09/11/18 14:58:15
>>85
30 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 21:51:18
>>27
倭迹迹日百襲姫は,倭の大乱を見事収拾し,双方から望まれて,大物主神の妻になったという。
大物主神(ニギハヤヒ)は大和最高の神であるから,倭迹迹日百襲姫はそれとほぼ同等の地位
に着いたことになり,天皇や斎主よりも高い地位で,大和朝廷の最高権力者である。
「日本上代の実年代」によると、崇神天皇の即位は246年となっている
238年倭王が魏に朝貢した返事が240年で、243年に朝貢した返事は245年に行っている。
247年の朝貢に関する返事の年代は記録されていないが、過去2回の朝貢の返事が共に2年後であることから
249年が返事ではないかと思われる。
張政等を倭に派遣することであるから更に準備に時間がかかることが予想され、250年が使者が倭に行った
年ではないかと考えられる。その250年が崇神9年と崇神10年になり,この年に日本書紀では,武埴安彦の
乱が起き、倭迹迹日百襲姫も,卑弥呼も,それぞれの戦いの直後に死亡している。251年(崇神11年・崇神12年)
日本書紀では四道将軍を派遣し,倭人伝では国中争うとなっている。続いて,日本書紀に外国人が多数やって
きたとなっており,倭人伝では,魏の使者張政が卑弥呼の死亡直後に倭国を訪問したとなっている。
さらに,日本書紀では課役を課すとなっていて,倭人伝では,租税を納め,賦役に従うと記されている
明らかに崇神10年の武埴安彦の乱以外は倭人伝と日本書紀は,すべて,一致するのである。