爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話3at HISTORY2
爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話3 - 暇つぶし2ch119:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/19 11:00:35 oxfEDVDaO
>>115後半は終始オマエの妄想じゃん・・・

120:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/19 14:01:03 x+1FO7kg0
歴史なんてのは半分妄想ですから。

121:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 07:05:49 n2dKzgNz0
117にちょっと一言

北陸で納豆が広く流通したのは戦後というより高度経済成長のころからくらいじゃないか?
安孫子素夫は藤本とともに勤めをやめて昭和29年に富山県高岡市から上京したが、
トキワ荘に入る前はまかないつきの下宿にいた。
そこでは朝は納豆にご飯と決まっていて、家にいたときは二人とも納豆なんて見たこともなかったので、
上京してはじめて納豆を口の中にいれた時はカルチャーショックなんてもんじゃなく、朝食の納豆には
かなり閉口したらしい。
昭和29年といえば朝鮮戦争のおかげで景気がよくなって、一億総貧乏のどん底からなんとか
脱した感じだったのではないかと思うが、納豆が北陸に広く普及するまでには、まだかなりの
道のりだったということになるなあ。


122:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 07:10:43 n2dKzgNz0
確かに歴史というのは大都市圏の話が中心になるので、地方でもそうだったのだと
つい考えがちになる。でも日本列島は南北に長いので決して大都市の話が地方にもそのまま
通用するものではない。

ベーゴマなんかも大都市の子はよく遊んでいたが、地方ではそんなものは知らないという子も多い。
七草粥も正月に雪のない地方の風習で、雪国では七草粥の風習はない。雪の下に植物が
埋もれているので採取しようがないからだ。
土用のうなぎもそう。うなぎのとれないところでは土用にはどじょうのかばやきを食べていた。

123:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 09:35:16 UQ4Os4QWO
>>120発想が中学生だね。
歴史は文献検証の連続だよ。

124:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 14:55:16 st9NwyB50
ここは実体験を聞いたことを書くスレでしょ。推測なり検証は別スレでやれば。

125:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 15:09:03 UhO5d+Ax0
日経新聞の私の履歴書に出ていた話。
学徒出陣で繰り上げ卒業世代の経済人の回想によると、東大の卒業式に東条英機が
メッセージしに来た。東大生は全員「なんで戦争なんかにいかなきゃなんねーんだよ。」と
口をへの字にまげてしかめ顔をしていたそうで、卒業式といっても寿ぐ雰囲気ではなく、
お通夜みたいな空気だったとか。
東条は壇上に立って「あの、みなさん、繰上げ卒業でとても腹を立てていると思いますが、実はね、
私も繰り上げ卒業だったんですよ。私の学生時代はちょうど日露戦争の頃で、学生がのんびり勉強しているような
ご時世じゃないなんていわれましてね。私だってもっと学生生活続けていたかったんですよ。でも
それは許されなくて、繰上げ卒業で戦場に出されたんです。でも今こうして東大の卒業式に出て、みなさんの前で
お話しているんですからね。人間の運命って本当にわからないものなんですよ。だからそう腐らずに・・・」と
大変気を使っていたという・・・・w

戦争中は学校に将校が配属されていて、キャンパスを軍人が我が物顔で闊歩し、軍事教練とかを課していた。
ある日、キャンパスを歩いていた東大生に将校がいきなり「貴様、軍人勅諭をいってみろ!」と
つっかかってきた。周囲にいた子はみんな「あー、こいつ運悪いなあ」と思った。何も言えずに口ごもっているとビンタが飛んできて
何人も殴られていたからだった。
するとつかまった子は大声で「ひとつ、軍人は政治に関与せず!」と怒鳴り返した。
軍人はばつが悪そうな顔で舌打ちして立ち去った。みんな拍手喝さいした。

126:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 15:27:10 UhO5d+Ax0
学徒出陣のニュース映画の映像だけをみているとわからないことが多いが、
インターネットのおかげであの裏がわかるようにはなっていると思う。

実はあの式典の終了後にゲートから出て行こうとしたとき、いきなり女の子が立ち上がって、
いっせいに出入り口に走りよって、男の子に向かって「生きて帰ってきてください!」と叫んた。
(中にはがんばってくださいと叫んだ子もいたらしいが)
出陣学徒壮行式典は昭和18年の秋だけだった。翌年には開催されなかった。
これはなぜかと考えるに、たぶん女の子の「生きて帰ってきてください!」が
原因だったんじゃないかと思う。
士気を高めるために女の子を大量にあそこに動員したのですが、その女の子がまさかいっせいに
「生きて帰ってきてください!」と叫びだすとは夢にも思わなかったのだろうね軍部は。
もちろん予算も逼迫していたこともあるだろうけど。これは士気が低下すると思ったのだろう。
でも女の子の「生きて帰ってきてください!」という声が耳に入った瞬間、「彼女たちを守らなくてはと決意した」と回想
している人もいるので、女の子の「生きて帰ってきてください!」は必ずしも士気の低下を招かなかったのではないかとも思いますが。

このエピソードを聞くと、戦争中の日本のほうがまだ北朝鮮よりましだということ。
北だったら、ピョンヤンの金日成スタジアムで出陣学徒壮行式典をやったら、
集められた女の子がいっせいに「生きて帰ってきてください!」と叫ぶ自由はあるかな?
たぶんないと思う。出陣する男の子に向かって「生きて帰ってきてください!」なんて
一人でも叫んだら最後、全員連帯責任で逮捕されて収容所送りになるw。


127:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 18:53:44 eDZqKHUu0
>>126
>出陣学徒壮行式典は昭和18年の秋だけだった。翌年には開催されなかった。
>これはなぜかと考えるに、たぶん女の子の「生きて帰ってきてください!」が
>原因だったんじゃないかと思う。

日本が戦時色が一気に濃くなって、
国民生活の隅々まで縛るようになったのは昭和19年からで、
昭和18年まではまだお気楽な雰囲気や自由な雰囲気も残っていた。

昭和19年から一般の兵士の町内会の壮行会等も行われなくなり
一気に暗い世相へ。

128:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 06:58:27 5teqAC+90
地方では町内会の壮行会は昭和20年になってもやっていたらしい。
東京や大阪と違って食糧の調達がしやすかったので、生活状態が大都市より
比較的よかったからかもしれない。
地方は大都市と違って結構のんびりしていたのかも?

129:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 10:32:37 swHTkP5VO
>>124実体験を立証するのは難しいぞ。
記憶なんてあてならないんだから。
ここでの発言者が嘘をついてる可能性も否定できない。


130:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 10:33:58 swHTkP5VO
>>126を見て分かるだろ。発言の大半が憶測。

131:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 20:30:08 ewLzkeViO
>>126
私の父(昭和4年生まれ)と伯母(昭和元年生まれ)は、スタンドで見ていたよ。
当時は雪が谷在住で、伯母は鶴見に通学中の女学生、動員されたのではなく、友人たちと連れだって、友人のお兄さんの出征を見送りたくて行ったそうだよ。
伯母の感想は
「大雨で、制服がずぶ濡れで寒かった。まだ軍服が似合わない新兵さんたちが、みんな賢そうな顔をしていて、ああ、勉強を続けたいだろうに…と思うと切なくなった」
父は
「遠くから、雨の中で身じろぎもせずに閲兵をし続ける天皇をみて、さすがに立派だなと思った」
「でも同時にまた、天皇の名のもとにこんなに大勢の犠牲をはらわなきゃならないって、これから日本はどうなっちゃうんだ」と思ったそうだ。

132:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 21:04:10 ewLzkeViO
その後、父の一家は昭和20年の京浜地域への空襲で、雪が谷の自宅も、蒲田で祖父がやっていた工場も焼けた。
空襲時は、父は徴用されていた軍需工場の当直をしていた。
3月の東京大空襲の惨状は伝わっていて、火がついたらもう逃げるしかない、バケツリレーなんかしてたら死ぬとみんな知っていたから、当直の軍属も消火作業などしないで、さっさと一緒に逃げたそうだ。
その後、勝浦に縁故疎開していた小学生の弟を迎えに行ってから、祖父の実家がある新潟にみんなで疎開してきた。

空襲以後、新潟に自宅をかまえておちつくまでの苦労話は、父も伯母たちもほとんどしない。
聞いても
「思い出したくない。言葉にできないくらい、いろんな辛いことばかりだったよ。話したくない」という。

133:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/30 07:59:30 XQRNRQfm0
戦争中のこと。
福沢諭吉の孫は金沢の十一屋という地域の連隊にいたそうだ。
休日になると一時間近く離れた家に電話を借りにいっていた。
当時は電話のある家が少なく、家族の声を聞きたいと思っても電話のある家が近辺にないと、
テクテク歩かなくてはならなかった時代だった。

2.26事件のときは、朝ずっとラジオから音が出なくて、どこの家もおかしいなと思ったが、
理由がわからないまま、ラジオの音の聞こえない静かな朝を過ごした。
ラジオから音が出たのは昼過ぎで、そのときにはじめてクーデターが起こり、
ラジオ局が軍隊に占拠されていたせいで今朝はラジオから音が出なかったとようやく人々は知った。

制限選挙の時代は電話があまり普及していなかった。
衆議院が解散すると、選挙権を持っている人の家には真夜中でも電報が届いた。

134:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/03 19:18:36 Q/HVKUS60
群馬出身の婆ちゃんから聞いた話

・昭和18年頃から周囲の家々には疎開してくる人が急増して、楽しそうに見えた。
 でも我が家だけは何も変わらず。「なんでうちは他所みたいに人が来ねえだ?」
 と母親に聞いたら「うちは東京に親戚がねえからだ」とピシャリと言われたが
 子供だったので、なんでうちだけ人が来ないのか、よく分からなかった。

・東京から来た子は服装が垢抜けていて、自分達イナカッペとはえらい違いだった。
 田舎にはないゴム毬を見せてもらったときは衝撃だった。あまりの衝撃で、
 その日は借りたゴム鞠で夜遅くまで遊んでいて、親に怒られた。

・小学校の前が線路で、学校の男の先生が出征するときは、駅を出た汽車は
 学校の前で減速して、生徒全員で旗振って万歳して見送った。
 列車の窓の先生は終始無言で敬礼していた。戦死広報が出ると朝礼で校長先生の
 「○○先生が壮烈な戦死を遂げられました」という報告があって、凄く悲しかった。

・村で満州開拓に行った家族も多かった。戻って来なかった家族も多かったけど
 戻って来た家族も、女性はみんな坊主頭で顔を真っ黒にしてもの凄い状況で、
 さすがに能天気な田舎の子供でも満州での事は聞けなかった。

・戦争が終わると、東京の子達がどんどん櫛抜けみたいに帰って行った。
 同窓会は今でも毎年欠かさずにやっているけど、疎開して来てた子は
 その後連絡不詳になってて、誰一人呼べないのが悲しい。

135:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/08 14:52:20 /DXSyVOp0
自分のうちの墓に刻んである名前の中に知らない人がいた
ある時の法事で岐阜から来た親戚の爺さんが、何者なのか教えてくれた

その人物は自分の祖父の兄にあたる人で
戦前の国鉄に勤めていたが、鉄道事故で死んだそうだ
なんでも昔は、貨物列車の積荷交換で突放ってのをしてたそうで
失敗して貨車に挟まれたか轢かれたかで死んだそうだ

余談だが、祖父の兄の葬式の時に香典泥棒が出たそうな
犯人は、踏切り番のおっさん(今でもうちと仲が悪い)らしいと爺さんは思ったそうだが
地元の有力者の親戚だったので咎められなかったらしい


136:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 17:34:51 ahtU6+QP0
明治始めの廃仏毀釈の際、村には3つの寺があったけど、うちの旦那寺だけが
潰される事になり、鎌倉時代の作と言われる本尊も焼かれる事になってしまった。
檀家総代のうちの先祖(5代前)が一大決心して、仏師に新しい仏像を掘らせ、
仏像焼却の確認に来る県の役人に多額のワイロを握らせて、仏像をスリ換えた。
バレれば投獄さ。鎌倉時代からの由緒正しき仏像は、うちの土蔵を2重壁にして隠した。
75年が経ち、太平洋戦争が激しくなり、うちの村にも土蔵荒らしが出没するようになり
先祖の犯罪がバレてしまうかもしれない、という状況になった。戦争中だから仏像がバレて
「国の指示を守らない非国民の家」という印象を与える事は、当時としては致命的だった。
仕方なく当主は仏像を焼いてしまった。子供だった爺さんがその時の事を覚えているが、
とても無念な表情だったそうだ。曾爺さんから代々命がけで守って来た仏像だからな。

戦争中に仏像焼いてしまって惜しかった、と言うのは簡単だが、その時代時代に、
大切なものを必死で守ろうとした御先祖様達の強い意思を感じるんですよ、私は。
ちなみにワイロを貰った県の役人は、その金で家建てて、その家が昭和30年代まで
あったそうだ。

137:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/11 13:08:57 EOPfz+Rq0
前のスレにも書いたが、うちの爺さんは子供の頃からカナダ人宣教師に英語を習っていて、英語が出来た。
日本が戦争に負けて、進駐軍がやって来て、英語の出来る爺さんは引っ張りタコになったが、
「通訳は板挟みになるから嫌だ。わざと難解な日本語を使って、相手のアメリカ人を煙に巻こうとする
馬鹿な日本人が多くて困る。米兵はわざと難解な英語使う事はしない」と言ってたそうだ。
でも親父が言うには「爺さんの英語は変だった。俺達が英語の授業で習う英語とは違っていて、
aをアではなくエと読んで面食らった。我々のジャパニーズイングリッシュではなくて
本物の英語だったんだろうな」との事。爺さんには子供3人と孫7人いたが
1人も英語はモノにならなかった。教え方はうまくなかったみたいだ。

138:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/25 05:41:15 oQc7cZE20
私が昔通っていたお茶の教室にいた人で糸偏工場の多かった地域の出身の女性がいた。
その人は娘時代がちょうど戦後の混乱期で、近辺には朝鮮の人がたくさん住んでいた。
彼らは戦争中に日本の工場に出稼ぎに来ていた人たちだ。大半の人は契約が切れると
お金をもって故郷に帰ったが、中には日本人と結婚して日本に定住した人や、朝鮮人同士で
所帯を持ったが、まだまだ日本で働いて家に送金しなくてはならず、祖国に帰るのが難しいという
人も多かった。

戦後しばらく朝鮮の人たちはどぶろくを作って生計をたてていた。彼らはGHQの監督下にあるとされ、
日本の酒税法違反にはとわれなかったそうだ。GHQも「本当は密造酒は取り締まったほうがよいのかもしれないが、
こっちは忙しいのでそんなことにまで手が回らない。彼らもそれしか生計の手段がない」ということで、
ほとんど放置されていた。
当時は酒が手に入らなかったので、周辺住民は大切な客がくるときはいつも近くの
朝鮮部落まで行き「お酒わけて」というと、奥から「はいはい」といって、朝鮮の人がいつも
どぶろくを売ってくれたという。


139:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/29 16:20:07 vKUUqhFO0
       /      \
.        ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄   ,、-ー-、             電
           |      r'"´ ̄`ヾ、            気
           |       リ ,,, ニ ,,,_ ヾト、         つ
           |      ,ハ ^7 ,^   !.:.\    い   け
           |     /.:.:.V,r''''''ゞyイ.:.:.:.:..ヽ    い  り
           |   ノ.:!:.:.:.:`ゞ-<7.:〉.:.:.:i.:.:}    だ  ゃ
           |_,,,/.:.:/:.:.:.:.:.:| }-{/i.:/.:.:.:.:|.:/.    ろ
          と_」.:/!.:.:.:.:.:.:.!  ̄ リ.:.:.:.:.:り     ・
               ̄  |.:.:.:.:.:./_ :__ヽ.:.:.:.:\     ・
                \/.:.::..:.:.:.:.:.:..:\:.::./     ・
                /.:.:.:.:.:.:.「^Y.:.:.:.:.:.:|´
                 {.:.:.:.:.:.:.:.| ,!.:.:.:.:.:.:|
     __           \.:.:.:.:.:.V.:.:.:.:.:.:.:|
    /.:.:./ンく";;〕      \.:.:.::|.:.:.:.:.:.:.:!
    ヽ;::/::::::....;;;ヽ、       > 'ゝ─‐イ、
     ヾ;;;;;;;;:::...;;;;〈       `ー' ``''ー‐'
      ‘ー.く`ヽイュ、
:::::::::::::::::::::  ソ´・ ̄ス_      お 暗
:::::::::::::::::::::::./ ・ ・、√: : : ヽ   ら 靴  く
:::::::::::::::::::::: >.= イ: : : : : ;_;|   な が  て ::::::::::::::::::::::
::::::::::::::::: /l_"/( ヽ}: : : : .]  い わ   :::::::::::::::::::::::::
:::::::::::::::::::`ー―` \ : : : イ  わ か :::::::::::::::::::::::::::::::::
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch