10/05/11 00:27:00 rUmj8T4a0
>>99
ああわかった。わたしがどう書いたかなんてどうでもいいんだね。
サボったら配属将校に睨まれるのはそりゃ当たり前w しかしながら
それでも某ナンバースクール側との面接や周りの中学の先生・生徒の間では
受験成功という認識だったと。それがひっくり返ったもんだから回りも本人も愕然。
他の地域・学校や後年がどうであったかは知らんよ。俺の父親の時はそうだったってこと。
ということはそれ以前だったらもっと緩い認識だったであろうと言えるよね。
>>92でも>>91の内容を受けて書いてるじゃない。「その後もっと酷くなったのだろうね。」と。
俺は父親から聞いた昭和の一時期を伝えているだけだよ。
101:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 01:19:22 Lrh8wVwQ0
>>90だけど、頼むから俺の出まかせの所感めぐって喧嘩すんのはやめてくれw
軍事教練のくだりに関しては、俺は伊藤氏の著書を元に書いただけだ
102:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 17:15:33 jMPz5K3y0
ある意味、戦後左翼の戦前真っ黒史観を真に受けた被害者だな。
103:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 23:30:01 NN6i5gsm0
>>100
日中戦争が始まっている戦時下で軍事教練サボるなんてバカにも程がある。
お前がバカなのは親父似か?
104:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 23:52:40 rUmj8T4a0
>>103
全く懲りてないね。軍事j教練をサボったことに対する批判は
それはそれでやればよろしい。>>93から読み返してみろ。
訳の分からん言いがかりばかりだろw 君はまず>>1をまず読みたまえ。
>リアルな実体験話を
>皆に聞かせるためのスレッド。
だ。おれの場合は爺さん婆さんじゃなく親父だけどなw
父親のリアルな実体験を皆に聞かせただけですよw
>>101
いやいや、別にあなたのせいじゃないですよ。伊藤桂一氏も
別にウソを言っているわけじゃないでしょう。
105:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 19:09:55 RTFfeU1r0
>>104
>軍事j教練をサボったことに対する批判は
要するにバカだからサボったんだろ
で、バカがお前に遺伝したwwwww
106:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 22:40:20 uy82h5Hu0
>>105
いやーなんでこんなに時間がかかるんだ。感想なら感想だと最初から言ってくれ。
それでいい。
今後は、書いても無いことを書いたと言って他人にからむんじゃないぞw
107:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 18:36:49 QzUvA8Wb0
>>106
自分が暇なニートだからって、他人もそうだと思うなよwww
108:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/14 00:09:51 4su9F2TP0
>>107
無駄に時間をかけてるのは君だろう。全く意味不明。
君がニートかどうかなんて関心も無いが、俺は薄給ながらも普通のサラリーマンですんでw
109:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/16 22:52:55 fyAMyYRH0
軍事教練サボって罰受けて、社会のせいにしているバカもいるんだな
110:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/02 16:22:12 NZhDadhM0
かなり新しい話で恐縮だが、母方の祖父の姉になるおばあさんついての話だ
昔(昭和30年代?)は殺虫剤を噴霧器でシュッシュッやってたそうで、殺虫液を買ってきて置いていたら、
ある時寿司を作っている時に酢と間違えてつかってしまったそうだ
こりゃ食べれんで、ということで豚に食わせたらしい
111:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/03 17:44:19 h+duMxiT0
>>110
その豚はどうなったの?
112:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/06 02:27:42 UEOF/Hfn0
食の安全は地域、時代を問わないということだな
113:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/12 19:11:08 4uZ+7JoO0
婆ちゃんからDDT散布の話を聞いたよ。
駅の改札を通ると、頭と服の袂にDDTをシュッシュと吹きかけられて
全身真っ白になったそうだ。今じゃ考えられない話だな。
残留性を指摘されて、70年代にDDTは使用中止になったけど
「DDTはパウダーみたいで気持良かった。DDTをかけられて病気になった人なんて
聞いた事がない。あれで日本からシラミが一掃された」と婆ちゃんは
懐かしそうに言ってた。
114:自分が爺さんです
10/06/15 10:00:55 zXqyqro30
>>110
T型のヤツですね。
みんな一升瓶に入っていました。
牛乳と間違えて農薬を飲んで死んだ子がいました。
115:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/15 14:07:54 8i0Jh8ms0
明治生まれの父方の祖父は、真珠湾のニュースが流れたときは、もうすでに企業の第一線で
働くビジネスマンでした。
祖父が存命の頃、聞いてみたことがあります。「真珠湾の第一報を聞いた瞬間どう思った?」
祖父の答えはこれでした。
「なんてばかなことを!こんなもの勝てるはずかない!!」
あの当時はよほど田舎で情報遮断の状態に置かれていた地域の人ならともかく、地方でも県庁所在地の
都市生活者は、仕事上いろいろなところで情報を得ているので、最初から日本とアメリカが戦争なんか
やっても勝てないとわかっていました。
ちなみに母方の祖父も「勝てるわけない」と思ったと祖父が亡くなってからですが、祖母から聞きました。
父方の祖父は仕事でよく軽工業製品を見ていました。「軽工業製品ですら彼我の技術差は歴然としている。いわんや重工業をや」と
いつも思っていました。母方の祖父は機械製造会社に技術者として勤務していたので、アメリカ製の
機械がいかにすぐれているかをいやというほど知っていました。
私が祖父たちのこの話から得た教訓は「情報は命」ということです。
学徒出陣の映像をみているとわかりますが、あの子たちみんな憮然とした表情ですよね。半ばやけくそみたいな。
「だからこんな馬鹿げた戦争なんかおっぱじめるんじゃねえっての!あほくさ。犬死だろ俺たち。ちくしょー、
やってらんねえよお」ってむすっとした顔しています。
全員わかっていたんですよね。二年前の時点で「こんなもん勝てるはずねーだろ」と。
もちろん彼らの親が地方在住でも都市生活者で、開戦時点で「なんてバカなことを!」と思った人たちだったと思います。
116:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/15 14:35:56 8i0Jh8ms0
学生時代の恩師も学徒出陣世代です。理科系だったので兵隊にはいきませんでしたが。
恩師も「最初から勝てないって庶民は口にこそ出さなかったものの、みんなわかっていたんですよ。
僕は真珠湾の時は学生でしたが、勝てもしないのにバカだよなあなんて、友だちとこっそり軍部の悪口いいながら
呆れていましたよ」と言っていました。
戦争中のこと。母方の家は祖父の仕事の都合で東京にいましたが、戦争がひどくなり金沢に疎開しました。
祖母が町内会長の家に挨拶にいき、今まで東京で暮らしていたと言ったところ、
会長は「東京なら味噌の配給はたぶん多かったと思いますが、ここでは東京みたいに味噌はたくさん配給されません。
金沢は朝は味噌汁を飲まないからです。」と告げられ、大変な土地に来てしまったと一瞬ショックで放心状態になってしまったそうです。
田舎だから大豆の生産地に近いし味噌は東京と同じくらい配給されるものと思っていた祖母はあてがはずれまくり、着物をコメや味噌や芋と交換して
食糧難の時代をやりくりしました。
母方の祖母は明治生まれですが、大正時代は富山の県立高女に通っていました。
女学校は入学したときは着物+袴です。髪は団子髷を結うのですが、高い位置で結うとハイカラになりすぎ、
女学生がとかく華美に走ると教育上よろしくないと、低い位置で結うように厳しく指導されました。
校門で毎朝教師がものさしを持って立っていて、襟から何寸と髷の位置が校則で決まっていたので、
髷が校則通りの位置で結われているかをチェックされました。
でも女学校が着物+袴だったのは二年までで、三年からは洋装になりました。
白いブラウスにこげ茶色のジャンパースカートで白ソックスと黒革靴。髪型は華美ではなく学生らしいもので
あればOKとなり、みつあみにしたり、みつあみを耳のところで輪にしたマーガレットという髪形にしていました。
リボンの巾は一寸と決まっており、教師は毎朝校門でものさしでリボンの巾を計ってチェックしていました。
祖母は関東大震災を知っています。富山にいても大揺れに大地が揺れたそうです。祖母は友達と明日の授業で使う
フランス刺繍の糸を手芸店で選んでいました。とつぜん世界がゆれまくり、友達とキャーッと叫んで座り込んだといいます。
関東大震災は大正生まれの私のお茶の先生も金沢で体験しています。先生の父親は内科医として市内の病院に勤めていたので、
病院の近くにある医師住宅に就学前の先生は住んでいたのですが、小さな庭の片隅にあるつくばいの水が震災のゆれで、
じゃばじゃばこぼれていくのを、この年齢になってもありありと思い浮かべることができると言っていました。
117:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/16 17:47:46 Wv3JJz+X0
テレビなんかでいう昔の生活って首都圏のことを言ってる。
たとえば日本髪の島田髷。これは若い娘の髪型であるとよくいわれ、昭和天皇の長女や酒井美意子さんなんかは
娘時代に結ったという(18かそこらの頃)。
しかし北陸では島田は少なくとも昭和に入ってからは主婦の髪型だった。祖母は昭和2年に結婚したが、
近所に髪結いがあったので日本髪にしたことがある。髪結いでは「主婦ですか?なら丸髷か島田になります」と
いわれ、最初は丸髷にしたが帰宅した祖父が「かぼちゃに藁かけたみたいだ。お前に丸髷は似合わん。
まだ島田のほうが見てくれもいい」と言ったので、翌日島田に結いなおしてもらったことがある。
また伯母の友人は田舎の小さな村の出身だった。その村では女性が正月に日本髪を結う習慣が戦後しばらく
残っていた。村で髪結いの技術を持っている人に頼んで結ってもらうのだが、その村では
女学校に通う年齢は桃割れ、卒業して結婚前までは結いわた、結婚すると島田か丸髷と決まっていた。
江戸では島田は娘の髪型とされて昭和に入っても若い娘が結うものとされたが、それはあくまで江戸の話。
日本全国どこでも島田=若い娘だったわけではなく、島田が主婦の髪型だった地方もあるのである。
日本全国津々浦々しょうゆが台所で当たり前に日常使いされるようになったのは、せいぜい昭和30年以降。
味噌は簡単に作れるが醤油はそうではないので、農家は大豆を自給していても、調味料は味噌であり
醤油は大事な客があったときに出す料理にのみ使うぜいたく品だった。いつも台所の奥底にビンが鎮座
ましましており、年に何度かしか出番はなかった。
普段は野菜でもなんでも味噌で煮たものか、せいぜい味噌の上にたまる味噌だまりを醤油がわりに使う程度。
味噌だまりは味噌を手作りしている人ならみんな知っていると思うが、見た目は醤油そっくりである。
ただし風味は味噌w。魚などはこの味噌だまりでよく煮たという。
海苔も昔はぜいたく品で、富山県ではごはんにのせるのはとろろ昆布。富山で一般の人が
当たり前に海苔を食べるようになったのは戦後である。
納豆も北陸では戦後になってようやく流通するようになった。大正時代に創業された
納豆屋もあることはあるが、昔は大量に作って広く流通させることはないので、
せいぜいその店の周辺地域でしか消費されない。その土地でとれた大豆を
その土地で加工し、その土地の人が食べるのだから、ごく狭いエリアで全て
が完結してしまう究極の地産地消である。
よって明治生まれの北陸の人は納豆を知ってはいるが食べたことがないという人が大半だった。
自分の家の近くに納豆屋がある人ならともかく、大半の人は東京に働きに出たり進学したりして、
ようやっと「あーこれが納豆売りか。東京では朝になると納豆売りが来ると聞いたけど本当なんだなあ」と
一種の感慨にふける。そして噂の納豆をやらを食べてみよう・・・くぁwせdrftgyふじこlp;
最初は強烈だったが、そのうちやみつきになり「納豆最高!」となるのであった。
118:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/16 17:55:08 Wv3JJz+X0
日本全国津々浦々現金が流通するようになったのはせいぜい昭和40年以降。
離島や開拓村や山奥のような僻地では現金がほとんど流通していなかったので、
戦前はもちろん戦後もかなり長い間行商人とは物々交換であった。
東北の山中にお茶を担いで入ってゼンマイと交換する、繊維製品のような軽工業製品を
芋と交換する、といった具合だった。
僻地医療も現代人からは想像を絶するもので、戦後になっても大根や芋や乾燥・塩蔵山菜を
治療費や薬代がわりとしたとか、僻地の診療所の仕事は患者の診察ではなく死亡届を書くことだったとかいう話である。
119:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/19 11:00:35 oxfEDVDaO
>>115後半は終始オマエの妄想じゃん・・・
120:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/19 14:01:03 x+1FO7kg0
歴史なんてのは半分妄想ですから。
121:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 07:05:49 n2dKzgNz0
117にちょっと一言
北陸で納豆が広く流通したのは戦後というより高度経済成長のころからくらいじゃないか?
安孫子素夫は藤本とともに勤めをやめて昭和29年に富山県高岡市から上京したが、
トキワ荘に入る前はまかないつきの下宿にいた。
そこでは朝は納豆にご飯と決まっていて、家にいたときは二人とも納豆なんて見たこともなかったので、
上京してはじめて納豆を口の中にいれた時はカルチャーショックなんてもんじゃなく、朝食の納豆には
かなり閉口したらしい。
昭和29年といえば朝鮮戦争のおかげで景気がよくなって、一億総貧乏のどん底からなんとか
脱した感じだったのではないかと思うが、納豆が北陸に広く普及するまでには、まだかなりの
道のりだったということになるなあ。
122:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 07:10:43 n2dKzgNz0
確かに歴史というのは大都市圏の話が中心になるので、地方でもそうだったのだと
つい考えがちになる。でも日本列島は南北に長いので決して大都市の話が地方にもそのまま
通用するものではない。
ベーゴマなんかも大都市の子はよく遊んでいたが、地方ではそんなものは知らないという子も多い。
七草粥も正月に雪のない地方の風習で、雪国では七草粥の風習はない。雪の下に植物が
埋もれているので採取しようがないからだ。
土用のうなぎもそう。うなぎのとれないところでは土用にはどじょうのかばやきを食べていた。
123:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 09:35:16 UQ4Os4QWO
>>120発想が中学生だね。
歴史は文献検証の連続だよ。
124:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 14:55:16 st9NwyB50
ここは実体験を聞いたことを書くスレでしょ。推測なり検証は別スレでやれば。
125:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 15:09:03 UhO5d+Ax0
日経新聞の私の履歴書に出ていた話。
学徒出陣で繰り上げ卒業世代の経済人の回想によると、東大の卒業式に東条英機が
メッセージしに来た。東大生は全員「なんで戦争なんかにいかなきゃなんねーんだよ。」と
口をへの字にまげてしかめ顔をしていたそうで、卒業式といっても寿ぐ雰囲気ではなく、
お通夜みたいな空気だったとか。
東条は壇上に立って「あの、みなさん、繰上げ卒業でとても腹を立てていると思いますが、実はね、
私も繰り上げ卒業だったんですよ。私の学生時代はちょうど日露戦争の頃で、学生がのんびり勉強しているような
ご時世じゃないなんていわれましてね。私だってもっと学生生活続けていたかったんですよ。でも
それは許されなくて、繰上げ卒業で戦場に出されたんです。でも今こうして東大の卒業式に出て、みなさんの前で
お話しているんですからね。人間の運命って本当にわからないものなんですよ。だからそう腐らずに・・・」と
大変気を使っていたという・・・・w
戦争中は学校に将校が配属されていて、キャンパスを軍人が我が物顔で闊歩し、軍事教練とかを課していた。
ある日、キャンパスを歩いていた東大生に将校がいきなり「貴様、軍人勅諭をいってみろ!」と
つっかかってきた。周囲にいた子はみんな「あー、こいつ運悪いなあ」と思った。何も言えずに口ごもっているとビンタが飛んできて
何人も殴られていたからだった。
するとつかまった子は大声で「ひとつ、軍人は政治に関与せず!」と怒鳴り返した。
軍人はばつが悪そうな顔で舌打ちして立ち去った。みんな拍手喝さいした。
126:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 15:27:10 UhO5d+Ax0
学徒出陣のニュース映画の映像だけをみているとわからないことが多いが、
インターネットのおかげであの裏がわかるようにはなっていると思う。
実はあの式典の終了後にゲートから出て行こうとしたとき、いきなり女の子が立ち上がって、
いっせいに出入り口に走りよって、男の子に向かって「生きて帰ってきてください!」と叫んた。
(中にはがんばってくださいと叫んだ子もいたらしいが)
出陣学徒壮行式典は昭和18年の秋だけだった。翌年には開催されなかった。
これはなぜかと考えるに、たぶん女の子の「生きて帰ってきてください!」が
原因だったんじゃないかと思う。
士気を高めるために女の子を大量にあそこに動員したのですが、その女の子がまさかいっせいに
「生きて帰ってきてください!」と叫びだすとは夢にも思わなかったのだろうね軍部は。
もちろん予算も逼迫していたこともあるだろうけど。これは士気が低下すると思ったのだろう。
でも女の子の「生きて帰ってきてください!」という声が耳に入った瞬間、「彼女たちを守らなくてはと決意した」と回想
している人もいるので、女の子の「生きて帰ってきてください!」は必ずしも士気の低下を招かなかったのではないかとも思いますが。
このエピソードを聞くと、戦争中の日本のほうがまだ北朝鮮よりましだということ。
北だったら、ピョンヤンの金日成スタジアムで出陣学徒壮行式典をやったら、
集められた女の子がいっせいに「生きて帰ってきてください!」と叫ぶ自由はあるかな?
たぶんないと思う。出陣する男の子に向かって「生きて帰ってきてください!」なんて
一人でも叫んだら最後、全員連帯責任で逮捕されて収容所送りになるw。
127:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 18:53:44 eDZqKHUu0
>>126
>出陣学徒壮行式典は昭和18年の秋だけだった。翌年には開催されなかった。
>これはなぜかと考えるに、たぶん女の子の「生きて帰ってきてください!」が
>原因だったんじゃないかと思う。
日本が戦時色が一気に濃くなって、
国民生活の隅々まで縛るようになったのは昭和19年からで、
昭和18年まではまだお気楽な雰囲気や自由な雰囲気も残っていた。
昭和19年から一般の兵士の町内会の壮行会等も行われなくなり
一気に暗い世相へ。
128:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 06:58:27 5teqAC+90
地方では町内会の壮行会は昭和20年になってもやっていたらしい。
東京や大阪と違って食糧の調達がしやすかったので、生活状態が大都市より
比較的よかったからかもしれない。
地方は大都市と違って結構のんびりしていたのかも?
129:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 10:32:37 swHTkP5VO
>>124実体験を立証するのは難しいぞ。
記憶なんてあてならないんだから。
ここでの発言者が嘘をついてる可能性も否定できない。
130:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 10:33:58 swHTkP5VO
>>126を見て分かるだろ。発言の大半が憶測。
131:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 20:30:08 ewLzkeViO
>>126
私の父(昭和4年生まれ)と伯母(昭和元年生まれ)は、スタンドで見ていたよ。
当時は雪が谷在住で、伯母は鶴見に通学中の女学生、動員されたのではなく、友人たちと連れだって、友人のお兄さんの出征を見送りたくて行ったそうだよ。
伯母の感想は
「大雨で、制服がずぶ濡れで寒かった。まだ軍服が似合わない新兵さんたちが、みんな賢そうな顔をしていて、ああ、勉強を続けたいだろうに…と思うと切なくなった」
父は
「遠くから、雨の中で身じろぎもせずに閲兵をし続ける天皇をみて、さすがに立派だなと思った」
「でも同時にまた、天皇の名のもとにこんなに大勢の犠牲をはらわなきゃならないって、これから日本はどうなっちゃうんだ」と思ったそうだ。
132:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 21:04:10 ewLzkeViO
その後、父の一家は昭和20年の京浜地域への空襲で、雪が谷の自宅も、蒲田で祖父がやっていた工場も焼けた。
空襲時は、父は徴用されていた軍需工場の当直をしていた。
3月の東京大空襲の惨状は伝わっていて、火がついたらもう逃げるしかない、バケツリレーなんかしてたら死ぬとみんな知っていたから、当直の軍属も消火作業などしないで、さっさと一緒に逃げたそうだ。
その後、勝浦に縁故疎開していた小学生の弟を迎えに行ってから、祖父の実家がある新潟にみんなで疎開してきた。
空襲以後、新潟に自宅をかまえておちつくまでの苦労話は、父も伯母たちもほとんどしない。
聞いても
「思い出したくない。言葉にできないくらい、いろんな辛いことばかりだったよ。話したくない」という。
133:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/30 07:59:30 XQRNRQfm0
戦争中のこと。
福沢諭吉の孫は金沢の十一屋という地域の連隊にいたそうだ。
休日になると一時間近く離れた家に電話を借りにいっていた。
当時は電話のある家が少なく、家族の声を聞きたいと思っても電話のある家が近辺にないと、
テクテク歩かなくてはならなかった時代だった。
2.26事件のときは、朝ずっとラジオから音が出なくて、どこの家もおかしいなと思ったが、
理由がわからないまま、ラジオの音の聞こえない静かな朝を過ごした。
ラジオから音が出たのは昼過ぎで、そのときにはじめてクーデターが起こり、
ラジオ局が軍隊に占拠されていたせいで今朝はラジオから音が出なかったとようやく人々は知った。
制限選挙の時代は電話があまり普及していなかった。
衆議院が解散すると、選挙権を持っている人の家には真夜中でも電報が届いた。
134:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/03 19:18:36 Q/HVKUS60
群馬出身の婆ちゃんから聞いた話
・昭和18年頃から周囲の家々には疎開してくる人が急増して、楽しそうに見えた。
でも我が家だけは何も変わらず。「なんでうちは他所みたいに人が来ねえだ?」
と母親に聞いたら「うちは東京に親戚がねえからだ」とピシャリと言われたが
子供だったので、なんでうちだけ人が来ないのか、よく分からなかった。
・東京から来た子は服装が垢抜けていて、自分達イナカッペとはえらい違いだった。
田舎にはないゴム毬を見せてもらったときは衝撃だった。あまりの衝撃で、
その日は借りたゴム鞠で夜遅くまで遊んでいて、親に怒られた。
・小学校の前が線路で、学校の男の先生が出征するときは、駅を出た汽車は
学校の前で減速して、生徒全員で旗振って万歳して見送った。
列車の窓の先生は終始無言で敬礼していた。戦死広報が出ると朝礼で校長先生の
「○○先生が壮烈な戦死を遂げられました」という報告があって、凄く悲しかった。
・村で満州開拓に行った家族も多かった。戻って来なかった家族も多かったけど
戻って来た家族も、女性はみんな坊主頭で顔を真っ黒にしてもの凄い状況で、
さすがに能天気な田舎の子供でも満州での事は聞けなかった。
・戦争が終わると、東京の子達がどんどん櫛抜けみたいに帰って行った。
同窓会は今でも毎年欠かさずにやっているけど、疎開して来てた子は
その後連絡不詳になってて、誰一人呼べないのが悲しい。
135:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/08 14:52:20 /DXSyVOp0
自分のうちの墓に刻んである名前の中に知らない人がいた
ある時の法事で岐阜から来た親戚の爺さんが、何者なのか教えてくれた
その人物は自分の祖父の兄にあたる人で
戦前の国鉄に勤めていたが、鉄道事故で死んだそうだ
なんでも昔は、貨物列車の積荷交換で突放ってのをしてたそうで
失敗して貨車に挟まれたか轢かれたかで死んだそうだ
余談だが、祖父の兄の葬式の時に香典泥棒が出たそうな
犯人は、踏切り番のおっさん(今でもうちと仲が悪い)らしいと爺さんは思ったそうだが
地元の有力者の親戚だったので咎められなかったらしい
136:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 17:34:51 ahtU6+QP0
明治始めの廃仏毀釈の際、村には3つの寺があったけど、うちの旦那寺だけが
潰される事になり、鎌倉時代の作と言われる本尊も焼かれる事になってしまった。
檀家総代のうちの先祖(5代前)が一大決心して、仏師に新しい仏像を掘らせ、
仏像焼却の確認に来る県の役人に多額のワイロを握らせて、仏像をスリ換えた。
バレれば投獄さ。鎌倉時代からの由緒正しき仏像は、うちの土蔵を2重壁にして隠した。
75年が経ち、太平洋戦争が激しくなり、うちの村にも土蔵荒らしが出没するようになり
先祖の犯罪がバレてしまうかもしれない、という状況になった。戦争中だから仏像がバレて
「国の指示を守らない非国民の家」という印象を与える事は、当時としては致命的だった。
仕方なく当主は仏像を焼いてしまった。子供だった爺さんがその時の事を覚えているが、
とても無念な表情だったそうだ。曾爺さんから代々命がけで守って来た仏像だからな。
戦争中に仏像焼いてしまって惜しかった、と言うのは簡単だが、その時代時代に、
大切なものを必死で守ろうとした御先祖様達の強い意思を感じるんですよ、私は。
ちなみにワイロを貰った県の役人は、その金で家建てて、その家が昭和30年代まで
あったそうだ。
137:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/11 13:08:57 EOPfz+Rq0
前のスレにも書いたが、うちの爺さんは子供の頃からカナダ人宣教師に英語を習っていて、英語が出来た。
日本が戦争に負けて、進駐軍がやって来て、英語の出来る爺さんは引っ張りタコになったが、
「通訳は板挟みになるから嫌だ。わざと難解な日本語を使って、相手のアメリカ人を煙に巻こうとする
馬鹿な日本人が多くて困る。米兵はわざと難解な英語使う事はしない」と言ってたそうだ。
でも親父が言うには「爺さんの英語は変だった。俺達が英語の授業で習う英語とは違っていて、
aをアではなくエと読んで面食らった。我々のジャパニーズイングリッシュではなくて
本物の英語だったんだろうな」との事。爺さんには子供3人と孫7人いたが
1人も英語はモノにならなかった。教え方はうまくなかったみたいだ。
138:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/25 05:41:15 oQc7cZE20
私が昔通っていたお茶の教室にいた人で糸偏工場の多かった地域の出身の女性がいた。
その人は娘時代がちょうど戦後の混乱期で、近辺には朝鮮の人がたくさん住んでいた。
彼らは戦争中に日本の工場に出稼ぎに来ていた人たちだ。大半の人は契約が切れると
お金をもって故郷に帰ったが、中には日本人と結婚して日本に定住した人や、朝鮮人同士で
所帯を持ったが、まだまだ日本で働いて家に送金しなくてはならず、祖国に帰るのが難しいという
人も多かった。
戦後しばらく朝鮮の人たちはどぶろくを作って生計をたてていた。彼らはGHQの監督下にあるとされ、
日本の酒税法違反にはとわれなかったそうだ。GHQも「本当は密造酒は取り締まったほうがよいのかもしれないが、
こっちは忙しいのでそんなことにまで手が回らない。彼らもそれしか生計の手段がない」ということで、
ほとんど放置されていた。
当時は酒が手に入らなかったので、周辺住民は大切な客がくるときはいつも近くの
朝鮮部落まで行き「お酒わけて」というと、奥から「はいはい」といって、朝鮮の人がいつも
どぶろくを売ってくれたという。
139:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/29 16:20:07 vKUUqhFO0
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.  ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ,、-ー-、 電
| r'"´ ̄`ヾ、 気
| リ ,,, ニ ,,,_ ヾト、 つ
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| ノ.:!:.:.:.:`ゞ-<7.:〉.:.:.:i.:.:} だ ゃ
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と_」.:/!.:.:.:.:.:.:.!  ̄ リ.:.:.:.:.:り ・
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