08/09/28 15:18:01
弥生時代なる米作のブームのそもそもの発端は何から?(その一)
仮説①
奇特な人、於・揚子江下流域
「倭か蓬莱境か知らんが、狩猟採集と芋(やまいも)栽培ばかりじゃ腹減って
可哀相じゃ。ひとつ米の作り方でも教えてやるか」と、奇特なその人は、稲作
を倭人に伝授する為、黒潮に身を投じる命がけの航海の途につきました。
仮説②
(秦の始皇帝に楚が、滅ぼされた直後の時代)
亡楚の農民A
「税金高すぎ。やっとれんわ。どこか逃げて行きたいね」
亡楚の農民B
[先祖代々の田んぼ没収されちまったよ。秦の役人やりたい放題だね」
亡楚の農民C
「おまいら徐福って方士が不老長寿の薬を探しに蓬莱境なる島に渡ったの知ってっか?
そこは空き地も同然、米作り放題、秦の役人も絶対来ないぞ」
亡楚の農民A、B
「おら、そこ行きてー」
亡楚の農民C
「じゃ、みんなで蓬莱に行っか?」
亡楚の農民A、B
「んだ。行くべ行くべ」
と楚の農民たちは蓬莱目指して航海の途につきました。
「倭」への稲作の伝播は江南地方からの植民だろう。仮説①はありえない。
実際は、始皇帝の時代よりもっと早くから日本への植民は行われていただ
ろう。徐福の記事以外、正史に記録がないのは、国家が公に行った植民では
なかったからだ。倭への江南からの移住は民営事業だった。