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秦始皇帝の下で明るみに出た儒家と法家の対立をユーラシア青銅器技法における
合理主義と非合理主義の対立とするチョールヌィフの分類は殷の銅鈴と綏遠の銅鐸
の相違に現れている。前3世紀に韓国忠清道(百済)に忽然と降って湧いた青銅器文化
は雲南・昆明方面の影響を受けている。そして、高霊伽耶にもチベット・雲南・昆明方面
の女王制度ができる。これが後漢・魏の金印外交時代に大月氏方面とも連携し、金冠
首露王・許黄玉の結婚伝説となり、倭国にも多くの姫が登場するが、天照に統合され
残りのものは三輪神社に整理されているようである。前3世紀に韓国忠清道(百済)に
忽然と降って湧いた青銅器文化は秦の国家的支援無しにはありえない。徐福はソウル
に上陸、洛東江に平原光沢の地を得た。そして日本の銅鐸は徐福の子孫によって拡散
されたと考えたい。