10/07/17 09:13:49 bc9stZwjP
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで
7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。
そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。
フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。
ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。
パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、
合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、
裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している
(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。
ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。
また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。
そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。
侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、
また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。
そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。
日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
301:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 09:15:05 bc9stZwjP
東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し
一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。
1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が
官製の統制機関である日本新聞会に改組された。
さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる
検閲は、一段と厳しいものになっていった。
出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を
官製の統制機関である日本出版会に改組させた。
日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、
従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。
雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。
企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には
書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。
なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の
思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、
その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。
戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ
削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。
そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、
関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。
このように言論と出版の統制は完璧であった。
302:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:04:45 bc9stZwjP
昭和18年末、ニューブリテン島のココボで丸山二等兵は、今度行くところは「天国のような場所」と戦友の赤崎から聞く。
彼らは出発前にピー屋に行くが、何十人も兵士が行列を作っているので目的を達せず「女郎の唄」を歌って帰って来た。
そして彼らは若き田所少佐のもと、500名でバイエンに無血上陸する。
丸山は古兵や上官にいびられ、また時には親切にされ、何とかバイエンでの時間を過ごして行く。
だがそこは「天国のような場所」ではなく「天国に行く場所」であった。
敵の攻撃で戦死する者のほかに、陣地構築中の事故で死ぬ者、伝染病で死ぬ者、ワニに食われて死ぬ者、
手榴弾でとった魚を飲み込み窒息死する者・・・。
やがて近辺のワランゴエ河口に連合軍が上陸、橋頭堡を築き攻撃を開始してきた。
徐々に包囲してくる敵に対して、田所は中隊長の「高地にこもり持久戦をすべきだ」という意見を退け、玉砕覚悟の切り込み作戦を敢行する。
その結果、田所は戦死、生き残った者は聖ジョージ岬に撤退するが、負傷した中隊長はその途中で自決する。
そのころラバウル司令部ではバイエン支隊から玉砕の電信を受け、既に彼らは全員死んだものとされていた。
ところが聖ジョージ岬警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が現在ここにいるとの知らせを受ける。
この「敵前逃亡」は「ラバウル全軍の面汚し」とされ、事件処理のために木戸参謀が聖ジョージ岬に派遣されることになる。
木戸の出発の前夜、バイエンの生き残りの軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをするが、談判決裂となり軍医は抗議の自決をした。
軍医の遺骨とともに聖ジョージ岬に来た木戸はバイエン支隊将兵の尋問を行い、その結果、山岸と北崎の2人の小隊長は責任を取って自決、
残りの81名は再突入を行うことになった。
昭和20年6月、聖ジョージ岬に敵の有力部隊が上陸、バイエンの生き残り達は切り込みを敢行する。
その突撃直前に木戸は「玉砕を見届け報告する冷たい義務がある」と退こうとするが流れ弾に当たり戦死。
そして丸山達は「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌って切り込み、全員玉砕した。
隣の陣地を守っていた連隊長は、後にこの玉砕を聞いて「なぜそこまでして、あそこを守らねばならなかったのか」と述べたという。
太平洋戦争は、悲惨な戦争であった。「大東亜戦争」と読み替えて聖戦であったと賛美するものはゴキブリである
303:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:06:43 bc9stZwjP
1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は
明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。
「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として
天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。
たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが
「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。
ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、
天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、
天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった
陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。
同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。
また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。
一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、
『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、
以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。
また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。
今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。
日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、
心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、
直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。
さて、東條英機自身はどうであったか
「生きて虜囚の辱を受け」、敵であったものの手によって処刑されたのである
さぞかし靖国での居心地は悪いであろう。
このような東條英機を無責任に賛美するものはゴキブリである
304:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:09:35 bc9stZwjP
戦時中の日本で巷に流布されたスローガンの中に、
『ほふれ英米我らの敵 進め一億火の玉だ』というものがありました。
これを見たある人はこの文をもじって、
『むかし英米我らの師 困る億兆火の車』
とか書いた張り紙を路傍の共同便所内に貼り付けたといいます。
第二次大戦における、イデオロギーを抜きにした日本の実際の戦争というものはおよそ、
この言葉に要約されるといってよいでしょう
305:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:12:13 bc9stZwjP
おめでたい君に斉藤隆夫の遺稿を再度紹介しよう
URLリンク(blechmusik.xrea.jp)
仮に大体に於て我が軍の勝利に終結を告げるものとして、此の共同宣言が文字通りに運用せらるるかを考うるに、是れ亦頗る困難のことにして、
理想と実際の間には一大懸隔を生ずることを予想せねばならぬ。言うまでもなく大東亜戦争は我が日本独自の立場に余儀なくせられ、
人的、物的其の他有ゆる国力を傾倒して敢行すべきものであるから、
是が完遂の暁に至らば日本は如何なる手段を尽しても先ず第一に国力の回復に向って邁進せねばならぬ。
然らざれば仮に戦争に勝つことありとするも国家を維持することは出来ないこととなる。
古人は戦い勝って国滅ぶと言うて居るが、全く其の通りであるから、是が為には大東亜圏内の他の諸国諸民族の利害等を顧慮する遑はない。
仮令彼等の利益を犠牲に供することあるも、
日本は敢然として国力回復の為に独自の国策を遂行せねはならぬ時が必ず到来するに相違なく、
而して是は戦勝国たる日本の権利であるから他の何者の容喙をも許すべきものではない。
それ故に東亜共栄圏は我が日本の利害と全然一致する場合に於てのみ想像せらるるベきものであって、
利害の一致せざる場合には断乎之を蹂躙するに於て決して躊躇すべきものではなく、同時に此の道理を弁え、
此の覚悟を抱くものにあらざれば将来日本の国政を托することは出来ない。
斯くの如くにして東亜共栄圏殊に道義に基づく共栄圏などと其の文句は立派であるが、
其の実は道義も何もあったものではなく、実際は日本中心の独栄圏となるべく、現に今日戦争中とは言いながら、
東亜諸国、諸民族は戦争目的の名に依って至る所我が国の為に有ゆる犠牲を強要されつつあるは蔽うべからざる事実であって、
是等の犠牲は戦後に至りても益々拡大せらるることあることを覚悟せねばならぬ。
而して事茲に至らば彼等は始めて共栄圏の何ものたるかを挙るに至るべく、
同時に欧米列国の乗ずべき隙も亦此間に生ずると共に、共栄圏崩壊の端を開かるるに相違ない。
固より将来此の東亜の天地に於て如何なる風雲の起ることありとするも、
我が日本に之を凌駕するに足るべき万全の備えあれば何等意に介すべきものではないが、凡そ此等のことは遠き将来に属することであるから、
今日種々の場合を予想して之を論ずべきものではないが、要するに共栄圏の前途には多種多様なる難問題の横たわることを覚悟せねばならぬ。
306:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:14:27 bc9stZwjP
ケンペイタイは、常軌を逸するほど、乱暴で残酷でした。・・・・日本人はどうしてこんなことを
するのか、本当に理解に苦しみました。
(H・B・ヤシンさん)
私が覚えていることは、おそらく、ケンペイタイがあまりに乱暴だったからでしょう、人びとが日
本に協力することを怖れていたことです。それで、自分から進んで日本のために仕事をしようとする
人はいませんでした。当時は、怖がる人のほうが多かったのです。ですから、みんなは日本に協力し
て利を追うよりも、自分の命を大切にしようとしていました。なぜなら、何か間違いを犯したら、日
本の罰則では死刑になると思っていたからです。日本軍が入ってきたときにすでに役所で働いていた
人たちは、そこから移ることができませんでした。ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、みん
なは、とくに体罰を怖れていました。バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです。ところが、イ
ンドネシア人にとって、頭は神聖で敬うべきものなのです[それゆえ、頭を手で撫ぜたり、叩いたり
することは慎むべきことである]。私がケンペイタイと聞くと震えあがってしまうのは、私の親友が
彼らの暴力を受けてけがをして、障害者になってしまって以来のことです。
(バルカ・アルガニス・バスウェダンさん)
電気・ガス局でも、日本人達は乱暴で、下品で、したい放題で、そして、私たちインドネシア人を
見下していました。女性職員に対しても同様でした。
(リリー・ガマル・スタンティオさん)
「しばしば、その時代のケンペイタイの調査官たちの乱暴さは、オランダ時代のPID(諜報局)の同
様の取り調べ方をはるかに越えたものであったと指摘されている。裕福な人びとの住宅地でも、貧
民街でも、さらには役所でも、多くの場所で人びとは日本に対して憎悪の念を示すようになっていた
・・・・」
(インドネシア国立文書館 編著
『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(木犀社 1996)より)
307:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:16:52 bc9stZwjP
インドネシアでの教育とやらの実態
教育機関と宣伝機関を握ることによって、民衆との接触は可能になった。
ジャワ島やビルマなど民衆の間に親日的気運が比較的強かったところでは、
一部の現地住民が日本軍の進駐を歓迎し、軍政が順調に実施されるかに見えた
日本の将兵や民間人の中には、善意で現地住民と接触し交際した人たちも多かった。
しかし、善意の押し売りほど始末の悪いものはない。
天皇絶対、忠君愛国という日本にしか通用しない独善的な考え方と日本語を、
善意でいくら教えてみても、それはしょせん軍政という軍事独裁体制を背景にしてしか
通用しないものであった。かなりの地域では、日の丸に対する敬礼、
君が代斉唱、宮城遙拝などの儀式が強制されたが、現地住民は面従腹背の態度を取らざるを得なかった。
まして母国語の使用制限と日本語の押しつけは、現地住民にとっては我慢できない
屈辱であった。
308:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:20:11 bc9stZwjP
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、
それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。
シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、
2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、
4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、
天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。学校での日の丸掲揚、
君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。学校で日本語が教えられただけでなく、
一般住民に対しても日本語が奨励された。
シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、
マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、両地区の住民は悉く、
天皇陛下の赤子に加えられたのである。大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、
新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。そのためには、まず国民たるの資格として、
彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。(中略)国旗のひらめく所、
言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」
と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。
ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。
ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、
日本語を公用語として強制することまではできなかった。
マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、
軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。
しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと
行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。
309:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:23:03 bc9stZwjP
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、
1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、
これにより南方進攻作戦は一段落した。
日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、
ニューギニア北部からソロモン諸島、東はギルバート諸島、
北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。
また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。
1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、
44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、
多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。
日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、
英領ボルネオ、ビルマを、海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、
ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。
軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、
ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を
「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。
これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。
東条首相は42年2月の議会での演説の中で「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、
各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。
しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、
日本がこれらの地域を占領したのはあくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、
日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。
310:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:25:33 bc9stZwjP
食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から
米やとうもろこしへの転換が図られたが、日本軍に食糧を供出させられたこともあり、
深刻な食糧不足に陥った。
食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。
タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、
マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。
食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。
ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。
タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。
この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への
作付けの転換を強制したこと、戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えた
ことなどが指摘されている。
311:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 13:27:59 bc9stZwjP
1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、
タキンの指導者アウンサンは国防相になった。
アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、
44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟
(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。
そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、
それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、
反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、
5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。
日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、
勝利を得ると途端に約束を反故にした。
後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
タイの総理大臣ピブーンソンクラームは、第二次世界大戦前より独立国であったタイが、
日本の傀儡政権であった満州国、南京政府、また独立を果たしたものの日本軍の影響下にあった
フィリピン、ビルマと同列に扱われることに不満を表明、
日本側の度重なる慫慂(しょうよう)にもかかわらず、
王族のワンワイタヤーコーンを代理参加させるにとどまった。
公式には「健康上の理由」によるとされた。
タイの大東亜会議不参加はタイ独自の絶妙の外交戦術であった。
米英との間に一定の和平路線をも保っていたのだ。
日本敗戦時の危機にも巧妙に対応した。
当時のアパイオン内閣は舞台裏で「日本軍を一網打尽にする凄い筋書」
を作っていたと言う。
312:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 15:28:08 bc9stZwjP
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して
反英宣伝のために資金を提供し、開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、
マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。
こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、
さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが日本軍は文化団体としてのみ認めた。
日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、
戦前は200~300人程度しかいなかったのが、日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。
ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。
日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、
勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。
ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。
その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。
この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。
しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、
さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、
連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。
かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。
そして日本がマレーシアの独立を認めることは、ついになかったのである
313:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 15:38:08 bc9stZwjP
インドネシア初代大統領のスカルノの言葉
「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」
「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んでいく。
最後の1回で取り返せばよいではないか」
太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
これを「大東亜戦争」と呼び、解放戦争と美化する輩は
ケダモノ以下のゴキブリである
314:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 15:54:13 bc9stZwjP
日本による植民地支配
日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。
しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。
一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。
それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。
(「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」)
太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
美化の余地のない歴史的事実である
315:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 16:07:40 bc9stZwjP
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ
――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」
(佐藤賢了陸軍少将 1943年2月1日衆議院秘密会にて)
これがアジア独立の本音。
ちなみにこの佐藤とか、戦後になって敗戦した後に自分達のいった事さえ忘れたように、戦争美化に走って反省さえしてない。
国を滅ぼし多くの人命を死なせながら、反省もしない恥知らず軍人の自己正当化の嘘に騙されているんだろうなぁ。
さすが自慰史観患者は痛いw
316:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 16:11:50 bc9stZwjP
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を
>得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。
ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。
その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。
ほんとに知らなかったんですか?
簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で
産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に
公刊戦史に載っていると記載されている。
その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので
元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず
自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。
なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、
元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに
軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。
アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。
これが名越における”確証を得た”というなら、
彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。
上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。
又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを
確証とかきちんと調査とか呼びませんからw
そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、
確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。
しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。
まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが
日本人に対してリップサービスできるってあたりが
現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw
317:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 16:16:33 bc9stZwjP
そもそも太平洋戦争は
「日中戦争をどうしたら継続できるか?」ということで
昭和15年1月・・・あたりかな?
陸軍省整備局戦備課が、たとえば満州や、南部仏印や、ジャワスマトラ、タイを
第一経済圏、第二経済圏、第3経済圏と設定して
そこからどうやったら物資を調達できるか
できないばあい、北方作戦、南方作戦で事態を打開できるかという
作戦課の検討からはじまった★資★源★戦★争★なんだが
この時点でできないという結論が出て(S15.01)陸相東条英機も、中国からの自主撤退を検討し始めた
でもS15.06のパリ陥落のドイツ快進撃で
S15.09.15バトルオブブリテン「鷲の日」敗退直後に三国軍事同盟結んだり
もうドイツに目が眩んで、米英戦も辞せずの雰囲気ができちゃった
1943年5月31日御前会議『大東亜政略指導大綱』六項
マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セベレスは
“大日本帝国の領土とし”重要資源の供給源としてその開発と民心の把握に努める
これら地域では当分軍政を継続する
なお、これらの地域を帝国領土とする方針は当分公表しない
資源地帯がなければ、もともと東南アジアに侵攻する予定すらなかったんだよ
日本軍にはな。
植民地解放などお飾りのお題目にすぎない。現にインドネシアは最後まで独立させなかった
318:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 16:21:25 bc9stZwjP
「それがどん底の社会状況の中であれば、なおさらそういった誇りを求めようとします。
忘れてはならないのが、ゼロ戦の神話というのは、すべて戦後に作られたということなのですよ。
戦時中、ゼロ戦の存在は国民には秘匿され続けました。
新聞などでは、ゼロ戦はただ海軍の『新型戦闘機』などという風に呼称され、
国民によく知られていた戦闘機というのはむしろ陸軍の隼だったのです。」
「日本の敗戦によって、国民は大きなショックをうけました。
それまで自分たちが信じてきた価値観というものが、すべて否定されてしまったのですから当然ですよね。
プライドはずたずたにされてしまいました。
あんなにがんばったのにもかかわらず、跡に残されたのは焼け野原だけ。
とても惨めです。」
「そこへ一筋の光明のごとく現れたのが、
無敵のゼロ戦神話だったのです。」
「自分たちは確かにまちがっていたのかもしれない・・・・
しかしかつて栄光はあったのだと。
完膚なきまで負けはしたが、一時的ながら連合軍をコテンパンにやっつけてやれたんだってね。
この妄想は盛んにマンガ、アニメや映画になって広く流布されます。」
「ところでちょっと思い出してもみてください。最近にもこれと似たような現象って起こりませんでしたっけ?
それというのは第二の敗戦とも形容された平成のバブル崩壊とそれに続く長期の不況です。」
「戦後は国の方向性を180度変えて、経済一筋でやってきたのに、
強大な経済大国としての国際的名声を得たはずなのに、すっかりその権威は失墜してしまいました。
軍事のみならず経済でまで敗北の辛酸を舐めてしまったことに、国民の自信は再び大いに失墜してしまいます。
そういった社会的状況に便乗して、
日本はアジアを解放したとかなんとかいう骨子の『歴史修正主義』などというおよそ怪しげな潮流が台頭したりもしましたよね。」
「戦前の日本人はさながらピエロか何かでしょうか。
日本人はこれからも何か困難にぶつかるたびに、この時代の日本をダシにして、
惨めな自尊心を回復しようとし続けるのでしょうか?」
「ゼロ戦神話のほうは、多分に高度経済成長の原動力の一部になったという利点があるように思えますが、
解放神話は全くといっていいほど日本に益をなしませんでした。
あえていうなら、インターネット上にネオナチネトウヨを量産したということぐらいでしょうか?」
319:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 16:23:40 bc9stZwjP
インドネシアで日本が感謝されているとしたんなら
SF講和条約で賠償放棄したインドネシアの国民投票で条約締結拒否が決定されたことを
どう解釈したらいいのですか
独立の祝い金とかいうおもろ見解もかまわないですが
祝い金をゆすり取ろうというのが感謝の気持ちならいらんと思いますが。
もう少し詳しく書くとインドネシアはSF講和会議に出席し、
賠償放棄を条文に持つSF講和条約に署名、締結した。
ただし、財産があった場合の差し押さえなどはできるのだが
WW2開戦後の占領地であるインドネシアにはたいしたものは存在せず、
せいぜい未払いの兵補の給料程度のものしか請求できない。
が、このことの是非を問う国民投票で
日本に賠償を請求しないなんてふざけんなという意見が通り批准されずに条約は無効となった。
*この時点で国交回復条項のあったSF条約は無効でインドネシアとの国交は断絶状態継続
んで、国交回復交渉の時に、インドネシア代表が述べたのが日本を恨んでない、”独立祝い金”として金をくれって言葉。
個々だけ取り出してインドネシアは日本に感謝してるニダとウヨさん大喜びなんだが、
感謝しているならそもそもSF講和条約批准してたわけで、
それ+賠償というより厳しい条約を結んだというのになにをいっておるんだという次第。
320:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 16:40:44 bc9stZwjP
「日本が中国を荒らしまわるのは日本の勝手であるが、日本への原料や工作機械の輸入を止めるのは反則行為だという主張があります。
国際社会のルールを無視し、自国のことしか考えないで他国の市場までも荒らそうとする国家に、自国の石油や援助を与えるかどうかなんてそれこそアメリカの勝手だというのに。」
「あまつさえ、国際社会に台頭してきた日本が目障りになってきた同国は、日本をつぶそうと画策したなどという陰謀論を主張する人たちまで現れる始末です。
日本をつぶしたかった?
そんなのやろうと思えば、アキレス腱をすべて握っていたわけですから
いつでも赤子の手をひねるごとく簡単にできたのですよ。」
「思うに日本は反抗期だったのではないかと思うくらいです。
万能感だけが強く、自分の実力や真実の姿を一切理解しておらずに、
ただ大人の言うことに反発したかっただけのようです。」
「マッカーサーはこのような日本人の稚拙さや幼児性を評してこのようにいいました。
『日本人の精神年齢は12歳である』と。
まさに反抗期真っ盛りの子供であるというわけです。」
「しかし、まさかさしものアメリカも、すこし自分の立場を日本にわきまえさせようとしたら、突然キレて、後援者である自分を
背後から金属バットで殴りつけるとは予想してはいなかったようですね。」
「少年の心の闇は随分と深いものだったようです。」
「あまつさえ、苦し紛れにこれは聖戦だなどと嘯く始末ですよ。
自分のことは棚に上げて、社会が悪いというわけです。
挙句、若さに酔い、自己陶酔の果てにやらかしたのは特攻と称する体を張った体当たりです。
しかしその改造バイクは保護者の援助で作ったものでした。」
「それが、60年の歳月がたってみると、
彼らはアジア解放のために立ち上がった栄光の軍隊だとかいう人たちが現れるのですよ?
歴史の流れって面白いですわね(笑)」
321:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 16:42:18 bc9stZwjP
「中国にて」
アメリカ・・・満州事変は条約違反だ、元に戻せ。
日本・・・これからは自主路線だ、さらに介入してやる。
中国・・・内戦を止めて日本と戦うぞ。
日本・・・不都合な中国を潰し、都合良い政権に置き換えてやる。
アメリカ等・・・日本の勝手は許さん。中国を支援だ。
「対米戦へ」
日本・・・アメリカ等の中国支援が邪魔。仏印からの援助ルートとか止めたい。
ドイツ・・・念願のフランス占領。
日本・・・フランス領インドシナ(仏印)に進駐するチャンス。さらに南進できるかも。
アメリカ・・・日本は調子に乗るなよ。これ以上南下したらタダじゃ済まんぞ。
日本・・・南下は会議で決定済み。基地作るぞ。邪魔するなら米英とも戦うぞ。
アメリカ・・・もう石油を売ってやらねえ。
日本・・・ここまで強気で来たが、冷静になるとヤバい。交渉も上手くいかないよ
322:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 21:21:10 Xl2OZIjF0
>>292-321
ID:bc9stZwjP ←こいつ一人で朝8時から夕方16時過ぎまで粘着してオナニーしてるぜ。
こいつ頭のおかしい変質者だ。こんなにたくさん長文コピペしても、誰も読まねーっつうの、
分かったか、バーカ
323:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 21:58:11 Xl2OZIjF0
「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実-大東亜戦争は侵略戦争ではなかった。」 (シリーズ日本人の誇り 6)
桜の花出版編集部
戦時中に日本軍と深く関わったインドネシアの人々が証言します。オランダによる暗黒の植民地支配時代
からインドネシアを救い、独立を勝ち取るのに大きく貢献したのは我が日本であったのだと。
彼らは言います。オランダ時代は、インドネシア民族にとって誇りの持てない時代だった。1905年の日露戦争
における日本の勝利により初めてインドネシアに民族意識が芽生えるようになったと。
本書は、戦後、GHQによる戦争贖罪教育を受け、民族としての誇りを失ってしまった日本人に再び誇りを
持つきっかけになる良書です。余談ですが、1994年、当時村山富一首相は東南アジアを歴訪した際、
マレーシアのマハティール首相から「日本は謝罪外交を止め、アジアが平和と繁栄のためにリーダーシップ
を取るべきだ」と諭されました。
また、本書は、中国・朝鮮の主張が全アジアの総意では無いことにも気付かせてくれると思います。
324:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 22:07:16 H1UkySBPO
オメ-の愛国自慰コピペや壁に向かってブツクサしゃべってる会話不可能なカキコミも誰も読んでねえよ 何年この板に張り付いて自慰してるんだよ ゴキブリW
325:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 22:16:17 Xl2OZIjF0
「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実-大東亜戦争は侵略戦争ではなかった。」 (シリーズ日本人の誇り 6)
桜の花出版編集部
「インドネシアが今、独立できたのは日本のお陰です」という証言の通り大東亜戦争が決して
侵略戦争ではなかったという事実が良くわかる一冊です。
「日本人は、この2600年余の間に、独自の日本民族の誇りと威厳を培ってきました。
ところが、それをたった一度の戦争でなくしてしまうなんて、こんな情けないことはありません」
というデヴィ夫人(故・スカルノ大統領第三夫人)の言葉が胸につきささります。
マスコミがよく言う「日本は、先の戦争でアジアの人たちに迷惑をかけた」という言葉がいかに
ウソであるかが納得できました。インドネシアや台湾、インドの人々、もちろん表面に出てきません
が、韓国の人でさえ、日本に感謝している人は多いのです。
326:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 22:53:28 Xl2OZIjF0
★ベリリュー神社の碑文
「浦氏が昭和五十九年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。その時、
教官から教えられた英文は、次のようなものでした。
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic
were the Japanese soldiers who all died defending this island. 」”
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして
玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
アナポリスの教官が誰であるか、それは名越捏造説を唱える人間が探すべきである。
浦氏が存命なら聞けばよい。鬼籍に入っているなら、直接アナポリスを訪ねろ。
それができないなら、名越の調査は正しい考えるのが妥当だろう。
327:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 23:27:05 J6bH/kDQ0
>>323-326
こいつ頭のおかしい変質者だ。こんなにたくさん長文コピペしても、誰も読まねーっつうの、
分かったか、バーカ
328:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 23:40:44 J6bH/kDQ0
しかし、326を読むといかに名越の調査とやらが
いい加減ででたらめなものかわかるな。
藤岡探検隊レベルの信憑性しかないんでやんのw
329:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/17 23:56:30 J6bH/kDQ0
裏氏が昭和五十九年に渡英し、ネッシーの資料を求めて、ネス湖を訪れました。その時、
ネス湖近辺の村長から教えられた証拠写真は、次のようなものでした。
(例の偽造写真でもなんでもお好きなものをどうぞ)
その村長が誰であるか、それはネッシー捏造説を唱える人間が探すべきである。
裏氏が存命なら聞けばよい。鬼籍に入っているなら、直接ネス湖を訪ねろ。
それができないなら、名越の調査は正しい考えるのが妥当だろう。
はい、名越の正確な調査でネッシーの実在が肯定されましたとさ。
330:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 00:02:03 VIHgpfJF0
川口浩氏が昭和五十七年に渡比し、バーゴンの資料を求めて、パラワン島を訪れました。その時、
パラワンの村長から教えられた証拠は、次のようなものでした。
(探検隊シリーズのビデオでもなんでもお好きなものをどうぞ)
その村長が誰であるか、それはバーゴン捏造説を唱える人間が探すべきである。
裏氏が存命なら聞けばよい。鬼籍に入っているなら、直接ネス湖を訪ねろ。
それができないなら、名越の調査は正しい考えるのが妥当だろう。
はい、名越の正確な調査でバーゴンの実在が肯定されましたとさ。
あ、ごめん、バーゴンに限っては実物を捕獲した川口浩探検隊のほうがよく調査しているw
名越みたいな伝聞だけで実物がどうだったか全く不明とは比べもんにならんわ
331:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:01:52 ShAn5PGkP
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱成‥‥‥‥
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332:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:20:22 ShAn5PGkP
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| ノ;;;;;/ `` / | ヽ、___,..-ー'\ \ ./
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/ / / ``─‐--ー─''"´ ヽ \ \
皆にボコられ、曝され、捨てられた、真性DQNコピペゴキブリに代わり、ナミが中国と韓国と北朝鮮に“誠意ある謝罪”をしてくれました。
333:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:22:01 ShAn5PGkP
/lllllllllllllllllllllllllllllllllllll//llllll/ ノ/// `l|\lll|llllllllllllllllllllllllll|
|llllllllllllllllllllllllllllll//,、-'´ '´´ ´ `ヽ\|\llllllllllllllllll||
|/|llllllllllllllllll,、|l/ ̄ ̄ /| `ヽ`|lllllllllllllll| |
|llllllllllllllll/ 、_ // `|lllllllllll/
|lllllllllllllll| / `ヽ=、ヽ、 // _,、-, |lllllllllll|、_
| ̄``|lll|/ `ヽ、`、 // 、'´,、'´´´ `|lll/,、、| ゴキブリよ、ちょっと 組の
,| /| |l/ _,- 、`ヽ`l __// ,、'´'´_ Y /`l |
/ /l | `ヽ、_ヽ、_ \ ̄`// // /_,、- ―'´ |/`l | 事務所まで 来てもらおうか
`l < < | \ ヽ、`>、 /_/  ̄ -'<、、、'/ |フ| /
`l \`l| `ヽ― // < ̄`>  ̄`―'´ |/ ノ
\ \| ―'´// '  ̄ ̄ /´/|\
/|\ `lヽ、、 // l `l ノ|/ | `l \
/ / Г\| \\ヽ_ // ,、-、 | ト―、, / ̄ || `l
/フ | | | \ `ヽ,´_<_ ( | ) / | / `l
'´ / / `l |  ̄`// `ヽ、`ヽ、`-ヽ ,、-'´ / | | `l
/ | \ | ,、l |  ̄`ヽヽ-`―-'´ | | / |
/ | \| ,、'´ |/ ノ ̄\`l― 、 l、 // /
| `l / (| _―'´_,、-、__`l`l-、_\_ | / // |
| `ヽ-、`l  ̄ヽ _∥  ̄/ |'´/ /
| `ヽ `―'´ ̄_ ̄∥ ̄ // |
ト、 `、 -'´ ̄ ̄ \ / /
| \ `-、_ // |
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`l | `l >―――< /|
| `l `l / `l //
`l | `l /、 >lヽ / /
`l `l \ / \ / / | / /
334:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:27:10 ShAn5PGkP
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335:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:34:12 ShAn5PGkP
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 ̄ ̄( ̄ ̄//// ̄\ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄(//// ̄\\( ゜Д゜) < ゴキブリを消毒中 ゴルァ !!
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ゴ オ ォ ォ …… ! ! \\ ;": ..;.;".;":
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从へ从へへ从 ; ζ | Γ从 | |;:.. |从Γ | | \\ ∠___/|
( ⌒( ⌒ ) ζ | 从Γ | |.:;. |从Γζ.;"._ \\|ΓΓΓ| |
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Σ (( ( ⌒ )) ) )(( ⌒ ( 从へ从) .;".;:;|ΓΓΓ| |
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336:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:38:17 ShAn5PGkP
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{ ヾヽ. ' ., -‐rッ‐-`ヽ! ゞ=-‐tッ=- 、`|f,ト 〉
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/ |`ー/ ヽ \ヾ| ゝ.、___ ノ ヽ ___ /l:!h /
/ _¨`ヽヾ /ヽ ヽ_ト |:| / ゴキブリは消毒する
! .´ ヾll | | | | |ト /、 ヽ / .l::|´
|.ゝ ノ /|/ .L/| |i ヽ ' `ー´ ` / //
ヽ ー ´/ f l ゞfi-, = 、 へヾ. -――- /:/
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337:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:44:08 ShAn5PGkP
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,,i/:.:.:.:.:.:.:.:.:,::;;i':::::;;;iハ ` ,/ |/´::::::::/ ゴキブリ、バカァ?
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(´  ̄ ̄ _二ニ=―‐_=''~:::::,,;;;;;/';;;;| ヽ、 _,,,-'";;,;':::::'::::::, '
, -‐_二,,,,-―=ニ--―‐''''"~:;;;/;i ーr:'''i";;;,;;;;;;/::::::;:,イ´
/" ̄ ,-'":.::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::::::::::;;,-';;;ノ ト,,,j::::_,,-'':::_:ノ,/
/" ,/:.:.:.:.:.:::::::::::::::::::rr<ヽ='二___ ~'''-ヘヽ("´
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338:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:51:58 ShAn5PGkP
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彡=ニニ=ミ,,、:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,',' / | ゴキブリは
, - 、 ``ヾ、\::::::::::::::::::::::::::,',' /´ < プチッと潰すのが
(;;;;;;;゜,) _ >/::::::::::::::::::::::::,',// | 常識じゃないか
ニ二二ニ==-‐彡//::::::::::::::::::::::::::::,','/ . |
≡三三≡ 彡::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,',' _ , . ‐ ' " |
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二二二二二二二二二=∥:::::::::ジ ! \___
◎ ◎ ◎ ◎ ) (○)∥,---、"
 ̄ヽ========--ヽ_ノノγγ⌒ヽ ____
_ノ二二二二二ノ\、ゝゝ!!!,ノ /⌒i ヽ
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:::||二二コ::::::::::::::::∥ \//~|_」:::::::l | |.┃
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339:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 08:58:36 ShAn5PGkP
━==]司〓ヨ
ゴゴゴゴゴ…… _ ~|□ ┌┐ |
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(○) ̄) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)) )  ̄ ̄))| ̄ ̄|  ̄ ̄ ̄田田田田┤ ゴキブリ消毒マシンを持ってきますた
______ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ | ̄| ̄。ノ |__|____________./ ̄
/ ロ ロ ロ / ̄ ̄ ̄~.| __,,,,,,-─''''~~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄,,-'''~__,,,,,,-─''''~~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
/―――/ニニニニニ|. /ニニ/ ニニニニニニ/ニニ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
__|| .∧∧ ∧∧. ||__. || ||:|〈_______〈.О__ゝ__ゝ_О〈 ________/.\ | | | | | /| スタッ ___
|::||(゚ー゚*.) (゚Д゚,,) .||: | || ||:| ヘ===ヘ ヽ  ̄ ̄ヘ====ヘ/⌒'‐┴―┴―┴―┴―┴―┘~ノ |\._\
.~||⊆⊇⊂_⊂ ヽ_||○ . || ||:| \===\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \====ゝ__人__人__人__人__人__人__人__ノ ミ \|__|
|| ̄゜ ̄ ̄゜ ̄| ̄| ̄ ̄ ̄| ̄|:| [ニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニ~\ ミ 〈〈 ノノノハ)))
||_===_|_|___|__/::|-―┴―┴――┐: |===============================ヽ \ |ヽ||´∀`)||
...|()()|≡≡≡|()()|_|_/⌒ヾ|_l:_]_]]_]]_]_」」:l /⌒`v"⌒ヾ゙l:::::|二|二二|二二|二二//⌒`v"⌒`v"⌒ヽ^\ \ ⊂[リ∨╂リ]つ
.〔_lコ_[匚]]_lコ_〕E] ()) |゙lL[}韭韭韭}。]__/.l ()) ii ()) |_|::└――――|l|l|l| ()) ii ()) ii ()) | \ \ リ /リリリリリ
~ゞゝ__ノ ̄ ̄ ̄~ ゞゝ_ノ ̄ ̄ゞゞゝノ ̄ゞゞゝ_ノゝ_ノ ゞゞゝノ ゞゞゝ_ノゝ_ノ.ゝ_ノ  ̄ し(_)
340:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 09:03:14 ShAn5PGkP
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/_レ‐ームム‐" ̄ ̄) | ,,,..;:;:;:;,/
/ __ r'~ ̄ \ `::;;. '"`ニ二ソ <もう僕は自殺するしかないんだ・・・
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../◎)、_______∠l ,i ゴキ i ;.:’';∴:’';∴:':';,∵,;.:’';'`,;:';,'`,;:';
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/_レ‐ームム‐" ̄ ̄) | ,,,..;:;:;:;,/ ∵,;.:’';∴∵;.:’'';,∵:';,∵'`,
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341:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 11:16:22 ShAn5PGkP
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、
これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、
東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。
また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。
1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、
44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。
日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、
海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした
(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。
軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、
ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した
(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。
これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。
東条首相は42年2月の議会での演説の中で
「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、
各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。
しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのは
あくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、
日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。
戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、
これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。
1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。
そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、
成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」
「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」
「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。
占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。
陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。
その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、
南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、
第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ)
のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。
ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。
海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。
軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、
主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。
したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、
財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。
軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。
司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。
ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。
行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。
342:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 11:23:09 ShAn5PGkP
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、
開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では
「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、
その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。
「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。
これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。
日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、
フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、
英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、
英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、
コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。
最も重要視されていた石油について見ると、
北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。
日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。
しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。
そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。
また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。
ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。
日本軍は占領地に軍票を流通させた。
日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、
占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、
実際には軍票の発行が急増していった。
1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。
1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。
これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。
外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。
発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。
日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。
この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。
シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。
特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。
日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。
イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。
太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。
シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。
日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。
阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた
343:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 11:29:37 ShAn5PGkP
東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。
また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。
たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。
開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。
輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、
石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。
要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、
食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。
蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、
工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。
シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。
輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。
フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。
砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、
貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。
フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。
このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。
日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、
タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。
日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。
日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。
日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。
日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。
日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。
軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、
広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。
ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。
必要な工業製品は入ってこなくなった。
そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、
軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。
日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。
食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、
日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。
食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。
タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。
食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。
ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。
タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。
この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、
戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。
344:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 11:41:42 ShAn5PGkP
東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。
英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、
彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。
そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、
ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、
自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。
移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。
そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。
インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、
うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。
宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、
住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、
一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。
ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。
中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。
これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、
いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。
ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。
マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。
こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。
マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。
1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、
中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。
この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。
たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)が
マラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。
マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、
「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ
然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として
「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ
華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。
また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。
この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり、
また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、
なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。
第25軍軍政部の4~6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。
こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、
また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。
345:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 11:43:37 ShAn5PGkP
一方、マレー人に対してはどうだったのか。
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、
開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。
こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが
日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200~300人程度しかいなかったのが、
日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。
日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。
ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。
その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。
この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。
しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、
連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。
かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。
こうしたことは東南アジア各地でも見られた。
ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。
日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。
南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。
ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、
「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス
従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、
差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、
軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。
1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、
タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、
44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。
そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、
反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。
日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。
後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
346:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 11:52:12 ShAn5PGkP
日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、
それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。
シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。
これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、
将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。
1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。
このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ
人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、
「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。
そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。
ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、
ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、
民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、
占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。
フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。
これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。
ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。
しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。
ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、
「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、
フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、
軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。
1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、
率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、
このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。
この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。
その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。
ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。
六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ
(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム
(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス
つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。
さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、
ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。
しかもそうしたことは秘密にされた。
このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、
石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、
日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
347:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 11:53:55 ShAn5PGkP
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。
1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。
タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。
しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。
1943年11月5~6日に東京で大東亜会議が開催された。
この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、
タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。
タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。
会議では「大東亜共同宣言」を決議した。
この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。
これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して
日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、
また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。
インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。
すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、
軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が
「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。
インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、
結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
348:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 11:59:40 ShAn5PGkP
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、
それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。
シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、
2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、
4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、
天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。
学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。
学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。
シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、
マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、
両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。
そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。
(中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。
かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。
ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。
ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、
日本語を公用語として強制することまではできなかった。
マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。
しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。
現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。
日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。
大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。
こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。
日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。
特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。
ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。
ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
349:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 12:04:03 ShAn5PGkP
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。
ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、
少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。
ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。
勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、
その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、
建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。
すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。
泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。
死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。
あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。
当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた
インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。
「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。
航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。
それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。
彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。
航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。
米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。
バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。
(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。
そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」
カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。
東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。
これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、
一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。
連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、
日本軍によって処刑されたケースを多かった。
香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50~60万人にまで減少した。
その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
350:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 12:27:27 ShAn5PGkP
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。
すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が
「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、
しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。
42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、
「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている
(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。
占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。
その町の数は30以上にのぼると見られる。
東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、
また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは
現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。
第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。
クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。
第二に新聞などで募集したケースがある。
シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。
この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。
たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、
「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。
第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。
マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。
この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。
第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、
結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一~第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。
第五に暴力的な拉致によるケースである。
日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが
インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。
351:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/18 12:32:44 ShAn5PGkP
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、
彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。
また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、
あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、
日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、
東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。
中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、
監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。
その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、
ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。
また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。
地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200~300人が慰安婦にさせられている。
慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、
日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、
ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。
まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。
慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、
警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、
軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。
日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。
被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。
陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。
1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。
こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、
1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」
と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。
慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。