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たとえば源氏物語でいうと、
講談社学術文庫にある今泉忠義訳が文法的に正しく
かつ現代語としてもすぐれています。
読み物としては円地文子訳が味わえますが、
かなり作者の思い入れが強く、原典にない書き込みが目立ちます。
つまり原作者があえて書かなかったことを、
想像して書いてしまっている。
円地文子ほどになれば、小説家の想像力で翻訳しても、
読むに耐えますが、原典からは離れている。
比べて谷崎版は、この小説家にしては意外なほど、
原典に忠実です。これは源氏の文章を日本文の理想とする
谷崎が、日本語の文章を書くための自己鍛錬として
源氏を訳したためです。いわば読者は意識していない。
ですから、谷崎源氏を読むなら、原典を読んだほうが
いいかもしれません。読みにくさはほとんど同じですから。
桃尻語訳は論外ですが、
最近は瀬戸内寂聴のものが読みやすいと評判ですね。
確かに見事な翻案で、趣味でよむなら一番だと思います。
あとは与謝野源氏ですが、
これは西洋の翻訳小説を読むように読めるという
感覚ですね。昔はよく与謝野源氏はデタラメ源氏
などと言われて、何を根拠にそういっていたかというと、
「桐壷」の冒頭の、「やんごとなきにはあらぬが」
の「が」を逆説の接続助詞として訳していたからです。
源氏物語が成立した時代には、まだ「が」は格助詞としての
用法しかなかったことから、与謝野晶子の誤訳といわれたのですが、
ほかの部分はさほどの誤訳もなく、
デタラメ源氏とまでいうのはあたらないはずです。
ちなみに、「が」は平安時代の後半にかけて接続助詞としての
用法をもちはじめてきます。それは文章語としての話です。
すると源氏物語の作者が、すでに喋り言葉としては
認知されていた逆接の「が」を、いちはやく文章語に用いた
可能性もあります。