10/01/29 08:42:59 WZD7MbtXO
明治か大正生まれの爺さん婆さんがいる人の最年少は何歳ぐらいだろう。
自分は24、16の兄弟がいるけど祖父母は大正生まれ。
小中学生で祖父母が大正生まれの人はまだいるかな
51:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/29 12:09:00 HDrrItP60
南方で病気になって小便が無意識に出てくるようになった爺さんは
開き直ってちんぽを露出してたらしい
上官に、おい○○!ちんこが出ている!隠せと怒られたが、事情を話すと笑って納得してくれたらしい
慰安婦はアイドル的存在で、皆で護衛しながら買い物に付き合った
お気に入りの慰安婦に喜ばれたい一心で、皆こぞって護衛依頼を引き受けていたらしい
捕虜となり、英国下の収容所にいたときは
皆でこっそり脱走して、食べ物を入手していた
インド人の守衛は見て見ぬふりをしてくれた
ある日、現地人が拾った日本の銃を見せびらかしにきた
「おまえら日本人には、こんな立派な銃は作れないだろう?」フフンと得意面
「きさん!これは日本の銃やろうがバカちんが!」っ言いうと
「違う違う!これは俺達が作った!」と、顔を真っ赤にしながらも認めなかった
他にも色々あって、マレーの人間は怠け者のくせに負けず嫌いが多いと言っていた
悪いことをしたと感じたのは
村の人々から、切らないでくれと懇願された木を切り倒したことらしい
上官の命令とはいえ、嫌な気分だったと言っていた
戦闘がない夜、恐ろしいのはトラだった
寝ていたら食い殺された同僚や、口を引き裂かれた同僚が出たため
小規模なトラ狩りを行ったらしい
乾いた泥で覆われたトラの毛は鎧のようで、銃弾がなかなか効かなかったと
タケノコが豊富にあったので、タケノコはよく食べたらしい
爺さんのマレーやビルマ戦線での話
親父からのまた聞きだけど・・・
52:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/29 12:40:07 cqskQJ6V0
昭和63年生まれの21歳
祖父は大正7年生まれ陸士52期
曾祖父は明治19年生まれの陸士19期
祖父とは70、親父とは40離れてる
まわりなんかと1世代くらいズレてる感じだな
親父は団塊世代なのに団塊ジュニアじゃなくバリバリゆとり世代
53:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/29 21:27:33 zNDYve+5O
漏れのGチャンKO生まれ南京で支那丸太100本切りチンポビンビン最高だZE!
54:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/30 18:19:55 9xooWTEpO
他スレにも書いたが
大正2年生まれで今は亡きうちのじいちゃんと3コ下くらいの弟は栃木・足利市で震災を体験
地震は昼だが、夜になると南の空が真っ赤
まさか帝都の火災が栃木から見えてるとは思わないので「隣町が火事だ!」と思い、
若い衆が栃木県境のすぐ南の隣町・群馬県館林に消防団?みたいな感じで出発
明け方になってトボトボ消防団が帰って来て「館林は無事」てのがわかる
後日、列車での引き上げ者により東京の惨状が知らされた
夜に南の地平線上が真っ赤なので常識的に考えて
「南に7㌔離れた群馬県館林が地震で大火災だ」 と思ったらしい
1923年9月1日に北関東から帝都を写した写真とかないかなあ
うちのじいちゃんは
「とにかく南の空が真っ赤」と行ってたが
どんくらい明るかったんだろ
55:名無しさん@お腹いっぱい。
10/01/31 22:02:06 T6P4DXkz0
URLリンク(www.honya-town.co.jp)
これ、すすめてみる
56:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/05 01:50:03 wAtSRWwW0
幕末とか、皆凄いな。
両親が天安門事件リアルタイムで見たって聞いて、深夜一時まで騒いでたのがばからしくなってきた。
戦車に轢かれた男の人がぺっしゃんこになってたらしい。
そんなマンガみたいになるものなのかな?
57:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/05 02:41:25 OSZxemC50
>>56
天安門で戦車に轢かれた人に関してなら、
この動画が一番分かりやすいかなあ。
URLリンク(www.youtube.com)
血が嫌いな人は見ない方がいいかも。
検索すれば多分もっと出てくると思う。
58:56
10/02/08 00:24:47 3biLUA+b0
>>57
ありがとう!
ちょっと怖いけど見てみます。
大阪万博に行った話とか、聞いた事ある人いますか?
59:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/12 00:31:53 Bh7MDyEu0
大阪万博ならこのスレにだって直接行った人間がいるだろw
さすがに趣旨とずれすぎ
60:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/15 19:30:43 hZ7cdeYgO
56が単細胞な件
61:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/23 04:12:02 sBDfcyOr0
>>41
うちの祖母は広島・尾道高女に通っていた。1905年生まれなので大正時代の女学生さん。
林芙美子と同級生で、「林さんは体育をよくサボっていた」とか語っていた。
大金持ちの商家の娘である祖母と貧乏勤労学生の林さんとで話が合ったのかどうかわからんが、
私が話を聞くころには祖母はボケが始まっていたので、あまり詳しい話は聞けなくて残念であった。
祖母は女学校出た後、警視総監やってた叔父の紹介で内務省の役人と結婚。
林さんとはえらい違う人生だ。
62:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/02 21:25:41 PRA0yt5n0
終戦直前、集団学童疎開に行っていた母と伯母を祖母が訪ねて行った時、
先生が授業もせずにだらしなく寝そべっていたので、怒って抗議したら
「○○さん、これからも日本という国があると思っているんですか!」
と逆に凄い剣幕で怒鳴りかえされた。
よほど印象が強かったらしく、母や伯母は後々までその話を聞かされたという。
この頃になると、もう駄目だというのはみんな薄々分かっていたんだな…。
63:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/02 22:15:47 CxfQ5+uH0
>>62
仕事で戦時中のことを色々な人から聞き取り調査したけど、
戦争も終盤は、日本はもうダメポってかなりの人が実感していたようだよ。
でも、誰もそんなことはっきりと口に出せる状況じゃなかったそうな。
変なこと言えば、民間じゃ非国民と呼ばれ、軍隊じゃぶん殴られると。
64:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/02 23:45:21 PRA0yt5n0
>>63
>誰もそんなことはっきりと口に出せる状況じゃなかったそうな
>変なこと言えば、民間じゃ非国民と呼ばれ
そうだったみたいですね。うちの母もよく「あの頃は、今みたいに『戦争は嫌だ』なんて言える雰囲気じゃなかったし、何かあると親(祖父母)から「そんな事を言っていると憲兵さんがくるよ」と脅かされた、と言っていました。
65:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/06 11:35:31 5YNe5z270
母に見送られながら列車に乗って出征した。
窓から母が見えなくなるまでずっと手を振った。
もう二度と会えないんだなと思いながら。
という夢を見て、泣きながら目を覚ました。
赤紙の来ない時代に生まれて本当に良かった… orz...
66:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/08 16:44:46 7hbhwF+K0
270 :名無しさん@一本勝ち:2010/02/06(土) 00:29:28 ID:2hygkNmN0
やはり大河効果もあってか、各種メディアで杉並が江戸以来の千葉道場であるかのように
取り上げられることが多い。
さらには素人歴女が道場に見学に行って、感動してしまったことを自分のブログに書く始末。
誰か本気で注意してあげてほしい。
スレリンク(budou板)l50
URLリンク(ja.wikipedia.org)
67:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 21:03:11 KKzPo0+P0
じいさんは(生きていれば89歳)蜂の子は食べていたそうだ。
68:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/10 23:58:55 xJ4MPrJE0
>>32
わろすw
69:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/14 14:06:23 BreEo4TE0
>>65
赤紙が来ない変わりに、アメリカ・ロシア・韓国・北朝鮮・中国・オーストラリアなど
あちこちの国からナメられまくって、領土や領海を侵食され、日本の捕鯨船は
オーストラリア船の攻撃を受けているけどな。一体、どちらがいいのやら
70:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/26 18:53:44 qxktOrkL0
大正2年生まれの婆ちゃんから聞いた話 もう死んだけど
昔は女も立ちションしてたそうです
一連の動作を云えば、
①立った状態で前屈みになる
②少し足を広げる
③着物の裾をめくる
④噴射を待つ
ズロースが流行したので出来なくなったそうです
71:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 00:27:44 ko71zwjb0
介護関係の仕事をしてるんだけど利用者さんの祖父が慶応生まれで一生仕事をしなかったそうな
賭博で家を滅茶苦茶にしたらしい
72:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 01:16:42 glOOq30X0
婆さんの婆さんが戊辰戦争を目撃したらしい。
兵隊がやってきて農民に鉄砲を向けたのだが、「無駄玉撃つな~」とか言ってやり過ごしたとか。
史実を調べたら、敵が向かってくるので、戦おうと思った武士の指示もむなしく、鉄砲撃たれたら
農民兵は皆逃げ出したとか。向こうは洋式銃だしなあ。そりゃ怖いだろう。
73:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 12:26:56 DWTQFYVAO
>>72幕軍も官軍も洋式銃なんだが。
つか君のひいひい婆さんは戦場で何してたの?
悪いけど説明不足な点だらけだし
口伝はあてにならんよ。
74:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 16:30:02 glOOq30X0
>>73
田舎の戦線だ。ちなみに、敵方が「賊軍」で新式銃を持っていて、こちら側が官軍だが準備不足で
火縄銃があるだけ。一応、猟師が火縄銃持っていたようだ。
どこかを書くと、2chでは危険なのでそいつは勘弁。
戦争が始めると、女は直ぐに逃げていたはず。戦闘の経緯は男から話を聞いているだろうな。
75:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 19:02:04 DWTQFYVAO
悪いけど幕末の口伝は信用しないから。
歴史は史料じゃなきゃね。裏付けされた史料。
君を嘘つき呼ばわりするつもりは無いけど
信憑性に欠け過ぎなんだよ。
「男達に聞いた」って君の予想の範疇だし。
突っ込みどこが満載なんだよね。
裏付けできなきゃ駄目だよ歴史は。
スレを否定するつもりはないが
幕末や明治の話は無理があり過ぎるよ。
大正もギリギリ無理と思う。
戦後生まれが60代な時代だし。
142年前口伝は信用できないな。
嘘の可能性だってあるわけだしね。
ゴメンね。
76:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/05 00:18:09 Du4D39Pn0
俺の爺さんは、足柄にのってジョージ五世の戴冠式に行った。
スエズ運河とパナマ運河両方を通ったらしい。
その時、エジプトとアメリカとドイツに立ち寄ったらしい、
家には、エジプトの古ぼけたレリーフとドイツの水兵が帽子に巻くリボン?と
戦前のドイツの町の写真集と、戴冠式参加記念の花瓶が残っている。
コンタックスのカメラも買ったらしいが、終戦時に進駐兵に高値で売り飛ばしたらしい、
パナマ運河を通った話は、子供のころ随分たくさん聞いた。
アメリカに立ち寄ったとき、八百屋でスイカを買い、皆で食べた話も聞いた。
エジプトのピラミッドを見た話も聞いた。
後はマレー沖海戦にも参加している。
終戦間際は鹿屋にいたが、その時の話はやはりあまりしたくなかったらしく、
きいていない。
77:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 14:34:53 5uDa5Qis0
前のスレにも書いたが、俺の爺ちゃんは赤紙が来たので、もう生きて帰れないと思って
家業を他人に売却して師団本部に出頭したんだが、最初に身体検査をしたら「お前は帰れ」。
こういうのを即日帰郷要員と呼ぶらしい。チビでど近眼だったから戦力外になったんだろう。
その時は即日帰郷要員は5人いた。故郷で盛大な壮行会で送られた手前、帰るに帰れなくて
師団本部前の旅館で5人で呆然と過ごしていたら、数日で金も尽きて、仕方なく帰ったが
もう仕事もなく失業状態で、「戦力外」のレッテル付きだから就職活動もやりにくく、
終戦まで、ものすごく肩身が狭かったそうだ。ちなみに爺ちゃんが入る筈だった師団は
フィリピンで壊滅したから、帰されなければ爺ちゃんはフィリピンで死んでいただろうけど、
爺ちゃんは米軍と戦いたかったらしく、平成10年に亡くなるまで帰されたのを悔しがっていた。
78:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/12 20:13:28 9F7x/BhnO
じいちゃんはフィリピンのどっかの島に送られ敗走。
猿、蛇、虫などを食って生き延びたらしい。
銃はもはや狩りの道具であり戦う意志はなかったらしい。
どうやって日本に帰ってきたかは分からない。
あとそのじいちゃんは沖縄人でドル使ってたと言ってた。
大したことない話でスマソ。
79:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 00:01:49 mxf5wBOL0
うちは父方の爺さんに婆さん 母方の婆さんが健在
爺さん 職業軍人(志願)一家離散して12歳から米奉公(俵担ぎ)軍人になって出征するときに
全貯金を先祖供養のため、墓と永代供養料を払って出征
日中戦争で徐州方面 太平洋戦争で南方へ(インパール)
自分が所属していた部隊200余名のうち生き残ったのが6名。
じいさんはアラカン山脈を越え英軍と交戦 丘陵の下から高段にある英軍陣地を攻め上がったそうな
爺さん曰く「坂道だからな。向こうは手榴弾を転がすだけでいいんだ。こっちは必死に投げ返すんだけど、また コロコロと戻ってくるんだよ」と笑って今でも言う
手榴弾の爆発により左肩と左ほほに重傷を負う。「血が水道の蛇口めい一杯開いたみたいにジャージャー出るんだよ。しばらくしてタバコを吸うと全く吸えない。ホッペタに大穴が空いていたんだな」
今でこそその傷はふさがっているが、痛々しく残っている。
今でも遠い目で言うのが「中隊長だった○○さんが「お前は長男だろう。お前が死ねばお前の家が絶える。ここは(前線陣地)もういいから後方に状況を伝えに走れ」と言われ生き残る。
その隊長さんは直後に突撃して玉砕。戦後の戦史にてその後を知る。漏れの小さい時もよく戦史を読んでいた爺さんの背中が寂しげだったのを覚えている
白骨街道を超え退却。この時の事は多く語らない。ただ一つ聞いたエピソード
「味方と合流して退却していると友軍の死体が大量にある地に着いた。なんとかお国に帰してやろうということになり、足だの手だのを切り取って持ち帰ったよ」
結局 戦後捕虜となり 無事復員
戦中のエピソード
「従軍慰安婦ってのはな。ある時突然小屋を作って商売を始めるんだ。コンドームが支給されて皆行くんだけどもすごい行列になるんだ。でも兵隊なんかタマッてるからな
10秒もかからんで出ちまうんだよ。小屋の前まで行ったがなんだか気持が変わって結局やらんかったわ」
「軍隊のいじめは酷いもんだった。「自転車こぎ」ってのがあってな。机二つに手をついて自転車を漕いでるように空中で足を回転させるんだ
そうするといじめ屋が「上官がいらっしゃったぞ!敬礼をしろ!」って言うんだ。敬礼したらすっ転んじまう。そうすると「誰が辞めていいといった!」
といって往復ビンタ。敬礼しないと「貴様!無礼だろう!」といって軍靴で往復ビンタ。歯がな 折れちまうんだよ。
なんかおもいつくだけ書いてみたよ 主旨違いならスマソ なんかノスタルジックな気持ちのまま勢いで書いてもうた
母方の婆さんは沖縄。沖縄戦の渦中で生き残ったツワモノ。また今度書いてみるさ
80:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 03:35:34 IYftjgM60
>>79
うう…牟田口の被害者がここにも…
81:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/17 18:47:53 lBlbWFxiO
私が中学生のころ、祖父(明治40年~平成5年)がその祖父(嘉永2年~大正12年)から聞いたという話をしてくれた。
祖父の祖父・D吉がある日、田の草取りに行ったら、畦道のはさ木(縄をはって刈った稲を架けて乾燥するための並木)の根元に眠りこけている侍がいた。
侍は、D吉の足音で目をさまし
「雪峠で戦があったが、会津はもう負ける。鉄砲うちあいの戦はおっかねえ。俺はあんまりおっかねくて、逃げてきた」
「クニにはもう帰れねえから、行けるとこまで逃げる。なんでもいいから山着(やまぎ=野良着)をくれ。お前がいま着てるがん(もの)でもいいから」
と、半分恫喝半分哀願だったという。
82:81
10/04/17 19:05:55 lBlbWFxiO
続き
D吉は半分恐怖半分哀れに思い、持参していた水入れの筒とふかし芋をやり、家から古い山着とワラジを持ってきてくれてやった。
侍は着ていた装束と刀2ふりをくれると言ったが、百姓が刀を隠し持っていれば咎められるので、ムシロでくるんで、侍に無理矢理持たせた。
装束は蔵にしまっておいたが、よくみるとあちこちに血がついていて、そこからネズミにかじられたり朽ちたりしていって
「汚いし邪魔くさい」という家人に、いつのまにか棄てられたようだ。
北越戦争の雪峠の戦いだったのだ。
あれからすぐ維新になったから、後から思えば刀ももらっとけばよかった。
ちなみにウチは、新潟県魚沼地方。おしまい。
83:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/17 21:36:55 XdqA4kDu0
ほほう、侍の話が聞けるとは思ってもなかったぜ。
84:81
10/04/17 22:38:07 lBlbWFxiO
>>83
又聞きですから、誇張や省略、聞き違いもあるかもですよ。
祖父が直に見た話をひとつ。
祖父が青年のころ、近所に日露戦争帰りの廃兵さんがいた。
この人は出征するまでは心身壮健で快活な好男子だったのに、戦地で悲惨な死体や重傷者を目の当たりにしたため、
「シンケイ(神経)になって帰ってきた」と言われていたそうだ。
※シンケイとは、このへんの年寄りが鬱病やノイローゼといった意味で使うことがある。今でいう、PTSDなのだろう。
ある日この廃兵さんの家が提灯の不始末から火事をだした。
祖父たちが駆け付け、布団や家財を運び出そうと苦労している中でも、廃兵さんはふぬけた表情で座ったまま。
自分の着物に火の粉がとんでくすぶりはじめても、消そうともしないので、祖父たちが叩き消し、この人を担いで逃げたそうだ。
85:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/17 22:49:18 lBlbWFxiO
途中で送信してしまった
この廃兵さんはその後、風邪がもとであっけなく亡くなったらしい。
祖父いわく
「昔話の『三年寝太郎』ってのは、あれはたぶん廃兵さんみたいな奴かもしれない」
「大昔のいくさに足軽に駆り出された農民が、白兵戦で悲惨で残虐な人馬の死体をみて、腑抜けになってしまったこともあったろう」
祖父自身は甲種合格で初年兵教育にいったものの、前線にいくことはなかったそうだ。
86:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/17 23:43:09 lBlbWFxiO
ついでに>>85の、祖父が初年兵教育について語ったこと。
※聞いた当時の私が中学生で、知識不足で理解しきれなかったり、聞き間違えたこともあるかもしれないがお許しを。
祖父は農家出身だが、同じ班(正確にはなんと呼ぶのか聞き忘れた)に海沿いの村の青年がいた。
彼は半農半漁の貧しい家の出身で、満足に学校へ通うことができなかったそうだ。
農業だけの山村では、田植えや稲刈りといった農繁期には学校そのものが数日ずつ休みとなるし、それ以外の時期は
「子供は学校に行かせないと」ということで、よほどの事情がない限り、尋常小学校へはきちんと通学させてもらえた。
しかし当時の漁村では、漁業の売り上げだけでは生活がなりたたないので、自給自足のため米や野菜もつくらないと食べていけず。
しかたなく、学校を休んで漁や田畑の手伝いをしなくてはならなかった。
それでその青年は読み書きや算数が不得手で、上等兵の指示や戦術などの学課を理解しきれなかったため、毎日のように鉄拳制裁を受けていた。
連帯責任で、同じ班の自分達もたびたび罰をかせられることもあり、そうすると彼が切なそうに皆に謝るのが、気の毒でたまらなかった。
自分は先祖代々、山の棚田や畑で泥まみれになり生きている百姓だが、人並みの学業はおさめさせてもらえた。
なのに同じ時代に生まれながら、小学校にも通えない者がまだたくさんいる…このことが、いちばんショックだった。
以上。
87:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 00:29:13 ukm5FpVD0
>>86
なんつうかね、昔は何が大切な事かって事がはっきりしてるよね
爺さんはいい人そうだね
88:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/03 22:06:07 Fnj0BaNC0
GWにちなんで婆ちゃんに聞いた話。
戦前戦中は二毛作が当たり前だったから、田植えは7月の蒸し暑い時期で、
稲刈りは11月の寒い時期で、真冬に麦踏みとかあって、辛かった。
戦後農地解放になって、裏作止めて、5月初旬の気候がいい時期に田植えして稲刈りは10月になったら、
米の収穫量が2割もアップした。裏作は小作料が取られないから仕方なくやってたが、表作だけにしたら楽だし、
労力減って副業も可能だし、収入は増えたし、生活がウソのように楽になった。
農地解放は農民に取って本当に大きかった、とのこと。
89:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/04 00:10:32 H0o/uG/E0
>>86
それをみると、大正時代に高等小学校の義務教育化をやっておくべきだったような気がする。
90:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/07 00:50:38 UIhphyg40
どうも明治40年代~大正生まれが一番ひどい目に遭ってきたように思えてならない
青少年期に関東大震災や昭和大恐慌、軍国教育の学校教練でシゴキ倒され
戦争が起きてみりゃ片っ端から捨て駒の最前線送り
地獄から死ぬ思いで復員してみりゃ世情一変の焼け野原
飢えても貧しくても、文化人にも若者にも古物扱いされて馬鹿にされて
それでも必死で働いて日本を立ち直らせて
やっと世界に恥じぬ経済大国になったと思ったら、団塊が旨みを全部吸った挙句、一挙に全部パー
詐欺には騙され子供には疎まれ、後期高齢者扱いされて施設で死んだり孤独死
今の独居や施設ぐらしの8~90代の人の現状見てると泣けてくる
91:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/07 22:18:09 CLVmBK5V0
>>90
>軍国教育の学校教練でシゴキ倒され
そりゃ昭和ヒト桁だな。
「大正世代は軍国教育とかなかった。我々は大学から営門へ直接行ったから
ある意味隔離されていて、酷い軍国教育があった事も戦後まで知らなかった」
と、大正12年生まれの司馬遼太郎が言ってる。
92:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 01:00:23 70K9mZzR0
>>91
俺の父親は大正14年生まれで存命中。旧満州生まれ。
某ナンバースクールに合格した、と思われたが最後の春休みに
軍事教練をさぼり、配属将校に睨まれ不合格となってしまった。
その後戦局の悪化により身長が足りないにも関らず徴兵され、敗戦。
シベリア抑留1年程度。
確かに教育としては意外にシゴキは無かったみたいだが、軍事教練では
上記のような目に合っている。その後もっと酷くなったのだろうね。
この時の2~3年の違いは大変な違いなのだろう。
93:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 21:01:19 2Lt2pOI+0
>>92
>軍事教練では上記のような目に合っている
意味不明。サボったんだろ。
軍事教練サボるのが、「軍事教練でシゴキ倒され」なのか?
94:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 21:55:09 8PWlFjdZ0
>>93
意味不明。「軍事教練でシゴキ倒され」なんてどこに書いてありますか?
「教育としては意外にシゴキは無かったみたいだが、軍事教練では
上記のような目に合っている。」
とは書いてありますが。
95:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 23:19:39 AzwxdE4x0
大正6年生まれの伊藤桂一氏が、
中学の軍事教練でシゴキ抜かれたと「秘めたる戦記」で書いてた
元々日蓮宗系の気の荒い学校、おまけに伊藤氏は文弱の徒とみなされて
殴られ放題に殴られた挙句転校するはめになったとのこと
あと、伊藤氏の別の学校の知り合いは80数発殴られて失神したとか
学校や地域によって違うのかもしれん
96:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/10 00:03:58 uVmhpI+00
>>95
ウチの親の場合は旧満州だった故にゆるかった、ということもあったのかも。
天然なのにこの程度で済んで実に運が良かったと言うべきでしょうか。
そういえば天然エピソードがもう一つ。徴兵された後、上官に
「中学出ているんだったら、勉強しだいで軍で出世することも可能だぞ?」
と言われ、「私は職業軍人になる気はありません」・・・w
そう言って相手は当然「何ぃ~~!?」と身を乗り出したが、
もう一人の上官が「まあまあ・・」と取り成したと。
ボコボコにされてもしょうがないが無事だった・・。なんにせよ運が良かった。
古参兵は例によって新入りをいびっていたようで、これは良く聞く話ですね。
97:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/10 17:46:11 hARHk18z0
>>94
>「軍事教練でシゴキ倒され」なんてどこに書いてありますか?
書いてあるじゃん。日本語が不自由か?www
>>90
>軍国教育の学校教練でシゴキ倒され
98:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/10 19:29:12 uVmhpI+00
>>97
あのさ、俺は自分の文章の「上記」と書いているのだよ。
>>90のような目に会っているならきちんと「>>90のような目に」
て書くわ。他人に判りやすいようにね。勝手に誤読してろ。
99:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/10 23:58:48 hARHk18z0
>>98
軍事教練サボったら、配属将校に睨まれるのが当たり前だろ。
お前はアホか?wwww
100:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 00:27:00 rUmj8T4a0
>>99
ああわかった。わたしがどう書いたかなんてどうでもいいんだね。
サボったら配属将校に睨まれるのはそりゃ当たり前w しかしながら
それでも某ナンバースクール側との面接や周りの中学の先生・生徒の間では
受験成功という認識だったと。それがひっくり返ったもんだから回りも本人も愕然。
他の地域・学校や後年がどうであったかは知らんよ。俺の父親の時はそうだったってこと。
ということはそれ以前だったらもっと緩い認識だったであろうと言えるよね。
>>92でも>>91の内容を受けて書いてるじゃない。「その後もっと酷くなったのだろうね。」と。
俺は父親から聞いた昭和の一時期を伝えているだけだよ。
101:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 01:19:22 Lrh8wVwQ0
>>90だけど、頼むから俺の出まかせの所感めぐって喧嘩すんのはやめてくれw
軍事教練のくだりに関しては、俺は伊藤氏の著書を元に書いただけだ
102:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 17:15:33 jMPz5K3y0
ある意味、戦後左翼の戦前真っ黒史観を真に受けた被害者だな。
103:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 23:30:01 NN6i5gsm0
>>100
日中戦争が始まっている戦時下で軍事教練サボるなんてバカにも程がある。
お前がバカなのは親父似か?
104:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 23:52:40 rUmj8T4a0
>>103
全く懲りてないね。軍事j教練をサボったことに対する批判は
それはそれでやればよろしい。>>93から読み返してみろ。
訳の分からん言いがかりばかりだろw 君はまず>>1をまず読みたまえ。
>リアルな実体験話を
>皆に聞かせるためのスレッド。
だ。おれの場合は爺さん婆さんじゃなく親父だけどなw
父親のリアルな実体験を皆に聞かせただけですよw
>>101
いやいや、別にあなたのせいじゃないですよ。伊藤桂一氏も
別にウソを言っているわけじゃないでしょう。
105:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 19:09:55 RTFfeU1r0
>>104
>軍事j教練をサボったことに対する批判は
要するにバカだからサボったんだろ
で、バカがお前に遺伝したwwwww
106:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 22:40:20 uy82h5Hu0
>>105
いやーなんでこんなに時間がかかるんだ。感想なら感想だと最初から言ってくれ。
それでいい。
今後は、書いても無いことを書いたと言って他人にからむんじゃないぞw
107:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 18:36:49 QzUvA8Wb0
>>106
自分が暇なニートだからって、他人もそうだと思うなよwww
108:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/14 00:09:51 4su9F2TP0
>>107
無駄に時間をかけてるのは君だろう。全く意味不明。
君がニートかどうかなんて関心も無いが、俺は薄給ながらも普通のサラリーマンですんでw
109:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/16 22:52:55 fyAMyYRH0
軍事教練サボって罰受けて、社会のせいにしているバカもいるんだな
110:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/02 16:22:12 NZhDadhM0
かなり新しい話で恐縮だが、母方の祖父の姉になるおばあさんついての話だ
昔(昭和30年代?)は殺虫剤を噴霧器でシュッシュッやってたそうで、殺虫液を買ってきて置いていたら、
ある時寿司を作っている時に酢と間違えてつかってしまったそうだ
こりゃ食べれんで、ということで豚に食わせたらしい
111:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/03 17:44:19 h+duMxiT0
>>110
その豚はどうなったの?
112:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/06 02:27:42 UEOF/Hfn0
食の安全は地域、時代を問わないということだな
113:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/12 19:11:08 4uZ+7JoO0
婆ちゃんからDDT散布の話を聞いたよ。
駅の改札を通ると、頭と服の袂にDDTをシュッシュと吹きかけられて
全身真っ白になったそうだ。今じゃ考えられない話だな。
残留性を指摘されて、70年代にDDTは使用中止になったけど
「DDTはパウダーみたいで気持良かった。DDTをかけられて病気になった人なんて
聞いた事がない。あれで日本からシラミが一掃された」と婆ちゃんは
懐かしそうに言ってた。
114:自分が爺さんです
10/06/15 10:00:55 zXqyqro30
>>110
T型のヤツですね。
みんな一升瓶に入っていました。
牛乳と間違えて農薬を飲んで死んだ子がいました。
115:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/15 14:07:54 8i0Jh8ms0
明治生まれの父方の祖父は、真珠湾のニュースが流れたときは、もうすでに企業の第一線で
働くビジネスマンでした。
祖父が存命の頃、聞いてみたことがあります。「真珠湾の第一報を聞いた瞬間どう思った?」
祖父の答えはこれでした。
「なんてばかなことを!こんなもの勝てるはずかない!!」
あの当時はよほど田舎で情報遮断の状態に置かれていた地域の人ならともかく、地方でも県庁所在地の
都市生活者は、仕事上いろいろなところで情報を得ているので、最初から日本とアメリカが戦争なんか
やっても勝てないとわかっていました。
ちなみに母方の祖父も「勝てるわけない」と思ったと祖父が亡くなってからですが、祖母から聞きました。
父方の祖父は仕事でよく軽工業製品を見ていました。「軽工業製品ですら彼我の技術差は歴然としている。いわんや重工業をや」と
いつも思っていました。母方の祖父は機械製造会社に技術者として勤務していたので、アメリカ製の
機械がいかにすぐれているかをいやというほど知っていました。
私が祖父たちのこの話から得た教訓は「情報は命」ということです。
学徒出陣の映像をみているとわかりますが、あの子たちみんな憮然とした表情ですよね。半ばやけくそみたいな。
「だからこんな馬鹿げた戦争なんかおっぱじめるんじゃねえっての!あほくさ。犬死だろ俺たち。ちくしょー、
やってらんねえよお」ってむすっとした顔しています。
全員わかっていたんですよね。二年前の時点で「こんなもん勝てるはずねーだろ」と。
もちろん彼らの親が地方在住でも都市生活者で、開戦時点で「なんてバカなことを!」と思った人たちだったと思います。
116:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/15 14:35:56 8i0Jh8ms0
学生時代の恩師も学徒出陣世代です。理科系だったので兵隊にはいきませんでしたが。
恩師も「最初から勝てないって庶民は口にこそ出さなかったものの、みんなわかっていたんですよ。
僕は真珠湾の時は学生でしたが、勝てもしないのにバカだよなあなんて、友だちとこっそり軍部の悪口いいながら
呆れていましたよ」と言っていました。
戦争中のこと。母方の家は祖父の仕事の都合で東京にいましたが、戦争がひどくなり金沢に疎開しました。
祖母が町内会長の家に挨拶にいき、今まで東京で暮らしていたと言ったところ、
会長は「東京なら味噌の配給はたぶん多かったと思いますが、ここでは東京みたいに味噌はたくさん配給されません。
金沢は朝は味噌汁を飲まないからです。」と告げられ、大変な土地に来てしまったと一瞬ショックで放心状態になってしまったそうです。
田舎だから大豆の生産地に近いし味噌は東京と同じくらい配給されるものと思っていた祖母はあてがはずれまくり、着物をコメや味噌や芋と交換して
食糧難の時代をやりくりしました。
母方の祖母は明治生まれですが、大正時代は富山の県立高女に通っていました。
女学校は入学したときは着物+袴です。髪は団子髷を結うのですが、高い位置で結うとハイカラになりすぎ、
女学生がとかく華美に走ると教育上よろしくないと、低い位置で結うように厳しく指導されました。
校門で毎朝教師がものさしを持って立っていて、襟から何寸と髷の位置が校則で決まっていたので、
髷が校則通りの位置で結われているかをチェックされました。
でも女学校が着物+袴だったのは二年までで、三年からは洋装になりました。
白いブラウスにこげ茶色のジャンパースカートで白ソックスと黒革靴。髪型は華美ではなく学生らしいもので
あればOKとなり、みつあみにしたり、みつあみを耳のところで輪にしたマーガレットという髪形にしていました。
リボンの巾は一寸と決まっており、教師は毎朝校門でものさしでリボンの巾を計ってチェックしていました。
祖母は関東大震災を知っています。富山にいても大揺れに大地が揺れたそうです。祖母は友達と明日の授業で使う
フランス刺繍の糸を手芸店で選んでいました。とつぜん世界がゆれまくり、友達とキャーッと叫んで座り込んだといいます。
関東大震災は大正生まれの私のお茶の先生も金沢で体験しています。先生の父親は内科医として市内の病院に勤めていたので、
病院の近くにある医師住宅に就学前の先生は住んでいたのですが、小さな庭の片隅にあるつくばいの水が震災のゆれで、
じゃばじゃばこぼれていくのを、この年齢になってもありありと思い浮かべることができると言っていました。
117:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/16 17:47:46 Wv3JJz+X0
テレビなんかでいう昔の生活って首都圏のことを言ってる。
たとえば日本髪の島田髷。これは若い娘の髪型であるとよくいわれ、昭和天皇の長女や酒井美意子さんなんかは
娘時代に結ったという(18かそこらの頃)。
しかし北陸では島田は少なくとも昭和に入ってからは主婦の髪型だった。祖母は昭和2年に結婚したが、
近所に髪結いがあったので日本髪にしたことがある。髪結いでは「主婦ですか?なら丸髷か島田になります」と
いわれ、最初は丸髷にしたが帰宅した祖父が「かぼちゃに藁かけたみたいだ。お前に丸髷は似合わん。
まだ島田のほうが見てくれもいい」と言ったので、翌日島田に結いなおしてもらったことがある。
また伯母の友人は田舎の小さな村の出身だった。その村では女性が正月に日本髪を結う習慣が戦後しばらく
残っていた。村で髪結いの技術を持っている人に頼んで結ってもらうのだが、その村では
女学校に通う年齢は桃割れ、卒業して結婚前までは結いわた、結婚すると島田か丸髷と決まっていた。
江戸では島田は娘の髪型とされて昭和に入っても若い娘が結うものとされたが、それはあくまで江戸の話。
日本全国どこでも島田=若い娘だったわけではなく、島田が主婦の髪型だった地方もあるのである。
日本全国津々浦々しょうゆが台所で当たり前に日常使いされるようになったのは、せいぜい昭和30年以降。
味噌は簡単に作れるが醤油はそうではないので、農家は大豆を自給していても、調味料は味噌であり
醤油は大事な客があったときに出す料理にのみ使うぜいたく品だった。いつも台所の奥底にビンが鎮座
ましましており、年に何度かしか出番はなかった。
普段は野菜でもなんでも味噌で煮たものか、せいぜい味噌の上にたまる味噌だまりを醤油がわりに使う程度。
味噌だまりは味噌を手作りしている人ならみんな知っていると思うが、見た目は醤油そっくりである。
ただし風味は味噌w。魚などはこの味噌だまりでよく煮たという。
海苔も昔はぜいたく品で、富山県ではごはんにのせるのはとろろ昆布。富山で一般の人が
当たり前に海苔を食べるようになったのは戦後である。
納豆も北陸では戦後になってようやく流通するようになった。大正時代に創業された
納豆屋もあることはあるが、昔は大量に作って広く流通させることはないので、
せいぜいその店の周辺地域でしか消費されない。その土地でとれた大豆を
その土地で加工し、その土地の人が食べるのだから、ごく狭いエリアで全て
が完結してしまう究極の地産地消である。
よって明治生まれの北陸の人は納豆を知ってはいるが食べたことがないという人が大半だった。
自分の家の近くに納豆屋がある人ならともかく、大半の人は東京に働きに出たり進学したりして、
ようやっと「あーこれが納豆売りか。東京では朝になると納豆売りが来ると聞いたけど本当なんだなあ」と
一種の感慨にふける。そして噂の納豆をやらを食べてみよう・・・くぁwせdrftgyふじこlp;
最初は強烈だったが、そのうちやみつきになり「納豆最高!」となるのであった。
118:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/16 17:55:08 Wv3JJz+X0
日本全国津々浦々現金が流通するようになったのはせいぜい昭和40年以降。
離島や開拓村や山奥のような僻地では現金がほとんど流通していなかったので、
戦前はもちろん戦後もかなり長い間行商人とは物々交換であった。
東北の山中にお茶を担いで入ってゼンマイと交換する、繊維製品のような軽工業製品を
芋と交換する、といった具合だった。
僻地医療も現代人からは想像を絶するもので、戦後になっても大根や芋や乾燥・塩蔵山菜を
治療費や薬代がわりとしたとか、僻地の診療所の仕事は患者の診察ではなく死亡届を書くことだったとかいう話である。
119:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/19 11:00:35 oxfEDVDaO
>>115後半は終始オマエの妄想じゃん・・・
120:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/19 14:01:03 x+1FO7kg0
歴史なんてのは半分妄想ですから。
121:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 07:05:49 n2dKzgNz0
117にちょっと一言
北陸で納豆が広く流通したのは戦後というより高度経済成長のころからくらいじゃないか?
安孫子素夫は藤本とともに勤めをやめて昭和29年に富山県高岡市から上京したが、
トキワ荘に入る前はまかないつきの下宿にいた。
そこでは朝は納豆にご飯と決まっていて、家にいたときは二人とも納豆なんて見たこともなかったので、
上京してはじめて納豆を口の中にいれた時はカルチャーショックなんてもんじゃなく、朝食の納豆には
かなり閉口したらしい。
昭和29年といえば朝鮮戦争のおかげで景気がよくなって、一億総貧乏のどん底からなんとか
脱した感じだったのではないかと思うが、納豆が北陸に広く普及するまでには、まだかなりの
道のりだったということになるなあ。
122:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 07:10:43 n2dKzgNz0
確かに歴史というのは大都市圏の話が中心になるので、地方でもそうだったのだと
つい考えがちになる。でも日本列島は南北に長いので決して大都市の話が地方にもそのまま
通用するものではない。
ベーゴマなんかも大都市の子はよく遊んでいたが、地方ではそんなものは知らないという子も多い。
七草粥も正月に雪のない地方の風習で、雪国では七草粥の風習はない。雪の下に植物が
埋もれているので採取しようがないからだ。
土用のうなぎもそう。うなぎのとれないところでは土用にはどじょうのかばやきを食べていた。
123:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 09:35:16 UQ4Os4QWO
>>120発想が中学生だね。
歴史は文献検証の連続だよ。
124:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/20 14:55:16 st9NwyB50
ここは実体験を聞いたことを書くスレでしょ。推測なり検証は別スレでやれば。
125:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 15:09:03 UhO5d+Ax0
日経新聞の私の履歴書に出ていた話。
学徒出陣で繰り上げ卒業世代の経済人の回想によると、東大の卒業式に東条英機が
メッセージしに来た。東大生は全員「なんで戦争なんかにいかなきゃなんねーんだよ。」と
口をへの字にまげてしかめ顔をしていたそうで、卒業式といっても寿ぐ雰囲気ではなく、
お通夜みたいな空気だったとか。
東条は壇上に立って「あの、みなさん、繰上げ卒業でとても腹を立てていると思いますが、実はね、
私も繰り上げ卒業だったんですよ。私の学生時代はちょうど日露戦争の頃で、学生がのんびり勉強しているような
ご時世じゃないなんていわれましてね。私だってもっと学生生活続けていたかったんですよ。でも
それは許されなくて、繰上げ卒業で戦場に出されたんです。でも今こうして東大の卒業式に出て、みなさんの前で
お話しているんですからね。人間の運命って本当にわからないものなんですよ。だからそう腐らずに・・・」と
大変気を使っていたという・・・・w
戦争中は学校に将校が配属されていて、キャンパスを軍人が我が物顔で闊歩し、軍事教練とかを課していた。
ある日、キャンパスを歩いていた東大生に将校がいきなり「貴様、軍人勅諭をいってみろ!」と
つっかかってきた。周囲にいた子はみんな「あー、こいつ運悪いなあ」と思った。何も言えずに口ごもっているとビンタが飛んできて
何人も殴られていたからだった。
するとつかまった子は大声で「ひとつ、軍人は政治に関与せず!」と怒鳴り返した。
軍人はばつが悪そうな顔で舌打ちして立ち去った。みんな拍手喝さいした。
126:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 15:27:10 UhO5d+Ax0
学徒出陣のニュース映画の映像だけをみているとわからないことが多いが、
インターネットのおかげであの裏がわかるようにはなっていると思う。
実はあの式典の終了後にゲートから出て行こうとしたとき、いきなり女の子が立ち上がって、
いっせいに出入り口に走りよって、男の子に向かって「生きて帰ってきてください!」と叫んた。
(中にはがんばってくださいと叫んだ子もいたらしいが)
出陣学徒壮行式典は昭和18年の秋だけだった。翌年には開催されなかった。
これはなぜかと考えるに、たぶん女の子の「生きて帰ってきてください!」が
原因だったんじゃないかと思う。
士気を高めるために女の子を大量にあそこに動員したのですが、その女の子がまさかいっせいに
「生きて帰ってきてください!」と叫びだすとは夢にも思わなかったのだろうね軍部は。
もちろん予算も逼迫していたこともあるだろうけど。これは士気が低下すると思ったのだろう。
でも女の子の「生きて帰ってきてください!」という声が耳に入った瞬間、「彼女たちを守らなくてはと決意した」と回想
している人もいるので、女の子の「生きて帰ってきてください!」は必ずしも士気の低下を招かなかったのではないかとも思いますが。
このエピソードを聞くと、戦争中の日本のほうがまだ北朝鮮よりましだということ。
北だったら、ピョンヤンの金日成スタジアムで出陣学徒壮行式典をやったら、
集められた女の子がいっせいに「生きて帰ってきてください!」と叫ぶ自由はあるかな?
たぶんないと思う。出陣する男の子に向かって「生きて帰ってきてください!」なんて
一人でも叫んだら最後、全員連帯責任で逮捕されて収容所送りになるw。
127:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/28 18:53:44 eDZqKHUu0
>>126
>出陣学徒壮行式典は昭和18年の秋だけだった。翌年には開催されなかった。
>これはなぜかと考えるに、たぶん女の子の「生きて帰ってきてください!」が
>原因だったんじゃないかと思う。
日本が戦時色が一気に濃くなって、
国民生活の隅々まで縛るようになったのは昭和19年からで、
昭和18年まではまだお気楽な雰囲気や自由な雰囲気も残っていた。
昭和19年から一般の兵士の町内会の壮行会等も行われなくなり
一気に暗い世相へ。
128:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 06:58:27 5teqAC+90
地方では町内会の壮行会は昭和20年になってもやっていたらしい。
東京や大阪と違って食糧の調達がしやすかったので、生活状態が大都市より
比較的よかったからかもしれない。
地方は大都市と違って結構のんびりしていたのかも?
129:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 10:32:37 swHTkP5VO
>>124実体験を立証するのは難しいぞ。
記憶なんてあてならないんだから。
ここでの発言者が嘘をついてる可能性も否定できない。
130:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 10:33:58 swHTkP5VO
>>126を見て分かるだろ。発言の大半が憶測。
131:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 20:30:08 ewLzkeViO
>>126
私の父(昭和4年生まれ)と伯母(昭和元年生まれ)は、スタンドで見ていたよ。
当時は雪が谷在住で、伯母は鶴見に通学中の女学生、動員されたのではなく、友人たちと連れだって、友人のお兄さんの出征を見送りたくて行ったそうだよ。
伯母の感想は
「大雨で、制服がずぶ濡れで寒かった。まだ軍服が似合わない新兵さんたちが、みんな賢そうな顔をしていて、ああ、勉強を続けたいだろうに…と思うと切なくなった」
父は
「遠くから、雨の中で身じろぎもせずに閲兵をし続ける天皇をみて、さすがに立派だなと思った」
「でも同時にまた、天皇の名のもとにこんなに大勢の犠牲をはらわなきゃならないって、これから日本はどうなっちゃうんだ」と思ったそうだ。
132:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/29 21:04:10 ewLzkeViO
その後、父の一家は昭和20年の京浜地域への空襲で、雪が谷の自宅も、蒲田で祖父がやっていた工場も焼けた。
空襲時は、父は徴用されていた軍需工場の当直をしていた。
3月の東京大空襲の惨状は伝わっていて、火がついたらもう逃げるしかない、バケツリレーなんかしてたら死ぬとみんな知っていたから、当直の軍属も消火作業などしないで、さっさと一緒に逃げたそうだ。
その後、勝浦に縁故疎開していた小学生の弟を迎えに行ってから、祖父の実家がある新潟にみんなで疎開してきた。
空襲以後、新潟に自宅をかまえておちつくまでの苦労話は、父も伯母たちもほとんどしない。
聞いても
「思い出したくない。言葉にできないくらい、いろんな辛いことばかりだったよ。話したくない」という。
133:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/30 07:59:30 XQRNRQfm0
戦争中のこと。
福沢諭吉の孫は金沢の十一屋という地域の連隊にいたそうだ。
休日になると一時間近く離れた家に電話を借りにいっていた。
当時は電話のある家が少なく、家族の声を聞きたいと思っても電話のある家が近辺にないと、
テクテク歩かなくてはならなかった時代だった。
2.26事件のときは、朝ずっとラジオから音が出なくて、どこの家もおかしいなと思ったが、
理由がわからないまま、ラジオの音の聞こえない静かな朝を過ごした。
ラジオから音が出たのは昼過ぎで、そのときにはじめてクーデターが起こり、
ラジオ局が軍隊に占拠されていたせいで今朝はラジオから音が出なかったとようやく人々は知った。
制限選挙の時代は電話があまり普及していなかった。
衆議院が解散すると、選挙権を持っている人の家には真夜中でも電報が届いた。
134:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/03 19:18:36 Q/HVKUS60
群馬出身の婆ちゃんから聞いた話
・昭和18年頃から周囲の家々には疎開してくる人が急増して、楽しそうに見えた。
でも我が家だけは何も変わらず。「なんでうちは他所みたいに人が来ねえだ?」
と母親に聞いたら「うちは東京に親戚がねえからだ」とピシャリと言われたが
子供だったので、なんでうちだけ人が来ないのか、よく分からなかった。
・東京から来た子は服装が垢抜けていて、自分達イナカッペとはえらい違いだった。
田舎にはないゴム毬を見せてもらったときは衝撃だった。あまりの衝撃で、
その日は借りたゴム鞠で夜遅くまで遊んでいて、親に怒られた。
・小学校の前が線路で、学校の男の先生が出征するときは、駅を出た汽車は
学校の前で減速して、生徒全員で旗振って万歳して見送った。
列車の窓の先生は終始無言で敬礼していた。戦死広報が出ると朝礼で校長先生の
「○○先生が壮烈な戦死を遂げられました」という報告があって、凄く悲しかった。
・村で満州開拓に行った家族も多かった。戻って来なかった家族も多かったけど
戻って来た家族も、女性はみんな坊主頭で顔を真っ黒にしてもの凄い状況で、
さすがに能天気な田舎の子供でも満州での事は聞けなかった。
・戦争が終わると、東京の子達がどんどん櫛抜けみたいに帰って行った。
同窓会は今でも毎年欠かさずにやっているけど、疎開して来てた子は
その後連絡不詳になってて、誰一人呼べないのが悲しい。
135:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/08 14:52:20 /DXSyVOp0
自分のうちの墓に刻んである名前の中に知らない人がいた
ある時の法事で岐阜から来た親戚の爺さんが、何者なのか教えてくれた
その人物は自分の祖父の兄にあたる人で
戦前の国鉄に勤めていたが、鉄道事故で死んだそうだ
なんでも昔は、貨物列車の積荷交換で突放ってのをしてたそうで
失敗して貨車に挟まれたか轢かれたかで死んだそうだ
余談だが、祖父の兄の葬式の時に香典泥棒が出たそうな
犯人は、踏切り番のおっさん(今でもうちと仲が悪い)らしいと爺さんは思ったそうだが
地元の有力者の親戚だったので咎められなかったらしい
136:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 17:34:51 ahtU6+QP0
明治始めの廃仏毀釈の際、村には3つの寺があったけど、うちの旦那寺だけが
潰される事になり、鎌倉時代の作と言われる本尊も焼かれる事になってしまった。
檀家総代のうちの先祖(5代前)が一大決心して、仏師に新しい仏像を掘らせ、
仏像焼却の確認に来る県の役人に多額のワイロを握らせて、仏像をスリ換えた。
バレれば投獄さ。鎌倉時代からの由緒正しき仏像は、うちの土蔵を2重壁にして隠した。
75年が経ち、太平洋戦争が激しくなり、うちの村にも土蔵荒らしが出没するようになり
先祖の犯罪がバレてしまうかもしれない、という状況になった。戦争中だから仏像がバレて
「国の指示を守らない非国民の家」という印象を与える事は、当時としては致命的だった。
仕方なく当主は仏像を焼いてしまった。子供だった爺さんがその時の事を覚えているが、
とても無念な表情だったそうだ。曾爺さんから代々命がけで守って来た仏像だからな。
戦争中に仏像焼いてしまって惜しかった、と言うのは簡単だが、その時代時代に、
大切なものを必死で守ろうとした御先祖様達の強い意思を感じるんですよ、私は。
ちなみにワイロを貰った県の役人は、その金で家建てて、その家が昭和30年代まで
あったそうだ。
137:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/11 13:08:57 EOPfz+Rq0
前のスレにも書いたが、うちの爺さんは子供の頃からカナダ人宣教師に英語を習っていて、英語が出来た。
日本が戦争に負けて、進駐軍がやって来て、英語の出来る爺さんは引っ張りタコになったが、
「通訳は板挟みになるから嫌だ。わざと難解な日本語を使って、相手のアメリカ人を煙に巻こうとする
馬鹿な日本人が多くて困る。米兵はわざと難解な英語使う事はしない」と言ってたそうだ。
でも親父が言うには「爺さんの英語は変だった。俺達が英語の授業で習う英語とは違っていて、
aをアではなくエと読んで面食らった。我々のジャパニーズイングリッシュではなくて
本物の英語だったんだろうな」との事。爺さんには子供3人と孫7人いたが
1人も英語はモノにならなかった。教え方はうまくなかったみたいだ。
138:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/25 05:41:15 oQc7cZE20
私が昔通っていたお茶の教室にいた人で糸偏工場の多かった地域の出身の女性がいた。
その人は娘時代がちょうど戦後の混乱期で、近辺には朝鮮の人がたくさん住んでいた。
彼らは戦争中に日本の工場に出稼ぎに来ていた人たちだ。大半の人は契約が切れると
お金をもって故郷に帰ったが、中には日本人と結婚して日本に定住した人や、朝鮮人同士で
所帯を持ったが、まだまだ日本で働いて家に送金しなくてはならず、祖国に帰るのが難しいという
人も多かった。
戦後しばらく朝鮮の人たちはどぶろくを作って生計をたてていた。彼らはGHQの監督下にあるとされ、
日本の酒税法違反にはとわれなかったそうだ。GHQも「本当は密造酒は取り締まったほうがよいのかもしれないが、
こっちは忙しいのでそんなことにまで手が回らない。彼らもそれしか生計の手段がない」ということで、
ほとんど放置されていた。
当時は酒が手に入らなかったので、周辺住民は大切な客がくるときはいつも近くの
朝鮮部落まで行き「お酒わけて」というと、奥から「はいはい」といって、朝鮮の人がいつも
どぶろくを売ってくれたという。
139:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/29 16:20:07 vKUUqhFO0
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