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(5)革新官僚たちはこの国の軍備を更に押し進め、1930年から1940年の
10年間に重工業の比重を35%から65%に上げた。彼等は財閥の発言力を弱め、
戦後の日本株式会社と言はれる生産と管理の実際をテストした。
URLリンク(www.jiyuu-shikan.org)
のみならずここにもう一つ御参考になるように申し上げますが、われわれ
のところの工作機械というものは、戰前全国で十二万台ぐらいあつたものが、
戰時中七十五万台で、六倍になつた。
URLリンク(kokkai.ndl.go.jp)
しかし、政府の意向で外資との競争から保護され、戦時体制下の需要急増
に支えられた自動車メーカーは、トラック、バスを中心に生産を伸ばし
1938年には3万5千台余りと世界第六位の生産国となり、順調にその生産
台数を伸ばしていった。
URLリンク(ryukoku.net)
一九三三年になると普及台数は一四〇万、同三四年に二〇〇万、
三六年三〇〇万、といったふうに、多少の凸凹はありながら、
大ざっぱにいって、一年あたり五〇万という増加率でラジオ受信機の
普及カーブは上昇線をえがきつづけた。一九三九年には五〇〇万台。
全世帯に一台、というわけにはゆかなかったが、日本の家庭の五〇%以上は、
一九三〇年代の後半にはラジオをもつようになっているのである。
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