日本神話総合-第1話:天地開闢at MIN
日本神話総合-第1話:天地開闢 - 暇つぶし2ch799:続きを希望されるなら続けます
10/05/30 02:54:59
古事記神話の冒頭の言葉「天地の初発の時」の天地とは、今お話ししました如く、
宇宙物理学や天文学が研究の対象として取扱う人間が外に見る宇宙空間のことではなく、
その宇宙や世の中の何かを見たり聞いたりする人自身の内なる心の広がり、
即ち精神宇宙のことを言っているのであります。
古事記が編纂されてから現在まで約千三百年という長い年月、
言われてみれば「なーんだ」と思う程簡単な事に人々は気付かなかったのです。
そして今から約百年前、明治天皇御夫妻によって古事記神話が日本伝統の
言霊布斗麻邇の教科書、それもとんでもない謎々を以って書かれた教科書なのだ、
と気付かれるまで誰もが夢にも思う事がなかったのです。
講座の前置の所でお話しましたように、当時の天皇の命によって太安万侶の編纂した
「神様のおとぎ話」としか思えない書物が、実は将来を千年単位で見つめる、
謎の中に真実を埋め込んだ言霊学の教科書であった、という事実が、
如何に日本人の祖先の民族と人類の将来を見つめる眼が悠大で正確なものであったか、
を知らせてくれるのであります。

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10/05/30 02:57:29
 「天地」が人の心の内なる広大な宇宙、
そこに人間の数限りない大小の出来事が去来する心の広がりであることに気付きました。
ではその「初発の時」とはどんな時なのでしょうか。
外界に見える宇宙の広がりの「初め」といえば、何百億年か、
もっと前の宇宙の巨大なエネルギー変動によって種々の天体が形成され始めた時という事になりましょう。
けれど人の心の宇宙の初発とはそんな昔の事を言っているのではないでしょう。
人間の内面に何かの現象が始まろうとする時、という事です。
それは主体的な心に何かが始まろうとする時、そうです。
それは「今」です。時を客観的に見て、新しい二十一世紀が始まった時は、と言えば、
それは西暦二〇〇一年一月一日午前零時です。
しかし心の出来事を内に見て、その心の「初まり」と言えば、それは常に「今」であります。
厳密に言えば、人は常に今、今、今に生きています。
今・此処が常に「天地」の初めであり、場所です。
この今を永遠の今と言います。そしてその場所が宇宙の中心です
(この事は後程詳しくお話ししたいと思います)。
今・此処を古神道は中今と呼びます(続日本紀)。

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10/05/30 03:00:27
 高天原
 この章の中の高天原とは簡単に心の宇宙の何もない広々とした領域の事です。
透き通っていて清らかな大きい心の宇宙の事であります。
「古事記と言霊」では、この他に高天原という言葉に二通りの内容がある事を述べておりますが、
この事についてはその都度説明することにして話を更に先に進めます。

 成りませる神の名(みな)は、
 この文章をそのまま読みますと、生れて来た神の名前はという事になります。
これだけでは単なる神様のおとぎ話で終りますが、
古事記の神話が言霊学の教科書だという事が分かった今は、
「成りませる」は同時に「鳴りませる」と天の御中主の神という神名が
指月の指として指し示している言霊の音として受け取ることも出来ます。


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10/05/30 03:03:05
天の御中主(あめのみなかぬし)の神
 言霊ウ。天の御中主の神という神名のそのままの意味は心の宇宙の(天の)
真中にいる(御中)主人公である(主)神という事になります。
そしてその神名が指し示す言霊はウと言霊学で記されます。
「あゝ、そうか」と簡単に受け取ってしまえば、それで事は終りとなります。
けれど私がこうお話しますと、聞いて下さった人の中には
「宇宙の中心にいる主人公の神」とはどんな神なのか、
またそれが言霊ウである理由、言霊ウでなければならない理由は何なのか、
という疑問を持つ方が必ずいらっしゃいます。
そして質問される方も多いのです。
そこで今回の講座では、今まで簡単にお話して来たこの二つの事柄について
詳細に説明させて頂く事といたします。
と申しますのも、この聞き流してしまえばそれで何事もないように思える事柄が、
実は言霊布斗麻邇の学を勉強する上で最も重要な事を示唆しているからであります。
それは何か。

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803: ◆NtxF1/6I9.
10/05/30 15:37:38
希望します続けて下さい

804:言霊布斗麻邇の学を勉強する
10/05/30 16:42:51
 言霊学といいますのは、人の心を内にかえり見て、心の構造とその動きを研究し、学ぶ学問であります。
眼前に展開する宇宙を研究する天文学や宇宙物理学等に於いては、そこに起る種々の現象を観察し、
それ等多数の現象間の関連性を求め、そこに働いている法則を発見して行きます。
更にその法則によってはまとめる事の出来ない他の現象を発見した時には、
今まで正当と思われていた研究の基礎法則を御破算にして、
今までの法則と新しい発見とが共に成立することが出来る
新しい見地とその法則を発見しようと努力する事となります。
そういう努力を弛(たゆ)まず積み上げて行く事によって
その学問は一歩々々完成に近づいて行く事となります。

 それ等の学問の初心者は先ずその学問の教科書を読み、先輩から指導を受け、
種々の観察や実験によってその時までに発見された学問の成果が真実である事を学び、
その上で自らもその学問の研究者として心新たにして新しい発見を目指して観察を続けます。
その目的とは、今までの法則・学理では捕捉し、統合することが出来ない新現象の発見です。
研究の対象を自らの外に見る学問研究は以上のようにして行われます。

 上に述べました客観世界の研究方法に対して、
主観世界である精神界の構造とその動きの究極の学問である言霊学の勉学方法は如何にあるべきでありましょうか。
詳しく説明させて頂きます。

805:言霊布斗麻邇の学を勉強する
10/05/30 16:46:11
 初めて言霊学に接する初心者の方は、当会発行の言霊学の書籍と会報を読んで頂き、
また御理解し難い箇所については先輩の方に質問して言霊学の理論について大体の御理解を得て頂き度いと思います。
ここまでは客観世界の学問の勉学と異なることはありません。
客観世界の学問はこの理論の上での理解でその十中八九までは学問をマスターした事になると考えられます。
けれど百パーセント内なる心の学問である言霊学では、これからが本番なのです。
客観世界の学問では、従来の学問の成果をマスターすれば、次は自分なりにその学問の新しい分野への挑戦・探究が始まるでしょう。
しかし言霊学のこれより本番となる勉強は全くそれと相違します。
言霊学の勉学の対象は人間の心の内でありますから、勉学者にとって勉学の対象とは勉学者本人の心の内だけという事になります。
他人の心の内を探っても、その真相を完全に把握することは出来ません。
頼りに出来るのは自分自身の心だけです。

 更に言霊学の勉学には客観世界研究の学問の手法を適用することが出来ない大きな理由があります。
客体についての学問は眼前の現象の観察から始まります。
ところが言霊学の始まりは、古事記の文章に見られますように「天地の初発の時……」と
書き出しが人間の五官感覚では全然捉えることが出来ない、人間の心の先天構造の記述から始まっている事です。
これは丁度物理学・化学の初心者にいきなり原子物理学という物質の先験構造の問題を出すようなもので、
勉学者にとっては「とりつく島もない」問題だ、という事が出来ます。
勉学者が初めに戸惑うのも無理はありません。

806:言霊布斗麻邇の学を勉強する
10/05/30 16:49:46
この様な事を理解しようとして、初心者がそれまでの学問のように「古事記にこう書いてあるが、何故だ」という疑問を起こして、
今まで自分が勉強して来た経験知識を総動員して理解しようとする事は殆ど無意味に近い事なのです。
何故なら、現代の原子物理学は人類が「物とは何か」の疑問を起こし、数千年という歳月をかけ、
数えることも出来ない大勢の科学研究者の血のにじむような研究努力の結果もたらされた成果であるように、
古事記の神話に呪示される言霊学の記述も、科学研究と同様の多数の人が長い年月をかけ試行錯誤の結果、
約八千年乃至一万年前に完成した人間の心の一切を解明した学問であるからです。
若し現代人がこの言霊学の命題に「何故」の疑問を起こし、自分なりの結論を出そうとしたら、
その人の一生はおろか、数千年の歳月を要することとなりましょう。

 科学研究の「何故」の疑問が通用しないとしたら、どんな勉強方法があるのでしょうか。
さいわい心とは何時も自分の中にあるものです。自分から離れません。
ですから人がそれを意識するとしないとに関らず、生れた時から現在まで心の現象の数限りない経験を持っています。
そしてそれ等経験を記憶として所有しています。
それ等の経験は、科学の観察の機械や材料とは違い、何時も何処でもついて廻っています。
言霊学の本を読むに当り、その記述の幾分かは理解できる筈です。
また理解には学問の先輩に聞くことも出来ます。
そして言霊学というのが人間の心の先天と後天の構造とその働きを解明した学問であるという事が分かったら、
また分からない部分はそのままにして置いて、次に申上げる事を始める事であります。


807:言霊布斗麻邇の学を勉強する
10/05/30 16:53:05
言霊学の勉学者が自分の習い覚えた経験知識を土台として言霊学の書物の内容を解釈・理解することが出来ないとしたら、
残る方法は唯一つしかありません。それは古事記の神話が呪示している言霊学の書の内容を心の鏡として、
その鏡に自らの心の構造を映して行く事です。
勿論初心者は言霊学の内容が真理であるか、否か、を確かめた訳ではありません。
けれどそれが真か偽かかは別に、假に真実だとした上で、それを鏡として自らの心を顧みる事とするのです。
ではどのように自分の心を見るのか、と申しますと、譬えば次のようにするのです。

 古事記の神話は先にお話しましたように「天地の初発の時……」と始まります。
としたら勉学者は自らの心に問うのです。「自分は天地の初発の時、と古事記が言っている心の宇宙(天地)を知っているか。
またその何も存在しない心の宇宙に今、此処で何かが始まろうとする瞬間の時を『これだ』と把むことが出来るか」と。
自分自身それは分かっている、と思う時はそれでよし、はっきり自覚出来ないと思われた時は、
その事について如何にしたらよいか考えることとなります。

808:言霊布斗麻邇の学を勉強する
10/05/30 16:55:45
この様にして古事記の神話とその言霊学の解説書を鏡として自らの心を見つめ、分かった所、
分からない所を区別しながら古事記神話の文章を先に進めて行き、分からぬ所は質問し、
分かった所についても話し合いすることによって、
自分自身の心が神話が呪示する構造の如き構造と動きをしている事が確認されて行きます。
古事記神話に示される言霊学が確かに人間精神の全構造とその動きを解明しているのだ、
という事を、生きた人である自分自身の心の実相を以て証明することとなります。

 そんな廻りくどい方法で古事記神話の内容を理解するとしたら、
どんな長い年月が必要となるのか、と戸惑う方もあろうかと思います。
確かにこの方法で即座に言霊学全体をマスターするという訳には行きません。
早い人で二・三年、遅い人では更に数年を要する事でしょう。
けれど自らの心の全貌を隈なく知るという大事業の達成としてはそんなに長い年月とは言えないのではないでしょうか。
先に示しました自分の従来積み重ねて来た経験知識で言霊学を理解しようとするならば、
一生かかっても理解達成不可能である事と比べるなら、尚更の事であります。

809:言霊布斗麻邇の学を勉強する
10/05/30 17:01:37
ここで「自分自身の心を見る」という事について、もう一つ説明を加えさせて頂きましょう。
この事は古事記の始まりの文章「天地の初発の時」にも関係する事なのでありますが、
現代人は自らの心を見るという時、自らの心中に起って来た事を自らの経験知識を通して見、
またそれを解釈することに馴れて、その現象をそのまま、即ち実相を見ることが出来なくなっています。
例えば、他人の前で自分の事を飾って話す癖のある人が、反省して「自分を飾らず正直にしなければ」
と心中に強く思ったとします。しかし或る時また嘘を言ってしまいました。
「また癖が出てしまった。あんなに正直になろうと努力して来たのに」と後悔します。
こうしてこの人は後悔の連続となります。癖を直そうとする自分が本当の自分で、
自分を飾り嘘をつくのは「たまたま」癖が出てしまったのだ、と思います。
「私という人間は嘘つきなのだ」とは決して思わず、思おうともしません。
他人から「貴方は嘘つきだ」と言われたら、きっとその人を恨み憎む事でしょう。
「自分は嘘つきだ」または「嘘をつく事がある」と率直に認めない限り、嘘つきは治りません。
この「嘘つきだ」と率直に自分で認めること、これを「実相を見る」と言います。

 前号でお話しましたように、現代人は実相である太陽を直接見ないで、
月である経験知識やその概念に太陽の光を当て、その反射光によって物事を見ます。
ですから物事を見る人の表現が十人十色とならざるを得ません。
どうしたら物事の実相を常に見ることが出来るようになれるのでしょうか。
それは古事記の「天地」または「天地の初発の時」を頭の中の理論的想像でなく、
実際にそれを心中に内観し、直観し、実感する事に関係しています。

810:言霊布斗麻邇の学を勉強する
10/05/30 23:14:06
高御産巣日(たかみむすび)の神。神産巣日(かみむすぴ)の神。
 言霊ア、ワ。広い宇宙の一点に何か分からないが、ある事の始まりの兆しとも呼ぶべきものが生れます。
それに対し太安万侶は天の御中主の神という神名を付けました。言霊ウです。
次にそれが何であるか、の問いかけが人の心に生じる途端に、言霊ウの宇宙は言霊アとワの両宇宙に分かれました。
安万呂はその両宇宙に高御産巣日の神、神産巣日の神の名を付しました。
言霊ウの宇宙が言霊アとワの両宇宙に分かれる事は、意識の対象として、即ち現象として捉え得る事ではありません。
飽くまで心の中の実在の活動であり、意識によってではなく人の内観・直観によってのみ捉える事が出来る事でありますので、
これを宇宙剖判と申します。剖判の剖は「分れる」であり、判は「分る」です。
分れるから分る、分かれなければ分らない。分るとはこういう事であり、それが同じであることを言葉が示しています。
日本語の妙であります。

 上の言霊ウの宇宙が剖判して言霊アとワ、即ち主体と客体、私と貴方、始めと終り……
の両極が生じて来る消息を一つの実験によって逆に証明出来る事を説明しました。
人は自分に対するものを見聞きした時、自らの存在、即ち自我を意識します。
その現象は言霊ウの宇宙から言霊アとワの宇宙が剖判した事の一つの説明になります。
それとは逆に、自我を意識している自分から、その自分に対立して存在するものが
(仰向けになって見る雲一つない空が対立する雲がない事によって)なくなることによって、
自意識が次第に消えて行ってしまう実験でありました。
自意識が消えてしまうと、仰いで見入っていた空が自分を呑み込んでしまったのか、自分が空になってしまったのか、
全く何だか分らない状態、即ち「天地の初発の時」の言霊ウになってしまう実験であります。
それは言霊ウから言霊アとワが剖判する消息を、逆に言霊アとワとの対立から、
対立が消えて初めの対立のない、禅でいう一枚の言霊ウに戻って行く事で証明する実験という事が出来ます。

811:言霊布斗麻邇の学を勉強する
10/05/30 23:24:09
ここまでにしておきます。

後は他生の縁ということで、

どうもありがとうございました。


812:天之御名無主
10/05/30 23:45:45
URLリンク(homepage2.nifty.com)

813:天之御名無主
10/05/31 23:54:25
「あ」と「わ」を結びつけ物事を正順させる「じ」ことができた聖なる初めての国(島)が
・・・『あわじ島』と聞き及んでいます。

814:淡路之穂之狭別島
10/06/01 05:30:50
>>813
古事記に出てくるのは『あわじ島』ではありません。

宣長の古事記伝では、「以下に続く島々の名前を考えると、
この島の名も「淡路島、またの名は穗之狹別」とありそうなものだが、この島だけは、いにしえか
らまたの名を続けて言っていたものらしい。「穗之狹」の意味はよく分からない」

古事記には、淡島、淡路之穂之狭別島、がありますが、『あわじ(淡路)島』はありません。

宣長さん系統の解釈からは古事記は一切理解できませんが、
下記の(812と同じ)hp に真実の解が甦っています。
URLリンク(homepage2.nifty.com)
→コトタマノマナビ→古事記と言霊→第169号

815:天之御名無主
10/06/01 12:47:49
>>796
影響というより利用している、
読者に判りやすくするために(w


816:天津磐境→五行
10/06/01 15:25:00
>>815
天津磐境

 この天津磐境と呼ばれる心の先天構造は人間の心の一切の現象を
百パーセント合理的に説明する事が出来る唯一の原理であります。
人類社会の後にも先にもこの原理に匹敵する、
もしくはこれを凌駕する原理は出現し得ない究極の原理であります。
古来伝わる宗教・哲学の書物の中にはこの天津磐境の原理を象徴・呪示するものがいくつか認められます。
その一つ、二つについてお話をすることにします。

言霊ウから言霊ヰまで十七個の言霊が全て出揃い、この先天構造図を「天津磐境」(あまついわさか)と呼びます

天津は先天の意 磐境は五葉坂(五段階の言葉の構造)です
この天津磐境が活動して五官感覚で意識することが出来る精神の後天現象が生れます

言霊五母音につきましては中国哲学(易行)では五行の木火土金水とか、
仏教では五重塔で仏陀・菩薩・縁覚・声聞・衆生とか、
キリスト教ではラファエル・ミカエル・ガブリエル・ウリエル・ルシファーの五大天使の名で示しています
 
言霊父韻に関しましては、中国の易経に八卦、
キリスト教では神と人との間の契約の印の虹として、
仏教では仏となる為の守らねばならない八正道等などとして説かれています(812のアドレスから引用)

要するに五行、五大、五大天使、易、その他は天津磐境布斗麻邇思想の概念を述べたものです。
今のところはまだ理解されていませんが、こころの片隅にでも置いておいてもらえれば、
いつか、大いに心強い助けとなることでしょう。

817:天之御名無主
10/06/10 09:25:44
すっかり第二オカルト板になっちゃったなこの板

818:天之御名無主
10/06/20 09:01:04
アマテラスが皇祖神とされていますが、アメノオシホミミはアマテラスの所持品から生まれた神なので
アマテラスの血はひいていないですよね。
皇祖神はアメノオシホミミか義父のタカミムスビの方がふさわしいのでは?

819:天之御名無主
10/07/02 16:07:18
十束剣(とつかのつるぎ)に関する質問です。

ネットを検索すると十束剣は一般名詞であるという説と
固有名詞である(そのためイザナギがカグツチを切った剣と
スサノオがヤマタノオロチを切った剣は同一である)という説があるようです。

広辞苑及びwikipediaは前者の説を採っているようなのですが、
後者の説がその論拠とするような学説は存在するのでしょうか?

余談ですが素人の私の感想では、アマテラスとスサノオの誓約や山幸彦と海幸彦の説話で
破壊されている所から、一般名詞という説の方が説得力があるように思えます。


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