08/11/29 17:10:21 QimVLLoG0
◆薩長の憎悪の的に
その後の京における会津藩の活躍は、新選組などで詳しく知られますが、
治安が保たれるほど長州や尊皇攘夷の浪士から憎悪される存在になって行った
のです。しかし武力革命を狙う薩長の軍事同盟に対して、皮肉にも容保は公武
合体派の平和革命方式をもっとも強く推進していた大名の一人だったのです。
薩長の武力革命路線がはっきりしてくると それまで腰の座らなかった藩は、
大勢順応派になってしまい、陰謀によって錦の御旗を薩長に取られた幕府と朝廷を
守る役目の京都守護職であった会津藩は、一転して「朝敵」と呼ばれる存在に
なってしまったのです。
王政復古は薩長の陰謀であり、会津藩は面目にかけてこの陰謀を砕く必要から
戊辰戦争が始まりました。これに敗れた会津藩は、それまでの弾圧の怨みもあって、
その後徹底的に薩長から痛めつけられることになります。
◆会津に今も残るわだかまり
戊辰戦争に敗れて藩が解体され、不毛の下北半島に斗南藩として追いやられ、
酷寒の地で食うや食わずの生活を強いられ、薩長に牛耳られた官界に入れず、
やむなく軍隊と教育界に活路を見いだした会津人は、戊辰戦争の敵軍であった
薩長に対して、未だに屈折したわだかまりをもっています。
戊辰戦争は武士と武士との最後の戦争でした。しかし会津側が武士による正規軍で
あったのに対して、薩長連合軍はいわば革命軍であり、その編制が武士だけではなく、
戦の作法のない農民や町民を含めた志願兵が含まれていたのです。
そしてもう一点は、それまでの戦では後方に引き連れて来た僧侶によって、勝敗、
敵味方によらず犠牲者は葬られ、供養されたのですが、薩長連合軍は会津側の犠牲者
を放置し、手を付けることも禁じたのです。これが会津人の心に深い傷を残したのです。
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