【第128代天皇(予定)】秋篠宮悠仁親王殿下 at HISTORY2
【第128代天皇(予定)】秋篠宮悠仁親王殿下 - 暇つぶし2ch224:名無しさん@お腹いっぱい。
07/11/03 21:07:44 GJfhGTRl0
>>222を訂正

旧典範の42条および現典範の9条で定めている養子の禁止は、この民法的な「養子」である。

→旧典範の42条および現典範の9条で定めている養子の禁止は、
 この民法的な「養子」を禁止するものである。


>>223

>“猶子”を迎えた後に実子の男子が生まれたら

これは歴史上、前例がある。
伏見天皇の皇子である富仁親王(のちの花園天皇)は、正安3年(1301)に兄である後伏見上皇
の猶子となり、大覚寺統の後二条天皇の皇太子に立てられた。
富仁親王の父である伏見上皇は、将来後伏見上皇に皇子が誕生したら、その皇子の系統を
持明院統の嫡流とするつもりでいた。
つまり富仁親王は中継ぎということがあらかじめ予定されていた。
富仁親王は徳治3年(1308)に践祚し、文保2年(1318)に大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位した。
後伏見上皇には正和2年(1313年)に量仁親王(のちの光厳天皇)が、元享元年(1321)に
豊仁親王(のちの光明天皇)が誕生している。

建武3年(1336)に豊仁親王は兄である光厳上皇の詔宣により践祚した。
この時、豊仁親王は光厳上皇の猶子となっている。
将来的には光厳上皇の皇子で建武元年(1334)に誕生した興仁親王(のちの崇光天皇)の系統が
持明院統の嫡流となる予定だった。
つまり光明天皇は花園天皇と同様に中継ぎとなることがあらかじめ予定されていた。
光明天皇ははじめ両統迭立の原則に従って、後醍醐天皇の皇子の成良親王を皇太子に立てたが、
のちに成良親王を廃太子し、興仁親王を皇太子に立てた。

正平3年・貞和4年(1348)10月27日、興仁親王は光明天皇の譲りを受けて践祚し、皇太子には花園天皇の
皇子である直仁親王が立てられた(文献によっては皇太弟となっているものもある)。
光厳上皇は建武3年の光明天皇の践祚以降、院政を敷いていて、直仁親王は光厳上皇の猶子とされた。
将来崇光天皇に皇子が誕生したら、その皇子の系統が持明院統の嫡流となる予定であった。
直仁親王も花園天皇・光明天皇と同様に中継ぎとなることがあらかじめ予定されていた。
直仁親王が立太子した直後の正平3年・貞和4年12月2日に花園上皇は崩御しているが、直仁親王の立太子は
光厳上皇が叔父である花園上皇に皇位を譲られたことに報いるためと思われる。
観応の擾乱の最中の正平6年・観応2年(1351)に、将軍足利尊氏が南朝の後村上天皇に降伏し、
南朝軍が京都を占領して崇光天皇と皇太子直仁親王は廃立された(正平一統)。
なお、この年に崇光天皇には皇子が誕生している(のちの伏見宮栄仁親王)。


>仮にそうだとしても継承順位の変更は出来ないだろ。

もちろん継承順位の変更はできない。
というか変更する必要はなく、もしこのまま皇太子ご夫妻に男子がご誕生しなければ、典範の規定どおり、
今上陛下→皇太子徳仁親王殿下→秋篠宮文仁親王殿下→悠仁親王殿下と継承すればいいだけのこと。
“猶子”はあくまでも当事者間の個人的なものであって、皇位継承には影響を及ぼさず、
継承順位は“猶子”とは無関係に実系を指標にして定められる。


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch