08/06/15 10:19:57
キリスト教紀元の最初の二世紀、「エノク書」と呼ばれる奇妙な書物が幅広くよまれ、「旧約聖書」
の一部と見なされていた。昔の人にとってそれは一種の冒険小説みたいなものだったらし
主人公―すなわち預言者エノク―は天使たちによって天国を巡るたびに連れて行かれる
が、なぜか天国の中にじごくそのままの場所もある。また、非常にスキャンダラスな記述もある。
―「見張る者」と呼ばれる堕天使たちが、地上の女性との間に性の快楽を求め、暴虐な
巨人の種族を産み落とした、と。
その後、理由は今もって不明だが「エノク書」は姿を消した。教会の弾圧を受けたのか?いず
れにせよ、それはたちまちのうちに、子供の手の届くところに放置してはならない悪書だ
ということになった。
それが再び世に出たのは18世紀末。ジェイムズ・ブルースというスコットランド人が、アビニシア
(今のエチオピア)の修道院でその写本を発見したのだ。ブルースはキルウィングのキャノンゲイト・ロッヂ
に属するフリーメーソンで、彼がこの地を訪れたのは、ここにもたらされたと言う伝承のある契約
の聖櫃の行方を突き止めたいというロマンティックな願望のためだったかもしれない。
ブルースはアビニシアの首都であるタナ湖畔のゴンダールに行き、そこで「エノク書」に出てくる暴虐な巨
人族の直系の子孫かと思われるような途方もない民族と出会った。彼らは生きた牛から切
り取った肉をそのままくらい、敵の睾丸を吊るして槍の飾りにし、宴の最中に床の上で性
交を始めるのだった。ブルースは巨体に髭面だったためか彼らの王に気に入られ、軍の司令官
にされた。
こうして彼らは遠征に出かけ、馬でとある場所にたどり着いた。案内人はそこが白ナイル
の水源だと主張したが、実際には白ナイルよりも小さな青ナイルの水源だった。
ある修道院で、彼は、「諸王の栄光の書ケブラ・ネガスト」と呼ばれる叙事詩を見つけた。それ
によると、ソロモン王はアビニシアに都を置いていたシェバの女王との間に一子をもうけたいという。
彼らの息子は最後にアビニシアに戻ったが、その際に契約の聖櫃を持ってきたというのだ。さ
らに同じ修道院で彼が見つけたのが「エノク書」だった。
73:,ここには脱胎の話は出ていないが、、。
08/06/15 10:25:18
URLリンク(ja.wikipedia.org) エノク書
著書とされる預言者エノクとは、アダムの孫でノアの曽祖父だ。実際にはそれが書かれたのは紀元
前200年ごろだ。この書には、7つの燃える山が空から降ってきて海におち、大洪水を引き
起こしたという一節がある。アレクサンデル・トールマン教授は、これを紀元前7600年の彗星に関す
る伝承に基づくものと考えた。
(大洪水)は、フリーメーソンリーの古代史では極めて重視されている。ゆえにブルースは、この発見
によって仲間のメーソンたちの間で一目置かれるようになるだろうと考えた。彼はこの本をロン
ドンに持って帰ったが、そこでは彼の冒険譚は、ねたみ深い留守番役たちから疑いの眼差し
で見られることとなった。サミュエル・ジョンソン博士などは公然と彼をうそつき呼ばわりしたほど
である。
彼の名著「ナイルの源流を求めて」(1790)の評判は散々だったが、あまり同情はできな
い。というのも、彼は極貧にあえぐ聖職者を後払いで雇って写字生にしたのだが、後のな
ってその支払いをわずか5ギニーですませようとする詐欺まがいのことを行っているから
だ。ブルースは苦々しい思いを抱いたまま、1994年に64歳で死んだ。階段で足を滑らせ頭か
ら転げ落ちたのだ。
「エノク書」は1821年に英訳された。堕天使たちとその禁断の情交の魅惑の物語は、なんと
かロマン主義運動の時代に間に合ったわけだ。
74:,
08/06/15 18:41:02
ここまで調査を進めた時点で、私はクリストファー・ナイトとロバート・ロマスの共著「ウリエルの機会」(19
99)と言う本とであった。特に魅力を感じたのは、「エノク書」の中の「天の輝きの書」と
呼ばれる部分に関する彼らの解釈だ。
この部分は、基本的に天文学に関する論述である。エノクは天使たちに連れられて北の国に行
く。その場所がどこかを物語る手がかりは、その緯度だけだ。そこでは昼が夜よりも9分
の一だけ長い。昼は10、夜は8の割合だ。
彼らによれば、この寒い国は北緯51度から59度の間にある。その範囲の中には、ウィルトシャー
のストーンヘンジ、アイルランドのニューグレインジ、ヘブリーズのカラニシュを初めとして、多数の先史時代
の天文台がある。
これを造った人々は、その土器の形状から「グルーヴドウエア人」と呼ばれている。ロマスとナイトは
問う、「エノク書」の中で天文学を扱った章に、先史時代の天文台がいくつも存在する緯度が
書かれているのは偶然だろうか?この章の中でエノクは、西にある「堅固な岩」でできた山に
運ばれる。
「かの男たちは私を天の西方に上がらせ、そこで6つのおおきな門を見せた。、、、、太陽は
東方の門から昇る回数と日数に従って、この西方の門から沈むのである、、、けだし主がこ
れらの門をお造りになって、太陽を一年の時刻盤として示されているからである」
ロマスとナイトはストーンヘンジを思い起こした。ストーンヘンジの立石とまぐさ石で作られる形は、まさし
く石の「門」である。
1960年代初頭から、イギリスの天文学者ジェラルドホーキンズは、ストーンヘンジが石器時代のコンピュータであ
り、18・6年以上の周期における日の出と月の出の位置を計算するために用いられたのでは
ないか、とする研究を開始した。彼の「ストーンヘンジ解読」(1965)はただちにベストセラーと
なったが、天文学者の中には疑いを表明するものも居た。実際には彼の説は現在ではおお
むね定義として認められており、1970年代には、アレクサンダー・トム教授による古代ストーンサークルの
研究がホーキンズの説を補強した。
75:,
08/06/15 18:42:43
その基本は、サークルの中心に立つことによって日の出(あるいは月の出)を正面に見ること
ができ、それが「指標」の背後のどの位置にあるかによって季節を計算することができる、
というものだ。
ロマスとナイトは、ヨークシャーの丘の上に「ウリエルの機械」を建造してみることにした―それは最終
的に、小さな天文台というべきものとなる。彼らは何度も何度もこの場所に通い、その中
心に立って地平線上の日の出や日の入りの位置を観測し、そこに指標を置いていった。
一年間がんばって、一組の互いに向かい合う柱の円い列ができた。こうして彼らは―古
代の「ヘンジ」の建造者たちもそうだったのだろうが―1年が分と至によって正確に四等分
されるわけではない、と言うことを知った。地球の公転軌道は長円形なので、冬至から夏
至までは182回の日の出があったのに対して、夏至から冬至までは183回あったのだ。春
分と秋分についても、同様の不均衡が見られた。
この研究によって、古代の巨石建造者たち―石器時代のアインシュタインたち―が、その基本
単位として「巨石ヤード」を選んだ理由が明らかになった。この単位を発見したのは、考古
学者アレキサンダー・トム教授で、その長さは32・64インチ(約83センチ)だ。実際には、トムが
すべての巨石建造物に見出した基本単位は本来16・32インチ(約41・5センチ)だったの
だが、これを現在のヤードに近づけるために意図的に2倍にしたのである。
ロマスとナイトは、彼らの「機械」が一年の長さ(冬至から次の冬至まで)を366日としている
ことに気づいた。そこで彼らは「巨石度」と呼ぶべきものを定めた。これは地球の1公転
の366分の一にあたる。そこで指標の位置を1巨石度に合わせたところ、恒星が一つの
柱から次に移るのに3・93分かかることが分かった。
巨石建造者たちが時計代わりに振り子を用いていたことはほぼ確実だが、振り子の周囲は
言うまでもなく、紐の長さによって決まる。そしてロマスとナイトは、3・92分の間に振り子
を366回振動させるために必要な紐の長さは、ぴったり16・32インチであることを見出
した。これこそ「石器時代のアインシュタインたち」がその基本単位として16・32インチを選ん
だ理由に違いない。ロマスとナイトは、トムを悩ませた問題を解き明かしたのだ。
76:,
08/06/15 18:44:15
だが、ウリエルの「機械」は(実際にはそれは、簡単なウッドヘンジというものになっていたが)、
単に日の出や月の出の計算機としてのみならず、彗星観測のための天文台としても用いる
ことができた。つまり、単純にいえば、ある彗星が地球に衝突するかどうかを判断するこ
とができたのである。ロマスとナイトによれば、これは古代の天文学者にとっては非常に重要な
目的だった。
ストーンヘンジの駐車場にある、東西方向に配置された2つの柱穴は、最初期のストーンヘンジが紀元
前8000年ごろに作られた事を示している。これはトールマンの彗星衝突よりも3世紀以上も
前だ。この彗星はスコットランド全域に砂の層をもたらし、スノウドンの山頂に貝殻を運んだ。さら
にその1000年後にも2つの柱穴が作られていることを示す考古学的証拠もある。
ロマスとナイトの発見は、巨石ヤードを否定する論者たちに対する回答をもたらした。会議派達に
よれば、何千平方マイルという広い地域にわたって、そして何十世紀という広い年代にわ
たって、共通して用いられていた基本単位などありえないという。つまり彼らは、石なり
木なりによって、「巨石ヤード」の原器のようなものが作られ、それが注意深く複製されてい
た、というようなことを想像し、そんなことはありえないと考えたのだ。
だが実際には、古代人は単に丘の上に2本の木の柱を立て、その間隔を1巨石度とし、そ
して恒星が柱の一本からもう一本まで移動する間に、振り子が366回振動するように紐
の長さを調整するだけでよかったのである。そうすれば、その長さは1巨石ヤードとなるの
だ。
これらすべてのことがはっきりしたのは、「歴史上の度量衡」と言う本を読んだときだ。著
者はA・E・ベリマン、重さと長さにとりつかれたエンジニアだ。
77:,
08/06/15 18:47:12
ベリマンによれば、ギリシアの基本単位はスタディオンだった(「スタジアム」と言う言葉の語源だ)。1スタ
ディオンは600ギリシアフィート、大体サッカーフィールドの長辺くらいの185メートルだ。そ
して驚くべきことに、地球の極円周はぴったり21万6000スタディオンにあたっている。
それは60の60の60倍だ。つまり360の600倍。すると、1日で分かるだろうが、
地球の円周の1度は600スタディオンである。1度は60分だから、1分が10スタディオン。1
分は60秒だから、1秒は6分の一スタディオンだ。そしてこれは―1スタディオンは600ギリシア
フィートだから―ぴったり100ギリシアフィートに当たっている。
これは驚くべきことだなぜなら古代ギリシア人は地球の大きさを知らなかったのだから―
―それが始めて判明したのは、紀元前250年、エラトステネスがシエネの深井戸の助けを借りて計
測して以後だ。だが彼らの単位の体系を見れば、そのスタディオンという単位は地球のおき差を
知っていた文明から受け継いだものであることが分かる。もっともありそうなのは、シュメール
人だろう。彼らは60秒で一分、60分で一時間と言う単位を発明したのだ。
だがシュメール人は巧みな航海者ではなかった。だから彼らが地球のおき差を発見したとは考え
がたい。ハプグッドの言う古代の海王たち―すなわち「アトランティス人」―-のほうが、候補者と
してはふさわしいだろう。
スレリンク(rikei板:231-232番)
URLリンク(ja.wikipedia.org) 度量衡
URLリンク(ja.wikipedia.org) 太陰暦
URLリンク(ja.wikipedia.org) 太陽暦
78:,
08/06/15 18:50:35
URLリンク(ja.wikipedia.org) スタディオン
79:,エノク書
08/06/16 20:21:55
スレリンク(army板:111-114番)
「エノク書」が書かれたのは、紀元前200年以後の事で、「死海文書」と同じクムランのエッセネ
派が書いたものである事はほぼ確実であるが、文字に書かれる以前の口承はそれよりもは
るかに古い。別名「エノクの秘密」と呼ばれるスウラヴ語版「エノク書」は、恐らくイエスと同時代
に、アレクサンドリアにいたユダヤ人著述家が編集したものである。
この章の冒頭に出てきた、二人の天使によりエノクが連れ去られる場面は、このスラヴ語版に収
録されている。ここで、目的地に到着したエノクは、次に恐ろしい場所に連れて行かれる。そ
れはキリスト教の地獄の原型となったものだ。
男達はそこから私を連れて、天の北方に上がらせ、そこで実に恐ろしい場所を見せた。そ
の場所にはあらゆる苦しみと呵責があり、またヤミと霧があって光は無く、暗黒の火がたえ
ず燃えていて、炎の川がその場所全体に押し寄せており、さらに寒さと氷があり、牢獄が
あり、残酷で無慈悲な天使達が武器を持って容赦なく苦しめていた。わたしは言った。
「これはなんと際立って恐ろしい場所であろうか」
かの男達が答えた。
「エノクよこの場所は神をたたえなかった者たちのために設けられている。地上で悪い行いに
手を染めたもの達である。
「地獄」とは―「悪魔」もそうなのだが―キリスト教に特有の観念であり、ユダヤ人
にはまったく知られていなかった。「冥土シェルオ」と言う言葉が「地獄」と訳されることもあ
るが、これは元来ゴミを始末する場所を意味する言葉である。
ダンテの「神曲・地獄編」を彷彿とさせるこの一説こそ、おそらく「エノク書」が「抹殺」され
た主要な理由なのだろう。「天」に拷問の場所があるなどと言う観念は、教会教父たちにと
って受け入れがたいものであったに違いないのだから。
スレリンク(occult板:552-558番) 死海文書
URLリンク(ja.wikipedia.org) 神曲
80:,エノク書
08/06/16 20:25:23
実は、ゴミの扱いも最も高度な領域に属する営みの一つであるのにお気づきの事だろうか、、?
81:,
08/06/21 20:11:13
この「地獄」を見学した後、エノクは今度は天使ラファエルに連れられ、天国、すなわち
「義人の園」を巡る。これはどうやらエデンの園のことであるらしい。というのも、彼はそ
こで例の「智慧の木」を目撃しているからである。かつてイヴがこの木の実を取って食べた
ことが知られているが、真に神―ここではヤハウェ・エロヒムと表記されている―を懸念させ
たのは、「生命の木」と呼ばれる。
それから、「エノク書」全体の中で最も興味深い一節がある。
「そのころ、あのみ使いたちが長い紐を与えられ、翼をつけて、北のほうに飛んでいくの
を見た。彼はみ使いに問うて言った、「何故あのものたちは長い紐をつかんでいったのです
か?」彼は私に言った、「測量に言ったのである」」
エジプトの神官たちもまた、結び目をつけた紐を神殿の計測に用いた。この紐は、まさに実
用的な測量具に他ならない。だがもしも、ここで言う天使が古代の科学者であり、地質学
的・地理学的測量に従事しているとしたらどうだろう。
さらに「エノク書」は、この測量の目的をこう述べる。
「これらの測量は、地の深みに隠されたすべての秘密を明らかにするであろう、、、」
何と、この測量は地質学的な意味を持つものであることが明記されているのだ。
1970年代、地質学者クリスティアン・オブライエンは、楔形文字で書かれた「ギルガメシュ叙事詩」を解読
した結果、この文書は実は「創造神話」などではなく、もっと現実的な内容が記されてい
るという確信を抱いた。彼によればこの文書は、ナヌンナキと呼ばれる集団が、山岳地帯の高原
に、カルサグと呼ばれる農業共同体を建設したことを述べたものである。この共同体はまたエー
ディンとも呼ばれ、これは旧約聖書のエデンに通ずる。
オブライエンの研究は、1986年に著書「少数の天才」としてまとめられた。彼によれば、中東の
文明は、多くの場所で同時多発的に発生した―スサ、ラガシュ、ウル、ウルク、アシュヌンナク、ニネヴェ、
そしてマリ。
「そしてついに、少数の天才たちのお陰で、錬金術の坩堝のように、莫大で多面的な芸術
が出現したのだ」
82:,
08/06/21 20:14:03
この同時多発的発生を引き起こしたものとは何か。オブライエンによれば、それはアヌンナキ、すな
わち「輝くものたち」である。オブライエンは問う。
聖書の冒頭に、「始めに神は天地を創造された」と書かれているのはなぜか?ここで言われ
ている神とは「エロヒムelohim」、すなわち複数形である。ゆえに本来なら、「初めに、神々は、、、」
と書かれねばならない。もしもこれが唯一神の意味なら、ここはエロヒムではなく「エルel」という神名が
用いられねばならない。この「エr」とは「輝き」の意味で、ヘブライ語だけではな
く、多くの古語に見られる。シュメール語では「明るさ」を意味し、バビロニア語ではelluと綴っ
て「輝く者たち」の意味となる。英語でもelfは輝く存在を表し、私の住むコーンウォールでは、
elは「天使を意味する。
そういうわけで、「聖書の語句を正しく解釈するなら、次のようになる―天と地を創造し
た「輝く者たち」は言った。「われわれの象って人間を作ろう」。
輝く者たちの頭目であるヤハウェは「エデンの園に植民し」、「神とともに歩んだ」預言者エノクは、
実際には輝くものたちと共に歩んでいたのだ。
さらにオブライエンによれば、聖書にある「天 ha‘shemin」と言う言葉は元来は「高地」を
意味し、「地 ha’ares」は「大地」もしくは「低地」を意味していた。ゆえに聖書の言葉
の真意は、これらの輝く者たち(すなわち天使)が高地と低地を作り、その高地にはエデン
の園があった、ということだ。そしてオブライエンによれば、この「輝く者たち」は多か
れ少なかれ「エノク書」の「見張りの天使」と同じものであるという。
ここで、「輝く者たち」だの「見張りの天使」だのというと話がややこしくなるので、私は
彼らのことを「文明提供者」と呼ぶことにしたい。つまり、文明を創造した「少数の天才
たち」だ。カルサグ叙事詩によって、彼らが天使ではないことは明らかとなった―エデンを襲
った災厄にやられたのだから。彼らはあくまでも血と肉を供えた存在であり、ただその
力と能力が当時の人間よりも遥かに優れていたというだけである。
83:,
08/06/21 20:15:34
この文明提供者の頭目はエルリンと呼ばれ、その際はニンリルと呼ばれていた。彼らは共同体を「エ
ーディン」となづけた。これはアッカド語で「高原」を意味する。その別名であるカルサグは、「高い塀で囲われた地」を意味する。つまりかがやくものたちは、人間がまだ原始的な狩猟民
であった世界で、最初の農業村落を作ったのだ。その場所は山々に囲まれたところで、オブ
ライエンによれば現在のレバノン、シリア、イスラエルに当たっている。その時期は紀元前8200年ごろで、
彼らはここに植林し、建物を建て、都市を築いたという。
エデンは7人の評議会を備えた民主政体であった。カルサグは2000年ほど存続し、その間に多
くのエンリルが登場した。つまりその名は「王」の称号となった。また、カルサグの女王ニンリルは蛇
の女神と呼ばれるが、「見張りの天使」が「毒蛇のような容貌」をしていたとする写本もあ
る。アンドルー・。コリンズはこれを、スリットのような目を備えた無表情で不気味な顔、と解釈して
いる。
このようなことを言い出すと、読者はとまどわれるかもしれない。なぜこんな御伽噺のよ
うな話を真剣に検討する必要があるのか、と。ギリシアの神話は、単なる神話でしかないか。
ゼウスが本当にオリンポスの山の上に居て、雄牛や白鳥に化けて女をたぶらかした、などと信じ
ているものは誰も居ないのだ。
これに対してはこうお答えしておこう―エノクや見張りの天使に関する多くの異なる写本
は、長期にわたって口承された末に、文字に書きとめられたものだ。「イリアス」に読めば、こ
れは吟遊詩人が勝って気ままに捻り出した作り話ではないということがたちどころに分か
る―それは実際の出来事に基づいたものだ。考古学も、それが実際の出来事であること
を裏づけている。現存する写本の数だけを見ても、エノクや見張りの天使に関する物語が数多
く存在したことは間違えない。「イリアス」がそうであるように、そこには民間伝承の記憶が存
在するのだ。
カルサグ叙事詩も、例外ではない。例えばこの話は、何百年も繁栄の後に、エデンが気候の変動
に見舞われ、嵐や洪水、極寒などに襲われたことを告げている。現在知られているところ
によれば、紀元前1万4000年ごろに最後の氷河期が終わると、大規模な気候の変動が起こ
り、温暖な土地が極寒となった。まさにカルサグの状況と一致するのである。
84:,
08/06/21 20:17:31
これはたんなる悪天候のものではない。オブライエンは「千年嵐」と呼んでいるが、これによっ
てエンリルの家は焼け落ち、長期的なヤミが覆い、終わりなき豪雨が洪水を引き起こした。ニンリ
ルの最後の言葉は、「学びの家は絶たれた、、、、、知識の創造は破壊された」である。明らか
に、カルサグの主要な目的の一つは知識の創造であった。オブライエンによれば、輝く者たちは人類に知識をもたらした存在だったのである。
カルサグの叙事詩はここで中断している。未発掘の碑文の中にさらに続きがあるのかもしれな
いが、彼らはその後も中東で文明の建設を続けた、とオブライエンは信じている。後に彼は、中
南米やアトランティスの文明にも彼らが関与していた。とまで述べている。そして彼によれば、「疑
いなく、エデンの園に関する最も価値ある記述は、「エノク書」に見出される」。つまり、エノクが
天使に連れられて7つの天を見たと言うのは、実際にはカルサグを訪れていた、というのであ
る。
先にも触れたが、「エノク書」には天使たちが紐を持って測量すると言う記述がある。オブライエン
はこれを、恐らく灌漑施設を作るための測量であると考えているが、フレマスの解釈はまた違
う。「天使たちは北へ飛んでいった」とあるが、南極から見ればあらゆる方角が北である。
フレマスによれば、天使たちが測量を行うのは全世界の遺跡の位置を決定するためである。す
でに見たように、ギザやラサなど、あらゆる遺跡は、「聖なる緯度」の格子に沿った形で整然
と配置されている。ハプグッドの古代地図もまた、同様のことを示している。氷のない南極
から中国までを描いたそれらの地図は、「文明以前」の古代人が、地球に関して驚くほど、
繊細な知識を持っていたことを示しているのだ。
フレマスによれば、この測量を行ったのは当時の最先端の文明であったアトランティスであり、それは
目的に迫った大規模な破局に対抗するためであった―恐らくその目的は、すでにどの程
度の地殻移動が生じているのかを明らかにすることだったのだろう。
85:,
08/06/21 20:22:14
ハプグッドによれば、北極をハドソン湾から現在の位置に移動させた地殻移動は紀元前1万
五千年ごろに始まった。フレマスによれば、アトランティスは高度な科学力を持っていたので、最終的
な破局が起こる前から、この現象を認識していたはずだと言う。紀元前9600年、地殻の傾
きは現在よりも遥かに甚だしく、また氷河期の終わりには大規模な洪水があるので、彼ら
が地質学に関心を抱いていたことは十分考えられる。
だが結局のところ、破局の到来を妨げなかったのを見ると、彼らの努力は実らなかったら
しい。だがフレマスによれば、破局の後の世代の者たちは彼らの測量を受け継ぎ、それに示さ
れた場所を聖地として、そこに自らの神殿を建てたのである。
以上のように、ハプグッドの「古代海王たちの地図」で示された見解と、フレマスの調査によっ
て浮かび上がった証拠を合わせると、かつての全世界的な地理学的知識の存在が決定的に
証明される、と私は思う。
URLリンク(ja.wikipedia.org) ポルトラーノ
86:,
08/06/22 19:35:05
クリストファーナイトとロバート・ロマスの「ウリエルの機会」もまた、フレマスとオブライエンの測量仮説を補強するも
のである。ウリエルは、「エノク書」に登場する見張りの天使のひとりで―といっても堕天使で
はなく、堕天使を罰するために地上に送り込まれたほうである。
「エノク書」の中で、特に「天の輝きの書」と呼ばれている部分は、基本的に天文学の論文で
ある。「かの男たちは私を天の西方に上がらせ、そこで6つの大きな門を見せた。―-太陽は
東方の門から昇る回数と日数に従って、この西方の門から沈むのである―けだし主がこ
れらの門をおつくりになって、太陽を1年の時刻盤として示されているからである」
ナイトとロマスはこの部分を見て、ストーンヘンジを連想した。ストーンヘンジの立石とまぐさ石は、まさし
く石の門である。
1960年代初頭から、英国の天文学者ジェラルド・ホーキンズは、ストーンヘンジが石器時代のコンピュー
ターであり、日の出と月の出の位置を計算するために用いられたのではないかと考え始めた。
彼の「ストーンヘンジ解読」(1965)はただちにベストセラーとなり、現在では彼の説はおおむね
定説とされている。
ホーキンズによれば、ストーンヘンジの中央に立つと、日の出や月の出と向かい合うことができ、そ
してどの季節にどの印の背後から日や月が出るかを計算することができる。ロマスとナイトは、
ヨークシャーの丘の上に、「ウリエルの機会」を建造してみることにした。彼らは何度もその中心に立
って繰り返し日の出や日の入りを観測し、印をつけていった。
URLリンク(ja.wikipedia.org) ストーンヘンジ
URLリンク(ja.wikipedia.org)
こうして1年後、対面する二組の柱の円い列ができた。その結果、彼らは―古代のストーンヘ
ンジ建造者たちと同様―1年が正確に分点と至点によって4分割されるわけではない、と
いうことを知った。地球の公転軌道は長円形なので、冬至から夏至までは182日、夏至
から冬至までは183日となったのである。春分と秋分についても、同様の不均衡が見ら
れた。
87:,
08/06/22 19:45:59
考古学者アレクサンダー・トム教授は、巨石建造者たちが「メガリシック・ヤード」と呼ばれる単位を用い
ていたことを明らかにしている。その長さは32・64インチ(約82・9センチ)だが、
これは本来16・32インチ(約41・5センチ)であったものを、トムが現在のヤードに近づ
けるために意図的に2倍にしたものである。ロマスとナイトは、トムさえ不可能だったこの単位の
意味を解き明かすことに成功した。
ロマスとナイトによれば、この「機会」は1年の長さを366日としている。そのため、1日を
366分の一ずつ短くしているのだ。巨石の配置もそれに合わせた結果、ある星が一つの
柱から次に移るのに3・93分かかる。巨石の建造者たちは振り子を時計代わりに用いてい
たが、振り子の周期は紐の長さによって変わる。そして3・93分の間に3・66回振動さ
せるために必要な紐の長さは、ぴったり16・32インチなのだ。
「ウリエルの機会」は、単に日の出や月の出の計算機としてのみならず、水星観測のための天
文台としても用いられていた。つまり、彗星が地球に衝突するかどうかを判断することが
できたのである。言い換えれば、古代人は「ウリエルの機会」を災害予測機として用いていた
ということだ。
フレマスも彼らの意見に全面的に賛同するが、それに加えて、それは地球内部の動きを観測す
るために星の位置を用いたのではないか、と考えている。つまり、一種の古代の地震計の
ようなもので、地殻移動の予想に用いられていたのだ、と。
URLリンク(ja.wikipedia.org) 地殻
88:,
08/06/22 20:05:32
フレマスによれば、「エノク書」の第65章において、大洪水の前に重要な地質学的イヴェントが起こ
ったという。
「そのころ、ノアは土地がへこんで、その滅亡が近くなったのを見た」
そこでエノクは、来るべき世界的な破滅をノアに伝えるよう、天子に命じた。
「行ってノアに報せよ、終わりが近づきつつあることを、全地は滅ぼされる。余地は大洪水
で覆われ、その上にあるすべてのものは滅ぼされる」
北半球に5度および10度の間隔で配置されている聖地の位置は、地球内部の地質学的変
化をモニターするのに理想的ではないだろうか。すでに見たように、大洪水の前、エノクは天使た
ちが紐を持って測量するために北へ飛んでいくのを観察している。北緯0度、15度、3
0度などの「天文台」で集められたかず多くのデーターを照合すれば、アトランティス人は地殻移動
の方向を査定することができただろう。また、もにも地球内部のマントルが移動し始めると、
星が出現する位置が変わり、「ウリエルの機会」はその変化を補足する。そして神官は、何か恐
ろしいことが起きつつあるのを知る、というわけだ。
私は、このフレマスの考えについて、ロマスに問い合わせてみた。ロマスもまたフレマスに賛同した。そ
して彼によれば、その目的のためには、12個の一等星を観測すれば事足りるという。ロマス
とナイトは、フリーメーソンリーの研究の結果、天文学と幾何学に並んで地質学もまた古の学であった
と考えている。ゆえに、アトランティス人が火の災厄を予知するために天界を観測したというフレマス
の考えは、彼らにとって同意できるものであった。そしてふたりは、この破局の原因は彗
星の衝突であったと考えている。
URLリンク(ja.wikipedia.org) クレーター
89:,
08/06/22 20:23:32
カルサグ叙事詩には、巨大な災厄が「文明提供者」たちを散り散りにしたと書かれているが、
その災厄の原因は何だったのだろうか。先に述べたように、不意に氷河期が再来したのだ
ろうか。そうかもしれない。だが実際には、人類は10万年以上もの間、氷河期を生き抜
いてきたのである。アトランティス人ともあろうものが、「越冬」の技術を持たなかったというの
は、いかにも奇妙だ。
だがこの氷河期が、例えば彗星の衝突のような災厄によってもたらされたとしたらどうだ
ろう。もしそうなら、われわれはそれをプラトンのアトランティスに当てはめる必要がある。なぜな
ら、天文学者ビル・ネイピアの唱えたもっと最近の破局(紀元前2200年)は、古代シュメールよ
りもかなり後、カルサグ叙事詩が書かれたよりも後に起こったのだろうから。災厄が紀元前9
500年に起こったとすれば、「エデンの園」時代はそれよりも遥か以前に始まったというこ
とになる。
アンドルー・コリンズは、これについて面白いことを述べている。オブライエンは「エデンは現在のレバノン、
シリア、イスラエルの山岳地帯にあった」としているが、コリンズはこれに全面的に賛同しているわけ
ではない。オブライエンの論拠は、見張りの天使が天下った地点がダマスコの近くのヘルエン山である
という「エノク書」の記述だが、エデンの場所については決定的な記述はない。だがコリンズの発
見した紀元前3000年期のアッカドの文書によれば、聖なる山「カルサグ・クラ」はクルディスタンに
あったらしいという。
URLリンク(ja.wikipedia.org) エデンの園
90:,
08/06/22 20:38:42
さて、「創世記」によれば、神は「東のほうのエデンに園を設け」た、とある。いったい何の
東なのか? ヘルモン山は、強いて言うなら地中海の東である。これに対して、ヴァン湖とウルミ
エ湖(クルドの伝説では、それぞれエデンの園とノアの箱船の漂着地とされる)はトルコの東で、シュメ
ールで書かれた最古の「ギルガメシュ叙事詩」によれば、この周りにはヒマラヤスギの広大な森
があったとされている。そして「文明提供者」たちは、まさにヒマラヤスギを用いて都市を建造
していたのだ。さらに、古代トルコの都市ネヴァリ・コリの柱はアンデスのティアワナコのそれに酷似してお
り、またここには紀元前8400年のものとされる神殿の跡がある。また、「エノク書」の見
張りの天使の話と、中南米に文明をもたらした裸のヴィラコチャの話にも類似点が多い。
URLリンク(ja.wikipedia.org) 箱舟
URLリンク(ja.wikipedia.org) ギルガメシュ叙事詩
URLリンク(ja.wikipedia.org) ティアワナコ
URLリンク(ja.wikipedia.org) クルディスタン
URLリンク(ja.wikipedia.org) カッパドキア
URLリンク(ja.wikipedia.org) チャタル・ヒュユク
こうしてコリンズは、カルサグ叙事詩の言うエデンとはクルディスタンであると結論を下すわけだが、フレマ
スはブループリント理論に基づいて、オブライエンに軍配を揚げる。
さて、コリンズはカッパドキアを訪れ、8000年前に栄えた世界最古の都市のひとつであるチャタル
ヒュユクや、またその辺りに数多く存在する地下都市を見た。この地下都市は1964年に発
見されたもので、イスラム教徒からの迫害を避けるためにキリスト教徒が造ったものであ
るという。それは地下何層にも及ぶ巨大なもので、天井も異様に高く、デリンクユという街の
下にあるものなどは2万人の人間を収容することができた。
91:,
08/06/22 20:40:12
だが果たしてこれだけのものを、キリスト教徒が、しまもイスラム教徒から身を隠すため
に造ったというのはどうだろうか。2万人もの人間のために食料はどうしていたのか。こ
んなところに身を隠すなんて、それこそ袋のねずみではないのか。
こんな地下に都市を築く理由はただ一つ、地上の温度から逃れるため以外にはないはずだ。
暑い夏も寒い冬も、地下の温度はほぼ摂氏8度で一定している。コリンズによれば、トルコ一帯
は紀元前9千年期に、500年ほど続く小氷期に見舞われたという。もしそうなら、地下
都市はその間の避難場所として最適だ。
地元の考古学者オメル・デミルによれば、この地下都市の最古の部分は、旧石器時代である紀元
前8500年に遡るという。というのも、古い部分は金属ではなく、石器によって堀削さ
れているからだ。しかもこれを造った人間は2種類おり、最古の部分を作ったものたちは
もう一方より遥かに背が高かったという―すなわち、天井を異常に高く造っているのだ。
【カッパドキアの地下構造。最大のもので2万人を収容できるというから、これはまさに地下
都市といってもいいだろう。
迷路のように造られた通路の一部。金網がかぶせてある部分は穴。
カッパドキアの地下都市の構造図。何層にも分かれた計画的な構造物であることが分かる。】
92:,
08/06/22 20:53:35
すでに見たように、カルサグ共同体の崩壊はオブライエンの考えているよりもかなり早かった―
すなわち紀元前1万年以前であった、という可能性がある。オブライエンはカルサグの創設を紀元
前8200年ごろとしているが、それはそのころその周りにヒマラヤスギがあったからである。
だがもし、カルサグの場所がレバノンではなかったとしたら、この年代推定は根拠を失う。もし
もカルサグが紀元前9000年の災厄に襲われていたのなら、そしてそれ以前に2000年も
の間繁栄したのなら、その創設の時期は紀元前1万1500年ごろとなるだろう。
地下都市の建設もこの頃に始まったというのは、ありえない話だろうか?コリンズが紹介して
いるペルシアの伝説によれば、イマという名の羊飼いが、「ヴァー」(地下都市、もしくは砦)の建
設を神から命じられる。悪霊のもたらす冷気から人や動物を守るためである。そして20
00人の人間がその都市に入れられる。
この伝説は、カッパドキアの地下都市のことだろうか?カッパドキアとクルディスタンには強い結びつき
があり、クルディスタンとペルシアもまたそうである。後者の場合、これらの地下都市と、先の氷河
期の終わりとの間の関係が論証できることになる。
URLリンク(ja.wikipedia.org) クルディスタン
URLリンク(ja.wikipedia.org) ペルシア
それに続いて、当時の地球はもう一つの災厄に襲われた。彗星である。それは「7つの燃
える山々」に分裂し、未曾有の洪水、世界規模の火山活動を引き起こした。コリンズによれば、
「エノク書」の死海文書版には、この災厄が繁栄されている。そこでは、堕天した見張りの天
使たちは、最終的に「火、ナフサ、硫黄」によって滅ぼされることになっている。
93:,
08/06/22 21:12:39
URLリンク(ja.wikipedia.org) ナフサ
URLリンク(ja.wikipedia.org) アヌンナキ
URLリンク(ja.wikipedia.org) 大洪水
URLリンク(ja.wikipedia.org) エドフ
これに対する反論もある反論もある―本当にカルサグ叙事詩は「7つの山」に言及している
のか?カルサグ叙事詩は未完成の断片であって、長い冬と大嵐の場面(碑文8と9)で途切れ
ている。未完成の部分に何が書かれていたかはわからないのだ。たぶん碑文10と11は
今もイラクのどこかの博物館の倉庫の奥か、地面の下に埋もれているに違いない。
すでに述べたように、コリンズはエデンの「文明提供者」と中南米のヴィラコチャ神の関係を想定し
ているが、さらにそこに古代エジプトとの関係も付け加えている。つまり、彼は―私も
同意見だが―エジプト文明はファラオの時代よりも何千年も遡りうると考えているのだ。
コリンズによれば、カルサグを作ったアヌンナキには7人の評議会が居たが、エドフの「ビルディング・テキス
ト」でも、神殿や聖地の建設に携わった7人の賢人が神格化されている。グラハム・ハンコック曰く
―
94:,
08/06/22 21:30:59
このテキストが賢人について述べるときの文脈には、注目すべき点がある。文脈には「洪水」
のイメージが頻繁に出てくるが、この「最初の水」(そこから偉大なる原初の丘が姿を現した)
がゆっくりと引いていく姿が描かれているのだ。原初の洪水の中で、ノアの箱舟は山の頂に
停泊する。古代バビロニアの「7賢人」(Apkallu)は、伝承によると洪水の前の時代を生
きたとされ、聖なる都ウルクの壁を建設したといわれる。さらに、インドの伝承では「7賢人」
(Rishis)が洪水で生き残り、洪水以前の世界の知恵を後世の人々に残そうとしたとある。
これは偶然の一致なのだろうか?いずれの場合も、賢人たちは大洪水を生き抜いた高い文
明を持つ人々とされ、新しい時代の夜明けに、新たなる出発をしている。
ハンコックによれば、7賢人は洪水で滅びた島からやってきて、エジプトに行った。その島の住民
のほとんどはその洪水で死んだという。この島はディルムンと呼ばれ、シュメールやアッカドの神話に
登場する。これはエデンの園に極めてよく似たパラダイスである。
エドフ・テキストとピラミッド・テキストによれば、この7賢人は「ホルスに従う者Shemsu Hor」と呼ば
れている。そして彼らは、大災厄の後に世界を立て直したという。これらはいずれも中東
という狭い範囲内の話なので、エジプトの7賢人がカルサグの7評議会である可能性は低くはな
いだろう。オブライエンもコリンズも、中東のいくつかの聖地が「輝く者立ち」とのつながりを持
っていることを認識している―バールベック、レバノンのピュブロスとエーディン、イェルサレムの近くのイェリ
コ、トルコのチャタル・ヒュユク、エジプトのエドフ、そして古代シュメールのニップールである。これに関して、フレ
マスは次のように述べている―。
95:,
08/06/22 21:33:01
URLリンク(ja.wikipedia.org) バールベック
URLリンク(ja.wikipedia.org) レバノン
URLリンク(ja.wikipedia.org) ヒュプロス
URLリンク(ja.wikipedia.org) エーディン
URLリンク(ja.wikipedia.org) イェリコ
URLリンク(ja.wikipedia.org) ニップール
もしも輝く者たちが大洪水の前に測量を行っていたなら、これらの聖地はアトランティス・ブループ
リントに合致しているはずだ。パールベックの超巨石は、中東の遺跡の圧巻であるが、ジョン・アンソニ
ー・ウェストの「スピンクスの謎」に示されている通り、現代の技術者たちが世界最大のクレーンを使っ
たとしても、200トンもの物体を動かすことは困難である。だが、パールベックの超巨石は、
そんなエジプトの巨石よりも、さらに遥かに巨大なのだ。
アンドリュー・コリンズは言う。
「これらの巨石はローマの神殿と同時代のものであるというが、この中には人間が用いた建設
用石材の中で最大のものもある。重量1000トンと見積もられるものが3つもあるのだ。
トリリトンと呼ばれるこの3つの巨石がなかったとしても、その下の段に450トンと見積もら
れる巨石が6つもある。この6つの巨石はそれぞれ長さ30~33フィート(約9・15~
10メートル)、高さ14フィート(約4・3メートル)、奥行き10フィート(約3メートル)
である」
96:,
08/06/22 21:36:15
コリンズは、ローマ人がこれを作ったという説にはまったく懐疑的だ。
「この超巨石に携わった技師や建築家の記録はローマの世界の何処にもない。ローマの歴史家も
学者も何も述べていないし、これにはまつわる話すら残っていない」
これに対して、ベクア渓谷に伝わる神話では―。
「パールベックの最初の都市は、大洪水の前にカインが築いたという。カインはアダムの息子で、弟の
アベルを殺したために、神によってエデンの東、ノドの地に追放された。この砦は大洪水で破
壊され、その遥か後に巨人族によって再建された」
URLリンク(ja.wikipedia.org) ソロモン伝説
97:天之御名無主
08/07/21 06:47:08
通報したからな