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「平地の戦乱を避けて山奥に入つた多くの武家の外に、中世には特に山地を撰択した所謂開発領主も少なくなかつたやうである。
九州へ往つて見ると、征西将軍宮を補翼して苦節を全うした五条氏の未裔が、今でも筑後(福岡県南西部)八女郡の矢部村大淵に住んで居る。
五条頼元の最初の領地は豊後(大分県)玖珠郡の津江の山村であつたが、常に阿蘇火山の外輸山を跋渉して肥後(熊本県)の菊池と連絡を取り、
猶筑後に越えては矢部の大淵、筑前(福岡県北部)では朝倉郡の三奈木荘、更に日向(官崎県と鹿児島県の一部)に於ては妖肥辺にも所領があつた。
険しい境の山々を縦にも横にも越えて往来したのである。
尤もこの場合は平地が敵であつたからの拠(よんどころ)無い交通手段とも言はば言はれるが、
全然此種の圧迫を受けなかつた者でも、山を自分の世界として気楽に住んだ武士は随分あつたらしい。