてのみです。
という、当方の発言について誤解されているのでは、と危惧するところであります。
当方といたしましては、(繰り返しになりますが)「記における」
「国神」と確実に判断される神のなかで、「いわゆる」出雲系の
神(つまり、一般的にはすべて国津神とされる神々の中で)は、
足名椎神のみである、と言っているのであって、
その他の文献における国神全体に概念を敷衍しているわけではありません。
祝詞には祝詞の、紀には紀の世界観があり、その中での
クニツカミの位置づけを考えるべきであろうと判断するものであります。