09/11/27 01:02:59
>>579
>>574
>>横、失礼。その文の主語は卑弥呼ですよ。使を送る際はまだ生きていたのでしょう。
いえいえ、もう一度私の言っていることを念頭に八年の記事を読んでみてください。
太守王[斤頁]到官、これは後ろの黄幢拜假難升米に掛かる文で六年の記事を受けたものですが、今回パス。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、これは梯儁が来る以前からの状態を表しています。
遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状、ここで載斯・烏越を遣わしたのは八年のことですので、1つ前の文とは別の年・時間範囲を指しています。
倭女王卑彌呼がここの主語とは簡単に言えないことに注意してください。後の文から、壹與が遣わした可能性が高いのです。
遣塞曹掾史張政等~とあり、ここまでが八年に張政を派遣する経緯の話で、それ以降は張政によってもたらされた梯儁以降の倭の話になります。
略しますが、政等以檄告喩壹與、までで張政が(卑弥呼ではなく)壹與に告喩したことの経緯が書かれています。
残りは同八年に張政が帰る時の話です。別の年の話ではなくここは八年の記事で、卑弥呼が死んだとかの倭の話が別の年の話なのです。
このように八年の記事は、その後の話が書かれているのではなく、そこに至るまでの話が書かれているのです。
>>「更相誅殺」。誅殺だから、内紛までいかない政争だろう、という意見もありますよ。
誅殺が当時の中国語でどのような意味だったのかなどは知りませんが、卑彌弓呼が卑彌呼と近い音なので、他の国との戦いではなく、
同盟国などの内部の政争だろうという話も聞いたことはあります。このような話は面白いと思いますし、考えてみる価値があると思っています。
そういえば卑彌呼は「pimiho」、卑彌弓呼は「pimikoho」という発音だったらしいですね。ヒミコはむしろ・・