08/12/05 13:17:28 QVDhesCQ0
>>749
文字は正確に。
「国民政府を対手とせず」
「相手」と「対手」では意味が異なるんだな。当時の近衛内閣の気負いが見られ
る。
で、繰り返すが、声明を出したのは東條ではなく、近衛。
トラウトマン工作が残念な結果に終わり、近衛内閣が発した声明で、後日「対手」
の意味を補足した補足声明まで煥発している。
「否認スルト共二之ヲ抹殺セントスルノテアル」
支那事変では興味深い事に統帥を司どる参謀本部と軍令部が講和工作の続行を強
く求め続け、内閣、陸軍省と海軍省(共に行政組織)が工作中断を主張。特に外相
(広田弘毅)と海相(米内光政)が「内閣を信用出来ないのか?」と参謀本部次長に工
作中断を認めるよう詰め寄っている。支那事変当時、参謀総長と軍令部総長は皇
族出身殿下であって、組織の長は実質次長。だから事変の行方を定める場には次
長が出席する。因みに両総長も早期講和派。
米内なんぞ、辞職を仄めかした。海軍大臣が参謀総長と軍令部が工作中断事変続
行を飲まなければ、辞めると。当時は一人重要閣僚が辞任したら総辞職とお決ま
り。
南京陥落直後の敵国首都陥落という前代未聞の大捷の一ヶ月後に内閣総辞職なんて
出来る訳がない。参謀本部次長は声涙下る激高を以て米内にそんな恫喝は如何な物
かと詰め寄る。
結局近衛はトラウトマン講和工作の中止を以て其答とした。
戦後一貫して「シビリアンコントロールの徹底」を自衛隊に課していたが、シビリ
アンが判断を完全に誤った瞬間だな。
参謀本部と軍令部の意見を通してれば、支那事変はもっと早く終わった可能性があ
る。
まぁ、近衛は昭和13年正月時点は気負ってたというべきだな。