ヒクソスから帰還した渡来人at MIN
ヒクソスから帰還した渡来人 - 暇つぶし2ch178:月光仮面
08/04/20 16:30:41
サハ共和国のサイトにサハとは釈迦同様サカ族のことで、昔、インド方面から商人が
来たという伝説があるとあって、ウッソと思ったが、やはりなんかあるかも。大麻で
悟りを得ても癖になるんじゃねー。

179:月光仮面
08/04/20 17:07:25
「Kerch近郊Kul'Oba クルガン埋葬出土琥珀金酒盃表面画像から転写したスキタイ
戦士。右の戦士は弓を膝で押さえて張っており、帽子は典型的なとんがり帽子で、毛皮
又は羊毛製の裾をトリミングしてあるジャケットを着て、短いブーツはくるぶしの上で縛っ
てある。見たところ、髪は通常伸ばしっぱなしで束ねず、成人男性は全員ひげを伸ばし
ている。共に、槍乃至は投槍を持つ左の2名の戦士は会話中である。槍を持つ無帽の男
が左足をゆすぶっているのがはっきり表現されている。」
URLリンク(upload.wikimedia.org)

180:月光仮面
08/04/22 12:52:52
>>178
サハの掲示板を見ているとSakaと言うのは古イラン語で「鹿」の意味だという。古代エジ
プトではSagazというのが出てくるが、時期的にSakaと合っている。ファラオ・イクナートン
の首都で出土した楔形文字粘土板ではこの部族は単に「ハビリ」ではなく、詳しくは「ハ
ビリ・カルブ・ハルキ」khabiri-kalbu-khalkyと呼ばれている。「ハルク」はバシコルドおよ
びクルド語では「族」、「カルブ」はクルド語で「犬」、全体としては農耕犬族の意味。
これとSagaz(鹿族)を同等視するのは鮮卑の語源、犬鹿氏時代のこと。その頃ハルハ
方面の鹿族、黒竜江方面の犬族が混然一体であったという。

181:月光仮面
08/04/22 13:04:00
ユダヤ民族がエジプト人からHabiru-Sagazと呼ばれたのは北方遊牧民と同一視された
と言うことでないかと思う。少なくとも言語的にユダヤ人はアラブと同じセム族であり、
北方系はフルリ語である。

182:月光仮面
08/04/22 13:57:58
Sakという語根には犬、鹿の他に武具も含有されており、戎、物部と同意となる。
日本的に言えば物見櫓環濠集落集団といったところか。

183:月光仮面
08/04/22 15:19:00
その後のユダヤ人
Khwarezmian Shahdom中コーカサス山脈
URLリンク(upload.wikimedia.org)
コーカサス山脈北麓
URLリンク(upload.wikimedia.org)
Khazar Khanate最大版図
URLリンク(en.wikipedia.org)
アシケナージ分布
URLリンク(upload.wikimedia.org)
邑婁(Poltse文化)跡地に移動させられる。宿縁なのか。
URLリンク(en.wikipedia.org)

184:月光仮面
08/04/22 15:44:43
>>170
トミと言うのはチュルク・モンゴル系スキタイ族がスキタイの地母神・竈神TabitiをTumat
と訛って借用したものでTibet, Toba, 兜跋、拓跋、投馬等は同じようであり、日本では登美
長髄彦、阿波・安房のトミビコにも現れるが、九州・沖縄には箱式石棺墓で上陸、本州の
石積古墳、沖縄のグスク、高句麗の山城、将軍塚、チベット雲南の石積遺跡、オボー等を
もたらしており、高霊、高良、高句麗、句麗、呉等も同じことであると。つまり、クシフル
のフル、布留等には社の意味があり、本来の意味は金の角の間に太陽をはさむ金色の
鹿を意味する言葉らしい。クシはGeser, Caesar等にも含まれる語素であり、「世界四神」
の一柱であると。

185:月光仮面
08/04/22 16:12:45
犬はSanskrit語でkurkura/kukura、Proto-Nostratic *k[h]uwan-/ *k[h]uw&n-、犬族は
黒竜江省を出て、BMAC(ホレズミ、フルリ人の土地)においてアーリア語によりkurkura/kukuraと称するようになるが、ミタンニ国からヒッタイトに出向き馬の調教をする
際にkurkuruが一回りをaiwa warutannaと言うのがヒッタイト人には面白かったのかもし
れない。この犬族が帰還後高句麗となり、白山のキクリヒメとなるのであろう。アーリア
語のkurkura/kukuraと同じ犬と言う意味のタヒチ語はkuri, uri-というので、金海加羅に
南方から姫が輿入れする際に来たという線がないわけでもないが。しかし、これは
出どこが台湾・沖縄方面であってユーラシアを右回りしたのかも。


186:月光仮面
08/04/23 17:12:26
【今日のところの世界史と日本史】
趙宝溝文化(7400~6700年前)ダフールが無紋土器開始。
参考↓米イスラエル吉林内蒙古赤峰国際協力考古研究プロジェクト、趙宝溝文化
土器
URLリンク(www.pitt.edu)
URLリンク(www.pitt.edu)
URLリンク(www.pitt.edu)
富河文化 (6700~6000年前)ダフールがドナウ河Suvorovoにおいて馬飼育技術
取得。参考→独鈷石様鎚矛先
URLリンク(users.hartwick.edu)
ド参考→ナウ・トランシルヴァニア地域Suvorovo墓地遺跡出土
URLリンク(users.hartwick.edu)
紅山文化 (6500~5000年前)ダフールがBotaiにおいて馬を生産。
小河沿文化(4500~4000年前)特になし。
夏家店下層文化(4000年~3500年前)。ダフールが半島、列島に侵入開始。
Andronovo文化 (3500年~3000年前) 羌・羯がBotaiで馬技術を取得、オレンブルク・
カルガリー銅産地でセイマ・トゥルビノ青銅技術を取得、BMACでインド系文化、
アーリア系文化を取得し、フルリ人としてミタンニ、ヒッタイトに、ヒクソスとしてエジプトに
入り、他方では、夏及び百越経由バンチャンと接触する。夏の東方に商が興る。
春秋戦国時代(3000年~2300年前)半島列島・無紋・弥生土器時代。
参考↓
URLリンク(www.moco.or.jp)
秦・列島青銅祭器時代(2300年~1800年前)列島に羌・羯・百越の進出が始まる。
列島古墳時代(1800年~1400年前)列島古墳時代。アルタイ・モンゴリアから列島、
チベット、雲南へ羌・羯・百越の移住が多くなる。

187:月光仮面
08/04/24 10:29:36
「独鈷石(とっこいし) 縄文後期~晩期、さらには弥生時代の前期・中期の境頃まで、
主に岐阜・福島県などの東日本から見つかる石器です。・・・この独鈷石についても、斧
や槌といった実用利器がシンボル化して独鈷石のような形になったんだという説と、「こ
れの原型となった実用石器は見つからず、独鈷石は最初から非実用的な石器として
製作されたのだ」という説があり、決着はついていません。
 ただいずれの説にしても、最終的にこの独鈷石が「非実用的(非日常的)な用途に用
いられた石器」で「祭祀行為に用いた道具」だったのではないかとする点では共通して
います。」
URLリンク(f1.aaa.livedoor.jp)
ドナウ河Suvorovo独鈷石様鎚矛先
URLリンク(users.hartwick.edu)
↓右クリックプルダウンで拡大するとプルート河河口のSuvorovo墓地に矢印が
向いている。
URLリンク(users.hartwick.edu)
巨大な欧州金石併用時代の終末に東方の遊牧民は独鈷石を使った獅子舞、
金蔵獅子のようなことを行っていたのではなかろうか。Varna文明は地中海方面から
貝の装飾品、腕輪、角杯のようなものも入手しているが、古代若狭、越前、大和、
木曾方面と似ている。



188:月光仮面
08/04/24 10:47:12
千木、高床のトリポリエ神殿、牛頭(ブクラニア)信仰を持つトカラ移動農耕牧畜集団は
アファナシエボ文化時にターリム盆地に入り羌族に影響を与えた。羌族も羯族、印欧、
インディック族とカザフスタン錫産地、ウラル・カルガリー銅産地において環状集合住宅、
都市点在国家を形成し、この際に天御中主のような考えが生じたのではなかろうか。


189:天之御名無主
08/04/24 13:02:50
あめのみなかぬしはYHWH

190:月光仮面
08/04/24 13:48:26
内蒙古師範大学アジア民族起源研究所Mang Muren研究員(76歳/2005年)は、犬鹿氏
と言う民族があり、モンゴロイド形成期のBP15000年中石器時代太古内蒙古Zdalai
Nuur、黒龍江省チチハルに居住し、その後、犬族と鹿族に分裂、「犬飼」は黒竜江中流
及び松花江上流のハルピンYanjiagang、チチハルAngangxiのような里山地帯、「鹿飼」
は満州里Mogushan及びHulunbuirのGaxiandongのような山岳・森林地帯に住んだと
する。犬鹿氏はモンゴル、中国の多くの民族の祖。他方YDNA haplogroup O2b1*は
ダフール人であるが、朝鮮人はO2b1*、日本人はO2b1aと言う風に、すなわち、ちょうど
YAP+がほとんど朝鮮に存在しないように分かれている。このことは鹿飼がO2b1a、
犬飼がYAP+として日本に入り込んだことが考えられる。英文Wikiではその頃をBP4000
年頃としている。こうした朝鮮半島をスキップする移住の原因は火山列島である日本の
方には朝鮮より多くの里山、山岳地形があったからであろう。しかし、金石併用時代の
ドナウ河流域/シュメール、後期青銅器時代の中近東/エジプトに進出したのはまだ
犬鹿時代の混合集団であったのではないかと思う。

191:月光仮面
08/04/24 16:59:58
>>178
URLリンク(www.j-theravada.net)
「お釈迦さまは物語を終えると四聖諦の説法をされて、 「その時のサーカ鹿王はデー
ヴァダッタ、雌鹿は長老尼で、子鹿はクマーラカッサパ長老、王様はアーナンダで、
ニグローダ鹿王こそは私であった」 と過去と現在を結びつけられました。」
お釈迦様に代わり補足説明すると、「その後、私はレナ、エニセイ、シルダリア、アム
ダリアの河を越え、パミールの西をインダスへと向かい、そして、ガンジス河にたどり
着いたのであった。」

192:天之御名無主
08/04/25 06:21:54
新王朝期の上エジプトを攻略したヒクソス即ち前期アーリアの神々を信奉する民族は、ミタンニ、カッシートそしてザクロスに諸国家を打ち立てた。
ギリシアにおいてはホメロスの英雄叙事詩に語られるように地中海世界を一変させ東アナトリアを荒廃しバビロンを滅ぼしユダヤ民族の勃興を促した。

BC2000年期にインダスの諸都市を破壊したと謂われているインドアーリアとは違う民族だ。
ましてそれがモンゴロイドの氏族であることはありえない。




193:月光仮面
08/04/25 08:02:29
>>192
>BC2000年期にインダスの諸都市を破壊したと謂われているインドアーリアとは違う
>民族だ。 ましてそれがモンゴロイドの氏族であることはありえない。
インドでは逆にインダス文明からBMAC(ウズベキスタン・トルクメニスタン方面)に
文化が流れたのではないかとしている。エニセイ川流域ではインド人のような南方系
形質の人骨が出土しているし、血液型においてもユーラシア中央部の南北は同一。
しかし、インド北西部には地中海民族形質もあるので、双方向の流れがあり、決して
一方方向、直流的な流れではなかったのではなかろうか。欧州からアジアに到る
犂、プラウの源流はインドから出ている。

194:月光仮面
08/04/25 08:30:51
カッシートについてはクドィルという石碑による国土保全政策が日本の猿田彦神社
配置による国土保全策と似ている。おしなべて、中近東のテル、フユク、デペなどと言う
高城が朝鮮山城、アマゾン・モホスのテラプレンと似ている。ハワイのポリネシア文化
センタで聞いたんだが、古代海洋民には碁石のようなものを双六のように並べる文化
があったらしく、どうも、ナスカ地上絵の習慣と似ているが、例のモホスの巨人はDNA、
形質鑑定で山東、遼東、日本東北と言うことまで決定されているんだから、総合的に
インカ山岳文明の中核は日本人と同じ系統であったといえるんじゃなあ以下と思ってい
るんだが。ナイルのクサエをヒクソスの国境とするのは登美の長髄彦の国土境界
クサエのサカと同じで、クは狗、サエ/サカは鹿、犬鹿族(クサカ部、拘邪韓)と言うのが
倭人の意味でなかったのかなー。

195:天之御名無主
08/04/25 09:10:59
インダスの都市にいた人々、彼らは何者だったのか・
モヘンジョダロの或いはハラッパーそして港湾都市チャンプダロ
そこで発見された人々はそこに居た人々ではない。
滅びた都市の瓦礫に住むものは哀れな侵略者だ。
破壊と簒奪が過ぎ千年の時の後
ヴェーダとウパニッシャドが語られそしてうまれた。

南部インドのドラヴィタの人にも地中海民族形質は入っている。
カピラバスの王子はモンゴロイドとアーリアのハーフでした。



196:月光仮面
08/04/25 11:20:46
最終氷河が終わった時に現在の砂漠地帯にはエデンの園のような生態系が現出
したが、神は楽園を人間の叡智に任せた。人間は子孫繁栄のために戦争を始める。
インダスの楽園が失われたのはシュメールとガンジス、南インドの興隆と北方民族が
馬の家畜化、牽引、騎乗技術、二輪車、騎乗戦闘技術を高めてきたことによるのかも。
西日本、長江流域が喜界カルデラのような不可抗力によって衰退するのとは対照的
な現象であろう。

197:月光仮面
08/04/25 12:18:50
>>166
↓このトリポリエ様式が日本神殿の源流だ。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
これは小河墓の堅魚木を加味した棺の様式と共に「9本の柱からなる平面を維持し,
その中央の柱を他より太くしてこれを神秘の柱とし,両妻中央の柱を少し壁より外に
ずらして棟持柱とする」様式を持っている。

198:天之御名無主
08/04/25 12:37:24
>>197
それは違うとおもいますけど。

199:月光仮面
08/04/25 14:41:57
欧州環境悪化はククテニ・トリポリエ文化の、一つにはウバイド・シュメール文化文化とし
てのメソポタミア進出と、もう一つはトカラ・アファナーシエヴォ文化のターリム盆地進出
、やや遅れて、印欧語族、バイカル湖周辺犬鹿族のカザフスタン馬家畜化・二輪車・
騎乗文化・錫による後期青銅器文化開始への参加とエジプト、アナトリア、メソポタミア
への進出、更に遅れてはスキタイ文化、周・春秋戦国時代を招来したのであろう。

200:月光仮面
08/04/25 18:36:21
>>198
原型となるククテニ・トリポリエの千木付家屋
URLリンク(upload.wikimedia.org)
ククテニ・トリポリエの千木、動画による構造説明
URLリンク(www.youtube.com)
小河墓、牛皮に包まれた木棺
URLリンク(www.china.org.cn)
棟持柱建物模型
URLリンク(www.museum.or.jp)
棟持柱建物
URLリンク(asake.web.infoseek.co.jp)
側面中央の、壁面より外側に飛び出し棟へ達する柱を棟持柱(むなもちばしら)と呼ぶ。
棟持柱は通常太く、強度のある用材が用いられるが、構造上では強度にはあまり寄与
しない。
URLリンク(upload.wikimedia.org)

201:パンティー仮面
08/04/27 19:25:23
千木ってヨーロッパのどこだっけ?ではアキュラと呼ばれ鷲(鳥)を象徴
してるらしい。日本の神社建築でも本来は鳥をもしたものかもね。
柱の配置は出雲は亀の甲で象徴されてる。

202:月光仮面
08/04/28 14:00:37
>>157
神武皇后イスケヨリヒメが共立初代邪馬台国女王であり、次はモモソヒメあたりで、
これが魏志倭人伝の卑弥呼であろうが、イスケヨリヒメの母、セヤタタラ姫、これは
どうも銅鏃・丹塗矢を依り代としている。銅鏃、ゴリュトス(矢筒を兼ねた弓入れ)、
複合弓とあわせてスキタイ(流鏑馬民族)の武具だが、
URLリンク(www.kyoto-np.co.jp)
URLリンク(www.blueridge.edisc.jp)
URLリンク(bp2.blogger.com)
樹下戦士 
URLリンク(bp0.blogger.com)
これに楯の飾、巴形銅器、ゴリュトスを筒型銅器、そして銅鏃、銅鏃丹塗矢が勢夜多々
良媛のセヤ・・・スキタイ武具の青銅器化だ。

203:月光仮面
08/04/28 14:52:11
つまり、神武以前が倭国乱、高地性集落(テル、デペ、フユク、山城)の時代であり、
神武はこれを統一した勢力のシンボルであろう。鏡を祀る巨大女王古墳。今度徳島県
の卑弥呼の墓を放映するというが、神武の皇后の出は淀川摂津三嶋モゾクイと言う辺りで
現在の高槻市辺りかなー。徳島県にいてもおかしくないけどな。

204:月光仮面
08/04/28 15:01:52
おそらくスキタイ文化は高句麗、鮮卑方面で活躍中であり、百済、新羅、倭にとって
その南下は国益にそぐわなかったのであろう。スサノオが馬を入れることに対して
アマテラスが禁じている。スキタイ風青銅器はこうした国際環境下の文化的、時代の
先取り的風潮であろうか。

205:月光仮面
08/04/28 17:12:05
【今日のところの世界史と日本史】
ダウール/羌がボタイで大型馬、セイマトゥルビノ錫青銅器、チャリオットを得て、中近東を
席巻、ヒクソス王朝を開いた後、ボタイ方面で騎乗、騎射技術を得て内蒙古でオルドス
文化、黄河上流で周を起こした。スキタイ文化誕生は穆天子伝奇に残り、秦、匈奴経由
最終的には弥生末期の日本に入る。

206:月光仮面
08/04/29 12:37:15
銅鏃弓、複合短弓、長距離馬、高速騎乗長距離狙撃騎馬軍団、七柱神パンテオン神話
体系はアルタイ・アルジャン・パジリクにおいて誕生、たちまちにユーラシアを燎原の火
の如く駆け巡り、金海、筑紫、出雲、阿波、河内、大和、伊勢、尾張へと普及、更には
遠く関東、東北にまで影響が及んだようである。記紀、道教、北斗信仰、七福神にその
名残が残る。コーカサス・オセチアとか、アブラハム教の天使とか、エズィード教、
拝火教、小河墓の墓標に残る7のシンボルはスキタイに先行する時代から7を重視する文
化のあったことを意味しているが、ヒクソスを撤退してスキタイに入ったダウール/西羌/
南羌はこうした文化の全てを列島に持ち込んだのであって、スキタイパンテオンの解明
は神名の行列方程式を解くような煩雑さを伴う。例えば富彦、登美彦、大黒天、アマテ
ラス、肥後の火焚き乙女に厨の神の属性が残ったりしているのである。

207:月光仮面
08/04/29 12:42:59
射程600メートルに達するスキタイの射撃技術に日本が達するのは戦後の自衛隊
ライフル射撃まで待たねばならず、この間は専ら流鏑馬で技術を磨いたようである。

208:月光仮面
08/04/30 10:35:05
URLリンク(yudukivg.hp.infoseek.co.jp)
「日本軍の戦法は、まず戦う前に小鏑矢を放ち、名乗りをあげて戦う一騎打ちが慣わし
でした。元軍はこれを笑い、かわりに「てつはう(鉄砲)」という爆雷を投げつけ、毒やりを
放ち集団戦法で日本軍を圧倒しました。九州御家人の奮闘も及ばず、博多の各所に火
を放たれ、箱崎八幡宮も焼け落ち、大宰府の水城まで退きました。」
スキタイとはこの一騎打ちから無名戦士の集団決戦への転換であり、おそらくは、
周の穆王時代には完成し、鏑矢で父を射殺す冒頓単于を神格化したのが松尾(冒頓王)
大社の鳴鏑の神であろうが、日本は観念論的な矢筒、楯、丹塗矢の物神崇拝に終わって
いたということが、騎馬民族論に対する一つの回答となるのではあるまいか。
弥生文化の取得における縄文人の基本姿勢にも新技術導入が主であり、人的交流は
交易等を通して広がった面が大きかったことを物語るのではないかと思う。ダウール、
戎型YDNAの多いのは繁殖力の強さにも依るのでは。

209:月光仮面
08/04/30 15:31:20
>>206
ヘロドトスによるスキタイ7柱神のギリシャ神への比定と近そうな七福神
1)Tabiti       ヘスティアー         大黒天
2)Papay       ゼウス             寿老人
3)Api        ガイア              *
4)Hoytosir**     アポロン            福禄寿
 Fagimasada    ポセイドン 恵比須**
5)Artimpasa     アプロディーテー/ウーラノス  弁才天
6)(スキタイ名不詳) ヘラクレス           布袋
7)(スキタイ名不詳) アレース            毘沙門天
*大黒天に大物主として2役
**コトシロヌシと似ているが、Fagimasadaは7柱神の外枠で、王族スキタイ用。

210:月光仮面
08/04/30 15:49:32
出雲国造神賀詞に「事代主命の御魂を宇奈提に坐せ」とあるが、「日本書紀に、壬申の
乱の時、「われは高市社にいる。名は事代主神」とし、顕わした予言は的中、天武天皇
から勝利に功ありとされたとある。」
宇奈提と言うのは雲梯、天国へのタラップであり、出雲の高殿のように国の中心に据え
たようである。
URLリンク(kamnavi.jp)
天高市神社の祭神は、品陀別命、息長帶姫命、比賣神であり、場所的には
URLリンク(www.mapion.co.jp)
畝傍の土は住吉神社に運ばれる神聖なもので、伊勢の雲出川の砂がS字甕に使用され
ることは、雲出も宇奈提/雲梯であろう。神武が天香具山の土で甍を焼いたというのと似
ている。天武はコトシロヌシをポセイドン、ホイトシロと認識していたのかも。ちなみに、
アヴァリス、金海、河俣、雲出川は同じ用に河の合流、分岐点にあり、それを重視する
のはユーラシア・ノマディック・パストラリストの基本行動パターンであろう。

211:月光仮面
08/04/30 16:26:46
>>169 楯の飾としての巴形銅器であるが、「コストロムスカヤは、南ロシア、クバン川
流域でも古いクルガンのひとつで、時期は紀元前7~6世紀頃に比定されている。」
URLリンク(upload.wikimedia.org)
このクルガンは周の穆王時代のスキタイ文化を極めて明確に表しており、まるで、
フグサシのように丸く配列される殉葬の馬は穆王のような当時の王の比類ない権力を
表すのであろうが、これが上記の巴形銅器のモチーフとなったこともあろう。

212:月光仮面
08/05/02 16:45:16
「古代ユーラシアにおける東方型冶金は西方型冶金より出現は遅かったが、それとは
独立したものであった。「セイマトゥルビノ」冶金はこの種の最初のものであり、その影響
の主要な方向は西方に向けられていた。カラスク冶金はこの後の前2000年紀後半に
出現するが、これは中国文化に向けられていた。西は黒海北岸から東は満州に到る
まで巨大なユーラシアステップ・ベルト地帯がその千年間に形成され、2種の冶金の
架け橋となった。」
URLリンク(www.kaogu.cn)

213:月光仮面
08/05/02 16:46:12
「前4千年紀末に遊牧民族が大規模で戦闘的な移動を行った総合的であり、且つ、強力
な証拠が出現する。前2000年紀中葉のいわゆる「セイマ・トゥルビノ」現象はこうしたこと
の衝撃的な一例である。これは、アルタイ地方の特定民族全体がステップ地帯北辺沿
いに欧州南東に急激で、戦闘的移動を行ったことを示す一連の考古学的発掘現場が
物語っている。こうした移動は、前第一、第二千年紀の大きな東方からの侵入を
物語る。軍事的拡張に対する大きな障害がないことはユーラシア内陸部を、自然と、
軍事史、そして、それゆえに政治史の一環に変えるのである。」
URLリンク(www.uhpress.hawaii.edu)
デービッド・クリスチャン(歴史学者)
URLリンク(en.wikipedia.org)(historian)

214:月光仮面
08/05/02 16:53:32
カラスク文化人はモンゴロイド、ヒクソスもモンゴロイド、フルリ語は羌の言葉と
同様の能格言語であり、フルリ人は後にバクトリアに撤退している。それは秦氏の
興る甘粛の彼方である。

215:月光仮面
08/05/03 08:51:28
私はセイマトゥルビノ・ホライゾンはダウール・羌遺伝子を持つ玉造窯業鉱業集団の
アンドローノヴォ文化圏を通過して中近東に向かう往路時代のものであり、この時代に
シンタシュタ・アルカイム地域において、馬具並びに祭祀用二輪車の鋳造技術を完成
させ、中近東、特にエジプトにおいてヒクソスとして戦闘二輪車を普及させたことを意味し、
カラスク・ホライゾンとは、それより東寄りの、騎馬民族にまで成長する機動性を持つに
到る、中近東を撤退して中国と内モンゴル地域に展開する文化であったのではないかと
考えている。

216:月光仮面
08/05/03 09:02:10
ダウール・羌遺伝子というのは、
URLリンク(en.wikipedia.org)
↑これがダウール型であり、玉造系、
URLリンク(en.wikipedia.org)
↑これが羌系であり、天孫系
URLリンク(www.isogg.org)
URLリンク(www.isogg.org)
ではないかということなんだが、東アジアのノンピストイヤリング(NPE)の起源と拡散
「日本と台湾のNPEを比較すると、その違いが大きく浮かびあがる。すなわち、日本
(約7000~5000年前)は非ロクロ系で、これまでも日本の研究者が指摘しているように
北方系の特徴を示す。一方、台湾(南中国からベトナムまでの地域を含む-約3500~
2500年前)はロクロ系で、リングと受軸器とがセットとなる。」
URLリンク(www.nihonkaigaku.org)
この玉造系の管錐穿孔
URLリンク(www.geocities.jp)
技術はアマゾン・モホスにおいて隼人紋、遺伝子、骨の形質と共に出現している。

217:天之御名無主
08/05/04 10:07:39
上げ

218:月光仮面
08/05/04 11:01:08
↓鳥型陣形
安本美典氏 邪馬台国東遷説 神話のなかの地名 
URLリンク(yamatai.cside.com)
URLリンク(en.wikipedia.org)
宇奈提/雲梯・・・太陽祭祀用の構想タラップではないか。


219:月光仮面
08/05/04 11:03:27
↑高層タラップの間違い。
いずれにせよ移動遊牧民的であり、スキタイ神話とも軌を一にしているようだ。

220:月光仮面
08/05/04 11:09:16
ヤマトトトビモモソヒメというのはエベンキ語のLamutが馬飼い族、鹿飼い族に対する
海東族という意味であるし、飛ぶ鳥のアスカ、百磯城等を勘案すると連合艦隊司令長官
の高い位置、高御座というのか、から太陽を拝んだということになろうか。

221:月光仮面
08/05/04 16:09:28
BC4200-4000年頃ドナウ河Karanovo VIを崩壊に導いた東方騎馬民族には優秀な玉造
技術があり、↓これは日本にも御物石器として残っている。
URLリンク(users.hartwick.edu)
この民族がセイマトゥルビノ文化人としてウラルシンタシュタにおいて手がけるのは↓
非常に手の込んだロストワックス青銅二輪車で、。
URLリンク(web.comhem.se)
これがエジプトに入ると実用的戦闘二輪車となる。
URLリンク(www.touregypt.net)
彼らの技術の元は玉造技術であり、二里頭で発見されたトルコ石の装飾品は彼らが
同時に仰韶文明にも影響を与えていたことを物語る。
URLリンク(www.asyura2.com)
この匠の技の淵源は >>216 興隆窪文明にあり、これは縄文の技術と深く関係して
いると考えられる。

222:月光仮面
08/05/04 16:28:25
>>216
小河墓遺跡で衝撃的であったのは牛の血が乾くまでに胡楊を製材し、狂いのない棺を
製作できる木工技術であった。しかも角は滑らかに研磨されていた。鉄器を使用した
ような形跡はなかった。遺骸には崑崙山脈の蛇紋石の装飾品があった。つまり、
URLリンク(www.nihonkaigaku.org)
ここで指摘されている通り、玉造技術集団はこの頃チベット・青海・雲南に向かって
移動を始めていたのだと考えられる。


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