大東亜戦争議論スレat HISTORY2
大東亜戦争議論スレ - 暇つぶし2ch450:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 10:13:52 PFpM7Ouh0
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、
それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。
シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、
2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、
4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、
天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。
学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。
学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。
シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、
マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、
両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。
そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。
(中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。
かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。
ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。

ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、
日本語を公用語として強制することまではできなかった。
マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。
しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。

現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。
日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。
大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。
こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。

日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。
特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。
ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。
ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。

451:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 10:16:02 PFpM7Ouh0
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。
ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、
少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。
ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。
勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、
その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、
建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。
すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。

泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。
死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。
あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。

当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた
インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。

「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。
航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。
それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。
彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。
航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。
米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。
バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。
(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。
そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」

カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。

東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。
これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、
一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。
連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、
日本軍によって処刑されたケースを多かった。

香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50~60万人にまで減少した。
その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。

452:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 10:17:06 PFpM7Ouh0
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。
すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が
「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、
しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。
42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、
「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている
(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。

マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。
占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。
その町の数は30以上にのぼると見られる。

東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、
また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは
現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。

第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。
クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。

第二に新聞などで募集したケースがある。
シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。
この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。
たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、
「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。

第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。
マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。
この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。

第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、
結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一~第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。

第五に暴力的な拉致によるケースである。
日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが
インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。



453:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:11:32 PFpM7Ouh0
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、
彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。
また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、
あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、
日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、
東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。

中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、
監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。
その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、
ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。

また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。

地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200~300人が慰安婦にさせられている。
慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、
日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、
ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。
まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。

慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、
警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、
軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。

日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。
被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。
陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。
1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。
こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、
1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」
と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。

占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。
慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。




454:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:12:39 PFpM7Ouh0
日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、
そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、
1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。
さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、
敗戦までに20万9000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。

労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、
42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、
日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。

徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。
彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。
あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。

日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。
それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。

台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、
志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、
うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。

満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。
すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、
農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。
満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、
1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。



455:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:13:51 PFpM7Ouh0
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。
太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。
捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。
沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。
いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。

第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。
中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。
たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、
東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」
と蔑視観が露骨に示されている。

第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。
日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。
国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば
「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。

第三に日本軍の「現地調達」主義である。
日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。
日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。
そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、
実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、
日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。

略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。
女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、
住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。

中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)
人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。
ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。
日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが
(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、
日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。

第四に国際法を無視したことである。
第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。
しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。
日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。
日中戦争~太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。

第五に日本軍内部の非人間性である。
日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。
「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。
軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。
占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。

軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、
アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。

456:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:16:22 PFpM7Ouh0
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。

フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。
ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは
ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。
彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。
彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。

マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。
華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、
日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、
日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して
シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。

英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、
マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。
北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。

中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。
またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。

インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、
これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。

インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、
北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、
45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。

タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。
タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。
抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。
また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。
日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。

ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、
その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。

インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、
日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、
1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。
このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、
日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した。

457:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/20 11:17:42 PFpM7Ouh0
日中戦争~太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。
死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、
中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、
フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、
韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。
ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。
アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある
(『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。

なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。
日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。
日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。

戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。

人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。
マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。
華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。
そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、
あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。
このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。
このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。
日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。

ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。
カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。
日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。
このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。
戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。

植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために
民族間の対立を一層増幅させることになった。

日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。
ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。
これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。
もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、
ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。
しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。
インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。
ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている
ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに
日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。
独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。


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