03/07/02 03:07
<人身御供>
古代の諏訪社では、神のために人の命を捧げる人身供犠が行われていた可能性があるといわれる。
一年神主としての大祝の殺害が主に有名なようだが、他にもいくつかの伝承があるため実際にどのような形で行われていたのかは、はっきりとはわからない。
旅行家で多くの随筆、旅日記を残した菅江真澄は1784年に諏訪を訪れ御頭祭などを見て『すわのうみ』を残したが、その中に御贄柱という概念と縛り付けられる大祝の少年が書かれている。
しかしそれも、すでにかなり近代化した祭事だったようで元がどのような形式だったのかはわからない。
ただし、それらに共通するのが、人身御供や人柱と呼ばれる者に選ばれるのが、未成年の男子だったということだ。
日本各地の昔話や伝説を見る限り、人身御供に選ばれるのは未成年の女子である例が圧倒的に多いため、諏訪社は珍しい例だといえるかもしれない。
また日本のシャーマン(霊媒者、寄坐)といえば、巫女やイタコなどに見られるように、女性であることが一般的だが、
諏訪社で一年神主としてシャーマン役を果たしていたといわれるのが男子という点も、同じく珍しいと言えるだろう。
逆にいえば、男子は生神としての崇拝対象にされるだけの者だった可能性もある。この場合は、アジア各地に見られる神輿(みこし)や山車(だし)に乗せて運ぶための生神役に似たものだろう。
また大祝(おおはふり)という呼び名だが、もともとハフリとは神職のことを指し、特別シャーマン的な要素を持たない言葉だ。そしてハフリには別に”葬り”という意味もある。
神の移し身として”即位”した生神を殺し葬り、祝いの祭事で奉り神へ昇華させる意味を大祝という言葉は含んでいるのかもしれない。
それが人工の神を作り出す祭事だったゆえに、祭事を司るミシャグジ(御社宮司)の呼び名が神の名として定着していったのだろうか