10/07/18 21:54:41 wK9/vo/e0
世界の歴史界の潮流は、誇りを失った惨めな負け犬共とは正反対なのである。
★ジョイス・C・レプラ コロラド大学歴史学部教授
「日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。いまや真の
独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの
可能性として浮び上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、
政治能力を総動員して、西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、
独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後に
なって思い知ることになるのである。」(「東南アジアの解放と日本の遺産」)
大東亜戦争が西欧植民地主義を終わらせ、植民地独立に導いたのは、歴史的真実なのである。
すなわち、大東亜戦争は植民地解放戦争に他ならなかったのだ。
380:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 22:12:00 wK9/vo/e0
☆インドネシア『歴史教科書』中学3年用
「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が
禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われた
インドネシア語は驚異的発展をとげた。
第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい
規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人が
すべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい
責任を要求する、重要な仕事をまかせた…」
日本軍政がインドネシア人に叩き込んだ「不屈の民族魂&大和魂」がインドネシア
独立戦争のバックボーンになったのである。日本軍政は、インドネシアを独立させる
目的で、これらの待遇を与え、精神面の鍛錬を行った。
すなわち、大東亜戦争は植民地解放戦争に他ならないのである。
特定アジアの靴の裏を嘗め回す馬鹿なクソ豚は、詭弁を弄して決して認めないが。
日本は東南アジアのヒーローなのだ。大東亜戦争を誇りに思ってよい。
381:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/19 02:05:43 Cz9qQ3DD0
1940年5月10日、ヒトラー(ドイツの指導者)はオランダを攻撃し、その結果オランダ政府はロンドンへ逃れた。それと同時に、
インドネシアでは戦時非常事態法が施行され、政治的な集会は禁止された。国民参事会のインドネシア指導者たちは、
多くのことをなしえなかった。1940年9月には、枢軸(日本、イタリア、ドイツの連合)が形成された。
1941年12月8日(ハワイでは12月7日)、日本はパール・ハーバー、香港、マラヤを攻撃した。そして、オランダは連合国側に参加、
つまり日本に対して宣戦布告した。1942年1月10日、日本はインドネシアへの攻撃を開始し、2月15日にはシンガポールのイギリス基地が日本側に降伏した。
同月末、日本軍はオランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカの合同艦隊をジャワ海海戦で粉砕した。
1942年3月8日、ジャワのオランダ勢力は降伏し、総督Van Starkenborgh Stachouwerは日本側に身柄を拘束された。
日本はインドネシアを3つの支配地域に分割した。
それは、(1) 第25軍が支配するスマトラ、(2) 第16軍が支配するジャワとマドゥーラ、(3) 海軍が支配するカリマンタンとインドネシア東部であった。
3年半におよぶ日本のインドネシア占領時代は、インドネシアの歴史において最も決定的な時期のひとつであった。
ジャワでの日本の占領方針はインドネシアの民族意識を覚醒させ、その結果日本は占領した各地での戦闘・反乱に対処しなければならなかった。
しかしながら、これら抵抗・反乱の試み全てが日本のインドネシア支配を脅かしたわけではなかった。
インドネシア占領時代、日本は西洋(ヨーロッパ)的な事柄を日本的な物へと変えていった。道路は新しい名前を与えられ、
"バタヴィア"市は"ジャカルタ"市へ変更された。
インドネシア民衆の共感を得るため、またそれを確実なものにするため日本が実施したプロパガンダ(ある特定の目的へ誘導すること)の一つは、
日本民族とインドネシア民族はアジアの新秩序を作り上げる大戦争の戦友であるというものだった。
しかしながら、そういったプロパガンダの試みは度々失敗の憂き目を見た。
なぜなら、強制労働、米の供出義務、軍警察(ケンペタイ)の恐怖、殴打、暴行、日本人に対するお辞儀の義務といった日本の占領下における苦い現実があったからだ。
他方、1944年2月アメリカ軍がマーシャル諸島を攻撃すると、アジア-太平洋の戦争(第二次世界大戦)での日本の状態はますます危機的なものとなった。
それと同時にジャワの民衆による日本への反乱が目立つようになりはじめた。
インドネシア中学校社会科教科書「独立準備の過程」より