09/03/04 20:15:48 uaywas9p0
会津戦争で指摘されているこれらの点について一つ一つ追及していこう
・シナの朱子学を狂ったように信奉していたのが会津藩。それゆえ、普段から百姓や下民を徹底的にイジメまくっていた。
・朱子学に洗脳されたせいで「ならぬものはならぬ」という思考停止家畜武士が大量生産。
・「年上に逆らうべからず」と洗脳され、日新館では年長イジメ文化が大いに栄える。耐えられずに自殺した少年多数。
・会津戦争では、百姓にタタミを持たせて盾代わりにするという卑劣な作戦を立てる。
・官軍の休息場所をなくすと称して地元の村々を放火・壊滅状態に。百姓たちは、住む家も耕す田畑もない悲惨な状態に。
・せっぱつまると、満年齢13-15歳という少年まで戦場に赴かせるというキチガイっぷり。
・会津戦争が終わった後、会津武士たちの遺骸が町中のあちこちに転がっていた。
・しかし、死体処理職の百姓・下民たちは「いいザマだ」と、仕事を拒否して遺体を放置する。
・困った会津藩は「あれは、明治政府が遺体引き取りを禁止したため」などというデマを流してなんとか体面を保つ。
・会津戦争後、猪苗代or下北への移転を命じられたが、地元民の復讐を恐れた会津藩は、遠く離れた下北を選択(笑)
・会津の下級藩士のほとんどは、その下北の未開地に移住して、極貧極寒生活を強いられるが・・・
・上級藩士は、藩の財産をネコババして、会津や東京で悠々自適の余生を送る(松平容保は東京目黒に豪邸建設)。